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飯が美味すぎて、気づけば世界を支配していた。 ~無限魔力の料理人、物流と教育で最強国家を作る~  作者: 慈架太子


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14/41

14:魔狼

朝の空気が冷たかった。


本格的な冬を目前に控えた港町アルフェイドは、冷酷な冷気に支配されていた。最果ての海から吹き付ける大暴風が街の全域を撫で回し、石畳を凍りつかせていく。

そんな極寒の曇天の下、アルフェイドの巨大な外壁門の周辺では、朝早くから集まった冒険者たちが、殺気と焦燥の入り混じった声で騒がしく怒鳴り合っていた。


「おい、また出たらしいぞ! 例の化け物の群れがよ!」

「今度は単発の迷い込みじゃねぇ、組織的な『群れ』での出現だってよ!」

「場所は第三街道沿いだ! 昨日だけで、大手の商隊が二つ丸ごと綺麗に潰されたらしいぞ!」


朝一番の酒に溺れた臭い声。空間全体に広がる濃密な不安。そして、思うように稼げないことへの苛立ち。

冬前という時期は、あらゆる野生の魔物が極限の飢餓状態に陥り、狂暴性を爆発させて山から下りてくる最悪の季節だった。特にここ最近の出現頻度は、例年の数倍を軽く超えて異常なほどに跳ね上がっている。周辺の広大な「魔の森」の深部で、何らかの致命的な生態系の地殻変動が起きているのは、誰の目にも明らかだった。


クルザードは、崖の上で完成させたあの塩牙猪の極上干し肉を滑らかに噛み締めながら、冒険者ギルドの巨大な掲示板の文字を静かに見つめていた。


『緊急統伐依頼:第三街道の魔狼まろう群の迅速なる制圧』

『基本報酬:完全成功報酬として銀貨二十五枚』

『備考:襲撃を受けた商隊の残存物資の回収、および周辺の護衛任務込み』


彼の真横で、分厚い腕を組んだ虎獣人のティグリスが、その立派な虎耳を小さく震わせながら低く呟いた。


「魔狼か。冬前のこいつらは、いつも以上に一線を越えて獰猛だからな」


「奴らは、それほどまでに個体としての戦闘力が高いのかい?」


クルザードは背中の巨大な荷袋を背負い直しながら、ハキハキとした口調で気さくに尋ねた。


「ああ。通常の冒険者の基準で言えば、最低でも十分な装備を整えた中堅以上の熟練パーティでなければ、正面からまともに相手をすることすら許されない厄介な集団さ。……もっとも、それは『普通の人間の基準』での話だけどね」


「普通、か。俺にとっては、すべての事象はただの合理的な手順の処理の対象に過ぎないがね」


「ははっ! お前は最初から普通じゃないからな。そのブレない佇まい、本当に見ていて清々しいよ」


ティグリスは黄色い瞳を細め、口元を不敵に釣り上げて笑った。

ここ最近の目まぐるしい死闘の連続を経て、クルザードの肉体は飛躍的な進化を遂げていた。

空気中のすべての水分を掌握して敵の呼吸を完全に遮断する、あの冷徹なる窒息魔法ウォーターマスク

体内の莫大な魔力を全細胞へと最適に循環させる、無意識の《身体強化》。

そして、世界の構造の真実をすべて数値化して看破する、脳内の《鑑定》システム。

未だそれらすべての圧倒的な出力を完璧に制御しきれているわけではなく、一度使えば凄まじい頭痛という代償を払う、不安定な状態ではある。

それでも――生まれて初めて迷宮の泥の中に倒れ伏していたあの最初の瞬間に比べれば、現在の彼の戦闘駆動効率は、遥かに高次元の領域へと到達していた。


「……本当に、その恐ろしい依頼を私たちの手で受けるつもりなのか?」


背後から、仕込みの道具を抱えた金髪のドミニクが、少し心配そうな、しかし確固たる信頼の目を向けながら尋ねてきた。

クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべたまま、周囲の市場の全体へと静かに視線を走らせた。


活気のない露店。

足の止まった荷馬車の列。

そして、淀みきった物と人の流れ。

ここ数日、魔狼の群れの襲撃によって第三街道という最大の流通ルートが中央から完全に遮断された結果、アルフェイドの街全体の機能は致命的な停滞を起こし始めていた。市場に並ぶ新鮮な魚の絶対量が劇的に減少し、寒さを凌ぐための山の野菜の価格は不当なまでに高騰し、彼が精製に必要とする良質の塩の流通速度も驚くほどに鈍っている。

