15:風呂
回復革命。
あの第三街道を恐怖の底に叩き落としていた魔狼群の電撃的な討伐から、三日の月日が経過していた。
崖の上に佇む古い廃屋の内部は、現在、常人であれば顔を顰めずにはいられないほどの凄まじく強烈な匂いに満ちあふれていた。
「……うわ、クソッ。いくら何でも部屋の中が本気で臭すぎるぞ」
拳闘士のステファンが、鼻を両手でしっかりと押さえながら、本気の真顔で文句を漏らした。
「他人のことを言える立場か、ステファン。そういうお前自身からも、相当に酷い泥の臭いが立ち上っているよ」
虎獣人のティグリスが、耳を不快そうに伏せながら即座に鋭いツッコミを返す。
「それに、お前のその衣服、魔狼の返り血を浴びたままで、猛烈な獣臭さと血生臭さを撒き散らしているぞ」
「あぁ? 何だと、この居候のデカ虎が。私の臭いをこれ以上愚弄するなら、今すぐ外で白黒ハッキリつけてやろうか?」
「面白いね。私の爪で、その汚い革鎧ごと泥の中に沈めてあげるよ」
またしても、いつもの血気盛んな小競り合いが始まろうとしていた。
仕込みの道具を動かしていた金髪のドミニクが、心底呆れたような深い溜息を漏らしながら、巨大な石鍋の木べらを滑らかに回した。
「はいはい、そこまでにしなさい。神聖な飯の時間の前に、無駄な喧嘩で体力を消耗するのは禁止よ」
クルザードは、巨大な石窯の傍らに佇んだまま、無言で彼ら全員の肉体の状態を静かに見つめていた。
臭い。それは論理的な事実として、弁護の余地なく普通に臭かった。
こびりついた乾いた血の跡。
過酷な重労働によって流された大量の汗の残滓。
生物としての剥き出しの獣臭。
錆びついた武器や防具が放つ特有の鉄臭さ。
そして、三日間にわたって延々と繰り返されてきた、魔狼王の巨体の解体作業によって染み付いた強烈な脂の匂い。
これほどの死闘と重労働の連続を、冷たい雨の中で完遂したのだから、肉体がそれだけの悪臭を発するのは生物の駆動システムとして当然の因果関係であった。
しかも――このアルフェイドという残酷な都市国家において、身体を清潔に保つ「風呂」という文化の基盤は、致命的なまでに脆弱であった。
膨大な金を持つ一部の富裕な大商人や、中央の傲慢な貴族階級であれば、専用の湯殿で贅沢な湯浴みを楽しむ合理的な設備もある。
しかし、日々の生存に追われる一般の冒険者や底辺の労働者たちの現実は、全く異なっていた。
彼らに許されているのは、冷たい地下水をバケツでそのまま身体にぶっかけ、汚れを適当に水で流す程度の、極めて雑な処置だけ。特に本格的な冬の冷気が入り始めるこの時期は、水を被る行為そのものが致命的な体温低下を招くため、数ヶ月間も身体を一切洗わずに放置するのが、この街の連中の悪しき常識となっていた。
その結果が、社会の至る所に最悪の「澱み」を生み出している。
不衛生な環境の放置によって、爆発的に増え続ける皮膚病の蔓延。
衣服の隙間に繁殖する、有害な寄生虫の被害。
小さな戦闘の傷口から雑菌が侵入し、一瞬にして肉組織が腐って死に至る傷の腐敗。
街の全域を覆い尽くす不快な臭気。
そして、それらが複合的に絡み合うことによって発生する、街全体の致命的な「衛生環境の悪化」。
クルザードが彼らの肉体に視線を固定した瞬間、瞳の奥で鑑定のシステムが強制的に起動し、脳内へ直接データの奔流を流し込んできた。
『対象:集団全体の皮膚組織。有害な雑菌の繁殖率:七十四%に上昇』
『状態:慢性的な不衛生による軽度の皮膚炎の兆候あり。細胞再生の阻害を確認』
『肉体:過酷な筋肉疲労の蓄積。血流の滞りによる乳酸の沈殿反応を感知』
『脳内:睡眠の質が著しく低下。緊張状態の持続による筋肉の過度な硬化』
『結論:外部からの熱刺激および完全な洗浄が必要。速やかな熱水浴を強く推奨』
「……っ」
