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飯が美味すぎて、気づけば世界を支配していた。 ~無限魔力の料理人、物流と教育で最強国家を作る~  作者: 慈架太子


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16/47

16:岩塩

ピュリフィケーション。


雪が降っていた。


最果ての港町アルフェイドに、ついに本格的な浅い冬の訪れを告げる純白の結晶が、天から静かに舞い降りていた。まだ地面を白く染め上げるほどではない。しかし、大気を含んだその空気の質量は確実に、そして劇的に冷酷なものへと変わっていた。


吐き出す息はどこまでも白く濁り、昨日までぬかるんでいた泥の地面はカチカチに硬く凍りついている。

そして、その過酷な環境の変化に比例するようにして、崖の上の古い廃屋における「食料の消費速度」は、彼らの予測を遥かに超えて異常な勢いで跳ね上がっていた。


「……ねぇ、ちょっと。蓄えておいた魔物の肉が減っていく速度、いくら何でもおかしすぎない?」


金髪のドミニクが、木箱の上に広げられたぶ厚い帳簿の数値を指先で追いながら、慌てたような声を張り上げた。


最近の拠点の急速な規模の拡大に伴い、大商人のヴァレリアが専属として、ここにあるすべての「数字の管理」を冷徹に開始していた。

倉庫に眠る魔物の物資。

調理に不可欠な塩の在庫。

燻製小屋で日々量産される干し肉。

発酵パンの基礎となる小麦。

ジェシカが調合に使う貴重な薬草。

そして、あの天国のような簡易浴場を一日中維持するために消費される、大量の風呂用の薪。

そのすべてが、美味い飯と確実な安心を求めて爆発的に膨れ上がった「集まった人間の数」に完全に比例して、分単位で激しく減少を続けていた。


「極めて当然で合理的な結果さ。肉体が寒冷環境に晒されれば、体温を維持するために本能的な基礎代謝が跳ね上がり、食料の消費量は必然的に増加するからね」


クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべ、巨大な石鍋の前で木べらを滑らかに動かしながら、ハキハキとした明晰な声で答えた。


「頭では分かっているけどさ、このままだと冬を越す前に倉庫の底が見えちゃうわよ」


「いや、肉やパンの絶対量も問題だけどね、それ以上に今一番致命的なボトルネックになっているのは『塩』の在庫よ」


ヴァレリアが帳簿をパタンと力強く閉じ、一人の商人の冷徹な真顔をクルザードに向けて言葉を繋いだ。


「このまま全体の消費の流れが続けば、近いうちに街の市場に出回っている塩の価格は不当なまでに高騰する」

「塩の供給が完全にストップすれば、物資を長期間維持するための保存食の生産ラインが中央からすべて止まる」

「俺たちの最大の強みである、あの極上の燻製肉の量産ペースも?的に減少せざるを得なくなるわ。これは組織にとって最大の損失よ」


最高腕のドワーフ鍛冶師ガルドが、分厚い腕を組んで灰色の立派な髭を不快そうに揺らしながら、低く眉をひそめた。


「ああ、間違いない。このアルフェイドにおいて、塩ってのはいかなる財宝よりも高値で取引される最大の利権だからな」

「流通のすべてを、中央の強欲な王国が完璧に後ろから押さえていやがる」

「街の近郊にあるいくつかの巨大な岩塩鉱山もな、すべては傲慢な王侯貴族どもの直轄管理下に置かれていて、俺たち底辺の人間には一欠片の資源も回ってこねぇのが常識の数式さ」


