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飯が美味すぎて、気づけば世界を支配していた。 ~無限魔力の料理人、物流と教育で最強国家を作る~  作者: 慈架太子


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10:ドミニク

港町アルフェイドの朝は早い。


いつものように冷たい潮の匂いが石畳を濡らし、魚市場からは利権を巡る血気の荒い怒鳴り声が響き渡る。物資を運ぶ荷車の重い軋み音、ゴミを求めて低空を不気味に旋回する海鳥たちの羽ばたき。そして、昨日までの戦いに疲れ果てた冒険者たちの、酒臭い澱んだ怒声。


そんな残酷な停滞を見せる喧騒の真ん中で、最近、ひとつだけ完全に異質な空間が存在していた。


港外れの崖の上に佇む、古い廃屋。

そこだけは、漂っている匂いの質が根本から違っていた。


独自の工程で黄金色に焼き上げられた発酵パン。

完璧な脱水管理を施された極上の燻製。

じわじわと弾ける、魔物肉の濃厚な肉汁。

そして、人々の肉体と精神を一瞬で癒やし尽くす、温かい大鍋の芳醇な香り。

何より、今までのアルフェイドには絶対に存在しえなかった、人間の心からの温かい笑い声が、そこには確かに満ちあふれていた。


「おい、クル! 朝一の発酵パン、用意していた分がもう底を突きそうだ! 追加はすぐに焼けるか!?」


「まだ外に三十人以上並んでいるわよ! 早くしないと暴動が起きるわ!」


金髪のドミニクが、大容量の生地桶を抱えながら、慌ただしくも弾んだ声を張り上げて叫んだ。

クルザードは巨大な石窯の前に腰を落としたまま、静かに薪の燃え盛る火力を視線で捉えた。


「焼ける。窯の内部の温度はすでに次の焼成への最適値を維持しているからね」


「出力の調整は完璧。一分も経たずに次の陣形を投入するよ」


「いや、その返事の軽さと手際の良さが、逆に不気味で怖いのよ!」


ドミニクは信じられないといった風に額の汗を拭ったが、その表情には深い充実の笑みが浮かんでいた。

古い廃屋の前には、朝霧を切り裂くようにして、今日も凄まじく長い一本の列がどこまでも伸びていた。

命がけで迷宮の深層へと挑む冒険者。

重い物資を背負って街を巡る荷運び人や商人。

そして、その圧倒的な噂を聞きつけた、屈強な港湾労働者たちの姿。

最近では、劣悪な栄養状態に苦しんでいた街の一般の家族連れまでもが、当然のようにその列のあちこちに入り混じるようになっていた。


「本当に、日を追うごとに毎日恐ろしい勢いで人数が増えていくわね……」


大盾を傍らに置き、周囲の警戒に当たっていたベッティーナが、列の長さにただただ呆れたような溜息を漏らした。


「それは極めて自然で合理的な結果さ。ここの飯がどこよりも圧倒的に美味く、栄養効率が高いからね」


「いや、美味いってだけで、この弱肉強食のアルフェイドの人間が、これほど大人しく列を作って並ぶと思うか?」


「並ぶさ。飢えを確実に満たし、肉体を最も完璧な状態に修復できる絶対的な拠点は、今のこの街にはここにしか存在しないからね」


クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべ、気さくな口調でありながら、ハキハキとした明晰な声で淡々と答えた。


実際、集まる人間の本能の動きは極めて単純だった。

どこよりも圧倒的に価格が安い。

驚くほどに極上に美味い。

一杯で全細胞の飢えが完全に満たされる。

そして何より、彼の徹底した管理によって、感染症の危険性が完全に排除された最高値の衛生環境が保たれている。

力と搾取だけがまかり通っていたこの残酷な世界において、その当たり前の合理性が揃っていること自体が、ただそれだけで十分に異常であり、驚異的な価値そのものへと昇華していたのだ。


ドミニクは、次の焼き上げに必要な白い生地の塊を迅速に運びながら、作業を差配するクルザードの横顔をちらりと盗み見た。


最初にこの古い廃屋の入り口で出会った時。

目の前にいた男は、街の誰もが見下し、いつでも代えの利く不遇な、ただの「荷物持ち」に過ぎなかった。

悪徳な冒険者たちにいいように扱われ、理不尽に殴られ、馬鹿にされても怒ることすらしない、無力で弱い男。

最初の瞬間は、確かにそのように見えていた。


でも、それは完全なる見違いだった。

この男は、己の圧倒的な能力と冷徹なまでの合理主義によって、この街の澱んだすべての「流れ」を、根底から劇的に変えようとしている。

誰よりも物理的な武力が突出して強いわけではない。

自らの才能を周囲にひけらかすような、派手な大言壮語を叩くわけでもない。

なのに――彼が中心に立ち、最適な判断の軸を一つ示すだけで、周囲の規格外の人間たちが、まるで見えない巨大な歯車に組み込まれたかのように、自らの意思で勝手に、最高効率で動き始めるのだ。