相変わらず、こめかみを直接万力で絞られるような鋭い頭痛が走り、視界が情報過多で一瞬だけぐにゃりと揺らめいた。しかし、現在の彼はその痛みを深く息を吐き出すことで即座にコントロールし、状況の流れを決める明確な「判断」を下した。
「……全員、よく聞いてくれ。今からこの場所に、大型の『風呂』を構築するよ」
その場にいた全員の動きが、カチリと完全に凍りついた。
「は?」
ドミニクが、抱えていた薪の束を持ったまま、不思議そうに首を傾げた。
「風呂? お前、今、この最果ての崖の上の廃屋に、あの貴族様しか持っていないような湯殿を作ると言ったの?」
「ああ。身体を芯から温める、熱い『湯』の循環システムさ」
「いや、言っている言葉の意味は一文字ずつ完璧に理解できるわよ? でも、なんでまたこの目まぐるしい魔狼の処理の最中に、そんな大がかりなものを必要とするのよ?」
「現在の全員の肉体から、過酷な戦闘による筋肉疲労が一パーセントも抜けていないからね」
クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべ、気さくなトーンを崩さないまま、ハキハキとした明晰な声で言葉を繋いだ。
「肉体がこれだけ冷え切って汚れていると、デニーゼの魔法をもってしても、小さな怪我の治りや細胞の再生速度が致命的に低下して大損を出すのさ」
「さらに、睡眠の質が悪化して翌日の作業能率が下がり、街全体の衛生環境の悪化にも繋がる。そして何より――ご覧の通り、全員が例外なく普通に猛烈に臭いからね」
「あははは! 最後にものすごく直球な本音が出やがったな!」
ステファンが、お腹を抱えて大声を上げて快活に笑った。
ティグリスは、自分の虎の尻尾の毛並みを僅かに気にするようにしながら、フンと力強く鼻を鳴らした。
「……確かに、自分の鼻が曲がりそうなくらいには臭うな。戦士として、この臭気は索敵の際に致命的な死角になる。気にはなっていたんだ」
「だろう? だからこれは、君たち全体の戦闘駆動効率を最高値に維持するための、最も合理的で必要な判断さ。さあ、作業の振り分けを開始しようか」
クルザードは当然の事実を告げるように言うと、すでにハキハキとした足取りで、廃屋の裏手に広がる広大な空き地へと歩みを進めていた。
裏庭の敷地。そこには、これまでの遠征や商人たちから回収してきた、壊れた頑強な建材の木材。
隆起させた大量の石材。
巨大な陶器の樽。
そして、ガルドの鍛冶場から仕入れておいた、ぶ厚い鉄板の数々。
最高腕のドワーフ鍛冶師ガルドが、その並べられた資材の山を見て、不審そうにその灰色の立派な髭を揺らした。
「おい、坊主。一丁前に大がかりな資材を集めやがって、一体どんな手順でその湯殿を組み立てるつもりだ?」
「全員が、同時に足を伸ばして肩まで浸かれるだけの、巨大な『湯船』の構築さ」
「正気か、お前? それだけの莫大な質量の熱水を張るとなれば、水の確保だけで丸一日、それを沸かすための暖炉の薪の消費量だけでも、一商会が破産するほどの大損になるぞ!」
「だからこそ、俺の魔力と技術の循環の仕組みを使うのさ。無駄なコストをかけるつもりは一秒もないからね。極めて合理的さ」
クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべると、落ちていた木枝を拾い、泥の地面の上に滑らかな動作で一本の直線を引いた。
そこから流れるように描き出されていく、一分の狂いもない極めて精密な、即席の浴場の設計図。
地下水を引き込むための、澱みのない完璧な水路の配置。
使用した汚水を一瞬で外部へと排除するための、精密な傾斜を持つ排水のルート。
熱量を一パーセントも外部へ逃がさないための、強固な熱循環の構造。
そして何より、先ほどガルドの鍛冶場で完全に本質を掌握した、あの高温水蒸気による「蒸気循環の制御」の応用。
ガルドは、その泥の上に描かれていく完璧な設計のプロセス、そしてクルザードの淀みのない手の動きを真横で見つめるうちに、その鋭いドワーフの目を驚愕に限界まで見開いた。
