表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飯が美味すぎて、気づけば世界を支配していた。 ~無限魔力の料理人、物流と教育で最強国家を作る~  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/41

11:薬草採取

港町アルフェイドの朝は曇っていた。


海から吹き付ける風が容赦なく冷気を運び、灰色の重い雲が垂れ込める空の下、湿った空気が街全体をずっしりと覆っている。港では過酷な夜間航行を終えた漁船が次々と戻り始め、魚市場の周辺からは利権や買い叩きを巡る血気の荒い怒鳴り声が朝早くから響き渡っていた。


その不穏で冷酷な停滞の光景とは完全に一線を画すように、港外れの崖の上に佇む古い廃屋には、相変わらず無数の人々が吸い込まれるようにして集まっていた。


「クルーっ! 朝一の発酵パン、焼けた先から全部綺麗に売り切れたわよ! 全然足りないわ!」


「今すぐに次の陣形を追加で焼く。窯の熱量は最適値を維持しているからね」


「それ、朝からもう三回目よ!? お前のその手際の良さと体力が信じられないわ!」


金髪のドミニクが、大きな生地桶を抱えながら、慌ただしくも充実感に満ちた声を張り上げて頭を抱えた。


独自の工程で黄金色に焼き上げられた、ふんわりと柔らかい白い発酵パン。

完璧な脱水管理を施された、香ばしい極上の燻製。

そして、全細胞の飢えを一瞬で癒やし尽くす、熱々の濃厚な魚鍋。


最近のこの場所は、単に迷宮の探索前後に立ち寄るだけの場所ではなく、この美味い飯を毎朝の主食目的として列に並ぶ者まで大量に現れ始めていた。

命がけで戦う冒険者だけではない。

日々、重労働に追われる頑強な港湾労働者。

街の澱んだ物流を巡る抜け目のない行商人。

行き場を失って彷徨っていた貧しい孤児たち。

そして、劣悪な栄養状態に苦しんでいた街の一般の子連れの家族たち。

立場も年齢も全く異なるあらゆる人々が、朝を迎えると当然のようにここへ来て、静かに整然とした列を作っていた。


「はは、ここまで人が押し寄せると、もうどこからどう見ても完全に街一番の繁盛店ね」


大盾を壁に立てかけ、周囲の警戒に当たっていたベッティーナが、列の長さにただただ呆れたような快活な笑みを漏らした。


「いいや、違うよ、ベッティーナ。ここは店ではなく、資源の効率的な分配所さ」


「いや、やってることは完全に店でしょ。誰も否定できないわよ」


クルザードは口元に明るく気さくな笑みを浮かべ、ハキハキとした明晰な声で淡々と答えた。

彼は一秒の無駄もない見事な手際で、巨大な石鍋から木椀へとスープを並々と注ぎ入れ、集まった者たちへ均等に振り分けていく。

魚骨から限界まで引き出した、濃厚な極上出汁。

海の塩気を多分に孕んだ、豊かな海藻。

そして、昨日仕込んだばかりの塩牙猪の燻製脂。

石鍋から立ち上る白い湯気と、暴力的なまでに食欲をそそる香りが、冷え切った崖の上を温かく支配していた。


エルフの薬師ジェシカは、その群衆から少し離れた薄暗い場所で、彼らのやり取りを静かに、そして鋭い知性の光を宿した目で見つめていた。

世界の調和を象徴する長命種。国家最高位の調合師としての圧倒的な知識量を誇る彼女。そんな、物の理を極限まで極めたはずの彼女ですら、この崖の上の古い廃屋で起きているこの現象だけは、到底論理的な理解が追いつかないでいた。


(何故、これほどまでに剥き出しの悪意に満ちた街の人間たちが、この場所に集まると一瞬にして穏やかに落ち着くのだ?)