「ドミニク」


「ん? 何だい?」


「生地を練るための塩の絶対量が、次の生産ラインに対して僅かに不足している」


「うわ、本当だ……! 完全に計算から抜けていたわ」


「問題ないさ。市場の大型商会から、今日優先的に回してもらう約束になっている精製塩の第一陣を受け取ってきてくれ。彼らの荷馬車は、今ちょうど角の交差点に到着したはずだからね」


「了解! すぐに行ってくるわ!」


それは、あまりにも自然な組織の循環だった。

ドミニクも含め、ベッティーナやガルド、カタリナたち全員にいたるまで、彼から直接命令を下されているという強制的な感覚は誰一人として持っていなかった。

それなのに、各自の才能に応じた最も正しい役割へと自然に「振り分け」られ、一分の手戻りもなく全体の流れが美しく回り続ける。

クルザードという男は、ただそこに佇んでいるだけで、集団のすべてを完璧に動かしてしまう、天性の資源の管理者であった。


昼前。

狂乱に近い朝の混雑がようやく一段落し、周囲に静けさが戻った頃だった。

ドミニクは、廃屋の裏手にある木箱の山にその豊かな身体をぐったりともたれかけさせ、大きく息を吐き出して座り込んだ。


「はぁ……疲れたぁ……本当に目まぐるしい朝だったわね……」


彼女は両手を後ろに突き、崖の上から見える広大な空を仰ぎ見た。

どこまでも高く、どこまでも青い、穏やかな空。

今の自分の置かれているこの環境は、数日前までの極限の飢餓状態を考えれば、到底現実とは思えないほどに平和で、満ち足りていた。かつての不安定な泥泥の日々からは、想像すらできない奇跡のような時間。


「冷めないうちに食うといい。旅の疲労には、温かい栄養の補給が最も効率が良いからね」


クルザードが、一切の無駄のない滑らかな動作で、彼女の目の前に一枚の木皿をそっと置いた。

じっくりと煮込まれた濃厚な魚骨の具沢山スープ。

焼きたての、ふんわりとした白い発酵パン。

完璧な脱水処理を施した、芳醇な燻製肉。

そして、道中で採取されたばかりの、ビタミンに富んだ新鮮な野生の野菜。

皿の上からは、嗅ぐだけで全細胞が活性化するような、最高の温かい湯気が立ち上っていた。


「……ねぇ、お前さ」


ドミニクはパンを小さく千切り、口へと運びながら、ふと不思議そうに尋ねた。


「なんだい。味の調整に何か不都合な点でもあったかい?」


「ううん、完璧に美味しいわ。そうじゃなくて……なんでお前は、これほどのことをやってのけておきながら、いつもそんなに『普通』のままでいられるの?」


クルザードは自らの椀を傾けようとした手を僅かに止め、少しだけ思考を巡らせた。


「普通? 俺の佇まいに、何か非効率な歪みでも生じているかい?」


「そこが普通じゃないって言っているのよ! お前には質量を完全に無視して物資を消し去る、あの規格外の『アイテムボックス』の能力がある」

「誰も見たことがないような、この街の常識を根底から覆す極上の料理を一瞬で作り上げる」

「おまけに、トロールやオーガの構造を一瞬で見抜いて、窒息死させるような意味不明な新魔法まで平然と使いこなしてみせる」

「それほどの強大な才能をいくつも宿しているのに、誰に対しても威張らないし、自分の力を誇示しようともしない」

「普通の人間の男なら、これだけの価値を手に入れたら、もっと調子に乗って街の支配者にでも成り上がろうと大言壮語を叩くものよ?」


クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべると、手元のパンを小さく熟練の手つきで千切りながら、ハキハキとした声で即答した。