「……おい、小僧。お前、その脳みその中身、一体どういう構造の計算を行っていやがるんだ?」
「さあね。俺自身にも詳しい原理はよく分かっていないさ。ただ、そこにある資源の最も無駄のない正しい流れのルートが、目に見えているだけだよ。頭痛がしてうるさいくらいさ」
「見えているだけで、こんな一国の工兵が数ヶ月かけて引くような完璧な図面を、一瞬で弾き出せるわけがねぇだろ、クソッ!」
ガルドが頭を抱えて唸るが、クルザードは気さくに笑うだけで、自らの作業の手を止めることはしなかった。
「さあ、方針は決まった。ティグリス、君のその圧倒的な怪力を活かして、設計通りの位置にこの頑強な石材を寸分の隙間もなく綺麗に積み上げていってくれ」
「いいだろう。石を積むだけの単純な作業なら、私のこの腕力の最高の使い道さ」
ティグリスが黄色い瞳を輝かせ、重い岩石を軽々と持ち上げて配置を始めた。
「ドミニクは、カタリナたちと協力して、裏の崖から窯の火力を維持するための乾いた薪の仕込みと、周辺の木材の切り出しをお願いするよ」
「はいよ、任せなさい! クルの設計の通りに、完璧な速度で揃えてみせるわ!」
誰も、彼から強制的な命令を下されているという不快な感覚は持っていなかった。
クルザードが中心に立ち、全体の最も効率の良い流れの軸を一つ示すだけで、集まった者たちが自らの意思で動き、各自の才能を最高値に発揮できる場所へと自然に「振り分け」られていく。ただ、それだけのシンプルな差配で、バラバラだった人間の力が、一つの巨大な建設の奔流となって回り始めていた。
半日という、常識では到底考えられないほどの驚異的な短時間。
崖の上の廃屋の裏手には、完全に機能的な「簡易浴場」の全体像が堂々と完成を遂げていた。
四方を強固な石組みの壁で囲み、中央に鎮座するのは、魔法によって結合された巨大な大鍋式の熱水槽。
その槽の真下には、熱効率を極限まで高めた石窯が設置され、赤々と燃え盛る火が鉄板を強力に熱している。
さらにその横には、クルザードの水魔法によって一瞬で最上の地下水が自動供給される精密な水路が繋がり、彼が新たに開発した、あの高温水蒸気を内部で絶え間なく循環させる「スチームパイプ」の技術によって、一度沸いた湯の温度が、一パーセントの熱量も失うことなく完璧に維持される仕組みになっていた。
見た目は無骨で簡易的だが、その内部構造の合理性は、中央の王侯貴族が持ついかなる豪華な湯殿よりも遥かに機能的で洗練されていた。
「……本当に、出来上がっちまったな」
ステファンが、その湯気の上る巨大な湯船を見つめながら、呆然とした声を漏らした。
普通の人間の職人がこれだけの大規模な浴場を作ろうとすれば、事前の資材調達だけで数週間、石の切り出しと配管の工事だけで数ヶ月の莫大な時間と手戻りが発生するのが世界の常識だ。
しかし、クルザードはその古い世界の常識を、自らの土属性、石属性、水属性、そして新たに掌握した蒸気の力を完璧に組み合わせることで、ただの「資源の処理の工程」として一瞬で具現化してみせたのだ。圧倒的な合理主義の具現化。
「お前……本当に、ただの飯を作るだけの料理人なのかい?」
ティグリスが、自らの手のひらの汚れを見つめながら、畏敬の念を込めて再び尋ねた。
「はは、最近になって、俺も自分の本職が何なのか、少しだけ自信がなくなってきたところさ。ただの、背中に大きな荷袋を背負った、陽気な資源の管理者ということにしておいてくれよ」
クルザード自身も、完成した浴場の熱気の数値を見つめながら、気さくな苦笑を漏らした。彼にとっては、これもすべて無駄な不衛生を排除するための、ただの当然の「判断」の結果に過ぎなかった。
ドミニクが、大鍋の湯の中にその細い手を恐る恐る差し入れた。
「うわぁ……本当に温かい。それどころか、信じられないほどに心地よい熱さだわ……」