建物の構造はボロボロに古く、調理に使う設備も即席で粗末なものばかり。立地だって、お世辞にも商売に向いているとは言えない最果ての崖の上だ。

それなのに――この空間を満たしている空気の質は、アルフェイドのどこよりも驚くほど柔らかく、深い安心感に満ちあふれていた。


それを作っている張本人が、他でもない、中央で快活に笑いながら飯を配っているクルザードであった。

彼が中心に立ち、最適な判断の軸を一つ示すだけで、周囲の不条理な殺気は完璧に中和され、最高効率の流れが出来上がる。


「ジェシカ」


「ん? 何だい、クル」


「今日の午後、街の外れの湿地帯へ向けて、薬草の採取遠征を行うよ」


彼女は、その一切の躊躇のないハキハキとした提案に、僅かに驚いて美しい銀髪を揺らした。


「お前自身が、わざわざ外へ出て薬草を摘みに行くというのかい?」


「ああ。今後の拠点の維持を計算したところ、特定の医療素材が決定的に不足しているからね」


「不足? 一体何が必要だというんだ」


「《解毒草げどくそう》さ。近いうちに、あの湿地帯の澱みから新しい病気の流れが街へ流れ込むのが予測できるからね」


「……お前、まだ起きていない先の病気の予兆まで、正確に見えているのかい?」


「最近、状況の本質的な流れが、以前よりもはっきりと数値として見えるようになってきたからね」


ジェシカは彼のその一片の揺らぎもない答えを聞くと、口元を僅かに緩めて小さく笑った。

この男の肉体に宿る「鑑定」の才覚は、長命種の目から見ても完全に常軌を逸していた。

対象の構造を完璧に見抜く圧倒的な精度。

脳内に直接叩き込まれる膨大な情報量。

そして、それらを瞬時に分類する驚異的な手際。

世界のいかなる高名な学者が持つ知識よりも、遥かに正確で、普通ではなかった。

ただし――本人がそのあまりにも過剰すぎる出力を、未だ完璧には制御しきれておらず、常に激しい頭痛という代償を払っていることも、彼女は見抜いていた。


「いいだろう、お前がその遠征を行うというのなら、私も一人の専門家として喜んで同行させてもらうよ」


「それは助かるな。長命種の持つ豊富な実地経験があれば、採取の効率はさらに跳ね上がるからね」


「はは、私の本当の目的は、お前の作業を真横で厳重に監視することだけどね」


「何故だい? 監視されるような不効率な真似はしていないつもりだが」


「大ありさ。お前のような底の知れない合理主義者は、より高い効果を求めて、普通の人間なら一瞬で命を落とすような最悪の毒草を、平然と笑顔で素手で触りかねないからね」


真横で話を聞いていたドミニクが、その非の打ち所がない指摘に堪えきれずに盛大に吹き出した。


「あははは! 分かるわ、ジェシカ! クルなら絶対に、何食わぬ顔で『問題ないさ』って言いながら、超危険な毒草を片っ端から引き抜いて袋に詰めるわよ!」


「クルならやる! 間違いないわ!」


マティルデたち全員が大笑いしながら彼女の言葉に同意し、クルザード自身はただ困ったように気さくな苦笑を浮かべるだけで、無駄な否定はしなかった。


昼前。

クルザードたちは、指示通りの陣形を維持しながら、街の外れに広がる広大な湿地帯へと足を踏み入れていた。


港町アルフェイドの近郊は、世界的に見ても極めて特異で、豊富な薬草資源が自生する肥沃な領域だった。

原因は明確だ。大海から絶え間なく流れ込んでくる高濃度の海霧。植物の成長を促す最悪なまでの湿度。そして何より、中央の巨大迷宮から地下を通じて絶え間なく溢れ出している、濃厚な地下魔力。