クルザードは木べらを動かしたまま、静かに沈黙した。

塩。それは資源の管理者としての彼の頭脳にとって、社会の構造を回すための最も重要であり、あまりにも欠かすことのできない絶対的な物質であった。

食材の腐敗を完全に防ぐ、長期の保存技術。

人間の本能的な食欲を芯から支配する、極上の味付け。

酵母の活性化を最適にコントロールする、発酵のプロセス。

傷口の細胞を再生させ、無菌化を担保する、確実な治療。

そして何より、過酷な労働に耐えうる全細胞の体調維持。

そのすべてに関わる根源的な歯車。


彼が塩の本質について思考を巡らせた瞬間、瞳の奥で鑑定のシステムが強制的に駆動し、脳内へ直接社会の不効率なデータを流れ込んさせた。


『事象:拠点全体の絶対的な塩不足を感知。現在の備蓄残量:危険水域』

『予測:保存食の生産効率が六十二%低下。冬季における集団の死亡率が急激に上昇』

『肉体:塩分欠乏に伴う代謝の低下。全人員の戦闘継続体力が著しく低下中』

『構造:中央の権力による不条理な流通支配。資源の人工的な澱みを確認』

『結論:外部からの新規の調達ルートの完全なる開通が最優先』


こめかみを直接鉄の針で突き刺されるような鋭い頭痛が走り、視界が情報過多で一瞬だけ揺らめいた。しかし、現在の彼はその痛みを深く息を吐き出すことで即座にコントロールし、状況の流れを決める明確な「判断」を下した。


「……よし、方針は決まった。俺たちの手で、新しい『岩塩』の鉱脈を直接引き戻しに行くよ」


その場にいた全員の動きが、カチリと完全に凍りついた。


「は?」


ドミニクが、空になった生地桶を持ったまま、不思議そうに首を傾げた。

「岩塩って……お前、そんな貴族様が軍隊を使って厳重に管理しているような代物を、一体どこから掘り出してくるつもりよ?」


「古い廃坑さ。街の北東の方角に、誰の管理も行き届いていない放棄された巨大な地下空洞があるからね」


「あそこかい?」

ティグリスが黄色い瞳を僅かに細め、その立派な虎耳を小刻みに震わせながら呆れたような声を漏らした。

「あそこなら知っているよ。確かに大昔には良質な塩が採掘されていたらしいが、今は完全に見捨てられた地獄の澱みさ。お前、あそこが何故放棄されたのか、その正確な理由を知らないわけじゃないだろ?」


「もちろん、知っているさ」

クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、ハキハキとした明晰な声で言葉を続けた。

「内部から湧き出ている、高濃度の『毒性地下水』による完全な汚染。それに伴う、周辺の岩盤の致命的な腐敗。そして、作業に当たった大量の労働者たちが一瞬で原因不明の病死を遂げた事実。つまり、これまでの未熟な人間たちの技術では、手に入った資源を正しく『精製』して不純物を取り除く手順が分からなかった、ただそれだけのシンプルな機能不全さ」


「行けるさ。俺の持つ、最も正しい合理的な『浄化』の手順を踏めばね」


「……浄化、だと? 本当にそんなことが、お前一人の力で可能なのかい?」


エルフの薬師ジェシカが、上品に広げていた薬草の葉を置き、初めて本気の真面目な顔つきでクルザードの姿をじっと凝視した。

世界の調和を象徴する長命種。薬と毒の因果関係において、誰よりも深い知識を蓄積してきた彼女の理性が、この一介の荷物持ちの言葉の重さを、鋭く値踏みしていた。


「あの廃坑に眠る岩塩の結晶の構造そのものは、世界最高峰の純度を誇っているわ。それは確かな事実よ。でもね、それを包み込んでいる周囲の環境の『不純物』の質があまりにも最悪すぎるのさ」

「肉体を内側から修復不能なまでに破壊する、高濃度の重金属成分」

「大気を一瞬で紫に染め上げる、強烈な地下の毒水」

「そして、生物の死骸から繁殖した、凶悪な腐敗菌の塊」

「これらが完璧に結合しているのよ。常識的な魔法や薬師の調合の手順をもってしても、それらを綺麗に分離させて毒を抜くなんて、絶対に不可能な数式だわ」


「でも」

クルザードは口元に快活な笑みを浮かべたまま、大鍋の中からじっくりと火を通されたばかりの一片の魔物肉を、滑らかな動作でつまみ上げた。

味付けは、一切施されていない。


「塩を求めてこのまま手遅れになり、集まったみんなの美味い飯の流れが完全に止まってしまう大損に比べれば、不純物の分離なんてただの簡単な処理の工程さ。塩が無い方が、俺の合理主義にとってはよほど不条理で不可能な大損だからね」


