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飯が美味すぎて、気づけば世界を支配していた。 ~無限魔力の料理人、物流と教育で最強国家を作る~  作者: 慈架太子


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5:燻製

雨上がりの港町アルフェイドは、腐っていた。


石畳を濡らした冷たい雨が止み、雲の切れ間から生温かい陽光が差し込むと、街の空気は最悪の湿気と臭気に包まれた。魚市場の端には、流通の遅れによって売れ残った大量の魚が山積みにされ、すでにどす黒く変色し始めている。その荷車の上では、丸々と太った醜悪な海鳥たちが我が物顔で肉を啄み、剥き出しの排水路には魚の血が混ざった赤黒い汚水が、澱んだ音を立てて流れていた。


人は多い。物も多い。それなのに、この街はいつまでも底辺のように貧しい。

理由は極めて簡単だった。手に入れた膨大な資源を、適切な技術がないために片端から腐らせているからだ。


クルザードは市場の薄汚れた隅に腰を落とし、生ゴミとして捨てられた魚の山をじっと見つめていた。

彼の瞳の奥で、再び「鑑定」の文字が整然と回り始める。


『対象:廃棄された海洋魚類。現在の腐敗進行度:二十四%』

『状態:塩分処理の致命的な不足。脱水工程が行われていない』

『原因:水揚げ後の内蔵処理遅延による、内部からの自己融解』

『結論:適切な加熱および乾燥を施せば、現時点でも十分に再利用可能』


「……っ」


相変わらず、脳の芯を直接針で刺されるような鋭い頭痛が走る。しかし、クルザードは小さく息を整え、眉間を指先で押さえるだけでその揺れを収めた。最近になって、彼はこの異常な情報の洪水に対して、少しずつではあるが確実に対処法を覚え始めていた。

視界に入るすべてのデータを無差別に受け止めるのではなく、己の目的である「保存と調理」に必要な部分だけを脳が勝手に拾い上げ、不要な雑音を切り捨てる。ただそれだけの意識の振り分けで、こめかみを襲う激痛の質量は劇的に減少していた。


「クル、またそんなゴミの山を熱心に拾い上げようとしているのか?」


後ろから、少し呆れたような、しかしどこか弾んだ声がした。

振り返ると、そこには金髪のドミニクが立っていた。相変わらず薄汚れた外套を羽織ってはいるが、クルザードの傍に居着くようになってからの彼女は、見違えるほど清潔になり、その豊かな身体つきにも健康的な張りが戻っている。


「はは、拾い上げているんじゃないさ。世界の不効率を観察しているだけだよ。これほど栄養に満ちた資源を、ただの知識不足でドブに捨てる方が、よほど無駄で大損だからね」


クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべ、気さくなトーンで答えた。


「相変わらず、独自の基準で動いている男だな、お前は」


彼女はあきらめたように肩をすくめながらも、嬉しそうに笑った。

ここ最近、ドミニクは完全にクルザードの相棒として、その横に定位置を確保していた。彼が指示を出すよりも早く調理に必要な道具を揃え、崖の上から乾いた薪を大量に集めてはおこし、使い終わった煤まみれの石鍋をピカピカに洗い上げる。誰に命令されたわけでもないのに、彼女は不思議なほど自然に、この場所にしっかりと居着いていた。


クルザードは魚の山から、まだ身の引き締まった大ぶりの一匹を滑らかに持ち上げた。


「ほら、見てごらん。この個体なら、まだ十分に食材としての役割を果たせる」


「……それ、本当に言っているのか? 市場の商人が腐りかけだって見捨てた代物だぞ」


「ああ、本気さ。火を通し、適切な煙の処理を施せば、何の問題もなく極上の栄養源に化ける。食材の価値を決めるのは商人の勘ではなく、正しい合理的な処理の手順だからね」


「いや、そういう次元の問題なのか……?」


ドミニクは信じられないといった風に額を押さえたが、クルザードはただ陽気に笑うだけで、そのまま周囲の街並みへと視線を広げた。


活気のない市場。底の知れない大海。澱んだ物流の歯車。

彼の目には、それらすべてが一本の途切れた「流れ」として明確に繋がって見えていた。この街の最大の問題は、手に入れた富を長期間維持するための保存技術が致命的に低いことだ。だからこそ、大量の物資を無意味に捨て、結果として多くの人間が飢えに苦しむという最悪の不効率が平然とまかり通っている。