ダンジョン由来の強烈な魔素が地脈を伝って植物の根へと直接影響を与えているため、ここには常識を超えた効能を持つ変異植物がいくつも群生していた。


「全員、私の後ろについて来て、足元には細心の注意を払うんだよ」


長い銀髪を風にしならせながら、薬師のジェシカが鋭い声で同行のメンバーに警告を発した。


「この湿地帯は魔力が濃い分、一見すると普通の薬草に見える、凶悪な毒草や変異種がこれでもかと群生しているからね」


「その見分けは、専門の道具がなければ素人には不可能なのかい?」


前衛のベッティーナが、大盾を構えながら尋ねる。


「普通は、葉の表面を流れる細かな葉脈の走り方や、擦り潰した際に出る独特の臭気で判断するのさ。それが唯一の確実な手順だよ」


「普通は、ということは、失敗した場合はどうなるんだ?」


「一瞬の誤認で、肉体の全神経が麻痺してその場で呼吸が止まって死ぬだけさ。手戻りは一切ないよ」


拳闘士のステファンが、その冷徹な専門家の言葉を聞くや否や、顔を真っ青にして激しく戦慄した。

「おいおい、頼むからそんな恐ろしいことを平然と言うなよ……足がすくんで一歩も進めなくなるだろ……」


クルザードはそんな彼らの緊張を快活な笑声で和らげながら、おもむろに泥の中にしゃがみ込み、剥き出しの地面へとその素手を触れさせた。

その瞬間、彼の瞳の奥で青白い光が弾け、鑑定の無機質なデータが、濁流の如き速度で脳内へ直接流れ込んできた。


『対象:地表の植物群。解析:細胞内に高濃度のアミノ酸を含有。名称:止血草』

『状態:微弱な細胞回復効果を保有。乾燥処理を施すことで、効能の維持率が最高値に到達』


『対象:隣接する変異個体。名称:青毒草。成分:高致死性の神経毒を多量に検出』

『警告:直接の経口摂取は極めて危険。数ミリグラムの侵入で心停止を誘発』


『対象:湿地帯の菌類。名称:腐敗茸。心理:完全なる胞子放出状態』

『危険:皮膚の創傷部からの胞子感染により、重度の局所壊死を引き起こす危険性あり』


「……っ」


相変わらず、こめかみを直接万力で締め付けられるような鋭い頭痛が走り、強烈な吐き気が込み上げる。視界のすべてに文字情報が埋め尽くされ、目眩を覚えるほどうるさい。

しかし、現在のクルザードは、その痛みの濁流を完璧に制動する術を身につけつつあった。

周囲の細かな土壌成分や水質の数値を雑音として即座に脳内で切り捨て、目の前にある「薬草の選別」に必要な命のデータだけを鋭く拾い上げる。

ただそれだけの意識の振り分けを実行することで、頭痛の質量を最小限に抑え込み、明晰な判断力を完全に維持してみせた。


クルザードは迷うことなく、泥の中から不気味に青く輝く一枚の葉を、滑らかな手つきで躊躇なく摘み上げた。


「待ちなさい、クル! 何を考えているの、それは最高に危険な《青毒草》の変異個体よ!」


真横で見ていたジェシカが、顔色を変えて即座に彼のその素手を掴んで制止した。


「いいや、違うよ、ジェシカ。俺の鑑定の計算に、無駄な間違いはないさ」


「何が違うというんだ! それは触れるだけで神経を侵す猛毒の塊だぞ!」


「この植物の本質は、部位による効能の完全な分離さ」

クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、ハキハキとした明晰な声で言葉を繋いだ。

「根の組織には、確かに致死性の神経毒が集中している。だが、この今俺が摘み上げた葉の組織には、毒素は一パーセントも含まれていないのさ。むしろ、全く別の素晴らしい効能が隠されているんだよ」


