序章 胎動 ―恐慌と胸腔—(2/2)
クレナイは巨大な倒木の影に少女を抱え、木の根が覆う場所に腰を下ろした。
「ここで、一度落ち着くか」
少女は力なく胸を上下させるだけだった。
呼吸は浅く、目は閉じたまま震えている。
魂の空洞が広がり始めている。
このままでは、心の“中心”が消える。
クレナイは少女の胸に手を当てた。
「……本当に、ぎりぎりだな」
彼女の瞳に赤い光が宿る。
“悪意の龍”の力を使う決意は、もう固まっていた。
その力を使えば──
少女は助かる。
だが、クレナイ自身の寿命は確実に削られる。
「大丈夫。痛くしねえ。
お前は、ここで終わる子じゃない」
少女の白い髪をそっと撫で、静かに息を整える。
森の空気が変わった。
霊脈の流れがクレナイへ向かって集まり始める。
──その瞬間。
少女の胸の奥で、空洞が裂けたように“悲鳴”を上げた。
彼女の魂は、もう限界だった。
クレナイはその反応を逃さなかった。
「始める。
……お前を、生かすために」
緩やかな曲線を持った円筒状の尾がゆっくりと持ち上がり、黒い光が滲み始めた。
そして、少女を救うための儀式が始まろうとしていた。それは、彼女の仲間が知れば怒るような処置。
倒木の影は湿っていて、ひんやりとした土の匂いが立ちこめていた。
クレナイは少女をそっと膝に抱き、胸の鼓動を確かめながら視線を森へ向けた。
魂喰はまだ近くにいる。
姿を見せなくても、存在の気配は森の音を“薄くする”。
鳥も虫も息を潜め、霊脈は深いところでだけかすかに震えている。
「……時間がない」
少女の呼吸はさらに弱くなっていた。
胸の奥にある“空洞”が広がり、魂の縁が崩れていく。
この崩壊が進めば──少女はもう目を開けない。
クレナイは、少女の小さな手をそっと包み込んだ。
指の温度はまだ残っているが、“拍”が薄い。
「お前は強い子だ。まだ諦めてねぇ」
少女のまつげがわずかに動く。
しかし意識は遠い。
名前も、記憶も、ひとかけらも掴めない。
クレナイは深く息を吸い、胸に手を当てた。
そこには──封じていた“黒”が眠っている。
彼女自身の魂に宿る、鋭く重いもの。
悪意の龍。
本来なら他者に触れさせるべきではない。
魂を汚し、宿主を削る力。
けれど、今はそれしかない。
「ごめんな。
できるなら使いたかねえ力なんだが、今はこいつに賭けるしかなくてな」
緩やかな曲線を持った円筒状の尾がゆっくりと持ち上がった。
毛の隙間から黒い霧のような光が滲み、空気の温度がわずかに変わる。
少女の胸に当てていたクレナイの手のひらが、微かに震えた。
「……でも、お前を死なせるわけにはいかねえ」
◇
黒い光がクレナイの掌へ集まり、丸い欠片のような形になり始める。
影ではない。
煙でもない。
“魂の硬質な残滓”のような、触れれば痛むほど鋭い存在。
悪意の龍──。
小さな塊が、重く低い音を立てて脈動した。
少女の欠損した魂が、その音に呼ばれるように揺れる。
「……怖がらなくていい。
痛みは一瞬だけだ」
クレナイは少女の胸元へ手を近づける。
黒い欠片が少女の魂の空洞に“引き寄せられる”ように吸い込まれかける。
その瞬間──
少女の身体がびくりと跳ねた。
胸の奥で空洞が裂け、声にならない“悲鳴”が響く。
「……っ」
少女の瞳が薄く開き、焦点の合わないまま震えた。
名前のない胸が、痛みに耐えるように上下する。
クレナイは迷わない。
迷っている時間が魂を削る。
「安心しろ。あとは寝ていろ」
そして──黒い欠片を少女の胸へ押し込んだ。
◇
空気がひっくり返るような衝撃が走り、
霊脈が一斉に強く鳴った。
少女の胸の奥で、黒い光が爆ぜる。
欠損した魂の縁が激しく揺れ、黒い力がそこへ流れ込む。
クレナイは片膝を地面につき、耐えるように歯を食いしばった。
彼女の身体にも反動が走り、胸の奥が焼けるように痛む。
悪意の龍の力は、注いだ側も削る。
視界の端が白くなり、指先の感覚が薄れる。
「……もう少し……」
少女の胸に黒い光が馴染み、空洞がゆっくり埋まっていく。
歪んでいた魂の形が、少しずつ整っていく。
黒い力は、少女の魂の“失われた部分”そのものを補うように入り込んだ。
