2:鍋
朝の港町アルフェイドは、冷えていた。
海風が石畳を撫で、魚市場の生臭さを街中へ押し広げていく。曇った空の下、荷車が軋み、怒鳴り声が飛び交う。腐った魚を蹴り飛ばす商人。値切る冒険者。酒臭い港湾労働者。
人は多い。
物も多い。
なのに、街全体が貧しかった。
クルザードはその流れを見ていた。
冒険者ギルド前。
木箱に腰を下ろし、焼き固めた黒パンを齧る。
硬い。
酸味が強い。
保存優先で作られているせいで、味は最悪だ。
「それ、食い物か?」
隣から声がした。
金髪の女。
昨日、廃屋で鍋を食べていた女だった。
薄汚れた外套はそのままだが、顔色は昨日より少し良い。
「ドミニクだ」
「クルザード」
「長い。クルでいいか?」
「好きにしろ」
ドミニクは笑った。
よく笑う女だった。
痩せているのに妙な生命力がある。
胸元は豊かで、腰も丸い。浮浪者に見えないのは、そのせいかもしれない。
「それで、そのパン。硬そうだな」
「硬い」
「昨日の鍋は美味かったのに?」
「パンは買った」
「なるほど」
ドミニクは頷いた。
クルザードは黒パンを見つめる。
問題点は分かっていた。
『発酵不足』
『塩分過多』
『水分不足』
『雑穀比率過剰』
『焼成失敗』
鑑定が勝手に情報を流し込む。
相変わらず頭痛がする。
クルザードは眉間を押さえた。
「またそれか?」
「情報が多い」
「便利そうで不便だな」
「使い切れない能力は欠陥だ」
ドミニクは苦笑した。
その時だった。
「おい、荷物持ち!」
昨日とは別の冒険者パーティが声をかけてきた。
五人組。
装備はそこそこ良い。
だが、疲れている。
特に前衛の盾士。
女だった。
大盾を背負っている。
長身。
筋肉質。
胸も尻も大きい。
視線が鋭い。
「地下二層行く。荷運びできる奴探してる」
「報酬は?」
「銅貨六枚」
「安いな」
「飯付きだ」
クルザードは少し考えた。
地下二層。
昨日より深い。
危険度も上がる。
だが。
(食材は増える)
クルザードは立ち上がった。
「行く」
「即決かよ」
「腹が減る」
盾士の女が笑った。
「気に入った。私はベッティーナ」
「クルザードだ」
「こっちはマティルデ。剣士」
赤髪の女剣士が軽く手を振る。
「ドロテア。魔法使い」
眠そうな女。
「デニーゼ。回復士」
柔らかい雰囲気の女。
「ステファンだ」
拳闘士の男が拳を鳴らす。
全員、そこそこ強い。
クルザードは一瞬で判断する。
前衛能力。
疲労度。
装備品質。
癖。
全部見える。
頭が痛い。
「おい、大丈夫か?」
「問題ない」
嘘だった。
でも動ける。
ダンジョン《灰喰らい》二層。
一層とは空気が違った。
湿度が高い。
腐敗臭も強い。
海水が地下へ染み込んでいるせいで、壁面に青黒い苔が広がっている。
「来るぞ!」
マティルデが叫ぶ。
海蝕ゴブリン。
皮膚が青い。
爪が長い。
塩分を含んだ異常個体。
三体。
ベッティーナが前へ出る。
盾が重い音を立てた。
ゴブリンの爪を止める。
マティルデが横から斬る。
連携は悪くない。
だが。
(火力不足)
クルザードは冷静に見ていた。
前衛が削り、後衛が止める。
安定型。
だが決定力がない。
長引く。
スタミナ消費が大きい。
「チッ!」
ステファンが殴り飛ばしたゴブリンが、まだ動く。
耐久が高い。
ドロテアが火球を撃つ。
狭い。
熱気。
蒸気。
視界が悪化。
「後ろ!」
クルザードが叫ぶ。
別個体。