ジェシカは驚愕のあまり、言葉を失って完全にその場で固まった。

「……根は毒、葉は薬だと言うのかい? 長命種の古い歴史の記録にも、そんな分類はどこにも残されていないわよ」


「ああ、現時点では誰も知らない未知の流れだからね。この葉を完全に乾燥させた後、一度高温で煮沸の工程を踏むんだ」

「そうすれば、内部に含まれる特殊な成分が変化し、通常の薬草の数倍の速度で熱を下げる、極上の『解熱薬』へと変化するのさ」

「ただし、一回における使用の絶対量を一ミリグラムでも誤れば、再び過剰摂取による神経毒のシステムが駆動して心停止を引き起こす。すべては量と正しい処理の手順の手際で変わる、ただの資源さ」


張り詰めた沈黙が、湿地帯の全体を満たした。

ジェシカは恐る恐る彼の摘み上げた青い葉を受け取り、自らの魔力感知の力でその内部の成分の「流れ」を、限界まで集中して確かめた。

そして、その構造が彼の指摘した通り、根の毒素を完全に遮断している事実を捉えた瞬間、彼女の瞳の質が、驚愕と畏敬の念を孕んだものへと劇的に変化した。


「……信じられない。本当だ……本当に葉の内部には、毒の成分が一切含まれていないわ……」


「はは、俺の判断を信じてくれたようだね。これで採取の効率はさらに跳ね上がるさ」


「お前……多分、なんて軽い言葉で触っていい代物じゃないわよ、これは! 失敗したらその場で死んでいたのよ!」


「俺の鑑定の計算に、多分という不確実な歪みは一パーセントも存在しないからね。確実な正解しか拾わないさ」


周囲の中堅冒険者たちが、その二人の常識を超えた高度な会話を聞きながら、一斉に大声を上げて吹き出した。彼の一片の揺らぎもないその合理的な態度が、死の毒草への恐怖を、綺麗に笑い飛ばしてくれたのだ。

しかし、ジェシカだけは笑っていなかった。彼女の胸の内には、計り知れないほどの凄まじい衝撃が吹き荒れていた。


この、目の前にいるただの元荷物持ちの青年。

彼のもたらす分類の手際は、長年エルフの国で高位の薬師を務めてきた自らの膨大な知識の土台を、一瞬にして完全に塗り替えてしまうほどの、とてつもない可能性を秘めていた。しかも本人は、それを誇る風もなく、ただ当然の作業として平然とこなしているのだ。


「お前、その脳内に宿る鑑定の力……一体どれほどの世界の真実を、その目で見つめているんだい?」


「今のところは、処理しきれないデータのせいで、随分と頭痛を引き起こす欠陥品さ。大したものではないよ」


「そういう次元の問題じゃないと言っているのよ、私は」


ジェシカは呆れたように深い溜息を漏らしたが、その目には、この男の行く末をどこまでも真横で見届けたいという、強固な決意の光が宿っていた。


クルザードは次の作業へと手を動かし、泥の中から地味で不格好な、ただのありふれた雑草にしか見えない植物へと素手を触れさせた。


『対象:野生植物。成分:高濃度の有機酸および胃粘膜保護成分を検出』

『効果:解毒草としての基本効能に加え、過酷な労働による肉体疲労の急速な回復を確認』

『結論:最優先で採取。今夜の鍋の最高級の薬味として利用可能』


「よし、この区画の草も、一株も残さずすべてを優先して採取しよう」


「待ち切れないわ、クル。今度は一体何を見つけたの?」


ジェシカがすかさず覗き込む。


「今度は、この地表を埋め尽くしている、この素晴らしい薬草さ」


ジェシカは、その指し示された植物の姿を見るなり、一瞬にしてその端正な顔を引きつらせた。

「……おい、小僧。それは、そこら中の道端にいくらでも生えている、ただの何の効能もない価値ゼロの雑草だよ」


「いいや、違うよ、ジェシカ。それはただ、これまでの人間が正しい使い方の手順を知らなかっただけの、隠れた至高の資源さ」


クルザードは陽気に笑いながら、その葉の一枚を滑らかにちぎると、自らの手のひらで細かく擦り潰した。

空間に広がる、どこか清涼でありながら、極めて濃厚な独特の苦味を孕んだ大地の香り。


「この雑草はね、ただ生で食べたところですべての成分が胃液で分解されて大損を出すだけさ。だが、これを一度乾燥させ、魚骨の濃厚な出汁と共にじっくりと煮込む工程を踏むんだ」