ティグリスはその一片の迷いもない徹底した合理主義の姿勢を聞くや否や、口元を大きく釣り上げて心底楽しそうに大声を上げて笑った。


「がははは! 最高だな、お前! 確かに、お前のあの美味いスープから塩気が完全に消え去るなんて事態、私にとっては死ぬよりも耐え難い最悪の不効率さ。その判断、喜んで乗ってあげるよ!」


次の日の早朝。

クルザードたちの臨時の遠征部隊は、硬く凍りついた雪の街道を、確実な足取りで出発していた。

驚くべきことに、その陣形に組み込まれた人員の数は、以前に比べて劇的に増加し、多様性に富んでいた。

虎獣人のティグリス。

金髪のドミニク。

ドワーフのガルド。

エルフのジェシカ。

拳闘士のステファン。

そして、大商人のヴァレリア。


誰が命令を下したわけでもない。確固たる組織の規律もまだ作られていない。

それなのに、彼らの移動の佇まいには、一分の澱みもない完璧な役割の「振り分け」の流れが自然と出来上がっていた。

天性の五感を活かし、周囲のいかなる微微な危険の気配も見落とさない、最前線の索敵の要たるティグリス。

乱戦の渦中に飛び込み、圧倒的な破壊力で敵の陣形を中央から粉砕するステファン。

クルザードの指示に合わせて、最適な水属性の魔法で戦線を完璧に維持するドミニク。

採掘した資源の細かな構造を見極め、重量を無視して運ぶための技術をサポートするガルド。

周囲に自生する植物の効能を一瞬で値踏みし、毒素の侵入を警戒するジェシカ。

そして、手に入ったすべての物資の価値を冷徹に計算し、次の流通のラインを予測するヴァレリア。


そしてその中心に立ち、誰に何を振り分け、どのタイミングで集団のすべてを動かすべきかという全体の「流れ」を差配するのが、他ならぬクルザードであった。

彼の脳内では、集まったメンバーたちの肉体のスペック、周囲の環境のデータ、そして次の一手への最適解が、何の不自然さもなく勝手に、最高効率の数式として整理され続けていた。それが最近の彼にとっては、頭痛を伴いながらも、少しだけ心地よい「快感」の駆動となって肉体に馴染み始めていた。


「ねぇ、クル」


雪を踏み締める重い足音に混ざって、大商人のヴァレリアが滑らかな動作で彼の真横へと並んできた。


「なんだい、ヴァレリア。物資の配分の比率に、何か非効率な歪みでも生じているかい?」


「ううん、完璧に正しいわ。そうじゃなくて……ここ数日のお前、見ていて随分と佇まいが変わったわね」


「何が変わったというんだい。俺は相変わらず、ただの陽気な荷物持ちさ」


「いいえ、前のお前みたいに、自分の能力の出力に振り回されて迷うような素振りが、完全に綺麗さっぱり消え失せているわ。状況の流れを決定づけるその判断の速度、いかなる最高位の王侯貴族をも凌駕して恐ろしいほどよ」


クルザードは口元に気さくな笑みを浮かべ、ハキハキとした声で答えた。


「……脳内に直接叩き込まれる、あの膨大な鑑定の『情報の洪水』の扱いに、少しずつ肉体が慣れてきただけさ」


「情報の洪水? お前、その目で一体どれほどのものを見つめているのよ」


「全部さ。視界に入るすべての物と人の、真実のデータが最初から一本の線として繋がって見えているだけだよ」


「前を歩くみんなの、その日の細かな肉体の体調」

「細胞の奥底に蓄積している、正確な疲労の数値」

「口から吐き出される言葉の裏にある、些細な嘘の割合」

「全細胞が欲している、本当の空腹の質量」

「極限状態での、各自の正確な戦闘能力のスペック」

「そして――次の一歩を誤った場合に、彼らが命を落とすことになる『死ぬ確率』にいたるまでね」


ヴァレリアは、彼のその一切の感情論を排した冷徹なまでの看破の言葉を聞くと、驚愕のあまりに一瞬だけその場に歩みを止めて戦慄した。

「……怖。お前、本当に恐ろしい男ね」


「はは、俺もそう思うよ。毎日こんな雑多な数値を無理やり見せられる身にもなってもらいたいものさ。さあ、目的地に到着したよ」


クルザードは陽気に笑声を上げると、目の前に広がる、闇に閉ざされた巨大な廃坑の入り口へと視線を向けた。


廃坑に到着したのは、太陽が真上へと昇り詰めた昼過ぎの時刻だった。

一歩足を踏み入れると、そこを満たす空気の質は、アルフェイドの裏通りよりも遥かに劣悪で淀んでいた。

むっとするような高い湿度、そして生物の死骸が腐敗した強烈な腐臭。地面の至る所には、重金属の成分を含んだ、どす黒く濁った不気味な地下水が澱んだ音を立てて流れている。


