序章 胎動 ―恐慌と胸腔—(1/2)
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魂喰
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魂&符術
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「クソッタレが!あんのクソオヤジ、なぁにが『歩いて5日程じゃよ』だ!走って5日じゃねぇか。てめぇの歩く速度は走る速度ってか!?」
燃えるような真っ赤な髪にルビーのような真紅の瞳の女性——九龍クレナイは悪態を着きつつ、その足は全速力で前に向かっていた。
「ああ!もう!間に合え!」
◇
アストレイの森は、まだ夜の残り香を抱いていた。
人類歴1482年。夜明け前の薄闇は静かだが、地面の下では“霊脈“がざわついている。
人間でいえば“血管”のようなものが、熱をもって逆流しているようだった。
森の奥に、小さな“結界“が残っていた。
大人ひとりがようやく隠れられるほどの大きさで、表面はひび割れ、光は弱く震えている。
結界の表面には灰色の焦げ跡と、なにかが舐め回したような歪みだけが残っていた。
その内部に、幼い子どもが横たわっていた。
銀白の髪は泥で重く貼りつき、頬は泣き腫らしたように赤い。
しかし胸はかすかに上下していて、まだ生きている。
少女の傍らには、布の切れ端がひとつ。
白い布に、焦げ跡のついた細い髪が絡みついている。
それは、少女の実母のものだった。
けれど実母の姿は──結界の外に、もう“形として”残っていない。
木の根元に薄い影が沈んでいる。
人の形を保てなかった残骸。痕跡は灰のようで、中心が抜けた“空洞”のように軽かった。
“魂喰“に遭った痕跡だった。
少女は、母が最後に張った結界の中だけで、生き残った。
小さな手が震え、指が空気をつかむように動く。
口が動くが、音が出ない。
言葉の形を思い出せない。
胸の奥には──“欠け”があった。
魂の一部が、まるごと抉られたまま空洞になっている。
世界が遠く、思考が霧に沈んでいく。
少女は五歳。
今、名前すら思い出せない。
くしゃり、と結界の外で音がした。
黒い霧のような“影“が、地面に沿ってすべる。
姿は獣にも人にも見えず、中心が穴のように揺らぐ。
近づきながらも、少女へは触れない。
すでに“觸た“魂に、興味はないのだ。
影は森の奥へ溶けるように消えていく。
霧がふたたび静まり返る。
結界の光は弱々しく脈打ち、少女の呼吸もそれに合わせるように浅く、細い。
風が止まり、森の温度がわずかに下がった。
──そのとき。
大気そのものが、ひとつ震えた。
霊脈の流れが一瞬だけ強まり、葉の裏側で火花のような音が弾ける。
森の湿った匂いに、鉄と熱の混じった匂いが差し込み、足音が近づいてきた。
静かで、規則的で、揺るぎのない足取り。
木々の間から、ひとつの影が姿を現す。
燃えるような真っ赤な髪。
赤が映える黒い衣。
背にのびた“緩やかな曲線を持った円筒状の尾”。
九龍クレナイ──第九席。
愛脈を扱う神獣天人。
彼女は足を止め、結界の残骸を見た。
「……間に合わなかった、のか」
その声には怒りも嘆きもなく、ただ事実だけがあった。
クレナイは結界に触れ、残された符式を読み取る。
この結界は、少女の実母が張ったものだ。
短い時間を稼ぐためだけの、簡素で、しかし強い意志のこもった符術。
高価な物だが、緊急時のために買っておいたのだ。
母は結界に自分の“拍”を全部注ぎ込み、そこで死んだ。
「よく……守ったな」
クレナイは結界をそっと解き、少女へ近づく。
少女は薄く目を開けた。
瞳はぼやけていて、焦点が合わない。
言葉は失われていて、自分が誰なのかさえ掴めていない。
クレナイは胸元の刺繍に気づく。
──A.S.H
読み方は分からない。それしか読み取ることが出来ない。
だが、少女を示す唯一の“痕跡”だった。
「……唯一の生存者、か。助けない訳にはいかねぇな」
