28:魔の森深部
危険域。
雪が薄く積もる森の内部は、静かだった。
あまりにも静まり返り、冷徹な静寂が空間全体を完全に支配し尽くしていた。
本来であれば聞こえるはずの、野生の鳥たちの羽ばたきや囀りの音はただの一パーセントも存在しない。周囲を囲む鬱蒼とした木々の隙間からも、小動物や通常の獣が発するべき生命の気配が致命的なまでに薄く削ぎ落とされていた。
ただ、冬の冷たい大暴風だけが、梢をガサガサと不気味に揺らし、泥に塗れた白い雪片を四方へと撒き散らしている。
常人の肉眼で見れば、それはどこまでも美しく、幻想的な冬景色の広がりに映るかもしれない。
だが――この場所に踏み込んだ者たちの現実は、全く異なっていた。
ここは、この最果ての地において絶対的な死の領域と称される“魔の森深部”。
いかなる熟練の冒険者であってもね、一度足を踏み外せば一瞬にしてその存在が中央から完全に消し去られる、不条理な捕食の祭壇そのものであった。
「……くんくん、大気の匂いの質が、根本から劇的に変わっているね」
前衛の索敵を担う虎獣人のティグリスが、その立派な虎耳をピタリと伏せ、黄色い瞳の奥に野生の警戒の光を宿して低く呟いた。
彼女の強靭な肉体、その全身の毛並みは、空間を満たす尋常ではないプレッシャーによって不気味に逆立ち、臨戦態勢の駆動を開始していた。獣人特有の圧倒的な五感が、死の気配を敏感に察知して悲鳴を上げているのだ。
クルザードは背中の巨大な荷袋を揺らすこともなく、口元にいつも通りの明るく快活な笑みを浮かべたまま、周囲の地形の構造を静かに見つめていた。
行く手を阻むようにして聳え立つ木々のサイズは、外の森とは比較にならないほどに巨大であり、その太い根の組織はまるで巨大な大蛇の如く、地表に向けて禍々しく隆起していた。
環境全体の魔力濃度が、常軌を逸して過剰すぎる。
雪の積もった泥の底で、地脈のエネルギーそのものが、巨大な生き物の心臓のようにドクドクと不気味に脈打っているのが看破できた。
彼が周囲の環境に意識を集中させた瞬間、瞳の奥で鑑定のシステムが強制的に駆動し、脳内へ直接真実のデータを流し込んできた。
『対象:局所的空間。状態:高濃度魔力地帯。地脈の活性率:適正値の四百%に上昇』
『生態:魔力の過剰摂取に伴う、変異植物の異常繁殖を観測。有害な胞子を多数検出』
『戦況:深層魔獣(高危険種)の最盛活動域に突入。奇襲の発生確率:極めて高』
『警告:肉体への魔素蓄積が限界値に接近。これ以上の長期滞在は、細胞エラーを招き極めて危険』
「……っ」
こめかみを直接鉄の針で突き刺されるような鋭い頭痛が走り、視界が情報過多で一瞬だけぐにゃりと揺らめいた。しかし、現在のクルザードは、その痛みを深く息を吐き出すことで即座に記号として冷徹に処理してみせた。
以前のように、ただ過剰なデータの洪水に押し潰されて機能停止していた頃の無力な自分は、もうここにはただの一パーセントも残されてはいなかった。入ってくるすべての不気味な文字列の中にね、明確な「状況の看破としての意味」を見出し、完璧にコントロールする術を身につけていたからだ。
危険の本質を論理的に“理解”できる。だからこそ、次の一手への最善の選択を、寸分の狂いもなく正確に導き出すことができる。
「遠征の目的を今一度、全体の共通の因果関係として再確認しておくよ。俺の判断の軸に沿って完璧に動いてくれ」
クルザードはハキハキとした明晰な声を響かせ、集まったメンバーたちの顔を見渡した。
「第一の手順として、この未開の深部資源の構造調査」
「第二の手順として、みんなの胃袋を満たすための最高級の高位食材の確保」