「……チッ、最悪の臭気だな、ここは。鼻の奥がツンと狂いそうだぜ」


ティグリスが、腰の短剣の柄に手をかけながら、心底不快そうに顔をしかめた。


「間違いなく、高濃度の地下毒水から揮発したガスが充満しているわね」

エルフのジェシカが、周囲の空気の魔力を鋭く感知しながら、真面目な顔で深く頷いた。

「長命種の目から見ても致命的な毒素よ。対策なしでこの空気を一時間以上吸い続ければ、人間の肺の細胞は内側から完璧に破壊されてボロボロになる。直接その黒い水を口に飲めば、三分と経たずに全身の神経が麻痺して確実に死に至るわ」


クルザードは動じることなく、ぬかるんだ漆黒の石壁の表面へと静かにその素手を触れさせた。

彼の瞳の奥で、青白い光が鮮烈に弾け、鑑定のデータが整然と脳内へ流れ込んでくる。


『対象:前方壁面の地質構造。成分:最高品質の岩塩の結晶層を捕捉。含有率:極めて高』

『状態:地下から湧き出る毒性海水による、表面の完全なる汚染を確認』

『危険:結晶の隙間に、微量の高致死性重毒素、および有害な腐敗菌の繁殖あり』

『結論:外部の不純物さえ完璧に排除できれば、世界に一つだけの至高の純白塩に変化。分離の成功率:最高値』


「……確かに、あるよ。俺の計算通り、ここには世界で最も良質な岩塩の鉱脈が、無限に眠っている」


ドワーフのガルドが、自慢の鉄槌を床に叩きつけるように置き、その鋭い目を細めて断面を覗き込んだ。

「小僧、お前本気で言っているのか? こんなドブネズミも住まねぇような死の澱みが、本当に最高峰の岩塩鉱山だっていうのか?」


「ああ、間違いないさ。不純物の膜に覆われているだけで、その本質は極めて純粋だからね」


「でもね、それを覆っているのは吸えば死ぬ猛毒よ?」

ヴァレリアが、その暗闇の奥を見つめながら静かに呟いた。

「もしもお前の言う通り、その毒素の結合を完璧に引き剥がして『浄化』することに成功してみなさい。中央の王国が暴利を貪っていた古い塩の利権は、明日から一瞬にして完全に崩壊して死ぬわよ」

「この最果てのアルフェイドのすべての物価が下がり、富の流れが根底から変わる。塩商人たちの命脈を、お前一人が完璧に掌握することになるのさ。とんでもない覇権の価値よ」


彼らがその巨大な変革の予兆に息を呑んだ、まさにその瞬間だった。


廃坑の最も深い闇の奥深く、地底の空洞の至る所から、バリバリと不気味な岩の砕ける音と共に、低く地鳴りのような生物の不快な唸り声が響き渡った。


「全員、迎撃の陣形を駆動させろ! 死角から無数の獲物が急速接近中だ!」


カタリナのいない陣形。しかし、ティグリスのその本物の前衛戦士としての鋭い警告が、狭い廃坑に反響する。

分岐の闇から姿を現したのは、通常の獣の概念を遥かに逸脱した、漆黒の毛並みを纏った不気味な魔物の群れであった。

皮膚の至る所が地下の毒素によってただれ、腐り果てているにもかかわらず、その動きは驚異的な俊敏さを誇っている。《ダークファング》と呼ばれる、地下の汚染環境に完全に応答して進化した、最悪の異常群体。


