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序章 胎動 ―恐慌と胸腔—(1/2)

基礎用語の解説ページ

https://ncode.syosetu.com/n9892li/1/


魂喰

https://ncode.syosetu.com/n9892li/2/


魂&符術

https://ncode.syosetu.com/n9892li/3/


「クソッタレが!あんのクソオヤジ、なぁにが『歩いて5日程じゃよ』だ!走って5日じゃねぇか。てめぇの歩く速度は走る速度ってか!?」


燃えるような真っ赤な髪にルビーのような真紅の瞳の女性——九龍きりゅうクレナイは悪態を着きつつ、その足は全速力で前に向かっていた。


「ああ!もう!間に合え!」



 アストレイの森は、まだ夜の残り香を抱いていた。

 人類歴1482年。夜明け前の薄闇は静かだが、地面の下では“霊脈れいみゃく“がざわついている。

 人間でいえば“血管”のようなものが、熱をもって逆流しているようだった。


 森の奥に、小さな“結界けっかい“が残っていた。

 大人ひとりがようやく隠れられるほどの大きさで、表面はひび割れ、光は弱く震えている。

 結界の表面には灰色の焦げ跡と、なにかがめ回したような歪みだけが残っていた。


 その内部に、幼い子どもが横たわっていた。


 銀白の髪は泥で重く貼りつき、頬は泣き腫らしたように赤い。

 しかし胸はかすかに上下していて、まだ生きている。


 少女の傍らには、布の切れ端がひとつ。

 白い布に、焦げ跡のついた細い髪が絡みついている。

 それは、少女の実母のものだった。


 けれど実母の姿は──結界の外に、もう“形として”残っていない。


 木の根元に薄い影が沈んでいる。

 人の形を保てなかった残骸。痕跡は灰のようで、中心が抜けた“空洞”のように軽かった。

 “魂喰ソウルイーター“にった痕跡だった。


 少女は、母が最後に張った結界の中だけで、生き残った。


 小さな手が震え、指が空気をつかむように動く。

 口が動くが、音が出ない。

 言葉の形を思い出せない。


 胸の奥には──“欠け”があった。

 魂の一部が、まるごとえぐられたまま空洞になっている。

 世界が遠く、思考が霧に沈んでいく。


 少女は五歳。

 今、名前すら思い出せない。


 くしゃり、と結界の外で音がした。


 黒い霧のような“影“が、地面に沿ってすべる。

 姿は獣にも人にも見えず、中心が穴のように揺らぐ。

 近づきながらも、少女へは触れない。

 すでに“ふれた“魂に、興味はないのだ。


 影は森の奥へ溶けるように消えていく。


 霧がふたたび静まり返る。

 結界の光は弱々しく脈打ち、少女の呼吸もそれに合わせるように浅く、細い。


 風が止まり、森の温度がわずかに下がった。


 ──そのとき。


 大気そのものが、ひとつ震えた。


 霊脈の流れが一瞬だけ強まり、葉の裏側で火花のような音が弾ける。

 森の湿った匂いに、鉄と熱の混じった匂いが差し込み、足音が近づいてきた。


 静かで、規則的で、揺るぎのない足取り。


 木々の間から、ひとつの影が姿を現す。


 燃えるような真っ赤な髪。

 赤が映える黒い衣。

 背にのびた“緩やかな曲線を持った円筒えんとう状の尾”。


 九龍クレナイ──第九席。

 愛脈あいみゃくを扱う神獣天人。


 彼女は足を止め、結界の残骸を見た。


「……間に合わなかった、のか」


 その声には怒りも嘆きもなく、ただ事実だけがあった。


 クレナイは結界に触れ、残された符式を読み取る。

 この結界は、少女の実母が張ったものだ。

 短い時間を稼ぐためだけの、簡素で、しかし強い意志のこもった符術。

高価な物だが、緊急時のために買っておいたのだ。


 母は結界に自分の“拍”を全部注ぎ込み、そこで死んだ。


「よく……守ったな」


 クレナイは結界をそっと解き、少女へ近づく。


 少女は薄く目を開けた。

 瞳はぼやけていて、焦点が合わない。

 言葉は失われていて、自分が誰なのかさえ掴めていない。


 クレナイは胸元の刺繍に気づく。


 ──A.S.H

 読み方は分からない。それしか読み取ることが出来ない。

 だが、少女を示す唯一の“痕跡”だった。


「……唯一の生存者、か。助けない訳にはいかねぇな」