本格的な冬の到来を目前にして、全体の物流の流れがこのように中央から詰まることは、街のすべての生命維持にとって破滅的な大損を意味していた。


「……ああ、受けるさ。このままあの化け物どもを街道に放置しておけば、俺たちの廃屋に回ってくるはずの美味い飯の素材の絶対量が、完全に減ってしまうからね」


「やっぱり、お前の行動の基準はそこなのね!」


ドミニクが呆れたように大声を上げて笑う。


「当然さ、ドミニク。食料の安定した確保こそが、すべての組織を豊かに回すための最優先事項だからね。飯の質が下がれば、集まったみんなの作業能率も完全に低下してしまうだろ?」


クルザードは真顔だった。一片の冗談も、誇張もない。資源の管理者としての冷徹な「判断」がそこにはあった。

その一部始終を横で聞いていた大商人のヴァレリアが、その美しい肩を愉快そうに揺らして苦笑を漏らした。


「ははは! お前、まだ一介の荷物持ちの分際でありながら、言っていることの規模が完全に街の流通を支配する大商人の発想そのものよ?」


「食料と物資の正しい流れが一度止まれば、社会という巨大な歯車はどんなに強い武力があっても一瞬で完全に止まって死ぬからね。澱みは早いうちに排除するに限るさ」


「まぁ、非の打ち所がないほどに正しい理屈だけどね。お前が言うと本当に説得力が違って聞こえるわ」


クルザードはハキハキとした足取りでギルドの受付窓口へと向かった。

彼が移動するにつれて、周囲にいた大量の荒くれ者たちの視線が、一斉に彼の一挙手一投足へと集中し始める。


「おい、またあの崖の上の奇妙な青年か……?」

「最近噂の、あのあり得ないほど美味い『パンと燻製』を出している飯屋の主だろ!」

「いや、元々はただの使い捨ての荷物持ちだったはずだぞ?」

「それが今や、深層の魔物をノーダメージで仕留めて、一日に信じられないほどの額を荒稼ぎしているらしい……」


飛び交う無数のざわめき。クルザードはそれらの雑音に表情一つ変えず、受付嬢の前へ行くと、掲示板から引き剥がしてきた魔狼討伐の依頼票を滑らかな動作で静かに差し出した。


「この緊急依頼、俺たち四人の臨時の陣形で正式に引き受けさせてもらうよ」


「え……?」


受付嬢が、驚愕のあまり羊皮紙を持ったまま呆然と顔を上げた。

「よ、四人……ですか? 聞き間違いでなければ、今、四人とおっしゃいましたか?」


「ああ。人員の配置は、俺、虎獣人のティグリス、調理補佐のドミニク、そして拳闘士のステファンの四名さ。無駄のない最も合理的な最小の人員の振り分けだよ」


「待ってください、クルザードさん! 冗談を言っている場合ではありません! 相手は街道沿いの商隊を二つも一瞬で壊滅させた、獰猛極まりない魔狼の『大集団』ですよ! ギルドの規定では、最低でも熟練の五パーティ、総勢二十人以上の合同討伐隊でなければ、受注の許可すら下せない危険度です!」


「奴らの現在の絶対数はどれくらいと記録されているんだい」


「ギルドの斥候が昨夜確認した時点での確定情報では、総勢『十二匹』です! これだけでも、中堅の冒険者が一瞬で骨まで噛み砕かれる質量ですよ!」


「十二匹、か。そいつは古い過去の不確実なデータだね。奴らの絶対数は、今この瞬間にも劇的に増えているよ」


クルザードが静かに呟いた。

彼の脳の奥底で、先ほどから街道の方角に向けて、鑑定のシステムが局所的な環境データの微微な揺らぎを鋭く捉え、不気味な明滅を繰り返していたからだ。


「……現在の確定値は、十五匹さ」


「は、はい……?」


「間違いなく、十五匹以上の戦闘個体が、ひとつの巨大な意思の統率のもとに、完璧な布陣を敷いて街道の森に潜んでいるよ。これ以上の時間の引き伸ばしは、奇襲を許す大損に繋がる。今すぐ受注の手続きを完了してほしい」