「おいおい、冗談だろ!? 数が尋常じゃねぇぞ、これ!」


ステファンが、押し寄せる闇の質量に驚愕の声を上げた。

十匹。二十匹。三十匹。

暗闇の帳を内側から引き裂くようにして、赤い目を不気味に輝かせた魔物の津波が、一斉に彼らの陣形へ向けて突進してきた。


「うわぁ、多すぎるわよ! 完全に包囲されたわ!」


ドミニクが、大容量の水桶を構えながら、その豊かな身体を僅かに後ろへと後退らせた。

しかし、その極限の混沌の最前線に立ちながら、クルザードの頭脳の中は、驚くほど不気味なまでに静かで、澄み渡っていた。

鑑定の数値が、押し寄せる三十匹以上の魔物の移動速度、重心の移動、次に連中がどのルートを通って奇襲を仕掛けてくるのかという因果関係を、完璧な一本の線として彼の脳内へと整然と弾き出し続けていたからだ。


迷いは、一パーセントも存在しなかった。


「ティグリスは左の分岐を完全に封鎖! ステファンは中央の突進を正面から完璧に叩き潰すんだ!」

「ドミニクは後衛からの魔力供給で、全員の防壁の維持を最優先にサポートしてくれ!」

「ガルドは一歩下がって、採掘用の機材の安全を確保するんだ。これが最も手戻りのない最高効率の人員の振り分けだよ!」


彼の放ったその一切の躊躇のない、鋭く通る声の差配に従い、全員の肉体がまるで一つの生命体のパーツのように完璧に連動して駆動した。


「いいだろう! この程度の数、私の最高の運動エネルギーの餌食にしてあげるよ!」

ティグリスが泥を力強く蹴り上げ、空間をしならせるような驚異的な速度の爪の一閃で、左側から飛び込んできた三匹の魔狼の首を正確に刈り取っていく。


「っらぁ! 舐めるんじゃねぇぞ、この泥犬どもがぁ!」

ステファンもまた、全魔力を込めた渾身の拳を正面から叩き込み、魔物の強固な頭蓋骨を次々と粉砕していった。


後方からはドミニクの放った流体の防壁が完璧なタイミングで戦線を維持し、陣形は一分の手戻りもなく機能していた。

しかし、敵は水分の中に高濃度の毒素を溜め込んだ異常個体だ。ステファンの拳によって肉体が激しく破裂した瞬間、その体内から、大気を一瞬で紫に染め上げる濃厚な「腐毒の煙」が、爆発的な勢いで空間全体へと広く拡散していった。


「全員、即座に呼吸を止めなさい! その紫の煙を吸い込んだら、一瞬で肺の細胞が壊死して終わるわよ!」


ジェシカが顔色を変えて鋭い声を張り上げた。狭い廃坑の閉塞空間。逃げ場などどこにも残されてはいない。


その絶望の煙の拡散の正面へ、クルザードは無言のまま、確実な一歩を踏み出して前に出た。

彼の左手が、紫に染まる空間に向けて静かに掲げられる。


自らの体内に眠る、あの底の知れない莫大な光属性の魔力の源泉。

先日、ギルドの治療室で一人の斥候の命を完全に修復した、あの圧倒的な再生の光のエネルギー。

その門を、彼の脳内の計算によって、最も正しい不純物の排除の術式へと書き換えて解放していく。


新魔法、《ピュリフィケーション(完全浄化)》。


「戻れ」


彼が静かに、しかし確信に満ちた声でそう念じた瞬間、廃坑の全体が白昼の如き眩い純白の光によって完璧に埋め尽くされた。

一瞬の、盲目の閃光。

その聖なる光の波動が空間を滑らかに通り抜けた次の瞬間、彼らの行く手を阻んでいたはずのあの濃厚な紫色の毒煙は、化学変化を起こしたかのように、跡形もなく完全に消去され、あとに残されたのは、驚くほど清涼で澄み切った最高の空気の流れだけであった。


戦いの最中にいた全員が、彫像のようにその場にピタリと動きを止めた。


「……は? 嘘、でしょ……?」


ドミニクが、魔法の手を構えたまま呆然と声を漏らした。

クルザード自身も、掌に残るその光の残滓を見つめながら、僅かに驚きを隠せないでいた。できた。完璧に、物質の結合の本質を理解し、不純物だけを論理的に排除するプロセスの具現化。