(あまりにも全体の効率が悪すぎる。なら、俺がその流れの繋ぎ目を作ればいいだけだ)


彼がそう思考を巡らせた、まさにその時だった。


「おい、クル! 大変だ、今すぐギルド前に来てくれ!」


裏通りの泥を大胆に蹴り上げながら、拳闘士のステファンが猛烈な勢いで走ってきた。


「ベッティーナ達が戻ったのか? 誰か大きな怪我でも負ったかい?」


クルザードは立ち上がり、ハキハキとした声で尋ねた。


「いや、怪我人じゃねぇ! とんでもない大物が獲れたんだよ!」


ステファンの案内に従い、ギルドの前へと向かうと、そこにはすでに耳が痛くなるほどの凄まじい人だかりと騒がしさが出来上がっていた。

広場の中央には、見たこともないほど巨大な猪型の魔物が、ドスンと無造作に転がされていた。


海岸近くの湿地帯に突如として姿を現したという、《塩牙猪えんがちょ》。

体長は優に三メートルを超え、その全身は鎧のように強固で、ぶ厚い極上の脂肪層に覆われている。口元から突き出た二本の巨大な牙は、鈍い銀色の光を放っていた。


「はぁ……運ぶだけで死ぬほど疲れたわよ……」


赤髪の剣士マティルデが、愛剣を地面に突き立てながら、だるそうに自分の肩を何度も回した。


「いくらなんでも、肉の量が多すぎるだろ、これ。どう考えても街の連中だけじゃ消費しきれないぞ」


「これだけの巨体だ、市場に売ればかなりのまとまった金にはなる。だが……」


リーダーのベッティーナが、額の汗を拭いながら重い息を吐き出した。彼女の視線の先では、すでに市場の悪徳商人たちが、肉が腐り始める時間を見越して、信じられないほどの安値で買い叩こうとじりじりと包囲網を狭めていた。


クルザードは一歩前へと出ると、その巨大な魔物の巨体に手をかざした。

脳内に、鮮烈な鑑定のデータが整然と流れ込んでくる。


『対象:塩牙猪(新鮮)。脂肪含有率:極めて過剰。肉質の密度:高』

『特性:体内に高濃度の塩分を含有。水分量が少なく、燻製処理への適性が最高値』

『効果:適切な塩漬けおよび乾燥を施すことで、常温での長期保存が完全に可能』

『結論:燻製による加工を最優先。長期遠征および大規模な輸送に最も適した素材』


クルザードは笑みを収め、全員の顔を見渡しながら静かに、しかし有無を言わせぬ重みのある声で告げた。


「この猪の肉、俺がすべて引き受ける。一欠片も無駄にせず、全部を使うよ」


「はぁ!? お前、何を言っているんだ?」


マティルデが驚愕のあまり声を上げた。


「この量が腐る前に処理を完了させる。それが最も効率的な判断だからね」


「いや、いくら何でもこの膨大な質量だぞ? 個人でどうにかできる限界を超えてるわ!」


「俺ならできるさ。黙って俺の指示に従ってくれれば、この猪の本当の価値を全員に見せてみせるよ」


クルザードのその陽気で、しかし一片の揺らぎもない確信に満ちた瞳に圧され、ベッティーナ達は互いに顔を見合わせると、深く頷いた。彼らにはもう、この風変わりな荷物持ちの「判断」を拒否する選択肢など存在しなかった。


数時間後。

港町の外れ、崖の上に佇む廃屋の裏手には、信じられない光景が出現していた。

何十本もの巨大な肉の塊が、縄で美しく吊るされ、整然と並んでいる。


「……おいおい、マジかよ。これを本当にお前一人の魔法で作ったのか?」


ステファンが、顎が外れそうなほどの感心した声を漏らした。

目の前にあるのは、強固な木枠と石材によって組み立てられた、巨大な簡易燻製小屋だった。

クルザードの持つ土属性と石属性の魔力を緻密に解放し、地面の岩盤を瞬時に隆起させ、肉を大量に並べるための石窯、煙を満遍なく循環させるための精密な煙道、そして適切な空気の流れを作るための通気穴にいたるまで、すべてを完璧な設計で即座に生成してみせたのだ。