「第三の手順として、今後の拠点の防衛のために、周辺に潜む危険種の正確な数値の確認」
「そして最後の絶対のルールとして、無駄な欲に眼が眩んでキャパシティを超えるような不効率な無理は一秒もしないことだよ。これが最も手戻りのない最高効率の判断さ」
彼の放ったその一切の躊躇のない気さくなトーンの差配に従い、全員が一斉に確固たる信頼の目を向けて深く頷いた。
もう――このクルザードを中心とした臨時のパーティの戦闘能力は、アルフェイドのどの正規軍の部隊よりも遥かに強固に進化し尽くしていた。
突出した個人のスタンドプレーによる強さではない。
各自の持つ圧倒的な才能が、クルザードという絶対的な「判断の軸」によって一本の流れで繋ぎ合わされ、最高効率の歯車として同期して回る、組織としての『最強の連携の流れ』がそこには出来上がっていた。
元伯爵令嬢のマティルデが、ガルドの加工した強固な木箱の上に、手元の簡易地図を滑らかな動作で大きく広げた。
「クル、ここから先の一帯はね、ギルドの公式の記録のデータ上、一パーセントも調査の入っていない完全なる『未踏破の領域』扱いよ」
「これまでの古い常識における、過去の遠征部隊の『帰還率の数値』はどれくらいだい」
「記録に残っている限りでは、最低最悪の三割以下ね。足を踏み入れた人間の大半が、手戻りすら残せずに一瞬で骨まで噛み砕かれて死に絶えているわ」
「がははは! つまり、何も知らない素人が突っ込めば、無条件で100%確実に死滅する呪われた場所ってことだな!」
最高腕のガルドが、灰色の立派な髭を激しく揺らしながら、豪快な笑声を張り上げた。
しかし、その言葉のトーンには、一切の無駄な軽口や油断の気配はただの一片すらも含まれてはいなかった。
本当に死ぬ。一歩の踏み込みを誤ればね、次の瞬間には肉組織が一瞬で粉砕されて大損を出す、本物の死線。だからこそ、空間を満たしている緊張感の張り方は、これまでのどの迷宮の戦いよりも遥かに真摯で、洗練されていた。
ティグリスが、長槍を滑らかに構え直しながら、一分の無駄もないバネのような手際で陣形の最前線へと歩み出た。
「索敵の駆動を開始するよ。私のこの五感のすべてのスペックを、最高値に解放してね」
彼女の虎の耳が、大気の微かな振動を捉えてピキピキと敏感に動き始める。
肌を刺す風の対流。
雪を踏み締める主軸の重さ。
そして、大気中に混ざる微細な生物の匂いの比率。
そのすべての環境データを、彼女の天性の獣人としての圧倒的なスペックが、一瞬の澱みもなく正確に拾い上げて処理していた。
「……そこまでだよ、みんな。すでに、前方の死角の全体に不自然な澱みが溜まっているよ」
「正確な出現数の予測の数値を教えてくれ、ティグリス」
「多いよ。一パーティの限界容量を軽く超えているわね」
彼女の警告が完成した次の瞬間、彼らの正面にある鬱蒼とした針葉樹の影が、バリバリと凄まじい音を立てて激しく揺れ動いた。
暗闇の帳を内側から引き裂くようにして姿を現したのは、通常の狼の常識を遥かに置き去りにした巨大な影の数々――赤い目を不気味に輝かせた、凶悪な《魔狼》の大集団であった。
しかし、こいつらは昨日までの街道沿いにいた雑草個体とは、根本からすべて格が違っていた。
皮膚の下で爆発的に肥大化した、鋼鉄の如き強固な筋肉層の質量。
周囲の空間の重力を微微に操作するほどの、濃厚な魔力圧の対流。
しかも、その絶対数はただの一匹や二匹の次元ではなかった。
「出現数は総勢で『十五匹』。四方の木々の死角からね、こちらの陣形を完璧に包囲する布陣を敷いているわ」