光魔法による完全なる無菌化と浄化。この手応えさえ掴めれば、資源の加工の効率はさらに跳ね上がる。


「クル! 呆けている暇はないわ、後ろから最後の個体が跳躍しているよ!」


ティグリスの鋭い索敵の反応。しかし、クルザードの肉体の論理的な対応は、彼女の警告よりも遥かに早かった。

背後の闇から、完璧に気配を隠して彼の喉元へと飛びかかってきていた一匹の魔物の姿。

クルザードは振り返ることもなく、掌のすべての水属性の魔力を滑らかに解放した。


「ウォーターバインド(水縛)」


空気中の湿気から瞬時に錬成された、強固に回転する「水の縄」が、空中を舞っていた魔物の全身へと寸分の狂いもなく完璧に絡みつき、その爆発的な移動速度を一瞬にして無条件で完全なゼロへと制動した。

空間にカチリと固定され、身動きの取れなくなった魔物の姿。


クルザードは滑らかな動作で腰の古びた剣を引き抜くと、一切の無駄な軌道を排除した鋭い一閃を放った。

風を切り裂く冷徹な音が響いた瞬間、魔物の首は綺麗に刎ね飛ばされ、泥の中にどさりと力なく崩れ落ちた。


廃坑内に、心地よいほどの完全な静寂が戻る。全員が、言葉を失って彼の一挙手一投足を見つめていた。


「……おいおい、お前」

ステファンが、自らの拳をさすりながら、呆呆とした顔で引きつった笑声を漏らした。

「なんか、しばらく見ないうちに、普通にめちゃくちゃ強くなってねぇか、お前?」


「はは、多分、気のせいさ。俺は相変わらず戦闘は苦手だからね。ただ、状況の不効率な動きが前より目につきやすくなっただけの、普通の荷物持ちだよ」


「いや、普通の荷物持ちは、一瞬で毒煙を消し去って、見向きもせずに魔物の首を刈り取ったりしないわよ!」


ステファンのツッ込みに、全員が一斉に大声を上げて吹き出した。クルザード自身、最近の己の肉体の急速な進化の正体には、首を傾げるばかりだった。

戦闘は苦手、その本能的な感覚は今も変わらない。でも――負けるという不効率な未来の予測が、今の彼の頭脳の中には、ただの一パーセントも弾き出されなくなっていた。それだけは確かな事実だった。


戦闘の完全な終了の後。

クルザードは、廃坑の最深部にうず高く積まれている、あの黒く汚染された巨大な岩塩の結晶層の前へと歩み寄り、その表面に両手を静かに触れさせた。

黒い膜。致命的な汚染。重金属の毒素。

でも、そのぶ厚い不純物の防壁の向こう側には、世界で最も瑞々しく、高純度な最高品質の塩の組織が、完璧な因果関係を持って眠っている。

見える。今の彼の目には、物質のすべての結合の形が、完璧に数値として見えていた。


「処理を開始するよ。みんな、少しだけ目を瞑っているといい」


彼がそう告げると同時に、体内のすべての光属性の魔力が、一気の奔流となって岩塩の全体へと注ぎ込まれた。


新魔法、《ピュリフィケーション(完全浄化)》。


ドォン、と重苦しい轟音と共に、廃坑の最深部が、先ほどを遥かに凌駕するほどの凄まじい純白の光の波動によって完全に満たされた。

結晶の内部に直接作用する、完璧な浄化のプロセス。

岩塩の分子構造に強固に結合していた、あの忌々しい重金属の毒素、腐敗菌の細胞、そして黒い汚染の水分の成分だけが、光の熱によって一瞬にして綺麗に引き剥がされ、外部へと完全に霧散していった。


光の残滓が、ゆっくりと空気中に消え去っていく。

あとに残されたのは、居合わせた全員が、驚愕のあまりに息を呑んで絶句するほどの、奇跡の光景であった。


先ほどまでどす黒く汚れて死の気配を放っていたあの巨大な岩石の山は、今や、外からの光を美しく反射して眩いばかりに輝く、完全なる「純白の輝く岩塩の結晶」へと、その姿を完璧に変貌させていたのだ。