見た目は最低限で無骨だが、その機能性は街の一流の職人が作るものよりも遥かに合理的だった。


「ただの箱と、煙を操るための通り道を作っただけさ。大した技術じゃないよ」


「いや、普通は大した技術なんだよ、それは!」


ステファンの突っ込みを気さくな笑いでいなしながら、クルザードは次の作業へと手を動かした。

彼は、アイテムボックスから取り出した大量の岩塩を、切り分けた肉の表面へと猛烈な速度で擦り込んでいく。その塩は、彼の持つ光属性の魔力で精密に精製され、不純物や苦味が完全に削ぎ落とされた、純白の極上塩だった。

肉の内部まで、均等に塩分が浸透していく。


「ドミニク、次の水を」


「はいよ、ここに!」


名前を呼ばれた瞬間、ドミニクは一切の淀みのない素晴らしい反応速度で、大容量の水桶を彼の足元へと運んだ。最近の彼女の動きは、驚くほど洗練されている。クルザードの無駄のない作業効率を間近で見続けるうちに、彼女自身の肉体もまた、最も無駄のない合理的な動きを本能的に覚え始めていたのだ。


肉を正確に切り分ける。

硬い筋を一本ずつ外す。

過剰な脂肪層を適切に分ける。

徹底的な血抜きの工程。

そして、完璧な塩漬け。


その一連の流れるような作業を、ベッティーナやカタリナたち全員が、息を呑んで黙って見つめていた。


「……信じられない。何の手戻りもない、全く無駄のない完璧な手順ね」


斥候のカタリナが、プロの目線から感嘆の溜息を漏らした。


「必要な順番を、最も効率的な速度でこなしているだけさ」


クルザードは手を止めることなく、淡々と、しかしよく通る声で答えた。


「物資の保存において、最も重要なのは処理の速度だからね」


「処理が遅れれば、資源はただのゴミに腐る」

「資源が腐れば、街の衛生環境が悪化して病人が増える」

「病人が増えれば、貴重な労働力が止まり、結果として街全体の経済が完全に麻痺する」


ベッティーナが、彼のそのあまりにも壮大な思考の繋がりに、驚愕して眉を大きく跳ね上げた。


「お前……ただの肉の処理から、そこまでの社会の流れを考えて動いているのか?」


「俺にとってはこれが普通さ。すべての事象は、一つの大きな物流の流れで繋がっているからね」


「普通じゃねぇよ。お前みたいな思考の荷物持ちは、世界中どこを探しても絶対にいないわ」


クルザードは彼女たちの驚嘆を快活な笑声で受け流すと、石窯の底へと視線を向けた。

そこで燃やされているのは、市場の片隅でただの廃材として安値で捨てられていた、桜に酷く似た独特の芳香を持つ香木だった。

常人であれば暖炉の薪にすらしない代物だが、鑑定の力によって「煙の香りが最も強く、肉の防腐効果が最高値である」と弾き出された、隠れた超優良素材だ。


窯から立ち上る、濃厚で白い煙が、石の煙道を通ってゆっくりと吊るされた肉の塊を包み込んでいく。

白煙。滴る極上の脂。そして、五感を激しく揺さぶるような、芳醇で香ばしい香木特有の煙香。

熱と煙によって、塩牙猪の肉組織が、じわじわと美しい飴色へとその姿を変えていった。


「……おいおい、これは本気で腹が減る匂いだな」


ステファンが、自身の腹を押さえながら大きな声を上げて笑った。その場にいた全員の腹虫が、その暴力的なまでに美味そうな匂いに刺激され、盛大に鳴り響いた。


夜。

崖の上の廃屋の裏手には、信じられないことに、薄暗い暗闇を押し返すような妙な人だかりが出来上がっていた。


「おい、何だこの凄まじく良い匂いは……!」


「肉を焼いている匂いか? いや、それだけじゃないぞ」