受付嬢は、彼のその一切の揺らぎのない、世界の真実を看破したような冷徹な瞳の迫力に押され、ただただ呆然として言葉を失った。


「おいおい、小僧。大言壮語を叩くのはそこまでにしといた方が身のためだぞ」


突如として、クルザードの背後から、地響きのような不快な笑い声が響いた。

振り返ると、そこには重厚な鉄の全身鎧を纏い、背中に巨大な長剣を堂々と背負った、大柄な男たちの集団が立ち塞がっていた。

ギルド内でもそれなりに名前の知られた、中堅の最有力冒険者パーティだった。彼らはクルザードたちを見下すような傲慢な目を隠そうともせず、鼻で笑いながら言葉を繋いだ。


「魔狼という魔物はな、お前らが普段安全地帯で相手にしているような、動きの鈍い泥のトカゲとは訳が違うんだよ。奴らの移動速度は突風そのものだ。そんな素人の寄せ集めの四人で突っ込んでみろ、戦う前に一瞬で全員の喉笛を噛みちぎられて全滅するのがオチだぜ」


「特に、その細腕の女二人を連れていくなんてな、自殺志願者の屋台ごっこにしか見えねぇよ。大人しく俺たちみたいな本物のプロに依頼を譲って、崖の上で大人しく美味いパンでも焼いてるんだな」


男たちの品性のない侮蔑の言葉。

その瞬間、クルザードの隣に立っていたティグリスの黄色い瞳が、一瞬にして冷酷な獣の殺気を孕んで細く尖った。虎の尻尾が、泥を叩くようにして不穏な音を立てる。


「……新人、だと? 誰に向かってそんな軽い口を叩いているんだ、この鉄の缶詰めのクズどもが。今すぐその腐った首を根元から噛みちぎって、ここの床に並べてやろうか」


地鳴りのように響く、ティグリスの本物の戦士の咆哮。

しかし、中央に立つクルザードは、男たちの理不尽な挑発に対しても、全く怒らなかった。不快そうな素振りすら見せない。口元に明るく快活な笑みを浮かべたまま、ただ冷静に彼らの肉体のスペックを鑑定の数値で測定していた。


ここで感情に任せて不効率な喧嘩を起こすことに、何の生産性もないからだ。

彼らが自分たちを侮るのは、これまでの古い常識に基づいた、ある種「論理的で合理的な判断」の結果に過ぎない。常人であればそう考えるのが普通だ。

でも――彼らの持つその古い常識の計算は、現在のクルザードの陣形の前には、一パーセントも通用しない完全に壊れた数式だった。


「忠告はありがたく受け取っておくよ。君たちの言う通り、普通ならそう判断するのが最も正しい手順だからね」


「あぁ? 分かったなら大人しく依頼票をここに置いて――」


「でも、問題ないさ。君たちのような重厚で動きの鈍い大所帯の陣形をわざわざ街道へ動かすよりも、俺たち四人の最高効率の最小ユニットを機能させた方が、あらゆる時間とコストにおいて、数百倍はお前らより『効率が良い』という確実な計算が、俺の頭の中で完璧に下されているからね」


クルザードはハキハキとした明晰な声で、当然の事実を告げるように平然と言い放った。


ギルドの内部が、一瞬にしてカチリと完全に凍りついた。

ドミニクが大慌てで両手で頭を抱える。

「ちょっと、クル! その、悪気は一切ないのに相手のプライドを根底から木端微塵に叩き割るような言い方、本気でやめなさいって!」


しかし、ティグリスは彼のその一片の容赦もない徹底した合理主義の姿勢を聞くや否や、口元を大きく釣り上げて心底楽しそうに大声を上げて笑った。

「がははは! 最高だな、お前! 相手を人間以下の『非効率なゴミ』として平然と処理するそのトーン、私は本気で気に入ったよ!」


男たちが激昂して顔を真っ赤に変色させ、腰の剣に手をかけようとしたが、クルザードはすでに彼らへの興味を完全に失い、受付嬢から強引に処理された依頼票を受け取ると、滑らかな動作で踵を返していた。


「さあ、流れは決まった。飯が冷める前に、街道の澱みをすべて綺麗に掃除しにいこうか」


彼の放つ、一介の荷物持ちとは到底思えないほどの絶対的な主導権の迫力に圧され、男たちはそれ以上、一歩も前へ進むことができなかった。


第三街道。

森の入り口へと続くその道には、冬の冷たい風がヒューヒューと不気味な音を立てて吹き荒れていた。

空間を満たすのは、針葉樹の独特の匂いと、大気の凍るような冷気。

前衛の索敵の要として、虎獣人のティグリスが、一分の手戻りもない驚異的な身体のバネを活かして先行していた。彼女のその天性の獣人としての圧倒的な五感は、周囲のいかなる微かな大気の揺らぎも見逃さない。