カタリナが、木の上から滑らかな動作で地上へと降り立ちながら即答した。
「慌てるな、全員! クルの指示通りの迎撃の『陣形』を、一瞬で駆動させるんだ!」
盾士のベッティーナが前線へと力強く踏み込み、全魔力を込めた巨大な大盾を地面へと深く突き立てて防壁を固定した。
一瞬の出来事だった。
誰一人として無駄な悲鳴を上げることもなく、四人の肉体はまるで一つの生き物のパーツのように、最も正しい役割の配置へと瞬時に「振り分け」られて連動した。
前衛の防壁。
後衛からの魔力供給。
致命傷を一瞬で修復する、完璧な回復。
そして、周囲の四方の危険を察知し続ける、高度な索敵のシステム。
そのすべての機能が、最初の一手から完璧な同期の歯車として、美しく回り始めていた。
魔狼の主個体が、飢えた咆哮と共に泥を蹴って跳躍した。その移動速度は、空間を引き裂く突風そのものの圧倒的な速さだった。
激しく飛び散る純白の雪。
「風の魔力供給を開始する! 奴らの推進力を一点で完全に制動する、『風壁』の発動よ!」
後方からドロテアの放った精密な魔力が空間の大気と結合し、一瞬にして、極限まで圧縮された空気の壁が魔狼の突進ルートの正面へと具現化した。
超高速の突進を誇っていた魔狼は、突如として目の前に現れた不可視の防壁に激突し、その機動力を一瞬にして無条件で完全なゼロへと制動されて動きを止めた。
「そこだ、アラン! 敵の主軸の関節を、地面から直接貫くんだ!」
「任せとけ、小僧! 『土槍』の駆動開始だ!」
アランが手を泥に触れさせた次の瞬間、隆起した強固な石の槍が無数に地表から突き出し、動きを止められていた二匹の魔狼の下腹部を一撃のもとに完璧に貫通して完全固定した。
「来るぞ! 雑魚の間引きの手順はね、私のこの槍の最も得意な処理の工程さ!」
ティグリスが空間をしならせるような驚異的なステップで加速し、跳躍の勢いのまま、長槍の刃を美しい横一文字の軌道で滑らかに閃かせた。
風を切り裂く生々しい音が響き渡り、動きを制限されていた魔狼の強固な首の組織は、一撃のもとに正確に刈り取られて虚空へと刎ね飛ばされた。
鮮血が純白の雪を真っ赤に染め上げる。
しかし――不条理な深部の戦いは、これだけではただの一パーセントも終わることはなかった。
一匹が沈んだその次の瞬間にはね、さらに高い機動力を帯びた第二陣、第三陣の魔物の影が、猛烈な速度で死角から次々と奇襲を仕掛けてくる。
さすがは魔の森の深部。ここに潜む化け物どもの戦闘駆動能率は、外の雑魚とは根本からすべて格が違っていた。
「マルセル、右翼の動線へ向けて、風の刃の奇襲を滑らかに流し込むんだ!」
「おうよ、クルの旦那! 任せとけ!」
マルセルの放った鋭利な風の斬撃が一直線に放たれ、空間を遮っていた巨大な大木の幹ごと、突進中だった二匹の魔狼の肉体を一瞬でも正確に切断してみせた。
「らぁぁ! 舐めるんじゃねぇぞ、この深部の野良犬どもがぁ!」
ステファンもまた、体内の莫大な魔力を全細胞へと最適に循環させる身体強化を駆動させ、全魔力を込めた渾身の拳を魔狼の顔面に向けて正面から正確に叩き込んでいった。
バキバキ、と皮膚の下の強固な頭蓋骨が内側から粉砕される鈍い重低音が響き渡る。
完璧な、一分の手戻りもない戦術の噛み合い。
クルザードは陣形の後方の一番安全な位置に佇みながら、その彼らの前線における死闘の全体を、瞳の奥に宿る鑑定の数値情報で冷徹に静かに観察し続けていた。
視界を埋め尽くす、整然とした命の確定値の文字データ。
各自の正確な立ち位置の座標。
過酷な駆動によって蓄積していく、細かな筋肉疲労の数値。