「そうすれば、内部に含まれる特殊な有機酸が熱によって活性化し、人間の胃膜を完璧に保護しながら、戦いで使い果たした疲労を通常の数倍の速度で修復する、最高の『回復薬』へと化けるのさ」


ジェシカは、その完璧な論理の構築を前にして、完全に言葉を失って絶句した。

彼女の持つ、長命種としてのプライドと薬師知識の常識が、この一介の荷物持ちの「判断」によって、目の前で音を立てて木端微塵に塗り替えられていく。しかも、当の本人はその偉業を自覚すらしておらず、ただ今夜の飯の効率のことだけを考えて平然としているのだ。


「……本当に、底の知れない恐ろしい男だね、お前は」


「何がだい? 俺はただ、そこにある資源の正しい使い道の流れを、目で見ているだけだよ」


クルザードは自身の持つ鑑定の本質を、未だ正確には理解していなかった。彼にとっては、世界が最初からそのように「見えている」からこそ、無駄を無くすための最善の手順を、淡々と下しているに過ぎない。


その後も、湿地帯の奥地における彼らの採取遠征は、一分の手戻りもなく最高効率の速度で続けられていた。

完璧な数値で選別される、大量の解毒草。

細胞の再生を促す、極上の止血草。

魔力を急速に回復させる、希少な回復茸。

さらには、通常の薬師であれば恐怖を抱いて絶対に近づきもしないような、各種の凶悪な毒草の変異個体にいたるまで、クルザードはそれらの有用な部位だけを恐るべき手際で正確に切り分け、アイテムボックスの空間へと次々に収納していった。


「なぁ、クル。なんでそんな危険な毒草まで、一欠片も残さずすべてを嬉しそうに袋に詰めるんだい?」


ステファンが、泥を踏み締めながら不思議そうに尋ねた。


「すべての物質は、量と組み合わせの手順によって、その役割が『毒』にも『薬』にも完璧に変化するからね」

クルザードは背中の荷袋を背負い直しながら、明るく快活な声で答えた。

「毒の成分がこれだけ濃いということは、見方を変えれば、それを極限まで希釈して正しく振り分けることで、常人の病を瞬時に消し去る、世界に一つだけの最強の特効薬に化けるということさ。資源に善悪など存在しない。無駄にするか、使いこなすか、ただそれだけの違いだよ」


ジェシカは彼のその至言を聞くと、深く感銘を受けたように、静かにその美しい首を縦に振った。

「……全く、その通りだね、お前。毒と薬は、いつだって紙一重の同じ流れの表裏に過ぎない。その本質をこれほど完璧に理解している人間が、この泥臭い港町にいるなんてね」


クルザードは彼女の称賛を気さくな笑いで受け流すと、ふとその視線を、湿地帯の中央を流れる澱んだ巨大な水路へと向けた。

彼の瞳の奥で、再び鑑定のシステムが、局所の全体の環境データを冷徹に解析し始める。


『環境:水路全体の水質悪化度:七十四%。高濃度の有機物の沈殿を確認』

『状態:高低差の計算ミスによる、生活排水の逆流と停滞が直撃』

『成分:無数の病原菌の爆発的な増殖を計測。夏期の疫病発生率:高』

『結論:このまま放置した場合、数ヶ月以内に街の全域で大規模な虫の発生と感染症の暴走が予測される』


(……あまりにも汚く、全体の流れが淀んでいるな)


クルザードは水面を見つめたまま、その口元を僅かに引き締めた。

この最果てのアルフェイドにおいて、日々多くの無辜の民や才能ある冒険者たちが病に倒れていく、本当の理由。

それは、魔物の呪いなどではなく、このずさん極まりない排水構造の欠陥、物資の腐敗、そして衛生環境への絶対的な知識の欠如。そのすべての不効率な「淀み」が原因であるのを、彼は数値として明確に看破していた。