「……止まれ。風上に、生々しい人間の『血の匂い』が混ざっている」


彼女が低く、地鳴りのように囁くと同時に、クルザードの陣形は一瞬にして完璧な制動をかけてその場に無言で停止した。


「近いな。距離にして、前方約三十メートル先の路地だ」


クルザードは歩みを勧め、剥き出しの地面の至る所に残された惨劇の痕跡を、鑑定の目で冷徹に観察していった。

泥の中に深く刻まれた魔物の巨大な足跡。

何かに激しく噛み砕かれたような、強固な防具の破片。

横転し、主軸が完全に叩き割られた大型の荷車の残骸。

そして、その周囲に無残に横たわる、数前の商人のたちの血塗れの死体。彼らは全員、抵抗の隙すら与えられないほどの圧倒的な速度で、喉笛を一撃で正確に引き裂かれて絶命していた。


荷台の内部からは、彼らが命がけで運んでいたはずの大量の物資が、無残に四方へと散乱していた。

冬を越すための貴重な保存食。

上質な防寒用の布。

精製された塩の袋。

そして、乾燥された大量の魚。


ティグリスは、転がっている魔狼の足跡を見つめながら、その黄色い目を鋭く細めて低く呟いた。


「……おかしいな。こいつら、殺した人間の肉を、一欠片も胃袋に収めて収穫していないぞ」


「……肉を、食っていないのかい?」


「ああ。魔狼がこれほどの飢えの季節に、これだけの大量のタンパク質を目の前にして、ただの一口も喰らわずに放置して立ち去るなんて、野生の本能の動きとしては絶対にあり得ない。ただの、純粋な『殺戮』の痕跡だ」


クルザードはその言葉を聞くや否や、散乱する物資の全体へと片手をかざした。彼の瞳の奥で、再び鑑定のシステムが、局所的な全体の環境データを冷徹に解析し始める。


『対象:現場の状況解析。状態:魔物の本能による捕食行動の形跡:皆無』

『原因:個体の意志ではなく、上位の巨大な意思の統率による、明確な『物流の破壊』を目的とした軍事行動と判明』

『生体:群れの中心部に、全体の神経系を完全な同期で支配する、圧倒的な《統率個体ボス》の存在を感知』

『戦況:現在、四方の暗闇の木々の影から、十五匹の魔狼がこちらの陣形を完璧に包囲中』


「……くっ、頭が……!」


凄まじいデータの質量に伴い、脳の芯を直接釘で刺されるような鋭い頭痛が走り、クルザードは僅かに顔をしかめた。しかし、現在の彼はその痛みを即座にねじ伏せると、ハキハキとした明晰な声で全員へ向けて状況の流れを告げた。


「全員、よく聞いてくれ。今回の群れの出現は、ただの魔物の飢えによる暴走じゃないさ」

「この群れの全体を、一つの巨大な意思の同期で完璧に支配している、圧倒的な《統率個体ボス》が、森の最深部に陣形を敷いて潜んでいるよ。奴らは俺たちのこの街の物流を中央から完全に破壊し、機能を停止させるための、明確な作戦行動として動いているのさ」


「何だって!? 魔物がそんな軍隊みたいな統率をしてるってのか!」


ステファンが、革製のグローブをはめた拳を小気味よく鳴らしながら戦慄する。


「ああ、間違いないよ。だからこそ、周りの雑魚をいくら小手先で間引いたところで、全体の澱みは一パーセントも解決しないさ。最も効率が良い判断は、陣形を中央に維持したまま、奥に隠れているその親玉の首を一撃のもとに完璧に叩き割ることだよ」


「がははは! ならば話は簡単だ! 敵の作戦の軸を、私たちの力で根底からへし折ってやろうじゃないか!」


ティグリスが獰猛な笑みを浮かべ、彼らは一分の躊躇もなく、闇に閉ざされた広大な魔の森の内部へと足を踏み入れていた。


一歩足を踏み入れると、そこは昼間だというのに、日光が完全に遮断された最悪の暗黒の世界だった。

むっとするような高い湿度、そして植物が腐敗した独特の生臭い臭気が空気中に淀んでいる。

森の全体は、不気味なほどの完全な静寂に包まれていた。普通であれば聞こえるはずの、野生の鳥のさえずりや虫の羽ばたき音が、ただの一つも存在しない。すべての生命が、圧倒的な捕食者の殺気に圧されて息を潜めている証拠だった。