そして、体内の魔力残量の消費ペースにいたるまでの全体。
それらすべての因果関係が、彼の脳内の計算によって、一本の美しい組織の循環の流れとして完璧に管理され続けていた。
「ティグリス、君の右後方、約二メートルの構造的死角からね、二匹の個体が陣形を中央から破ろうと回り込んでいるよ」
「了解だよ、クル! 最高の差配だ、一瞬で首を刈り取ってあげるよ!」
ティグリスは彼の指示を耳にした瞬間、一分の躊躇もなく、身体のバネを活かして即座に真後ろへの超高速のサークルステップを踏み、奇襲を仕掛けようとしていた魔狼の喉元を正確に引き裂いてみせた。
判断の速度が、組織の全体へと爆発的な能率で伝播していく最高の瞬間。
これだ。クルザードは、自らの手元で完璧に回り始めた組織の歯車を見つめながら、口元に明るく快活な笑みを浮かべた。
俺はね、力任せに他者を殺害して強さを誇示するような、前時代的な「主人公」の器なんかでは決してないさ。
ただ、ここに集まったみんなの最高の才能を最も最高値に機能させるための、完璧な『合理の判断の流れ』を真ん中に作り出すこと。それこそが、資源の管理者としての俺の唯一にして最大の役割なのだから。
まさに、その戦況を完璧に支配しつつあった、その瞬間だった。
魔の森の最も深い暗闇の帳の向こう側から、これまでの十五匹の雑魚とは完全に格の違う、大気そのものを物理的に圧し潰すような凄まじい「魔力圧の津波」が、彼らの前線に向けて一気に吹き荒れた。
居合わせたメンバー全員の顔色が、その尋常ではない殺気の質量を肌に触れた瞬間に、一変した。
「……おいおい、嘘だろ。デカすぎるぞ、そいつは」
ティグリスが、長槍を強く握り締めながら、その黄色い瞳を戦慄に細めて唸り声を漏らした。
前方の巨大な大木が、内側からバリバリと無残にへし折られて地面へと倒れ伏していく。
その破壊の向こう側から姿を現したのは、全長優に三メートルを軽く超える、伝説の超大型魔物――群れの真の支配者たる《黒牙魔狼・変異種》の威容であった。
その全身は、闇をそのまま凝縮したかのような漆黒の強固な毛並みに覆われ、口元から覗く二本の牙は、大商会の頑強な荷馬車を一撃で木端微塵に噛み砕くほどの圧倒的な硬度を誇っている。その体内から溢れ出る魔力の密度は、吸うだけで肺の細胞が凍りつきそうなほどに濃密であった。
『対象:黒牙魔狼(変異種)。危険度:最高値(極高)。心理:完全なる支配意思の暴走を計測』
『特性:周囲の魔狼の群体を完全な同期で操る、群れ支配個体と判明』
『警告:これまでの物理攻撃に対する防御係数:最高値。通常の斬撃による突破は不効率』
クルザードの背中の皮膚に、一瞬だけ、生物としての根源的な死への冷たい悪寒が走った。
強い。これは紛れもなく、これまでに簡易冷蔵庫の奥に蓄えてきたどんな魔物とも、根本からすべて格が違う、本物の災害そのものであった。
黒狼が天を仰ぎ、耳を劈くような凄まじい咆哮を轟かせた瞬間、空間の大気そのものが激しく鳴動し、周囲にいた残りの魔狼たちが一斉にその支配の意思に同期して、爆発的な速度でこちらに向けて奇襲の突進を再駆動させてきた。
「前線を死守しろ! 奴の突進軸を、その身を賭けて止めるんだ!」
ベッティーナが泥を深く噛み締め、大盾の全体で黒狼の巨大な前脚の振り下ろしを正面から完璧に受け止めた。
しかし、ドゴォン! と森全体を内側から爆破したかのような猛烈な衝撃音が響き渡り、大盾の表面が激しい熱風の圧力を受けてミシミシと悲鳴を上げ、彼女の頑強な肉体は砂浜の上を数メートルも力任せに押されて後退させられた。
「クソッ……! なんて重量とパワーだよ、これ! 防壁が中央から完全に押し切られそうだ!」