やがて──その光が落ち着き、静かに脈動した。
少女の呼吸が、ふっと少しだけ楽になった。
胸の上下が安定し、冷たかった指先に微かな温度が戻る。
「……よく、耐えたな」
クレナイは深く息を吐き、少女の頬に触れた。
少女のまつげが震え、意識の底の底で“何か”を掴もうとするように指が動いた。
しかし名前は、まだ戻らない。
記憶も、形を持たない。
あるのは、ただ“生きる拍”だけ。
◇
クレナイは少女を抱き上げ、額にそっと唇を寄せる。
「お前は……もう大丈夫。
死にはしない」
だが同時に、胸の奥で強い痛みが走った。
自分自身の寿命が確実に削られた証だ。
緩やかな曲線を持った円筒状の尾が、重さを増したように沈む。
「これで……七年。
七年は……持たねぇ、な」
呟きは、少女には聞こえない。
森の奥で、霊脈が小さく震えた。
少女の魂は、ようやく“死から離れた”ところに戻ってきた。
しかし完全ではない。
失ったものは戻らず、埋めた部分は黒い拍動を持っている。
それでも──生きられる。
「……名が必要か」
クレナイは少女の胸元の刺繍へ目を落とした。
──A.S.H
母が残した最後の“手掛かり”。
「今日からお前は……アスハ、だ。起きたら、教えてやらねぇとな」
その名は、まだ眠っている少女の魂の奥へ静かに沈んだ。
森の霊脈が呼応するように、小さく光った。
少女は、確かに“生き返った”。
森に、ゆっくりと朝の光が差しはじめた。
霧は薄れ、苔の上で細かな光粒が揺れる。
しかし、その美しさとは裏腹に、森はまだ“傷ついたまま”だった。
魂喰の影は完全には消えず、森の奥でかすかな“うねり”として残っている。
だが、少女の命を狙う気配は──もうなかった。
黒い欠片が魂に馴染んだことで、影は“興味を失った”のだ。
クレナイは少女を腕の中で抱き直し、静かに立ち上がった。
アスハの呼吸は安定している。
胸の奥で黒い拍動がゆっくりと響き、その周りで魂の光が淡く揺れている。
少女はまだ意識を戻さない。
だが表情に苦しみはなく、眠るように静かだ。
◇
クレナイは一歩、結界のあった場所へ近づいた。
そこには、少女の母の遺した“形”が残っている。
影に喰われ、輪郭の半分が崩れ、魂の抜けた身体。
地面には、薄い灰のような粉がわずかに散り、衣の一部だけが残っていた。
クレナイは無言で跪き、手を合わせる。
祈りではない。
これは“敬意”だった。
「あなたのおかげで、この子は助かった。
どれほど辛くても……最後まで抱いていたんだな」
風がひとすじ吹き、残った布が揺れた。
クレナイは手をかざし、短い詠唱を紡ぐ。
光が落ち、母の残骸は静かに土へ還っていく。
人が死んだ後、霊脈へ戻る普通の流れに近づける“整える”術だ。
この森に残すにはあまりにも無念が強すぎる。
放置すれば、星の意思が“残響”として拾いかねない。
「……眠れ。
あなたの残したものは、私が必ず守る」
土に還りゆく残骸を前に、クレナイはゆっくり立ち上がった。
◇
アスハの体温が、クレナイの腕の中でわずかに上がる。
魂が安定しはじめている証だ。
黒い欠片で埋められた部分は、不完全だ。
鋭く、痛みを孕み、成長とともに“別の反応”を見せる可能性を持つ。
だが、それでも──少女は生きられる。
クレナイは、少女の頬を軽く撫でた。
「私はもう“師”になるつもりはなかったんだがな……
不思議なものだな」
少女のまつげが、寝言のようにわずかに震える。
返事ではない。
だが、声をかけられたという“反応”だけはあった。
◇
森の出口に近い道を歩きながら、クレナイは空を見上げた。
東の空は白みはじめ、暗い森の影を少しずつ押し返していく。
「……さぁ、行こうか。
お前の生きる場所へ」
クレナイは少女をしっかり抱き、森を後にした。
背後では、アストレイの森が静かに息を吐いた。
事件は終わったわけではない。
魂喰の残した痕は深く、森の霊脈はまだ痛んでいる。
けれど──少女は生きた。
名を失い──。
母を失い──。
魂を三分の一無くしながらも。
彼女はこの日、確かに“再び生まれた”。
九龍アスハとして。