「……嘘、でしょ……。長命種の歴史の常識が、本当に目の前で跡形もなく塗り替えられちゃったわ……」


薬師のジェシカが、膝をガクガクと震わせながら、その美しく輝く白い結晶を見つめて絶句した。


「大成功、かい? クル」

ドミニクが、期待に満ちた目を輝かせて覗き込んでくる。

クルザードは無言のまま、削り落とされたばかりの純白の塩の結晶の一片を指先で掬い上げると、自らの口元へと運び、滑らかにその味を確かめた。

そして、静かに目を閉じて、舌の上に広がる成分のデータを脳内で咀嚼した。


強烈な、突き抜けるような塩気。

しかし、これまでの市場に出回っていた粗悪品のような、舌を刺すような不快な苦味や、雑味の濁りはただの一パーセントも存在しなかった。小麦の甘みを何倍にも引き立て、肉の旨味を極限まで活性化させる、完全なる無菌化の「至高の塩の味」。


「美味い。完璧な精製の手順さ。これ以上の品質の塩は、世界中どこを探しても絶対に存在しないね」


ガルドが、その答えを聞くや否や、灰色の髭を揺らして豪快に笑い出した。

「がははは! 塩を食って一言目に『美味い』なんて言葉を平然と叩く奴、俺の長い人生の中でもお前が初めてだぜ、小僧!」


「いいや、ガルド。これはただの個人の感想ではなく、社会の構造を回すための厳然たる事実さ」

クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、真顔で言葉を続けた。


「この純白の塩があれば、俺たちの拠点の価値は、今の何倍にも跳ね上がる」


ヴァレリアの瞳の質が、その瞬間、一人の冷徹な商人の顔へと完全に激変した。

「……ああ、間違いないわ。これだけの高純度の塩が、王国の規制を無視して無限に量産できるのなら、私たちはこの最果ての地で、完全なる『経済の覇権』を完璧に掌握できるわよ」