(なら――その壊れた構造の流れを、俺たちの手で美しく整え、改善していけばいいだけだ)


その大局的な社会の変革への考えが、最近の彼の頭脳からは、何の不自然さもなく当然の「判断」として湧き出るようになっていた。

力任せに迷宮の魔物と戦って強さを誇示するよりも。

この世界のすべての仕組みを最も正しい形へと整え、物と人の「流れ」を最高効率に循環させる。

その方が、失われるはずだった無数の命を確実に救い出し、誰も死なない世界を最も早く構築できると、彼の合理主義が結論を下していたからだ。


まさに、その思考を研ぎ澄ませていた、その瞬間だった。

彼らの正面にある、背丈を超える巨大な草むらが、バリバリと不穏な音を立てて激しく揺れ動いた。


「全員、陣形を維持しろ! 前衛は即座に武器を構えるんだ!」


ベッティーナが盾を力強く構え、最前線へと踏み込んだ。

草むらを内側から引き裂きながら、彼らの目の前に飛び出してきたのは、この湿地帯の真の支配者たる、超大型の魔物《沼狼ぬまおおかみ》であった。

体長は優に二メートルを超え、その全身は泥と強固な岩石の破片で鎧のように覆われている。口元から覗く二本の牙は、大木の幹を一撃で噛み砕くほどの圧倒的な破壊力を秘め、飢えた目で一斉にこちらへ向けて突進してきた。


「ギャアアアアアアッ!」


空気を引き裂くような凄まじい咆哮と共に、沼狼が泥を蹴って跳躍した。その速度は、通常の野生の獣を遥かに凌駕している。


「ここは俺が食い止める! 舐めるんじゃねぇぞ、この野良犬が!」


拳闘士のステファンが、全魔力を両拳に集中させ、沼狼の突進に向けて正面から果敢に迎え撃った。

ドゴォン、と重苦しい打撃音が湿地帯に響き渡り、激しい衝撃波が周囲の泥水を四方へと派手に跳ね上げた。しかし、沼狼の全身を覆う強固な泥の鎧は、ステファンの渾身の拳の威力を柔軟に逃し、ビクリとも怯む様子を見せなかった。


「嘘だろ!? なんて硬さと重量だよ、これ!」


沼狼が、着地の勢いのまま、丸太のような太い爪をガルドに向けて強烈に振り下ろした。

風を切る鋭い音が響き、飛び散った鋭利な泥の刃が、周囲の岩盤を木端微塵に粉砕していく。薬師のジェシカが、戦闘の余波を避けるために迅速に後方へと退避する。


強い。この最悪な足場の悪さと、環境の優位性を完全に掌握した沼狼の猛攻に対し、正面からの物理的な打撃だけでは、戦闘が長引いて全員のスタミナが致命的に削られるのが目に見えていた。


だが、その戦況の混沌の真ん中に立ちながら、クルザードだけは、瞳の奥で鑑定のデータを冷徹に解析し続けていた。


『対象:沼狼(主個体)。心理:完全なる飢餓状態に伴う攻撃性の暴走』

『特性:嗅覚機能が通常値の四百%に特化。空気の微微な変化を鼻で捕捉』

『環境:足元の湿地帯の水分を利用した、泥の鎧による物理防御力が最高値』

『弱点:嗅覚への過度な依存に伴い、気道および肺の粘膜組織が極めてデリケート』

『結論:外部の泥の鎧を破る必要は一切ない。呼吸機能を完全に遮断し、窒息による無条件の機能停止を狙うのが最高効率』


(……なるほど、また呼吸の遮断か。生き物である以上、その根本的な生命維持のシステムを止めてしまえば、どれだけ強固な鎧を纏っていようとも、肉体はただの動かない資源に過ぎない)


