13:ティグリス
雨だった。
冬の到来を目前に控えた、骨まで凍てつくような冷たい雨が、容赦なく地表へと降り注いでいる。
大海からの容赦ない大暴風が吹き荒れる港町アルフェイドは、いつも以上に最悪の湿気と冷気に包まれていた。冷たい雨粒に濡れそべった不格好な石畳。至る所に放置され、雨水を含んで重くなった湿った木箱。街の全域へと広く拡散していく濃厚な魚臭さ。そして、現実の過酷さから逃れるために煽られる安い酒の匂いと、それに伴う品性のない荒々しい怒鳴り声。
貧民街の澱んだ空気が色濃く漂う南区画の一角では、まだ朝だというのに、すでに血生臭い衝突の喧嘩が派手に巻き起こっていた。
「離せッ! どけ、この薄汚い人間のクズどもがッ!」
雨音を切り裂いて響き渡る、野生の獣そのものの激しい唸り声。
それに被さるようにして、複数の男たちが放つ下卑た怒声と、荒々しく引き抜かれる鉄の武器の音が冷たい空間に響く。
クルザードは、商人から依頼されて重い物資を背負って運んでいたその足を、滑らかな動作でピタリと止めた。
「……また、始まったか」
真横を歩いていた大商人のヴァレリアが、美しくも冷徹なその眉を不快そうにひそめた。
「ここ最近、冬を前にして一段と数が増えているわね。いわゆる、組織的な『獣人狩り』の横行よ」
「具体的な理由はなんだい。単なる感情的な排斥かい?」
クルザードは荷物の重量を微塵も感じさせない佇まいのまま、ハキハキとした口調で静かに尋ねた。
「いいえ、もっと根深い実利的な問題よ。深刻な食糧不足、そして急激な仕事の減少。この街の冬は資源の流れが完全に滞るからね。追い詰められた連中は、社会の最も基盤の脆い、抵抗の弱い奴から順番に牙を剥いて資産を奪おうとするのさ。実にあくどい悪循環だよ」
クルザードは無言のまま、薄暗い路地の奥の構造へとその明るい瞳を向けた。
人間の不自然な動き。交わされる強欲な視線。そして、空間全体を支配する絶望的な空気。
本格的な冬を前にして、この港町全体が急速に荒れ果て、機能不全に陥っていく。それは毎年繰り返される、アルフェイドの残酷な恒例行事だった。
資源を長期間維持するための保存食の絶対量が足りない。
寒さによって外の労働が減り、個人の手元に残る金が完全に消える。
だから生き残るために、他者から力ずくで物資を奪い取る。
人間の本能の動きとしては、ある種の剥き出しの「合理性」に基づいた行動ではあった。クルザードはその因果関係の仕組みを、誰よりも論理的に深く理解していた。そして、理解しているからこそ、その前時代的で非効率極まりない奪い合いの構造を、心底嫌悪していた。
「……行くよ、ヴァレリア。急ごう」
「おい、クル。まさかあの修羅場の真ん中へ、その大荷物を抱えたまま飛び込むつもりかい?」
「ああ、当然さ。拠点の石鍋に残してきた美味い飯が、寒さで完全に冷め切ってしまう前に、すべての澱みを最高効率で終わらせる必要があるからね」
ヴァレリアは、彼のその一切の恐怖を排除した快活な答えを聞くと、呆れたように、しかし心底楽しそうに大声を上げて笑った。
「ははは! 本当にお前という男は、命を賭ける判断の基準がいつも『飯の管理』にあるのね!」
「食料の温度と鮮度の維持こそが、すべての生命を回すための最優先の絶対条件だからね」
クルザードは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、一分の手戻りもない滑らかな踏み込みで、薄暗い路地裏の暗闇へと突き進んでいった。
路地裏の突き当たり。
そこでは、重い革鎧を纏った五人の悪徳な冒険者たちが、一人の獲物を完全に包囲していた。