「ただの塩で、そこまでの規模が変わるものかい?」

ステファンが首を傾げる。


「変わるわよ、バカザル! 塩だからこそ、すべてが決まるのよ!」

ヴァレリアは興奮を隠せない声で、確信に満ちた未来の予測をまくしたてた。

「冬を越すためのすべての保存食の生産効率」

「商隊が遠くまで移動するための兵站の維持」

「そして、不条理な権力に対抗するための、絶対的な富の流通」

「そのすべては、この高純度な塩の絶対量によって完璧に決定されるのさ」

「これほどの代物、王都の大商会へ持ち込んでみなさい。金貨がそれこそ雨のように飛んでくる、とんでもない革命の資源よ!」


クルザードは彼女の称賛を聞きながら、手を滑らかにかざした。

「アイテムボックス」の起動。

目の前に積まれていた、何十トンもの巨大な純白の岩塩の結晶層が、ほんの一瞬の出来事として、質量を完全に無視して彼の空間の中へとすべて整然と収納されていった。

その相変わらずの規格外の容量の手際に、全員が未だに慣れない顔をして肩をすくめた。


「本当に、お前という男のその袋の容量、いつ見ても反則的な便利さね……」


「ただの資源の維持さ。これだけの質量を常温で完璧に維持できる空間があるなら、使わなければ大損だからね」


「馬車も、頑強な護衛の運搬人員も一パーセントも必要ないなんてね。お前一人が歩くだけで、世界の大規模な物流の仕組みが完全に中央から終わってしまうわよ」


ヴァレリアが、呆れ果てたような、しかし最高の利益を確信した素晴らしい笑みを浮かべた。

クルザードは背中の荷袋を背負い直しながら、自らの頭脳の中で、さらにその先にある社会の歯車の繋がりを、完璧な一本の線として完全に理解していた。


物流の掌握。

完璧な保存技術の確立。

高純度な塩による、資源の革命。

至高の発酵パンと、温かい飯の供給。

そして、それらが複合的に絡み合うことによって発生する、爆発的な「人口の増加」。

人が増え、技術が残り、彼らが自らの意思でここに居着く。そのすべての因果関係の先には――

古い街の権力を完全に置き去りにして、新たなる巨大な「国家」の基盤が勝手に形成される未来が、彼の合理主義の計算によって完全に看破されていた。


「……よし、全ての資源の回収の流れは完了したよ。帰ろう、みんな」


「次は、いよいよお前の大好きな飯の時間かい?」

ティグリスが、待ちきれずにその虎耳を動かして気さくに尋ねた。


「ああ、当然さ。今日手に入れたこの最高の純白の塩を使って、みんなの肉体を芯から満たす、至高の夕食の仕込みを開始するからね」


その日の夜。

崖の上の古い廃屋の内部には、遠征を完璧に完遂した全員が集まり、いつものように温かい湯気が盛大に立ち上っていた。


今夜の拠点の飯は、今日獲得したばかりのあの純白の岩塩を、最も贅沢に、そしてシンプルに応用して作られた「魔物肉の塩焼き」であった。

高温の蒸気調理によって驚くほどフワフワに柔らかく仕上げられた魔物の極上肉。その表面に、不純物を完璧に排除したあの岩塩の結晶を、クルザードの手によって絶妙な加減で滑らかに振り塩してある。


香ばしい脂が暖炉の火によってじゅうじゅうと音を立てて弾け、空間には五感を芯から震わせるような、最高の食欲の香りが広く行き渡っていった。


集まったメンバーたちが、一斉にその肉の一片を口へと運んだ。

そして、その場で落雷に打たれたように、完全に物音一つ立てられない静寂に包まれた。


「…………」

「…………」


数秒の沈黙の後。

「……何よ、これ。本当に、ただ塩を振って焼いただけの肉なの……?」

ドミニクが、噛み締めるたびに溢れ出る驚異的な旨味に、呆然とした声を漏らした。


ティグリスもまた、その黄色い目を大きく見開いたまま、激しく動きを止めていた。

「肉の質の格が、根本からすべて違っている……。塩の雑味が一切ないから、肉本来の持つ自然な甘みと脂の美味さが、口の中で爆発的な勢いで広がっていくわ……!」


最高腕のガルドは、自慢のドワーフの酒を豪快に喉へと流し込みながら、蕩けるような最高の笑顔を浮かべた。

「がははは! たかが塩の加減一つで、これほどまでに出す飯の格が変わるなんてな! 降参だ、小僧! お前のその腕前、本気で恐れ入ったぜ!」


クルザードは自らの椀を傾けながら、静かに、しかし確信に満ちた声で頷いた。

「すべての生命維持において、塩の管理は最も重要な基礎だからね。正しい資源の手順を踏めば、結果は常に最高値として返ってくるさ」


ジェシカは、熱々の肉を美味しそうに咀嚼しながら、崖の上の敷地全体を見渡して小さく呟いた。

「……確実だね、お前。この最高の純白の塩の噂が一度街へ流れ出してみなさい。明日からはそれこそ、利権を求めて街中の規格外の人間たちが、自らの意思で怒涛の勢いでここへ押し寄せてくるわよ」


「ああ、大歓迎さ」

ヴァレリアもまた、至高の味わいに頬をこれまでにないほど緩めながら、不敵な笑みを浮かべた。

「美味い飯、確実な治療、そして覇権の塩があるこの場所はね、追いつめられた街の人間たちにとって、唯一の完璧な救いの楽園だからね。人は必ず、より生きやすい場所へと自然に流れるのさ」


廃屋の外では、冷たい雪が硬い石畳を白く染め上げ、最果てのアルフェイドは過酷な冬の混沌に沈んでいた。

それでも。

この港外れの崖の上に佇む、あの小さな最強の約束の居場所だけは、全く異なる世界の時間が、完璧な速度で力強く駆動していた。


美味い飯。

天国のようなお風呂。

不純物のない純白の塩。

そして、すべての才能を束ねる一人の荷物持ちの「判断」。

ただそれだけの、世界で最も揺るぎない絶対的な合理の軸を中心に据えることで――

澱んだ都市国家を根底から塗り替え、新たなる歴史の巨大な歯車を駆動させるための、最強の“村、あるいは国家”の形が、崖の上のこの場所を中心にして、今、完璧な奔流となって美しく、そして確実に形作られようとしていた。






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