そう告げたとき、森の奥で霊脈がうめく。
影が戻ってくる気配がした。
クレナイは少女を抱き上げ、緩やかな曲線を持った円筒状の尾をゆっくりと持ち上げた。
「大丈夫。すぐに終わらせる」
その声は冷たくも優しく、少女の欠けた魂の奥に、かすかな光を落とした。
クレナイは少女を抱えたまま、森の奥を一度だけ振り返った。
魂喰が戻る気配は濃く、霊脈は“嫌なうねり”を続けている。森の生き物は一匹も姿を見せず、音のすべてが地面の下へ吸い込まれていく。
「ここでは不味いな、移動するか……」
独り言のように呟き、クレナイは少女の呼吸を確かめた。
弱く、細い。
魂が三分の一欠けた影響で、身体の循環が崩れはじめている。
少女の胸の奥で、空洞がゆらりと揺れた。
その揺れは痛みとは違う“沈み込み”だ。
自分の中から、記憶や感情の置き場所が抜け落ちていくような感覚。
少女はうっすらと瞼を開けた。
視界がぼやけ、世界が二重にも三重にもにじむ。
クレナイの姿は光に溶け、形が掴めない。
「あ……ぁ……」
声というより、空気の漏れる音。
喉が“言葉の使い方”を忘れてしまっている。
クレナイは少女の背をそっと撫でた。
「喋らなくていい。無理に思い出す必要もねぇ」
少女の小さな手が、クレナイの衣をつかむ。
けれど指の動きには力がなく、すぐに滑って落ちた。
森の奥で、木が割れるような鈍い音が響いた。
それは獣の足音でも、風の通り道でもない。
“魂に触れた影”が、森の奥で形を変えながら移動する音だった。
影は触れた魂の“残り香”に引き寄せられる。
少女の中にはまだ“味”が残っているのだ。
「……ちっ、面倒だな」
クレナイは少女を抱え直し、歩き出す。
足元には母の遺した結界の“残響”が、薄い光として落ちていた。
この光がなければ、少女はとっくに死んでいただろう。
「お前の母は……最後まで戦ったんだな」
言葉に感情は混ぜない。
だが、クレナイの指先の動きだけは優しかった。
◇
森の道は険しく、根がうねり、岩が割れている。
アストレイは古い森だ。
霊脈が地表近くを通っていて、自然そのものが不安定になりやすい。
少女の意識はとぎれとぎれで、眠りと覚醒を行き来していた。
目を開けても、世界の明るさが分からない。
色が薄く、音も遠い。
その時、胸の奥に強い“刺すような空虚感”が走った。
「……っ」
少女の身体がびくりと震える。
魂の欠損が波打つときに起こる反応だった。
クレナイは立ち止まり、少女の額にそっと触れる。
「苦しいよな。
でも大丈夫。私が必ず繋ぎ止める」
その声は淡々としているのに、不思議と温度があった。
少女の呼吸は、少しだけ落ち着く。
だが──次の瞬間。
地面の下を、何かが“走った”。
霊脈が大きくうねり、森の木々が一斉に震える。
影が空間そのものを掻きむしるように近づいてきた。
「……来やがったか」
クレナイは少女を抱きしめ、視線を森の暗がりへ向ける。
黒い霧のような魂喰が、樹の間に姿を現した。
形は不定形で、中心部だけがぽっかり穴のように空いている。
その穴こそが“死”であり、“觸”だった。
少女の胸が急に冷える。
魂の残りが、影に引っ張られるように震えた。
「……い、や……」
言えたのは、その一音だけ。
だが確かに“意思”だった。
クレナイは前に踏み出し、緩やかな曲線を持った円筒状の尾をゆらりと持ち上げた。
「来るか……」
その言葉に応じるように、霊脈が赤く光り、クレナイの足元から短い風が巻き起こった。
影はためらうように揺れ、その場で軋む音を立てた。
愛脈を持つ九龍の存在は、魂喰にとって“障壁”だ。
だが──完全には退かない。
それは影が“この少女を觸た証拠”でもあった。
「しつこい……!
お前たちの獲物じゃない」
クレナイは少女を抱いたまま、わずかな距離を詰める。
影はゆっくり後退した。
しかし、完全には消えない。
森の奥へ溶け込みながら、なおも“残り香”を追っている。
「……急がねぇと。こいつの身体も魂も持たねぇ」