横穴。
海蝕ゴブリンが飛び出す。
「なっ!?」
デニーゼへ向かう。
クルザードは動いた。
速い。
自分でも理解できない速度だった。
剣が走る。
首が飛ぶ。
沈黙。
全員が止まった。
「……お前、荷物持ちじゃねぇだろ」
「荷物は持てる」
「そういう意味じゃねぇ」
クルザードは答えない。
代わりにゴブリンを収納した。
アイテムボックス。
便利だ。
腐敗しない。
鮮度も落ちない。
「今日はここまでだな」
ベッティーナが息を吐く。
疲労が見える。
食事不足。
塩分不足。
水分不足。
鑑定が教えてくる。
クルザードは周囲を見た。
安全地帯。
古い石室。
崩れた祭壇。
「休憩する」
「ここで?」
「飯を作る」
全員が固まった。
「……は?」
「腹減ってるだろ」
クルザードは淡々と鍋を取り出した。
土属性。
石鍋生成。
全員の目が変わる。
「魔法鍋……?」
「便利そうね……」
ドロテアが呟く。
クルザードは無視した。
重要なのは効率だ。
アイテムボックスから食材を出す。
ゴブリン肉。
海藻。
ダンジョン茸。
魚の骨。
乾燥薬草。
昨日の残りスープ。
「お、おい」
ステファンが顔を引きつらせる。
「ゴブリン食うのか?」
「処理すれば問題ない」
「いや……」
クルザードは肉を切る。
筋を断つ。
臭み部分を除去。
塩を振る。
海藻と骨を煮込む。
湯気が立つ。
香りが変わった。
全員の顔色が変わる。
「……いい匂い」
デニーゼが呟く。
魚骨の出汁。
海藻の旨味。
肉脂。
茸。
薬草。
香りが石室へ広がっていく。
ぐう、と。
誰かの腹が鳴った。
マティルデだった。
「……悪い」
「普通だ」
クルザードは静かに言った。
鍋が煮える。
肉汁が浮く。
脂が揺れる。
海藻が旨味を出す。
スープが白濁していく。
「完成だ」
木椀へ注ぐ。
ベッティーナが最初に口へ運んだ。
止まる。
「……うまい」
静かな声だった。
次々と全員が食べ始める。
「待って、何これ」
「ゴブリンだよな?」
「嘘だろ……」
「温かい……」
デニーゼの目が潤んでいた。
ダンジョン内で温かい食事。
それだけで価値がある。
しかも美味い。
ステファンが夢中で食べる。
「肉柔らけぇ……」
「臭くない」
「魚の味もする……」
クルザードは静かに鍋を見る。
不足している。
味噌が欲しい。
酒も。
保存技術も。
発酵。
塩。
流通。
全部足りない。
でも。
(作れる)
その感覚だけは、あった。
「お前、料理人やれよ」
マティルデが笑った。
「冒険者より向いてる」
「両方やる」
「は?」
「ダンジョンは素材庫だ」
全員が止まる。
クルザードは鍋を見ながら続けた。
「肉がある」
「薬草がある」
「鉱石がある」
「水がある」
「なら、街はもっと豊かになれる」
ベッティーナが目を細める。
「……変な奴だな」
「よく言われる」
「普通、ダンジョン見て金しか考えねぇぞ」
「それだと腐る」
クルザードは静かに答えた。
「この街は、流れが悪い」
「流れ?」
「物流」
「保存」
「衛生」
「教育」
「全部足りない」
誰も言葉を返せなかった。
だが、不思議と否定もできない。
鍋が美味すぎたからだ。
こんな荷物持ちが。
こんな飯を作る。
なら。
こいつの言葉も、少しだけ信じてみたくなる。
石室の中は温かかった。
湯気。
香り。
笑い声。
外では魔物が唸っている。
それでも。
この鍋の周りだけは、妙に安心できた。