ティグリスが、彼女を救い出すために空間を鋭く跳躍したが、黒狼の移動速度は彼女の野生の本能のキレを遥かに凌駕して圧倒的だった。
漆黒の巨大な爪が一閃を放った瞬間、風を切る Sharp な音が響き、彼女の放った長槍の刃先は無残に弾き飛ばされ、地面の岩盤が木端微塵に粉砕されて激しい衝撃波が吹き荒れた。
「硬ぇ! 俺の魔力を込めた渾身の斬撃であってもな、皮膚の表面の毛並みに僅かな傷一つ付けることすらできねぇぞ!」
マルセルの放った風の刃も、黒狼の強固な防御の前に浅く弾かれ、あとに残されたのは虚空への霧散だけであった。
黒牙魔狼は、自らの圧倒的な優位性を完全に確信したように、その醜悪な口元を不敵に釣り上げ、鋭い牙を見せつけて下卑た笑みを浮かべた。
強い。この魔の森の深部という閉塞環境の全体はね、人間の古い常識の力だけでは、ただの一パーセントも突破することを許さない、本物の絶対的な危険域そのものであったのだ。
まさに、その戦況の混沌が極限まで張り詰めた、その瞬間だった。
クルザードの精密な頭脳の奥底、魔力の源泉のさらに深部において、これまでにないほどに激しく、無機質な世界の因果の響きが、脳内へ直接クリアな文字の更新として流れ込んできた。
『――個体名:クルザード。極限状態における、因果関係の読解率の最大化を検知――』
『火属性魔法への適性の著しい上昇、および【風循環安定】のスキルが完全に駆動開始――』
『体内の熱量から爆発的な運動エネルギーへの『魔力制御率の向上』を完全に捕捉完了――』
すべてが、一本の明確な繋がった数式として、完璧に脳内で組み合わさった。
今ならできる。これまでの不完全だったあの高温高圧の水蒸気の出力をね、一パーセントの熱量のロスもなく、最も正しい最高効率の形へと整えて解放する術が、彼の手元には最初から完璧に揃っていた。
「全員、よく聞いてくれ。今から俺の新魔法の熱効率を最高値で駆動させるよ。その場の一点にね、敵の動きを『たったの五秒間』だけ完全に拘束して止めてくれ」
一瞬。彼の放ったその一切の冗談を排したハキハキとした明晰な声の重みの前に、森を満たしていた絶望の空気は一瞬にして一変した。
「本当に、お前一人の力であの化け物の防壁を破ることができるのかい、クル!」
「ああ、確実さ。俺の計算に多分という不確実な歪みは一パーセントも存在しないからね。100%完全に仕留めてみせるよ」
クルザードの声は驚くほど静かで、どこまでも気さくな確信に満ちあふれていた。
「いいだろう! お前がそう言って正解を弾き出したならね、私のこの命のバネのすべてを賭けて、その五秒の時間を完璧に作ってあげるよ!」
ティグリスが獰猛な笑みを浮かべ、彼らは一分の手戻りもなく、自らの役割の最大値を駆動させて動いた。
ベッティーナの大盾の全体による、決死の正面の受け止め。
アランの放った、地表を埋め尽くす強固な石の壁の隆起(土壁)。
そして、ドロテアの放った、大気を極限まで圧縮して敵の四方を縛り付ける、風の縄のホールド。
そのすべての防壁の機能が、一点の淀みもなく完璧に重ね合わされ、突進中だった黒牙魔狼の巨体を、砂浜の上の一点へと完全に制動して固定した。
「今だ、クル! 前線が崩壊する前に、その次の一手を流し込みなさい!」
「よし、役割の振り分けは完璧だ。処理を開始するよ」
クルザードは無言のまま、確実な一歩を踏み出して黒狼の正面へと歩み出た。
彼の掌が、固定されている巨体に向けて滑らかにかざされる。