「そんなことに、己の貴重な時間とエネルギーを費やすのは、極めて効率が悪いからね」


「……ははっ! その答え、本当にブレなくて、私は本気で大好きだわ」


ドミニクは、彼のその非の打ち所がない徹底した合理主義の姿勢を聞くと、堪えきれずに深く笑った。


最初の数日間は、彼のことが少しだけ怖かった。

いつも完璧な計算を行っているかのような無表情。

どのような修羅場の後でも一切動じない、静かな佇まい。

その瞳の奥底で、一体何を考えているのかが、常人の感覚では全く理解できなかったからだ。


でも、彼の傍で毎日の生活を共にするうちに、彼女はその内実の本質をはっきりと理解し始めていた。

この男は、無感情なロボットなどでは決してない。

誰よりも冷徹に、しかし誰よりも深く、目の前にいる一人一人の人間の「現実」を、完璧に観察して見つめているのだ。


肉体が限界まで疲弊している奴。

迷宮の戦いで、理不尽な怪我を負って苦しんでいる奴。

そして、かつての自分と同じように、不条理な社会の澱みによって、激しい腹の空腹に耐えかねている奴。

彼はそれらすべての無駄な損失を、鑑定の数値を通じて見落とすことなく完璧に捉えている。

そして、感情的な泣き言を叩く代わりに、彼らを最も完璧な状態へと救い出すための「判断」を下し、自然に行動を起こすのだ。


「……ねぇ、クル。なんであの最初の夜、行く宛もなくて、金目のものも何一つ持っていなかったただの浮浪者の私を、この場所に置いてくれたの?」


ドミニクは木椀を両手で包み込みながら、視線を落として小さく、切実な声で尋ねた。

クルザードの動きが、ほんの一瞬だけ、静かに止まった。


「簡単な話さ。君にはあの時、物理的に行く場所がどこにも残されていなかった。ただ、それだけだよ」


「……本当に、それだけの理由なの?」


「ああ、それだけさ。行き場を失った貴重な人的資源を、そのまま街の寒さの中で無意味に腐らせて喪失してしまうのは、俺の合理主義が最も嫌う『大損』だからね。君がここで生き残り、こうして調理の手伝いという立派な役割を担ってくれていること自体が、最大の正しい結果さ」