白い湯気に照らされ、彼女の美しい顔が一瞬にして蕩けるように柔らかく緩んでいく。
「よし、流れは完璧だ。冷めないうちに全員、順番に入るといい」
「おう! それじゃあ、待ちきれねぇから俺から一番乗りで入らせてもらうぜ!」
ステファンが、その場で豪快に服を脱ぎ捨てようと、革鎧のベルトを外し始めた。
「待ちなさい、この野蛮なバカザルが」
ティグリスが、一瞬にしてその黄色い瞳を殺気立たせ、鋭い爪をステファンの喉元へと突き立てて睨みつけた。
「ここにはドミニクやヴァレリア、ジェシカといった、うら若き女性陣の目があるのが見えていないのかい?」
「あぁ!? 別に同じ釜の湯に浸かるだけだろ、減るもんじゃなし、気にするなよ!」
「今すぐその汚い頭部を根元から噛みちぎって、ここの排水路に流してあげようか?」
「怖ぇな、相変わらずこの虎は!」
ドミニクが、その二人の賑やかなやり取りを見て、堪えきれずに大声を上げて笑った。
「あははは! だったら、時間を完璧に区切って、男女交代で入れば何の問題もないじゃない!」
「……なるほど、その振り分けが最も手戻りがなくて効率的だね。だが、一回ごとに湯を入れ替えるのは熱量のロスが大きいから、そこは俺の魔法で完璧に無菌化の処理を施し続けるよ。……それにしても、交代の管理は少しだけ面倒だね」
クルザードが、木べらを手にしながらぼそりと呟いた。
居合わせた女性陣の全員が、その彼のあまりにも色気の欠片もない、心底「面倒くさそう」な視線を一斉に凝視した。
「何だい。俺の判断の計算に、何か重大な見落としでも生じているかい?」
「ううん、構造的には完璧よ。そうじゃなくて……クルって、本当にこういう、女の人の身体とかそういう方面に関しては、本気で一パーセントの興味も関心も抱いていないのね」
ドミニクが、呆れと感心が入り混じった不思議そうな顔で覗き込んできた。クルザードは少しの間だけ、暖炉の揺れる赤い火を見つめて思考を巡らせた。
そして、彼はいつもと変わらない、ハキハキとした明るい声で即答した。
「……そんな不確実な感情の揺らぎに、貴重な脳の処理能力を割くのは、極めて効率が悪いからね。それよりも、今夜のみんなに配るべき大鍋のスープの塩加減の計算の方が、数百倍は重要さ」
「あははは! 終わってるわ、この男! 生物としての何かの機能が最初から完全にバグってるわよ!」
ドミニクの快活な笑声を皮切りに、全員が一斉に盛大な大声を上げて吹き出した。彼の一片のブレもないその徹底ぶりが、逆にこの場所にいる全員の心を、何よりも深く安心させてくれるのだ。
結局、彼の差配通りに厳密な時間制限を設けた男女交代制が採用されることとなった。
最優先として、最初に浴場へと案内されたのは女性陣の三人――ドミニク、ティグリス、そして大商人のヴァレリアであった。
白い豊かな湯気が満ちあふれる、強固な石組みの浴場。
三人は、衣服を綺麗に脱ぎ去ると、なみなみと湛えられた熱々の極上の湯の中へと、その美しい身体をゆっくりと静かに沈めていった。
「…………」
「…………」
「…………」
溢れ出る熱水が、石の床を滑らかに伝って排水路へと流れていく。
最初の数秒の間、三人はあまりの衝撃の心地よさに、ただの物音一つ立てられない完全な沈黙に包まれていた。
そして。
「……何よ、これ。一体、何が起きているの……?」
ドミニクが、湯の中に両肩まで深く浸かりながら、呆然とした声を漏らした。
全身を優しく包み込む、圧倒的な熱の質量。
毛細血管の一本一本が一瞬にして劇的に拡張し、肉体の奥底に蓄積していたすべての過酷な疲労の澱みが、湯の中に解けるようにして物凄い勢いで抜けていく。硬化していた筋肉が柔らかく緩み、脳の緊張が綺麗さっぱり消え去っていく。
虎獣人のティグリスは、湯船の縁に頭を預け、その黄色い目を静かに閉じていた。
「……あぁ。本当に、生まれて初めてだ。こんな感覚は」
