1:空腹
海風は冷たかった。
灰色の空の下、港町アルフェイドの裏通りには、魚の腐臭と湿った石畳の匂いが淀んでいる。朝だというのに活気は薄い。活気があるのは表通りだけだ。
冒険者ギルドの裏口付近には、今日も仕事にありつけなかった連中が座り込んでいた。
その中に、クルザードもいる。
二十二歳。
黒髪。
長身。
痩せてはいるが、骨格はしっかりしている。目つきは穏やかだが、その奥は妙に冷静だった。
腰には古びた剣。
背には巨大な荷袋。
そして、空腹。
「おい、クル。荷物持ち行くぞ」
声をかけてきたのは、三人組の冒険者だった。
革鎧。
粗悪な短剣。
そして、他人を見下す目。
クルザードはゆっくり立ち上がる。
「報酬は?」
「パン一個」
「少ないな」
「荷物持ちに何期待してんだ?」
笑いが起きる。
クルザードは怒らなかった。
怒る意味がない。
今は金も立場もない。
必要なのは、生存だ。
「分かった」
短く答える。
それでいい。
生き残れば次がある。
ギルド前は騒がしかった。
ダンジョン帰りの冒険者達が、素材を売り、酒を飲み、怒鳴り合っている。
港町アルフェイド。
海とダンジョンで成り立つ都市国家。
北には魔の森。
南には大海。
中央には巨大ダンジョン《灰喰らい》。
この町は、人を喰って栄えていた。
「お前、後ろから来い。絶対前に出るなよ」
「了解」
三人組の一人が鼻を鳴らした。
「返事だけはいいんだよな」
クルザードは何も言わない。
その代わり、視線を街へ向ける。
人が多い。
物流も多い。
魚。
塩。
木材。
鉄。
酒。
問題は明確だった。
(腐敗率が高い)
魚の三割以上が傷んでいる。
流通速度が遅い。
氷がない。
保存技術が低い。
塩も粗悪。
道路が悪い。
鑑定が、勝手に情報を流し込んでくる。
『魚類:腐敗進行二十八%』
『塩分濃度不足』
『水質悪化』
『栄養欠損』
『雑菌繁殖』
『排水構造欠陥』
「……っ」
頭痛が走った。
視界が揺れる。
「おい?」
「大丈夫か?」
「……問題ない」
嘘だった。
問題だらけだ。
クルザードの鑑定は異常だった。
見れば分かる。
触れれば分かる。
情報が洪水みたいに流れ込む。
制御不能。
役に立たない。
だから誰も評価しない。
ダンジョン《灰喰らい》第一層。
湿った石壁。
薄暗い通路。
腐臭。
海水が地下へ流れ込んでいるせいで、空気が重い。
「来るぞ!」
前衛が叫ぶ。
ゴブリン三体。
錆びた短剣。
緑色の肌。
飢えた目。
三人組が突っ込む。
剣がぶつかる。
火花。
怒号。
そして。
「ぎゃっ!?」
一人が吹き飛んだ。
「は!?」
ゴブリンの動きが妙に速い。
違う。
鑑定が反応する。
『個体変異』
『筋力上昇』
『飢餓状態』
『攻撃性増大』
「右から来る!」
クルザードが叫ぶ。
「は?」
直後。
横穴から別個体。
ゴブリンが飛び出した。
「なっ!?」
前衛の脇腹へ短剣。
血。
悲鳴。
「くそっ!」
混乱。
連携崩壊。
クルザードは舌打ちした。
(遅い)
全員。
判断が。
無駄が多い。
動きが雑だ。
ゴブリンが飛び込む。
クルザードは剣を抜いた。
速い。
一閃。
ゴブリンの腕が飛ぶ。
だが。
「は……?」
三人組が止まった。
クルザードも止まる。
剣筋が鋭すぎた。
自分でも理解していない。
身体が勝手に動いた。
ゴブリンが咆哮する。
別個体が飛びかかる。
クルザードは反射的に手を出した。
水が集まる。
空気中。
壁面。
地下水。
全部。
異常な速度で。
「……っ」
制御できない。
水球が膨張する。
ゴブリンの顔を覆う。
暴れる。
苦しむ。
数秒。
動かなくなった。
沈黙。
「お、お前……」
三人組が引く。
クルザードは眉を寄せた。
(使いにくい)
魔力量が多すぎる。
集まりすぎる。
加減ができない。
だから普段は使わない。
危険だ。
「帰るぞ!」
三人組は逃げるように言った。
怪我人を抱えて。
素材も回収せず。
クルザードは残された。
「……」
静かになったダンジョンで、彼はゴブリンを見下ろした。
鑑定が動く。
『食用可能』
『筋肉量低』
『脂肪少』
『骨利用可能』
「食えるな」
そう呟いて、アイテムボックスへ収納する。
非生物なら大量収納可能。
生物は保護状態になる。
意味不明な能力だった。
だが便利だ。
ダンジョンを出た頃には夕方だった。
港町の外れ。
誰も使っていない廃屋。
そこがクルザードの寝床だ。
彼は火を起こした。
薪。
鍋。
海水を精製した塩。
ダンジョン産キノコ。
薬草。
ゴブリン肉。
油。
じゅう、と音が鳴る。
肉汁が弾ける。
香りが立った。
クルザードは淡々と処理する。
筋を切る。
臭みを抜く。
火加減を調整。
薬草を潰す。
スープへ投入。
湯気。
香り。
塩味。
旨味。
空腹が刺激される。
「……いいな」
その時だった。
廃屋の入口で音がした。
誰かいる。
クルザードは視線だけ向ける。
女だった。
金髪。
薄汚れた外套。
細い身体。
だが、顔立ちは整っている。
二十歳前後。
腹が鳴った。
ぐう、と。
沈黙。
女は顔を赤くした。
クルザードは鍋を見る。
量は足りる。
「食うか?」
「……え?」
「余ってる」
女は警戒した。
当然だ。
この街は優しくない。
「金はない」
「いらない」
「……なんで?」
「捨てる方が損だ」
女はしばらく固まっていた。
やがて、小さく座る。
クルザードは木椀へスープを注いだ。
湯気が立つ。
女は恐る恐る口へ運ぶ。
止まった。
「……おいしい」
声が震えていた。
クルザードは黙ってパンを渡す。
硬い黒パン。
だが。
彼は少し炙っていた。
香ばしい。
温かい。
女は涙を流した。
「なんで……こんなの……」
「腹減ってる時は、温かい方がいい」
クルザードは静かに言った。
それだけだった。
外では冷たい海風が吹いている。
遠くで怒鳴り声。
酔っ払い。
喧嘩。
港町アルフェイドは今日も荒れていた。
だが、この廃屋だけは違った。
温かかった。
鍋が煮える。
湯気が立つ。
女は夢中で食べる。
クルザードは火を見つめていた。
この世界は、おかしい。
食料があるのに飢える。
海があるのに腐る。
人がいるのに回らない。
無駄が多すぎる。
流れが悪い。
なら。
変えればいい。
食わせれば、人は来る。
保存できれば、冬を越せる。
治療できれば、死なない。
仕事を作れば、流れる。
まだ小さい。
今は空腹の荷物持ち。
だが。
クルザードは、理解していた。
この世界は。
もっと、効率良く回せる。