ティグリスがぬかるんだ泥を踏み締めながら、ピタリと動きを止めた。

「……そこまでだ。完全に、四方の死角を囲まれたよ」


彼女の警告が完成した次の瞬間、彼らの頭上、そして左右の鬱蒼とした木々の影から、音もなく複数の巨大な黒い影が、爆発的な推進力で宙を舞って飛びかかってきた。


「全員、迎撃の陣形を駆動させろ! 来るぞ!」


ベッティーナたちのいない臨時の陣形。しかし、クルザードの放ったその明晰な声の軸を中心にして、四人の肉体は一瞬にして完璧な歯車として連動した。


現れたのは、通常の狼を遥かに凌駕する巨体を持つ、不気味な灰色の毛並みを纏った《魔狼まろう》であった。

その瞳は極限の興奮によって赤く血走り、口元からはすべてを噛み砕くような強固な牙が覗いている。数は同時に三匹。その移動速度は、突風そのものの圧倒的な速さだった。


クルザードは、そのあまりのスピードの質量に対し、肉体の論理的な反応が一瞬だけ遅れかけた。速い。常人の肉眼では捉えることすら困難な速度。

しかし――虎獣人のティグリスの身体のキレは、その魔物の本能を遥かに凌駕して圧倒的だった。


「この程度の鈍い突進で、私の目を欺けると思っているのかい!」


彼女は泥を力強く蹴り上げると、空間をしならせるような驚異的なステップで、突っ込んできた一匹の魔狼の側面へと滑らかに回り込んだ。

そして、全魔力を込めた強固な虎の爪を一閃させる。

空間を切り裂く生々しい音が響き、魔狼の頑強な首の組織が、一撃のもとに正確に引き裂かれて鮮血が飛び散った。


「ステファン、右だ! 木の影から二匹目が跳躍している!」


クルザードの脳内の鑑定が、死角からの正確な移動ルートを捉え、的確に指示を飛ばした。


「おう、見えてるぜ! 舐めるなよ、この野良犬が!」


ステファンはクルザードの指示の通りに体軸を滑らかに回転させ、飛び込んできた魔狼の顔面に向けて、全魔力を込めた渾身の拳を正面から叩き込んだ。

ドゴォン、と重苦しい打撃音が響き渡り、魔狼の強固な頭蓋骨が粉砕される鈍い音が響く。魔物。しかし、筋肉の硬度が尋常ではない。打撃の手応えにステファンが僅かに眉をひそめた。


「チッ、この犬ども、皮膚の下の骨の密度が普通じゃねぇぞ! 拳が弾かれそうだ!」


「奴らの急所は鼻の先端の粘膜組織さ! 衝撃を一点に集中させれば、皮膚の鎧を無視して脳震盪を誘発できるからね!」


クルザードは自らも短剣を構えながら、一秒の淀みもない完璧な戦術の指示を前線へと飛ばし続けた。

それは、考えるよりも先に、鑑定のデータと自らの合理主義的な頭脳が、戦況の本質を看破して勝手に口から溢れ出している結果だった。


「ドミニク、左側の二匹の動きを、一秒だけその場に完全に拘束するんだ!」


「はいよ、任せなさい!」


ドミニクは抱えていた水桶の水分を空間へと一気に解放すると、体内の水属性の魔力を駆動させて、激しく回転する強固な「水のアラシのウォーターウィップ」を瞬時に錬成した。

しなる流体の刃が、突進中だった二匹の魔狼の両足へと寸分の狂いもなく完璧に絡みつき、その爆発的な移動速度を一瞬にして無条件で完全なゼロへと制動した。


「ティグリス、今だ! 奴の左側面、主軸の関節が完全に無防備になっているよ!」


「分かっているさ! 最高の差配だよ、クル!」


ティグリスの放った滑らかな一閃が、動きを止められた魔狼の急所を美しく、そして正確に刈り取っていく。

一分の手戻りもない、完璧な役割の循環。

一匹、また一匹と、街道を恐怖に陥れていたはずの魔狼たちが、クルザードの放つ明確な「判断」の流れの前に、ただの処理されるべき資源のように泥の中へと沈んでいった。


クルザードは激しい呼吸を繰り返しながら、短剣を握る己の手の微かな震えを静かに見つめていた。

内側から湧き上がる、生物としての根源的な死への恐怖。

しかし、彼の脳内を支配していたのは、それを遥かに凌駕するほどの、圧倒的な「戦況の見え方」への確信だった。

敵の踏み込みの癖、筋肉の収縮のタイミング、次に連中がどのルートを通って奇襲を仕掛けてくるのか。そのすべての未来の流れが、鑑定の数値の明滅を通じて、彼の手元には最初から完璧に一本の線として繋がって見えていた。