クルザードの脳内で、この戦いを一瞬で終わらせるための、最も手戻りのない「判断」が下された。

彼は、周囲の制止を待たずに、無言のまま一歩前へと踏み出すと、沼狼に向けて両手を力強く突き出した。


体内に眠る、底の知れない莫大な魔力の源泉が一気に解放され、彼らの足元を埋め尽くしていたすべての「水」が、彼の意志に従って一斉に猛烈な鳴動を始めた。

湿地帯を満たす高濃度の泥水。

空気中を満たしていた大量の海霧。

それらすべての水分が、常軌を逸した速度で地表から分離し、突進中だった沼狼の頭部に向けて一点へと集束していった。


「おい、クル!? またその、あの四層のオーガを仕留めた規格外の魔法を使うつもりかい!」


ベッティーナが、彼の周囲から溢れ出る異常な魔力質量に戦慄して叫んだ。

集まった膨大な水は、クルザードの精密な魔力制御によって、極限まで圧縮され、変形を遂げていった。

次の瞬間、沼狼の巨大な顔面全体を、完全に包み込むようにして張り付いた。


それは、ただの水球ではなかった。

沼狼の特化した鼻の穴、開かれた巨大な顎、そして気道の入り口にいたるまで、寸分の隙間もなく完璧に密着し、外部からの空気の流入を完全に遮断する、透明な、しかし強固な「水膜の仮面」であった。


新魔法、《ウォーターマスク》。


「――ッ!? グ、ガッ……!? グルルルルッ……!」


沼狼は突如としてすべての酸素を完全に奪われ、驚愕に目を見開いて泥の中でのたうち回り、激しく暴れ狂った。

自慢の太い爪を自分の顔面に突き立て、その張り付いた強固な水膜を必死に引き剥がそうとする。しかし、クルザードの莫大な魔力によって維持された流体魔法は、どれだけ引き裂かれようとも瞬時に元の形へと戻り、沼狼のデリケートな気道を完璧に塞ぎ続けた。


剥がれない。息ができない。

肺の機能が完全に停止し、全細胞が急激な酸素不足に陥って悲鳴を上げる。

どれだけ強固な泥の鎧を持っていようとも、どれだけ圧倒的な突進力を誇っていようとも、生物としての駆動システム(呼吸)を止められてしまえば、肉体はただの動かない肉塊に過ぎない。


「……はぁ、本当にいつ見ても、便利というか、合理的すぎて本気で背筋が凍りつく魔法だな、それは」


ステファンが、そのあまりにも冷徹で一分の無駄もない制圧の光景を前にして、呆然としながら苦笑を漏らした。


「敵の生き物としての構造の弱点だけを冷徹に突き刺す、最も手戻りのない合理的処理の手順さ。これ以上の解決法はないだろ?」

クルザードは当然の事実を告げるように、口元に明るく気さくな笑みを浮かべ、ハキハキとした声で答えた。


「その、人を殺しかけておいて『合理的処理』って平然と言ってのけるトーンが、本当に怖ぇんだよ、お前は!」


ステファンの突っ込みに、ドミニクがお腹を抱えて大声で笑い転げ、その快活な笑声によって、広場を支配していた張り詰めた空気は一瞬にしていつもの暖かな活気へと戻っていった。


激しい悶絶の数十秒の後。

沼狼の巨体は、完全に生命活動の機能を停止し、泥の中にどさりと力なく崩れ落ちた。

クルザードは手をかざし、その横たわる沼狼の死骸を、即座にアイテムボックスの空間へと滑らかに収納していった。


「おいおい、クル。お前、本当にその泥まみれのオオカミの肉まで、持って帰って全員で食う気じゃないだろうな?」


マティルデが、少し引きつった顔で尋ねる。


「ああ、当然さ。適切な部位の切り分けと、今日採取した最高の香草による臭みの完全な中和を施せば、何の問題もなく極上のタンパク源に化けるからね。食えるものをここに放置する方が、よほど大損だからね」