「風呂に入るのが、かい?」
ドミニクが尋ねる。
「いいえ、違うよ、ドミニク。こんな風に、何の警戒も必要とせず、ただの無防備な裸になって、心から安心して目を閉じることができるなんて、私のこれまでの人生には、ただの一秒も存在しえなかったのさ」
その声は、湯気の中で、極めて静かに響いていた。
「私たち獣人という種族はね、この最果ての地ではいつだって、人間に不条理に追われ、捕まり、資産を奪われ、奴隷市場に売られるだけの標的に過ぎない。だから、眠りにつく時であっても、常に次の瞬間に跳躍して敵の首を噛みちぎるための、完全な臨戦態勢の準備を脳の片隅で維持し続けているのさ」
「……でも、今のこの場所は」
彼女は、濡れた黒髪をしならせながら、小さく、心底晴れやかな笑みを浮かべた。
「不思議だね。背後に完璧な信頼のおける防壁があるのが分かっているから、明日への生存の恐怖を完全に忘れて、このまま深く心地よく眠りにつけそうだよ」
大商人のヴァレリアもまた、自らの豊かな身体を湯の底へと静かに沈めながら、感嘆の溜息を漏らした。
「……信じられないわね。私の商会が中央の貴族たちから巨額の金を積まれて買い付ける、あの最高級の保養地の湯殿であっても、これほどまでの劇的な回復効率をもたらす仕組みは、どこにも存在しないわよ」
「貴族様用の風呂って、もっと凄まじく豪華で広いんじゃないの?」
「見た目が豪華なだけで、構造的には不効率極まりないただの『浅い水溜り』よ。熱がすぐに逃げるし、一度に使える湯の絶対量も少なくて狭い。クルの作ったこれは、人間の肉体を最も完璧に修復するための、完全なる機能美の結晶ね」
ドミニクは、その二人の称賛を聞きながら、湯気の中から外の方向へと、自然と視線を向けた。
防壁の向こう側。赤い暖炉の火の前に立ち、大きな木べらを滑らかに動かしながら、今夜の飯の管理に真剣な目を向けている、あのクルザードのブレない背中。
「……うん。本当に変な男だけど、あいつがそこに立っているだけで、何故か心の底から絶対に大丈夫だって、安心できるのよね」
三人が、湯気の中で同じ優しい笑みを浮かべ、その暖かな時間はどこまでも穏やかに流れていった。
女性陣との交代の後、今度は男たちの時間が始まった。
「っっっっはぁぁぁぁ……! 天国! 天国が本気でここに現れやがったぞ、おい!」
拳闘士のステファンが、湯船の中に飛び込むなり、崖の上全体に響き渡るような凄まじい絶叫の歓喜の声を張り上げた。
「うるせぇよ、ステファン! 狭い浴場の中でそんな大声を出すんじゃねぇ!」
最高腕のガルドが、分厚い両腕を湯船の縁に叩きつけながら、怒鳴り散らした。しかし、そのドワーフの立派な灰色の髭の奥の顔は、あまりの湯の心地よさに、蕩けるようにデろデろに緩みきっていた。
「……だが、認めざるを得ねぇな。筋肉の芯まで熱が染み込んで、長年の重労働で死にかけていた俺の右肩の痛みが、物凄い勢いで消えていくのが分かるぜ。身体が信じられないほどに軽い」
「血流の流れが劇的に改善され、乳酸の蓄積が完璧に分解されているからね。傷口の無菌化も完了しているよ」
クルザードは浴場のすぐ横に立ち、スチームパイプのレバーを滑らかに操作しながら、鑑定の数値に従って湯温を常に一定の最適値へと維持し続けていた。一秒の無駄もない、完璧な熱量管理。
彼の瞳の奥では、メンバーたちの肉体のデータが、素晴らしい速度で回復の青い記号へと更新されていくのが見えていた。
『対象:集団全体の血流速度:適正値に上昇。筋肉の過度な硬化が完全緩和』
『効果:疲労回復率:通常値の三百五十%を記録。細胞の再生駆動が最高値に到達』
「……素晴らしいね。極めて効率が良いよ。これで明日の全員の作業駆動効率は、飛躍的に向上するさ」
「お前はなんで、これほどの極楽を目の前にして、そんなに一人の職人みたいに冷徹に冷静でいられるんだよ、相変わらず意味が分からん奴だな!」