能力の適応。世界のすべての不効率を駆逐するためのその才覚が、今、料理だけでなく「戦闘」という最も過酷な極限状態のプロセスにおいても、完全に明確な意味を持って機能し始めていたのだ。


「……がははは! 面白すぎるわ、クル! まだまだ奥から、次の獲物が這い出てくるぞ!」


鬱蒼とした木々の影から、さらに五匹の魔狼が、赤い目を不気味に輝かせながら一斉に姿を現した。

総勢五匹。通常の中堅冒険者パーティであれば、全滅を予感して大慌てで撤退を判断するほどの圧倒的な質量。

しかし、最前線に立つ虎獣人のティグリスは、その絶望的な戦況を前にして、野生の本能の歓喜を爆発させるようにして獰猛に笑声を上げた。


「ティグリス、あまり調子に乗って一人で前線へ出すぎるな。陣形が中央から崩れれば、全体の効率が著しく低下するからね」


「あぁ? お前、この私に向かってそんな冷徹な命令を下すつもりかい?」


「命令ではないさ。君の才能を最も完璧に機能させるための、ただの『役割分担』の判断だよ」


ティグリスは彼のその一片の揺らぎもない快活な一言を聞くと、嬉しそうにその黄色い目を細めた。

「がははは! 言うじゃねぇか、小僧! いいだろう、お前のその最高の差配の流れに、私のすべての牙を完璧に預けてやるよ!」


クルザードは左手を静かに前方へと突き出した。

体内に眠る、底の知れない莫大な魔力の源泉が解放され、湿地帯の空気中に満ちていた大量の水分が、彼の意志に従って猛烈な鳴動を始めた。

まだ出力の細かい加減が利かず、荒削りで不安定な魔法の行使ではある。しかし、彼の目には、飛びかかってくる魔狼の動きの本質が完全に見えていた。


「ウォーターマスク」


彼が強く念じた瞬間、突進中だった一匹の魔狼の顔面全体を、透明で強固な「水膜の仮面」が完璧に包み込んで張り付いた。

魔狼はすべての呼吸を奪われ、驚愕に目を見開いて泥の中でのたうち回り、激しく暴れ狂う。生物としての駆動システム(呼吸)を止められてしまえば、どれだけ獰猛な魔物であっても、その肉体はただの動かない肉塊に過ぎない。


「ドミニク、足元の泥の水分を凍結させて、地面の摩擦係数を限界まで低下させるんだ!」


「了解! 滑りなさい、この野良犬ども!」


ドミニクの放った水の魔力が地面を伝い、魔狼たちの足元の泥が一瞬にしてツルツルとした氷の床へと変貌した。

爆発的な速度を誇っていた魔狼たちは、突如として足元のグリップを完全に失い、その凄まじい慣性のエネルギーのまま、無様に泥の中を滑って体軸を大きく崩した。


「ステファン、今だ! 奴の顎の下、鱗の剥がれかけた急所へ衝撃を叩き込め!」


「おうよ! これで終わりだ、クソ犬が!」


ステファンの放った渾身の衝撃波が、体勢を崩した魔狼の脳根を正確に粉砕し、完全に沈黙させる。

完璧な、一分の手戻りもない戦術の噛み合い。

四人の臨時の陣形は、クルザードという絶対的な「判断の軸」を中心にして、アルフェイドのどの大規模な合同討伐隊よりも遥かに高次元の速度で、魔狼の群れを片っ端から確実に処理していった。


クルザード自身、己の肉体の中に起きているこの異常な変化の正体に、驚愕を禁じ得なかった。

何故、これほどまでに敵の動きの先が分かるのか。

何故、自らの拙い肉体が、これほど澱みなく最適なルートへ向けて完璧に駆動できるのか。

脳裏を襲う激しい頭痛。しかし、世界の真実の情報は止まらない。


まさにその時、魔の森の最深部、暗闇の帳のさらに向こう側から、これまでの雑魚とは完全に格の違う、地鳴りのような重苦しい咆哮が響き渡り、周囲の空間全体がビリビリと激しく鳴動した。