ドミニクは彼の顔を見つめ、それから小さく口元を緩めて笑った。その瞳の端には、微かに温かい涙の残滓が潤んでいた。

少しだけ、泣きそうな、しかし心底救われたような晴れやかな笑顔。


「普通、こんな無法地帯の街で、女一人を無償で拾ったら、もっと下卑た下心とかを警戒するものなのよ?」


「危険な要素が、君の身体の中に何か潜んでいるのかい?」


「あはは、そこじゃないんだよなぁ……お前、本当にそういう方面に関しては、本気で鈍感というか、全く分かっていないのね」


「? 構造的に、何か見落としがあったかい?」


クルザードは本気で不思議そうに首を傾げたが、ドミニクはただ嬉しそうに笑うだけで、それ以上の追及はしなかった。


彼女は心から確信していた。だからこそ、自分も、そして集まってくる他のすべての者たちも、この男の傍にいると、信じられないほどの深い「安心」を得られるのだと。

下卑た欲望や強欲な利権よりも先に、彼はいの一番に、人間が豊かに生きるための「確実な生活の基盤」を最も最優先に見て動いている。

だから居心地が良い。

だから絶対的な信頼がおける。

だからこそ、命がけの迷宮探索を終えた冒険者たちは、傷だらけになりながらも、吸い込まれるようにして必ずこの崖の上の廃屋へと戻ってくるのだ。


まさに、その暖かな静寂の最中であった。

廃屋の表口の方角から、静かな空気を暴力的に切り裂くような、品性のない粗悪な怒鳴り声が響き渡った。


「おい! ここでコソコソと屋台ごっこを始めてる、あの荷物持ちのガキはどこにいやがる!」


広場が、一瞬にして不穏な殺気で満たされる。

ドミニクは即座に表情を強張らせて立ち上がった。

現れたのは、重い革鎧を纏った三人組の冒険者だった。全員が昼間から安い酒に酷く酔っ払っており、その目は嫉妬と強欲な利権の色で不気味に血走っていた。


「最近、ただの使い捨ての荷物持ちの分際で、随分と調子に乗って美味い商売をやってるらしいなぁ、あぁ!?」


「おいおい、こんな街の外れのボロ廃屋で、許可もなく勝手に店を開いて人気を集めるなんて、いい度胸じゃねぇか!」


列に並んでいた一般の客たちが、その尋常ではない殺気に怯え、慌てて左右へと後退りしていく。

ドミニクの美しい顔が、深い不安と怒りで曇った。

ここ最近、彼らの拠点が大規模に拡大し、莫大な富と人気が集中するにつれて、このような連中の襲撃が確実に増え始めていた。

古い利権にしがみつく悪徳な商会の差し金。

自分たちの縄張りを侵されたと勘違いして暴力を振るいに来る、質の悪い中堅の荒くれ者たち。

人気が出れば、社会の澱みから必ずこのような邪魔なノイズが湧き出てくるのは、歴史の厳然たる因果関係だった。


「クル……また、あの手の輩よ。どうする?」


「分かっているさ。ドミニク、君は安全な位置まで下がっているといい」


クルザードは衣服の埃を滑らかに払うと、静かに前へと歩み出て、三人組の暴漢たちの正面へと堂々と立ち塞がった。

彼の佇まいには、恐れも怒りも一切存在しなかった。ただ、邪魔な澱みを排除するための、極めて冷徹なまでの冷静さだけがそこにあった。


「現在、ここは配膳の営業中だ。美味い飯を食うための正しい順番を乱すつもりなら、今すぐその足で速やかに帰るんだね」


「あぁ!? 何をイキってやがる、ただの雑魚荷物持ちの分際で――」


男の言葉が、最後まで完成することは二度となかった。

クルザードが左手を静かに前方へと突き出した瞬間、周囲の空間に変異が起きた。

空気中に満ちていた水分が、彼の莫大な魔力によって強制的に一箇所へと集束し、一瞬にして、透明で強固な「水球の仮面」へとその姿を変貌させたのだ。

そして次の瞬間、大言壮語を叩いていた男の顔面全体を、寸分の隙間もなく完璧に包み込んで張り付いた。


「――ッ!? ぶ、ごっ……!?」


新魔法、《ウォーターマスク》。

男は突如としてすべての呼吸を完全に遮断され、驚愕に目を見開いてその場でのたうち回り、激しく暴れ狂った。

自分の手の爪を顔面に突き立て、張り付いた強固な水膜を必死に引き剥がそうとするが、流体としての特性を持つ魔法はどれだけ裂かれようとも瞬時に元の形へと戻り、男の気道を完璧に塞ぎ続けた。


一歩も動かすことなく、物理的な衝撃を一切与えることもなく、ただ生き物としての根本的な駆動システム(呼吸)を停止させる、圧倒的に冷徹で合理的な制圧。

横にいた仲間二人の顔から、一瞬にして血の気が引き、真っ青に変色して戦慄した。


「ま、待て! 頼む、悪かった! 死んじまう、そいつが本当に死んじまうぞ!」


「おい、荷物持ち! 武器をおさめてくれ!」


狂乱に近い悲鳴を上げる仲間たちに対し、クルザードはただ静かに、その明るい瞳の奥に冷徹な光を宿したまま告げた。


「無駄に騒ぐな。周囲の客の不快感を煽る行為は、明確な営業妨害であり、効率的な物流の損失だからね」


彼が左手を僅かに引くと、男の顔面に張り付いていた水球は、一瞬にして弾けて地面へと散っていった。

呼吸を取り戻したリーダーの男は、泥の中に激しく崩れ落ち、喉をかきむしりながら盛大に咳き込んだ。その顔は、死の恐怖によって無残に引き攣り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れていた。


「次はないよ。俺の合理的な流れを邪魔する澱みは、二度目には完全に消去するのが、最も正しい判断だからね」


陽気さを完全に排した、静かな、しかし確固たる重みのある声。

そのいかなる最高位の剣士よりも恐ろしい制圧の迫力に圧され、三人組の暴漢たちは、負傷した仲間を抱え上げると、悲鳴を上げながら来た道を猛スピードで逃げ去っていった。


騒がしかった市場の全体が、不気味なほどの静寂に包まれる。


「……はぁ、本当にいつ見ても、お前のその魔法は合理的すぎて本気で怖いわね、クル」


拳闘士のステファンが、苦笑を浮かべながらも、感心したように肩をすくめた。


「無駄な流血を完全に排除した、最も手戻りのない合理的処理の手順さ。これ以上の解決法はないだろ?」


「その、人を殺しかけておいて『合理的処理』って平然と言ってのける言い方、本当に独特すぎて笑うしかないわ!」


ステファンの突っ込みを皮切りに、周囲を取り囲んでいた冒険者たちから一斉に盛大な笑い声が湧き上がり、張り詰めていた空気は一瞬にしていつもの暖かな活気へと戻っていった。