ステファンが大笑いしながら、湯の飛沫を跳ね上げた。
クルザードは木べらを手にしながら、少しの間だけ思考を巡らせ、ハキハキとした声で答えた。
「当然さ、ステファン。全員の肉体の澱みがこれだけ綺麗に消え去れば、明日からの物資の運搬速度はさらに跳ね上がる」
「健康状態が維持されれば、市場に並べるべき美味いパンの生産量も何倍にも増やせる」
「不衛生による無駄な病気の発症率を完全にゼロに抑え込めば、みんなが何年も、長く最高のパフォーマンスで働き続けられるだろ? すべてはただの、街全体の最高効率化の計算さ」
「……がははは! やっぱりお前、冒険者なんかより、よっぽど国を動かす大商会の主にこそ、最高に向いているぜ!」
ガルドの豪快な笑声が響き、男たちの温かい時間はどこまでも賑やかに流れていった。
その日の夜。
崖の上の古い廃屋の内部には、昼間の大騒ぎを終えた全員が集まり、いつものように温かい湯気が盛大に立ち上っていた。
全員の顔からは、これまでの過酷な死闘による疲労や焦燥の色が綺麗さっぱりと消え去り、驚くほどに柔らかく、晴れやかな笑顔が溢れ返っていた。ただそれだけの確かな変化があるだけで、この空間を満たしている空気の質は、昨日までとは完全に激変していた。
虎獣人のティグリスが、高温の蒸気調理によって驚くほど柔らかく仕上げられた、魔狼王の極上肉を口に含みながら、ふと不思議そうに小さく呟いた。
「……何だろうね、お前。上手く言葉にはできないが、この場所にいると、昨日までとは根本的に何かが違って感じられるんだ」
「何がだい、ティグリス。味の調整に、何か非効率な歪みでも生じているかい?」
クルザードがスープの灰汁を掬い取りながら、気さくに尋ねた。
「ううん、味は最高に美味しいよ。そうじゃなくて……ここへ迷宮から帰ってきたときの、胸の奥の感覚の話さ。前まではね、ここはただの過酷な世界を凌ぐための、ただの一時的な『寝床』としてしか見えていなかった」
「でも、今のここは――まるで、自分の本当の故郷に帰ってきたかのような、物凄く深い安心の『家』のように感じられるのさ」
金髪のドミニクもまた、焼きたての白い発酵パンを美味しそうに齧りながら、深く頷いた。
「分かるわ、ティグリス。前までは、ただ雨風を凌ぐためだけのボロ廃屋だったはずなのにね」
「今のここは、全細胞の腹が完璧に満たされて、どんな致命的な怪我を負っても一瞬で治って、おまけにあの天国のようなお風呂まである。この過酷な街の中で、唯一、心から自分自身を取り戻して安心できる、最高の『家』そのものよ」
クルザードは木べらを動かしたまま、彼女たちのその切実な言葉を、静かに耳の奥で聞き流していた。
家。居場所。約束の拠点。
現在の彼の合理主義的な頭脳にとっては、それらの感情的な言葉の本質的な理解は、未だに少しだけ薄いままだった。
しかし――彼らが笑顔を取り戻し、この場所に強固に居着くことで、組織全体の駆動効率が爆発的な勢いで跳ね上がっているという、厳然たる合理的な数値の結果だけは、完全に把握していた。
みんながそう言って笑ってくれるのなら、それは資源の管理者として、極めて「悪くない、正しい判断の結果である」と、彼の胸の奥にも小さな充足感が芽生えていた。
「なぁ、クル!」
拳闘士のステファンが、空になった木椀を掲げながら、輝くような笑顔で尋ねてきた。
「お風呂の次は、一体どんな物凄い仕組みをこの場所に作り出すつもりなんだ? お前の次の一手が、俺は今から楽しみで仕方がないぜ!」
クルザードは大きな木べらを止め、少しの間だけ、揺れる赤い暖炉の火を見つめて思考を巡らせた。
彼の瞳の奥で、再び鑑定のシステムが、アルフェイドの都市国家が抱える次なる巨大な不効率のデータを、冷徹に脳内へと流し込んできた。
『環境:浴場の新設に伴う、周辺の汚水(生活排水)の排出量が通常値の三百%に急増』