ティグリスが、その立派な虎耳をピタリと伏せ、心底不快そうに盛大な舌打ちをした。

「……チッ、ついに現れたな。この群れ全体の神経系を支配している、本当の『親玉』の登場だぞ」


鬱蒼とした木々を内側からなぎ倒しながら、彼らの目の前に姿を現したのは、通常の魔狼の常識を遥かに逸脱した超巨大な個体――群れの王たる《魔狼王まろうおう》であった。

体長は優に二メートルを超え、その全身は闇を凝縮したかのような漆黒の毛並みに覆われ、額の真ん中には、高濃度の魔素を蓄えた一本の禍々しい角が突き出ている。その赤い瞳から放たれる殺気は、周囲の大気を一瞬で凍りつかせるほどの圧倒的な質量を誇っていた。


『対象:魔狼王(上位個体)。心理:全体の物流の破壊を統率する、強固な支配意思を維持』

『特性:体内の魔力保有量:極めて過剰。額の角を通じて周囲の重力を微微に操作』

『弱点:右前脚の深部組織に、過去の縄張り争いによる致命的な古傷の痕跡あり』

『解析:次の一歩における突進軸は、右前脚の古傷を庇うため、左方向への回転と予測』

『結論:正面からの物理防御は不効率。右前脚の古傷の一点へ全戦力を集中させ、巨体の機動力を完全に破壊するのが最高効率』


「……っ、あぁ……!」


あまりにも急激な情報の過負荷により、頭蓋骨を直接鉄の針で内側から突き刺されるような激しい頭痛が走り、クルザードは思わず片手で激しく額を押さえた。視界のすべてが真っ白に明滅し、目眩を覚えるほどにうるさい。

しかし、彼はその痛みの濁流を強固な意志の力で無理やりねじ伏せると、ハキハキとした明晰な声を張り上げた。


「ティグリス、正面から奴の突進を受けるな! 奴の本当の急所は、右前脚の深部の組織にある、あの古い古傷の痕跡さ!」


「何だって!?」


ティグリスはクルザードの指示を耳にした瞬間、一分の躊躇もなく、身体のバネを活かして即座に右方向への超高速のサークルステップを踏んだ。

大蛇のような巨体を誇る魔狼王が、飢えた咆哮と共に丸太のような前脚を振り下ろしたが、その突進軸は、クルザードの鑑定の予測通り、右脚の古傷を庇うために僅かに左側へと歪んでいた。ティグリスはその構造的死角を完璧に捉え、オーガの盾をも切り裂く強固な爪で、魔狼王の右前脚の古傷の一点へと深く刃を突き立てた。


ズぶり、と肉を断つ確かな手応え。


「ウォォォォォォンッ!?」


魔狼王は耳を劈くような断末魔の悲鳴を上げ、支えを失った右前脚の膝から、泥を跳ね上げながらその場へと激しく崩れ落ちた。


「よし、流れは完璧だ! 水よ、集まれ!」


クルザードが両手を力強く突き出すと、周囲の森の水分が猛烈な速度で集束し、極限まで圧縮された強固な「水のウォーターピアス」へとその姿を変貌させた。

放たれた流体の刃は、大気を切り裂く風圧と共に一直線に放たれ、魔狼王の負傷した右脚の関節を、寸分の狂いもなく完璧に貫通して地面へと縫い付けた。完全な魔力制御の具現化。


「そこだ、ステファン! 最大の衝撃をその頭部へ叩き込め!」


「おうよ! これで完全に眠りな、このクソ犬がぁ!」


ステファンが全魔力を拳に込め、跳躍の勢いのまま魔狼王の脳根に向けて渾身の一撃を叩き落とした。

ズガァン、と森全体を揺るがすような凄まじい打撃音が響き渡り、魔狼王の巨体が激しく揺らめいて脳震盪を起こす。


そして最後の仕上げとして、クルザードは掌のすべての水属性の魔力を解放した。


「ウォーターマスク」


巨大な水膜の仮面が、悶絶する魔狼王の顔面全体を、完全に包み込んで張り付いた。

魔狼王はすべての呼吸を奪われ、驚愕に目を見開いて泥の中でのたうち回り、巨体で周囲の木々をなぎ倒しながら激しく暴れ狂う。しかし、クルザードの莫大な魔力によって維持された流体魔法は、どれだけ引き裂かれようとも瞬時に元の形へと戻り、奴の気道を完璧に塞ぎ続けた。