ドミニクは、その光景を見つめながら、胸の奥から湧き上がるような深い安心感に包まれていた。


この崖の上の古い廃屋は、今やただの飯を食うための場所ではない。

クルザードの持つ圧倒的な力と確固たる「判断」によって、いかなる不条理な暴力からも完璧に守られた、世界で唯一の最強の“居場所”として、完全に機能していた。

だからこそ、人は惹きつけられるように、ここへ向けて集まってくるのだ。


その日の夜。

廃屋の敷地内では、いつものように巨大な石鍋がコトコトと心地よい音を立てて美しく煮え滾っていた。

新鮮な海洋魚の骨から限界まで引き出した、濃厚な白濁スープ。

隠し味としての、塩牙猪の香ばしい燻製脂。

純白の精製海塩と、各種の新鮮な香草。

そして、窯から取り出されたばかりの、ふんわりとした白い発酵パンの山。


集まった無数の人間たちが、当然のように一つの鍋を囲んで並び、笑顔で語り合っていた。


「……あぁ、本当に何て言うか、ここはもう、ただの廃屋じゃなくて、完全に私たちの『家』そのものよね」


ベッティーナが、温かいスープを口に含みながら、心底ほっとしたように深く呟いた。


「分かるわ。迷宮での過酷な戦いを終えてここに戻ってくると、本当に『帰ってきた』っていう強い安心感があるのよね」


ドロテアも、焼きたてのパンを美味しそうに齧りながら、晴れやかな笑みを浮かべて言葉を繋いだ。


ドミニクは、その全員の幸せそうな笑顔を眺めながら、心の中で静かに微笑んだ。

ほんの少し前までの自分たちの生活とは、すべてが根本から違っていた。

毎日、どこで寝られるかも分からず、床は常に冷たくて不安定。

口にするのはゴミのように粗悪な食事ばかりで、周囲の人間は誰も信用できず、いつ後ろから刺されるか分からない恐怖の日々。


でも、今のここは、信じられないほどに温かい。

全細胞の腹が完璧に満たされ、命の危機から守られ、心から笑い合い、そして何より、明日の生存を完璧に確信して安心して眠ることができる。

その当たり前の生活の維持が、この地獄のようなアルフェイドにおいて、どれほど奇跡に等しい異常な救いであるか。その価値の重さを、この過酷な世界を生き抜いてきた彼女には、誰よりも痛いほどによく分かっていた。


「ドミニク」


「ん? 何だい、クル」


「明日朝一の需要に対して、発酵パンの供給ラインが未だに数パーセント不足している。今から追加の生地の仕込みと焼き上げの工程を開始するよ」


「……えっ、今から!? お前、昼間のあの物凄い大混雑の処理を終えたばかりなのに?」


「ああ、当然さ。明日の朝、並んでくれた客の飢えの流れを滞らせる不効率は、一分たりとも許されないからね」


「もう! お前、本当にどこまでも働きすぎの筋金入りの合理主義者ね!」


ドミニクの呆れた突っ込みに、居合わせたベッティーナやガルドたち全員が、一斉に盛大な大声を上げて吹き出した。

クルザードは自らの瞳の奥に、未来を完全に予見した不敵な笑みを浮かべたまま、一秒の無駄もない職人のような完璧な手際で、次の発酵生地を滑らかに練り上げ始めた。その彼のブレない背中を見て、全員がまた、心からの温かい笑声を崖の上に響かせた。


ドミニクは、その石鍋から立ち上る豊かな白い湯気の向こう側を見つめながら、確信していた。


この男は、遠くない未来、この歪んだ世界全体の構造を、根本からすべて綺麗に塗り替えてしまう。

当の本人は、未だにそれが世界規模の革命であることなど微塵も気づいておらず、ただ目の前の無駄を無くすための「最高の効率化」として淡々とこなしているだけかもしれない。


でも、腹を満たし、バラバラだった人々の本能の動きを集め、過酷な世界の中にこれほど強固な「安心の居場所」を作り上げるという彼のその差配の力は――

いかなる国家の強大な武力よりも、王侯貴族の莫大な金銭よりも、遥かに強固で、絶対的な変革のエネルギーを秘めていた。


冬の冷たい夜空に向けて、燻製小屋と石鍋の放つ白い煙が、静かに、しかしどこまでも高く真っ直ぐに昇り続けていく。

港町アルフェイドの古い歴史の流れは、今、一人の荷物持ちの「判断」によって、崖の上のこの小さな最強の拠点を中心にして、劇的な速度で美しく変わり始めていた。






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