「魚の出汁の匂いも混ざっている。一体ここで何が始まっているんだ?」


煙の香りが海風に乗って港町の中心部へと広く流れ出した結果、匂いに釣られた大量の冒険者や労働者たちが、導かれるようにして崖の上へと足を運んできていたのだ。


クルザードはその喧騒の真ん中で、いつものように巨大な鍋を豪快に混ぜ合わせていた。

今夜の鍋は、これまでにないほど濃厚で贅沢な仕上がりだった。

塩牙猪の頑強な骨から丸一日かけて煮出したドロドロの濃厚スープ、海魚の骨から取った海の旨味、たっぷりの海藻、大ぶりのダンジョン茸。

そしてその中心に投入されているのは、試作として完璧に仕上げられた、出来立てのあの燻製肉だった。


湯気が激しく立ち上り、スープの表面には黄金色の極上の脂が美しく浮いている。香木の放つスモーキーな香りが、スープ全体の格を天上のものへと引き上げていた。


「……こんなの、絶対に反則よ。食べないなんて選択肢、最初から存在しないわ」


ドロテアが、杖を握りしめたまま、眠そうな目を限界まで輝かせて呆然と呟いた。

クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべると、木椀にたっぷりと注ぎ、全員へと手渡していった。


リーダーのベッティーナが、スープと共に燻製肉を口へと運んだ。

そして、その場で落雷に打たれたように完全に動きを止めた。


「……信じられない。美味すぎる。肉の旨味が、煙の香りで何倍にも膨れ上がっている……」


彼女の静かな一言に続くように、拳闘士のステファンが狂ったようにスープを掻き込んだ。


「なんだこれ! 旨味の塊じゃねぇか!」

「肉の味がとんでもなく濃い! 噛めば噛むほどジュワジュワと脂が溢れてくるぞ!」

「この煙の香ばしい匂い、マジで頭がおかしくなりそうだ!」


マティルデも、涙目を浮かべながら夢中で肉を咀嚼している。

「あぁ……お酒が欲しい。これ、強いお酒があったら、一晩中だって飲んでいられるわよ……!」


ドミニクもまた、自ら手伝って完成したその奇跡のような味に、心底嬉しそうに頬を緩めていた。


「クル、これほどの味なのに、本当に長期間の保存ができるんだよな?」


「ああ、間違いないよ。余分な水分を完璧に抜き、煙の成分で表面をコーティングしているからね。常温であっても、数ヶ月は確実に品質を維持できるさ」


「どれくらいの期間、遠くまで運べるんだ?」


カタリナが、プロの斥候としての鋭い視線をクルザードに向けた。


「ちゃんと工程を管理して作れば、隣国までの長期遠征の行軍食としても十分に耐えうるよ」


「……遠征で使える!? それは、冒険者の戦術そのものを根底から覆す、とんでもない発明だぞ」


「当然さ。保存ができるということは、人間が未知の領域へ移動できる距離が飛躍的に伸びるということだからね」


クルザードは自身の椀を傾けながら、当然の事実を告げるように、ハキハキとした明晰な声で続けた。


「移動距離が伸びれば、それだけ未知の資源が街へと流れ込む」

「物流が外へと伸びれば、富を求めてさらに多くの新しい人間が集まってくる」

「人が集まれば、そこにあらゆる産業の新しい歯車が回り始めるのさ」


その場にいた全員が、完全に言葉を失って沈黙した。

クルザードの瞳には、一切の迷いも、誇大妄想の気配もなかった。彼は本気で、この一つの鍋、一枚の燻製肉の先にある、世界の構造の変革を完璧に見据えていた。彼が料理を語り、状況を差配するとき、その言葉にはいかなる最高位の王侯貴族すらも凌駕するような、絶対的な説得力と「流れ」を決定づける重みが宿るのだ。