剥がれない。息ができない。

全細胞が急激な酸素不足に陥り、魔狼王の強靭な生命維持のシステムが完全に停止していく。

そのもがく巨体の首の根元に向けて、虎獣人のティグリスが、一分の手戻りもない美しい軌道で、自慢の鋭利な短剣を正確に突き立てた。


凄まじい風圧の後、魔の森の中に、完全な静寂が戻った。

街道を恐怖の底に叩き落としていたはずの魔狼王の巨体は、今度こそ完全に生命活動を停止し、泥の中にどさりと力なく横たわった。


終わった。冷たい雨上がりの静かな森。彼らの吐き出す息だけが、白く濁って空気中に消えていく。


クルザードは短剣を鞘に収めると、激しい疲労と魔力の消耗のせいで、その場にぐったりと膝をついて座り込んだ。

頭痛は酷く、体内の魔力は未だに出力の細かい加減が利かずに雑なままで、暴れ狂っている。猛烈な吐き気が込み上げ、内情は深刻だった。

しかし、その激しい苦痛の意識の裏側で、生まれて初めて、彼の脳内に直接、無機質な「世界の声」のような不思議な響きが、澱みなくクリアに鳴り響いた。


『――個体名:クルザード。戦闘駆動効率の最適化を検知。全体のシステムレベルの上昇を確認――』


(……レベルの上昇、か。最近になって、この不思議な声が頭の奥で頻繁に響くようになってきたな)


それは、この世界の他の誰にも聞こえない、他ならぬ彼自身の肉体と能力の「進化」を告げる、厳然たる合理的な数値の更新の響きだった。


「……おい、お前。またそんな、何食わぬ顔で頭を押さえてしゃがみ込んでるな」


ティグリスが、返り血を滑らかに拭いながら近づいてくると、その黄色い鋭い瞳でクルザードの姿をじっと見つめた。


「お前、本当に自分のことを『ただの無力な元荷物持ち』だって、本気でそう思い込んでいるのかい?」


「はは、俺はご覧の通り、背中に大きな荷物を背負っただけの、ただの陽気な料理人さ。戦闘に関しては、まだまだ無駄な動きが多すぎる欠陥品だよ」


「ははっ、本当に言うじゃねぇか。じゃあ、お前がその無駄を完全に無くして、本気で強くなっちまったら、一体この街の構造はどうなっちまうんだろうな」


クルザードは彼女の問いには直接答えず、代わりに、目の前に横たわる魔狼王の巨大な死骸を見つめ、その瞳を輝かせた。


「よし、流れは決まった。この魔狼王の肉、驚くほど高いアミノ酸と極上の脂質を含んでいるからね。一欠片の細胞も無駄にせず、すべてをアイテムボックスへ回収して持って帰って、最高の飯の素材に加工しよう」


居合わせた全員が、そのあまりにもブレない徹底した合理主義の姿勢を聞くや否や、一瞬だけ呆気に取られ、次の瞬間、一斉に盛大な大声を上げて吹き出した。


「お前、本当にどんな修羅場の直後でも、考えることはいつも『今夜の飯の素材』なのね!」


「全く、そのブレなさに、私は本気で救われるわよ、本当に!」


ステファンたちが大笑いしながら彼の肩を叩き、彼らは大満足の収穫を抱えて、軽やかな足取りで崖の上の拠点へと帰還していった。


その日の夜、アルフェイドの街の全域には、これまでにないほどの凄まじい衝撃の噂が、爆発的な奔流となって広く共有されることとなった。


――おい、聞いたか! あの街道を完全に封鎖していた魔狼の大集団を、本当に制圧したぞ!

――しかも、熟練の合同討伐隊ではなく、崖の上のあの料理屋の荷運び人たちが、たったの「四人」の陣形で潜り込んで、ノーダメージで完全に全滅させたらしい!

――さらに、その中心に立つクルという男、魔物の急所を一瞬で見抜き、水で作った透明な仮面を完璧に貼り付けて、一歩も動かさずに窒息死させたってよ……。


まだ、街の誰も正確には気づいていなかった。

一人の荷物持ちの「判断」によって、物流の澱みが完全に消し去られ、新しい時代の歯車が、崖の上のあの小さな廃屋を中心にして、完璧な速度で回り始めようとしているその偉大なる歴史の始まりを。


夜空へと昇っていく、香ばしい燻製と鍋の白い湯気の向こう側で、新しい国家の誕生の鐘の音が、静かに、しかし確実に響き渡ろうとしていた。






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