クルザードの一片の揺らぎもないそのブレない姿勢に、全員が一斉に笑声を上げ、彼らは大満足の収穫を抱えて、軽やかな足取りで崖の上の拠点へと帰還していった。


夕方。

崖の上の古い廃屋の前には、再び無数の人々が集まり、いつものように温かい湯気が盛大に立ち上っていた。


今夜の迷宮の飯は、今日採取したばかりの新鮮な医療素材をこれでもかと贅沢に使った、最高峰の「薬草鍋」だった。

中央で美しく煮え滾るのは、昼間に仕留めたあの沼狼の極上肉。

そこに、魚骨から長時間かけて抽出した濃厚な白濁出汁を合わせ、野生のダンジョン茸、そしてクルザードの鑑定によって完璧に選別された、各種の新鮮な香草と解毒草の葉が惜しげもなく投入されている。


石鍋から激しく立ち上る白い湯気と、深く洗練された薬味の香りが、冬の冷たい夕暮れの廃屋を満たしていく。


「……うわぁ、何これ! 本当に美味しい! 薬草特有のあの嫌な苦味や臭みが、跡形もなく完全に消え去っているわ!」


薬師のジェシカが、木椀を両手で包み込みながら、驚愕のあまりその美しい目を見開いた。

「これほど大量の医療素材を鍋に投入しておきながら、どうしてこれほどまでに具材の旨味だけを完璧に引き出せるんだい?」


「簡単な話さ。食材を鍋に投入する、正しい『順番』の流れを徹底した結果だよ」


クルザードは木べらを滑らかに動かしながら、ハキハキとした声で当然のように答えた。


「まずは、沼狼の肉の硬い筋を完璧に外し、余分な臭みを含む脂身を完全に削ぎ落とす」

「次に、その肉の脂を使って香木の香りを全体に馴染ませ、肉の表面をコーティングする」

「そして最後の仕上げとして、熱が通り過ぎる直前の最適なタイミングで、乾燥させた解毒草と薬草の葉を投入するんだ」

「この厳密な手順を踏むことで、薬草の持つ不快な苦味成分だけを熱で完全に揮発させ、身体に必要な最高値の栄養と、瑞々しい香りだけを鍋の中に完璧に留めることができるのさ。すべてはただの、合理的な調理の手順さ」


ジェシカは、その非の打ち所がない完璧な論理の構築を聞くと、椀を持ったまま、心底感服したような深い溜息を漏らした。


(この男……ただの荷物持ちの分際でありながら、料理という一つの手段を通じて、長命種の持つすべての常識を根底から変え、世界を塗り替えようとしている)


いや。真横で彼の横顔を見つめる彼女には、はっきりと分かっていた。

当のクルザード本人は、自らが世界規模の革命を起こしていることなど、未だに一パーセントも自覚していないのだろう。

彼はただ、目の前にある無駄な損失を完全に排除し、集まった仲間たちが最も健康で、最高効率の状態で生きられるための「安心の居場所」を、自らの手で淡々と作り上げているだけなのだ。


武力による強硬な支配ではなく。

恐怖による理不尽な脅迫でもない。

極上の美味い飯。

確実な救い。

そして、どこよりも圧倒的な「生きやすさ」の提供。

ただそれだけの、この世界で最も揺るぎない絶対的な合理の軸を中心に据えることで、この荒れ果てたアルフェイドのすべての物と人の流れは、確実にここへと集束し始めていた。


立ち上る白い湯気。

心地よい食材の香り。

そして、廃屋の冷たい壁を包み込むような、人々の心からの温かい笑い声。


ただの外れにある、崩れかけた古い廃屋。

しかし、その場所は今、過酷な世界で傷ついたすべての者たちが、自らの意思で吸い込まれるようにして必ず戻ってくる、かけがえのない最強の“約束の居場所”へと、その姿を確実に、そして完璧に変えようとしていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