 そう告げたとき、森の奥で霊脈がうめく。

 影が戻ってくる気配がした。


 クレナイは少女を抱き上げ、緩やかな曲線を持った円筒状の尾をゆっくりと持ち上げた。


「大丈夫。すぐに終わらせる」


 その声は冷たくも優しく、少女の欠けた魂の奥に、かすかな光を落とした。


クレナイは少女を抱えたまま、森の奥を一度だけ振り返った。

 魂喰が戻る気配は濃く、霊脈れいみゃくは“嫌なうねり”を続けている。森の生き物は一匹も姿を見せず、音のすべてが地面の下へ吸い込まれていく。


「ここでは不味いな、移動するか……」


 独り言のように呟き、クレナイは少女の呼吸を確かめた。

 弱く、細い。

 魂が三分の一欠けた影響で、身体の循環が崩れはじめている。


 少女の胸の奥で、空洞がゆらりと揺れた。

 その揺れは痛みとは違う“沈み込み”だ。

 自分の中から、記憶や感情の置き場所が抜け落ちていくような感覚。


 少女はうっすらとまぶたを開けた。


 視界がぼやけ、世界が二重にも三重にもにじむ。

 クレナイの姿は光に溶け、形が掴めない。


「あ……ぁ……」


 声というより、空気の漏れる音。

 喉が“言葉の使い方”を忘れてしまっている。


 クレナイは少女の背をそっと撫でた。


「喋らなくていい。無理に思い出す必要もねぇ」


 少女の小さな手が、クレナイの衣をつかむ。

 けれど指の動きには力がなく、すぐに滑って落ちた。


 森の奥で、木が割れるような鈍い音が響いた。


 それは獣の足音でも、風の通り道でもない。

 “魂に触れた影”が、森の奥で形を変えながら移動する音だった。


 影は触れた魂の“残り香”に引き寄せられる。

 少女の中にはまだ“味”が残っているのだ。


「……ちっ、面倒だな」


 クレナイは少女を抱え直し、歩き出す。


 足元には母の遺した結界の“残響”が、薄い光として落ちていた。

 この光がなければ、少女はとっくに死んでいただろう。


「お前の母は……最後まで戦ったんだな」


 言葉に感情は混ぜない。

 だが、クレナイの指先の動きだけは優しかった。



 森の道は険しく、根がうねり、岩が割れている。

 アストレイは古い森だ。

 霊脈が地表近くを通っていて、自然そのものが不安定になりやすい。


 少女の意識はとぎれとぎれで、眠りと覚醒を行き来していた。

 目を開けても、世界の明るさが分からない。

 色が薄く、音も遠い。


 その時、胸の奥に強い“刺すような空虚感”が走った。


「……っ」


 少女の身体がびくりと震える。

 魂の欠損が波打つときに起こる反応だった。


 クレナイは立ち止まり、少女の額にそっと触れる。


「苦しいよな。

 でも大丈夫。私が必ず繋ぎ止める」


 その声は淡々としているのに、不思議と温度があった。

 少女の呼吸は、少しだけ落ち着く。


 だが──次の瞬間。


 地面の下を、何かが“走った”。


 霊脈が大きくうねり、森の木々が一斉に震える。

 影が空間そのものを掻きむしるように近づいてきた。


「……来やがったか」


 クレナイは少女を抱きしめ、視線を森の暗がりへ向ける。


 黒い霧のような魂喰が、樹の間に姿を現した。

 形は不定形で、中心部だけがぽっかり穴のように空いている。

 その穴こそが“死”であり、“そく”だった。


 少女の胸が急に冷える。

 魂の残りが、影に引っ張られるように震えた。


「……い、や……」


 言えたのは、その一音だけ。

 だが確かに“意思”だった。


 クレナイは前に踏み出し、緩やかな曲線を持った円筒状の尾をゆらりと持ち上げた。


「来るか……」


 その言葉に応じるように、霊脈が赤く光り、クレナイの足元から短い風が巻き起こった。


 影はためらうように揺れ、その場で軋む音を立てた。

 愛脈を持つ九龍の存在は、魂喰にとって“障壁”だ。


 だが──完全には退かない。


 それは影が“この少女を觸た証拠”でもあった。


「しつこい……!

 お前たちの獲物じゃない」


 クレナイは少女を抱いたまま、わずかな距離を詰める。


 影はゆっくり後退した。

 しかし、完全には消えない。


 森の奥へ溶け込みながら、なおも“残り香”を追っている。


「……急がねぇと。こいつの身体も魂も持たねぇ」


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