『警告:現在のずさんな排水構造のまま放置した場合、近隣の井戸水への汚染が直撃』
『成分:水分中の有機物の沈殿に伴う、病原菌の二次的な爆発増殖を計測』
『結論:数ヶ月以内に、大規模な感染症(疫病)が中央から発生する危険性:極めて高。即座の構造改革が必要』
耳の奥で鳴り響く、不快な警告の記号。しかし、現在のクルザードには、その淀みを完全に消し去るための、最も正しい手順の数式が、最初から完璧に一本の線として繋がって見えていた。
「……よし、流れは見えた。風呂の次、この場所に完璧な構造を持つ『下水道の仕組み』を大規模に構築するよ」
その場にいた全員の動きが、再びカチリと完全に止まった。
「は?」
「お風呂を作って熱水の絶対量が増えたのは良いが、その使用した汚水の処理の仕組みが今の街は致命的に雑だからね」
クルザードは陽気さを排した、しかし気さくなトーンで、淡々と、そしてよく通る声で言葉を続けた。
「このまま汚水をただ地表へ垂れ流しにして放置しておけば、全体の排水の流れが完全に滞り、いずれ近隣の貴重な井戸の水を内部から完璧に汚染して、街の全体に大規模な『疫病の暴走』を引き起こして大損を出すのが目に見えているからね」
大商人のヴァレリアが、そのあまりにも一歩先を行く、国家の最高幹部すら置き去りにするような圧倒的な大局観を聞くや否や、堪えきれずにその美しいお腹を抱えて、大声を上げて激しく笑い出した。
「はははは! 面白すぎるわよ、お前、本当に! ただの一介の元荷物持ちが、お風呂を作ったその日の夜に、街全体の疫病を防ぐための『下水道の都市計画』を大真面目に語り出すなんて、普通そこまで考えるわけがないじゃない!」
「考えるさ、ヴァレリア。人間も、そして彼らが作り出す街のシステムも、正しい管理の手順を誤れば、いつだって簡単に内側から澱んで腐るからね。無駄を無くすことこそが、最大の利益さ」
クルザードは真顔だった。一片の冗談も、大言壮語の気配もない。そこにあるのは、世界のすべての不効率を駆逐するための、冷徹なまでの「資源の管理者としての確信」だけであった。
「……がははは! 本当に、底の知れねぇ面白い坊主だぜ、お前は!」
最高腕のドワーフ鍛冶師ガルドが、巨大な鉄槌を床に叩きつけるように置きながら、心底感服したような豪快な大笑いを炸裂させた。
「ああ、間違いないよ。こいつの言う通り、物事のすべての繋ぎ目の流れを整えておくことこそが、最も手戻りのない最強の合理だ。このガルド様が、お前のその次なる巨大な図面の鋳造に、どこまでも付き合ってやるよ!」
「私も、お前のその最高の判断の盾となるためなら、喜んでこの自慢の牙をどこまでも機能させてあげるよ」
虎獣人のティグリスもまた、口元を不敵に釣り上げて、嬉しそうにその黄色い瞳を細めた。
ドミニクが、再び新しく仕込まれた大鍋の熱々の具沢山スープを、全員の木椀へと一分の澱みもない手際で滑らかによそっていく。
立ち上る、豊かな白い湯気。
部屋全体を満たす、至高の発酵パンと燻製の香ばしい香り。
そして、崖の上の冷たい冬の夜空を完全に圧し戻すような、人間の心からの暖かな笑い声。
外の暗闇では、未だに冷たい冬前の雨風が激しく石畳を叩き続け、港町アルフェイドは混沌の底に沈んでいた。
それでも。
この港外れの崖の上に佇む、あの小さな最強の約束の居場所だけは、全く異なる世界の時間が、完璧な速度で力強く駆動していた。
美味い飯。
確実な救い。
天国のようなお風呂。
そして、すべての才能を束ねる一人の荷物持ちの「判断」。
ただそれだけの、世界で最も揺るぎない絶対的な合理の軸を中心に据えることで――
澱んだ都市国家を根底から塗り替え、新たなる歴史の巨大な歯車を駆動させるための、最強の“技術、富、そして人間の絆”が、崖の上のこの場所を中心にして、今、完璧な奔流となって美しく集まり始めようとしていた。