体内に眠る、底の知れない広大な魔力の源泉が一気の奔流となって解放され、新しくマスターした【風循環安定】と【微細制御】のスキルによって、暴れ狂っていた魔力の対流が、一本の美しい直線のルートへと向けて完璧に従って整えられていった。
火属性の魔力。
熱の流れ。
体積の極限までの圧縮。
そして、それらを針の穴を通すような高次元の密度へと収束させる、完璧な因果関係の具現化。
新魔法、《火穿》。
「通れ」
彼が静かにそう念じて手を放ったその瞬間、最果ての魔の森の全体を内側から爆破するような凄まじい風圧の轟音と共に、大気を一瞬で蒸発させる赤熱の光線が一直線に放たれた。
その放たれたエネルギーの質量は、これまでの直火の焼き加減の次元を遥かに置き去りにして、圧倒的に恐ろしかった。
放たれた熱線の槍は、黒牙魔狼の自慢の強固な漆黒の鱗、筋肉の鎧のすべてを一瞬にして紙のようになぎ倒して貫通し、その巨大な右肩の組織を根元から正確に消去してみせた。
そして次の瞬間、肉体の内部に侵入した熱エネルギーが、内圧の偏りによって爆発的な勢いで一気に「大爆発」を引き起こした。
ドゴォン! と、森全体を根底から揺るがすような凄まじい爆風が吹き荒れ、周囲の巨大な大木が何本も巻き込まれて一瞬にして粉々に吹き飛んで霧散していった。
あまりの規格外の破壊の威力を前にして、居合わせたメンバー全員が、息をすることすら忘れて呆然と動きを止めた。
クルザード自身も、掌に残るその未知の熱の流れの残滓を見つめながら、僅かに驚きを隠せないでいた。
初めてだった。自分の意思の通りに、体内の過剰なパワーを完璧に「制御しきることができた」その確かな手応え。これだけの精密な熱効率のコントロールが駆動できるなら、資源の加工の能率はさらに跳ね上がる。
「ウォォォォォォンッ!?」
右肩の組織を完全に内側から焼き尽くされ、黒牙魔狼は耳を劈くような断末魔の絶叫の悲鳴を上げ、激しく血を流しながら泥の中にその巨体を大きく崩した。
しかし、奴は深部の真の支配者たる変異種だ。これほどの致命傷を負いながらも、未だその赤い目をギラギラと輝かせ、残された左脚の筋肉を収縮させて、最後の悪あがきの奇襲を仕掛けようと立ち上がってきた。強い。生命維持のシステムが尋常ではないタフさだ。
ティグリスが、その姿を見るなり、口元を大きく釣り上げて心底楽しそうな最高の笑声を上げた。
「がははは! いい顔になったじゃないか、この化け物トカゲが! だがね、お前のその古い駆動システムはね、クルの放ったこの最高の連携の流れの前には、もう一パーセントも機能しやしないのさ!」
彼女は泥を力強く蹴り上げると、一分の手戻りもない美しい跳躍で、黒狼の剥き出しになった喉元の急所へと的確に肉薄し、自慢の鋭利な長槍の刃を一撃のもとに深く突き立てた。
そこへ、マルセルの放った正確な風の斬撃が追撃として重なり、アランの錬成した強固な鉄の鎖が巨体の自由を完全に縛り付ける。
完璧な、一分の手戻りもない役割の循環の噛み合い。
そして最後の仕上げとして、クルザードは細身の剣を滑らかにしならせ、大気の無駄をすべて排除した鋭い一閃を放った。
風を切り裂く冷徹な音が響いた瞬間、黒牙魔狼の巨大な首は綺麗に刎ね飛ばされ、泥の中にどさりと力なく崩れ落ちた。
過酷な風圧の後、魔の森の深部には、これまでにないほどの心地よい完全な静寂が戻った。
頭上から静かに舞い下りる、純白の雪の微微な音だけが、彼らの荒い呼吸の白い息の向こう側で静かに響いていた。
「……ふぅ、本当に、勝っちまったな」
最高腕のガルドが、自慢の鉄槌を床に置きながら、泥の上にどさりと膝をついて座り込んだ。