「……お前、本当はどこまでの未来を見て、そんな飯を作っているんだ?」


ベッティーナが、畏敬の念すら孕んだ複雑な苦笑を浮かべながら尋ねた。


「この街の、すべての澱みを消し去る未来さ」


「もっと先、世界そのものの構造の先までだろ?」


「はは、求められれば、その先へ進む流れを作ることも吝かではないよ」


クルザードは気さくに笑うと、出来上がった燻製肉をまな板の上で美しく切り分けた。

見事な赤みの断面、適度な水分を残した極上の脂、そして溢れ出る肉汁と、立ち上る最高の煙香。

廃屋の周囲を取り囲んでいた、匂いに釣られた一般の冒険者たちが、その光景を前にしてついに限界を迎えた。


「頼む、その肉を俺たちにも売ってくれ!」

「いくらでも金を払う! その美味そうな飯を、俺たちの胃袋にも分けてくれ!」

「頼む、荷物持ち! 俺たちにも食わせてくれ!」


狂乱に近い懇願の声が崖の上に響き渡る。クルザードは切り分けた肉を見つめ、一瞬だけ、脳内で最も効率的な群衆の制御方法を計算した。

そして、彼は陽気な声を張り上げた。


「全員、よく聞け! 慌てず騒がず、そこに一列になって真っ直ぐ並べ!」


「は?」


「順番を守るんだ。それが、最も早く全員が美味い飯にありつける、最高の効率の判断だからね」


広場が一瞬だけ静まり返り、次の瞬間、奇跡のような光景が出現した。

普段であれば力ずくで物資を奪い合うはずの、あの血気盛んで荒くれ者だらけの冒険者たちが、クルザードの放った絶対的な「判断」の迫力に押され、信じられないほど綺麗に、整然とした一本の長い列を作り上げたのだ。


その様子を見て、ドミニクが堪えきれずに大声で吹き出した。


「はははっ! 何よこれ、あのアホな冒険者たちが、子供みたいに並んでるわ!」


「素晴らしいね。無駄な衝突を排除して順番を作る。これが最高の効率さ」


「お前、本当にどこまでも『効率』と『無駄の排除』が好きな男だな!」


「無駄が減れば、誰もが等しく幸せになれるからね。さあ、作業を始めようか」


クルザードは口元に気さくな笑みを浮かべたまま、恐るべき速度と正確さで肉を均等に切り分け、集まった者たちへと次々に手渡していった。

その彼の動きに呼応するようにして、居合わせたベッティーナ達の身体もまた、自然と一つの巨大な組織の歯車として回り始めていた。


命令を下す者は誰もいない。それでも、クルザードが中心に立ち、最適な流れの軸を示すだけで、全員が自らの才能を最も発揮できる役割へと勝手に「振り分け」られて動いていた。


カタリナが周囲の暗闇に目を光らせて不審者の接近を警戒し、集団の安全を完璧に担保する。

頑強なステファンが重い木箱を次々と運び込み、即席のカウンターテーブルを作り上げる。

ドロテアが魔力を細かく調整しながら石窯の火力を最適に維持し、煙の質を一定に保つ。

デニーゼが配る椀の衛生状態を厳しく管理し、集団感染の危険性を完全に排除する。


完璧な、澱みのない役割の循環。

誰もが自らの意思で動き、しかし全体が一つの生き物のように、最高効率で美しく回っていた。


クルザードは肉を切り分けながら、その目の前に出来上がった確固たる「流れ」を、瞳の奥で静かに見つめていた。


(人は、必ず流れる。より合理的で、居心地が良い場所へ)

(飢えが確実に満たされ、理不尽な死から最も遠い場所へと、人間は本能的に集まる)

(なら――作ればいい。そのための絶対的な拠点を、この俺の手で)


夜空に向けて、香木の放つ芳醇な白い煙が、静かに、しかし力強く昇り続けていく。

その煙の香りは、夜の帳が下りた港町アルフェイドの隅々へと、深く、広く染み渡るように拡散していった。

魚の腐臭と死の停滞感に塗れていたこの残酷な都市国家に、生まれて初めて、人間の本能を芯から震わせるような、瑞々しい“食欲の匂い”が明確な流れとなって行き渡っていた。


そして、この夜を境にして。

アルフェイドの底辺で生きるすべての冒険者たちの間で、一つの確実な「噂」が、爆発的な勢いで共有され始めることになる。


――港町の外れ、あの崖の上の廃屋に行けば、世界で一番温かく、美味い飯がある。

――そこへ行けば、どんな致命的な怪我であっても綺麗に治る。

――あそこに行けば、飢えから救われ、腹が満たされ、この地獄のような街で、唯一心から安心できる居場所が手に入る。


澱んだ世界の歯車が、一人の荷物持ちの「判断」によって、今、凄まじい音を立てて逆回転を始めようとしていた。






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