9:パン
朝の廃屋には、香りがあった。
魚出汁でもない。
燻製でもない。
もっと柔らかい匂い。
小麦が焼ける香りだった。
「……なんか今日は違うな」
ベッティーナが鼻を動かす。
廃屋前には今日も列ができている。
冒険者。
商人。
荷運び。
最近では港湾労働者まで来るようになっていた。
理由は単純だ。
腹持ちがいい。
温かい。
安い。
そして美味い。
クルザードは石窯の前にしゃがんでいた。
視線は生地へ向いている。
丸い。
白い。
柔らかい。
昨日からずっと試していた。
「……膨らんでる」
ドミニクが驚いた声を出す。
「昨日より大きいぞ」
「発酵した」
「はっこう?」
「生地の中で生き物が動いてる」
「え?」
ドミニクが少し引く。
クルザードは気にせず生地を押した。
柔らかい。
空気が入っている。
『酵母反応』
『発酵成功』
『炭酸発生』
『小麦分解』
『香気向上』
頭へ情報が流れる。
最近、鑑定が料理方面へ噛み合い始めていた。
菌。
発酵。
塩分。
水分。
理解できる。
戦闘より、こっちの方が遥かに制御しやすい。
「昨日の黒パンとは全然違うな」
ガルドが腕を組む。
「硬くねぇ」
「水分量を変えた」
「あと酵母」
「その酵母って何だ?」
クルザードは横の壺を見た。
果実皮。
小麦。
ぬるま湯。
少量の蜂蜜。
偶然だった。
放置した生地が膨らんだ。
鑑定で見た。
微細生物。
発酵。
増殖。
つまり。
(使える)
「生地を膨らませる菌だ」
「菌!?」
ドミニクがまた引いた。
「食って大丈夫なのか!?」
「問題ない」
「いやお前の問題ない信用していいのか!?」
周囲が笑う。
クルザードは石窯へパンを入れた。
火属性で温度を調整。
熱が均等に回る。
焼ける音。
香り。
徐々に色づいていく。
廃屋前の空気が変わった。
「……なんだこの匂い」
「やばい」
「腹減る」
列がざわつく。
焼きたてパンの香りが街へ流れていく。
今までのアルフェイドには存在しなかった匂いだ。
この世界のパンは硬い。
保存優先。
酸っぱい。
腹へ詰め込むだけの食事。
だが、これは違う。
柔らかい。
香る。
温かい。
「できた」
クルザードが窯から取り出す。
表面は黄金色。
湯気が立つ。
皮がぱちぱち音を立てた。
沈黙。
全員が見ている。
「……切るぞ」
クルザードは包丁を入れた。
ふわり。
湯気が溢れる。
柔らかい白い生地。
香り。
甘み。
小麦。
ドミニクが目を見開く。
「うわ……」
クルザードは小さく切り分けた。
「食え」
ベッティーナが最初に口へ入れる。
止まる。
数秒。
「……なんだこれ」
声が震えていた。
「柔らかい」
ステファンが慌てて食べる。
「うっま!?」
「何これ!?」
「パンだぞ!?」
「嘘だろ!?」
次々と声が上がる。
マティルデは無言で二個目へ手を伸ばしていた。
ドロテアが呆然としている。
「甘い……」
「砂糖入れてないよな?」
「発酵で変わった」
クルザードは静かに答える。
ガルドが真顔だった。
「これ、革命だぞ」
「そこまでか?」
「そこまでだ」
ドワーフはパンを見つめる。
「柔らかい」
「保存も効く」
「腹持ちも良い」
「しかも温かい」
ガルドは断言した。
「これ、絶対流行る」
クルザードは少し考える。
保存。
輸送。
大量生産。
全部繋がる。
(パンは物流向きだ)
米より軽い。
持ち運べる。
加工もしやすい。
つまり。
遠征食に向く。
商隊にも使える。
人口増加にも繋がる。
「量産する」
クルザードが言った。
ドミニクが吹き出す。
「お前ほんと即実用化するな!」
「使えるなら使う」
「そういうとこだぞ!」
昼過ぎ。
廃屋前は完全に祭り状態だった。
「パン売ってくれ!」
「俺にも!」
「焼きたてだぞ!?」
列がさらに伸びる。
クルザードは淡々と焼き続けた。
ドミニクが生地を運ぶ。
ベッティーナ達が配る。
カタリナが列整理。
自然と流れができている。
「……完全に店だな」
マティルデが苦笑する。
「ギルド飯より美味い」
「というか比べるの失礼だろこれ」
ステファンがパンを齧る。
皮が割れる音。
湯気。
香り。
周囲の空気が柔らかい。
その時だった。
「失礼する」
静かな声。
全員が振り返る。
女だった。
長い銀髪。
整った顔立ち。
エルフ。
薄緑の外套。
薬草の匂い。
視線が鋭い。
鑑定が流れる。
『高位薬師』
『長命種』
『魔力感知』
『知識量高』
『疲労』
『栄養不足』
「……なんだあの美人」
ステファンが呟く。
女はパンを見ていた。
「その香り……本当に小麦か?」
「そうだ」
「発酵しているな」
クルザードが少し目を細める。
理解している。
珍しい。
「分かるのか」
「薬師だからな」
女は小さく笑った。
「私はジェシカ」
「薬草師だ」
クルザードはパンを差し出す。
「食うか?」
ジェシカは受け取る。
一口。
止まる。
静かな沈黙。
そして。
「……住みたいな、ここ」
全員が吹き出した。
ドミニクが笑い転げる。
「また増えた!」
「飯で人集めすぎだろクル!」
クルザードは静かにパンを見た。
焼きたて。
香り。
温かさ。
それだけで、人は寄ってくる。
武力じゃない。
脅しでもない。
快適さ。
安心感。
生きやすさ。
それが、人を集める。
そして今。
港外れの廃屋には、少しずつ“居場所”ができ始めていた。