回復士のデニーゼが、一分の遅延もなく、戦い終えた全員の肉体へと向けて最高の再生魔法のエネルギーを滑らかに回していく。
クルザードは剣を鞘に収めると、横たわる黒牙魔狼の巨大な死骸の前へと歩み寄り、その表面に素手を静かに触れさせた。
彼の瞳の奥で、鑑定の文字が最高の富としての価値を整然と弾き出し始める。
『対象:黒牙魔狼・変異種(絶命)。状態:高純度な魔力組織の固着を捕捉』
『成分:内部の心臓組織から、最高級の【高位魔石】、および貴重な【魔核】の抽出に成功』
『肉質:これまでにないほどの極上のアミノ酸(高品質肉)を含有。食料自給の価値:最高値』
『素材:外皮および骨組織から、最高峰の防具用【高濃度魔素材】を多量に検出』
「……完璧な、最上の当たりさ。これほど高純度な魔石や極上の肉の絶対量、外の世界のどの大商会であってもお目にかかれない最高の資産だよ。一欠片の細胞もここに無駄に見捨てておくわけにはいかないさ。全部をアイテムボックスへ収納して持って帰り、最高の飯と道具の素材に加工しよう」
ティグリスが、そのどんな死闘の直後であっても一ミリもブレない徹底した合理主義の姿勢を聞くや夕方、堪えきれずに大声を上げて爆笑した。
「がははは! やっぱりお前、どんな最悪なトラブルの直後であっても、考えることはいつも『今夜の飯の素材の回収』なのかよ! 本気でお前という男は、底が知れなくて怖すぎるぜ!」
「当然さ、ティグリス。食えるだけの高い価値を持った資源をここに無駄に見落としておく方がね、俺の合理主義にとってはよほど不条理で許し難い大損だからね」
クルザードの一片の揺らぎもないその快活な一言に、全員が一斉に盛大な笑声を上げ、彼らは最高の収穫を抱えて、軽やかな足取りで最高の約束の拠点への帰還の路へと就いていった。
危険域。それは古い常識の未熟な人間たちにとってはね、ただ命を失って死ぬだけの最悪の地獄の澱みかもしれない。しかし、クルザードの持つ圧倒的な合理の計算の前には、そこは世界で最も良質な富と食料を無限に吐き出す、最高の「資源の宝庫」そのものへと完璧に変貌を遂げていた。
帰路。
冬の魔の森の内部は、相変わらず日光が遮断されてどこまでも暗く、冷酷だった。
しかし――陣形を進める彼らの衣服を包み込んでいる空気の質は、数時間前とは根本からすべてが違っていた。
どんな最悪な化け物が相手であっても、完璧に勝って生きて生還することができた。その揺るぎない絶対的な信頼の質量が、彼らの精神の防壁を何倍にも強固に固めていたからだ。
クルザードはハキハキとした足取りで歩みを進めながら、自らの頭脳の中で、さらにその先にある社会の歯車の発展のルートを、完璧に見通していた。
深部の開拓。それは組織の規模を拡大させる上で、絶対に避けては通れない必然の「判断」の流れだった。
安全圏のぬるま湯の中に引きこもって、限られた資源をただ不効率に食いつぶしているだけではね、いずれ人口の増加の流れに耐えきれなくなって中央から完全に機能を喪失して自滅する。
だからこそ、自らの手で危険域の奥深くへと一歩を踏み込み、そこに眠る無限の肉、素材、そして貴重な特効薬の資源を、最も無駄のないルートへと向けて完璧に回収し続ける。その大局的な計算の工夫があるからこそ、自らの国をどこよりも強固に、最強に太らせていくことができるのだ。すべてはただの、完璧に計算され尽くした合理の流れさ。
夕方。
彼らが最果ての集落へと無事に戻ってきた瞬間、広大な広場の真ん中からは、冬の冷たい夜空を暖かく押し返すような、これまでにないほどの凄まじく濃厚な湯気が盛大に立ち上り続けていた。
熟成された最高の味噌の深い香り。
一掴みで至高の出汁を錬成する、あの魚節とオーク節の混合出汁。
石窯の熱によってふんわりと焼き上げられた、温かい発酵パン。
精神の緊張を芯から解きほぐす、最高峰の新酒の樽。
そして、部屋の全体を暖かく照らし続ける、橙色の最高の灯り。
死闘を終えて帰還したその最初の瞬間にね、換気窓から漂ってくるその豊かな飯の香りに肌が触れた、ただそれだけの出来事によって、肉体の全細胞の疲労組織は一瞬にして綺麗さっぱりと救い出されて抜けていく感覚があった。
「飯だ! クルの最高の飯が待っているぞ、全員急いで中に入りなさい!」
ステファンが、子供のように輝く笑顔を浮かべて大声を上げて叫んだ。
居合わせた全員が一斉に、心からの温かい笑顔を浮かべて大声を上げて笑い合った。
命をかけて過酷な戦域へと赴き、一分の手戻りもなく完璧に勝利して帰還し、そして――その日の夜には、待っていた仲間たちと一緒に、世界で一番美味い温かい飯を腹一杯に食って深く眠ることができる。
ただそれだけの当たり前の快適さがここに100%完璧に揃っていること。それだけで、人間という生物はね、生存への恐怖を完全に忘れて、明日への確実な予測と共に、何回でも力強く前に進めるようになるのさ。
クルザードは厨房の真ん中に立ち、大きな木べらを滑らかに動かしながら、美しく煮え滾る巨大な石鍋の内部の流れを静かに見つめていた。
立ち上る純白の豊かな湯気。
心地よい食材の香ばしい香り。
学校で文字の形を覚えた子供たちの心からの笑顔。
そして、新しく舗装された道路、開通した港、地下保存庫にいたるまでの、一分の無駄もない最先端のインフラのすべて。
本当に強固な最強の国家を動かすもの。それは、力任せに他者を破壊する戦闘の強さだけでは決してない。
「そこに集まったすべての人間が、何の問題もなく100%確実に生き残れること」。
「極寒の冬の冷気の暴走を前にしても、一人の人的資源をも失うことなく完璧に冬を越せること」。
「そして、美味い飯と確実な安心を求めて、世界中から新しい命の数が無限に増え続け、技術の資産が蓄積されること」。
そのすべての生活の循環が最高値で回っていることこそがね、世界を内側から美しく塗り替えていくための、本当の国家の強さの本質なのだから。
ティグリスが、新しく焼き上げられた黒牙魔狼の高品質な肉を口いっぱいに美味しそうに頬張りながら、口元を大きく釣り上げて愉快そうに笑った。
「がははは! 危険域の最深部をこの目で見届けて帰ってきたからこそね、はっきりと理解できたよ、お前。不条理な化け物がのたうち回るあの死の森深部なんかよりもよ、これほどまでの完璧な快適さが勝手に駆動しているお前のこの街の構造の方がね、数百倍は遥かに常識外れで異常極まりない領域に化けているよ、本当に!」
クルザードは木べらを手に持ち直すと、窓の外に広がる広大な海、そして店内で笑い合う無数の民たちの姿を静かに見つめながら、口元に世界全体の構造を美しく塗り替えるための、不敵で、そして最高に陽気な微笑みを浮かべて小さく呟いた。
「――はは、そうかもね、ティグリス。君の言う通り、俺たちの作ったこの最高の居場所はね、古い世界の常識の計算から見れば、もうとっくに『普通』の枠なんかには一パーセントも収まらない、世界で一番最強の国に化けているからね」
彼の放ったその一片の驕りもない完璧な合理主義の至言の前に、居合わせた誰もが、言葉を返すことすらできずに深く深く感服して頷き、彼らの新しい建国の歴史の巨大な歯車は、新時代の幕開けに向けて、さらに完璧な速度で力強く、そして最強の奔流を伴って美しく駆動し続けていった。