泥水の中に膝をつきながらも、猛烈な殺気を放って睨みつけているのは、一人の虎の獣人の女性であった。
背中まで滑らかに伸びた長い黒髪。
闇の中で怪しく輝く、気高き黄色い瞳。
頭頂部で激しく警戒の動きを見せる虎の耳と、泥を力強く叩いている立派な尻尾。
人間の女性を遥かに凌駕する、強固に鍛え上げられた高身長の体躯。
しかし――その見事な肉体の全体は、数々の刃物によって深く切り裂かれ、生々しい無数の傷だらけの状態にあった。
それでも彼女は倒れていなかった。その鋭い瞳の奥底にある命の光は、未だに一パーセントも死に絶えてはいなかった。
「がははは! 諦めて大人しく縛られろよ、獣人! 奴隷市場に売れば、これほどの極上品ならとんでもない大金に化けるんだぞ!」
「特に女の虎獣人なんてな、この冬の時期は希少価値が跳ね上がって、大商会がいくらでも高い金を積むんだよ!」
「お前一人を処理するだけで、俺たちの冬の間の食い扶持が完全に黒字になるんだ、大人しくしろ!」
男たちが、下卑た欲望に塗れた笑声を路地裏に反響させる。
虎獣人の女は、口元から赤黒い血を激しく吐き出しながらも、壁を背にして強固に立ち続けていた。
「……その汚い手で、私に触るな。近づいた瞬間、その首を噛みちぎって泥に沈めてやる」
低く、地鳴りのように響く絶対的な殺気の籠もった声。
しかし、彼女の肉体はすでに完全なる限界を迎えていた。
右の片足を深く切り裂かれて引きずっており、腹部に受けた横一文字の重大な創傷からは、今も容赦なく大量の鮮血が床に滴り落ちている。急激な失血。長くない命のカウントダウン。
クルザードはその凄惨な光景を視界に捉えた瞬間、瞳の奥で「鑑定」のシステムを強制的に駆動させ、脳内へ直接命のデータを流し込んさせた。
『対象:虎獣人(女性・ティグリス)。現在の総出血量:三十四%。危険域に突入』
『状態:長期間の栄養失調による免疫力の低下。さらに全細胞の深刻な疲労蓄積を計測』
『解析:右大腿部の主筋繊維に重大な損傷あり。ただし、天性の戦闘経験値:極めて高』
『心理:生存への強固な執念を維持。極限の飢餓状態に伴う、急激な血糖値の低下を確認』
『結論:現時点での死亡予測時間:二十二分。即座の止血と、最高効率の栄養補給が最優先』
「……っ」
こめかみを直接鉄の針で突き刺されるような鋭い頭痛が走り、視界が情報過多で一瞬だけ揺らめいた。しかし、現在のクルザードは、その痛みをただの記号として冷徹に処理してみせた。
死にかけている。その因果関係さえ分かれば、次に行うべき最善の「判断」のルートは、彼の合理主義的な頭脳の中に、寸分の狂いもなく完璧に導き出されていた。
男たちの一人が、下卑た笑みを浮かべながら、鋭利な長剣を瀕死の彼女に向けて力強く引き抜いた。
「抵抗すんじゃねぇよ、この家畜が! 傷が増えれば、それだけ価値が下がるんだからよ――」
男の言葉が、最後まで完成することは二度となかった。
クルザードが荷物を背負ったまま、左手を前方の空間に向けて滑らかに突き出した瞬間、周囲の雨水に変異が起きた。
周囲を満たしていた冷たい雨粒、そして石畳を伝う大量の泥水が、彼の莫大な魔力によって強制的に一点へと集束し、一瞬にして、透明で強固な「水球の仮面」へとその姿を変貌させたのだ。
そして次の瞬間、大言壮語を叩いていたリーダーの男の顔面全体を、寸分の隙間もなく完璧に包み込んで張り付いた。
新魔法、《ウォーターマスク》。
「――ッ!? ぶ、ごっ……!? げふっ……!」
男は突如としてすべての酸素を完全に遮断され、驚愕に目を見開いて泥の中でのたうち回り、激しく暴れ狂った。
自慢の長剣を地面に落とし、自分の手の爪を顔面に突き立て、張り付いた強固な水膜を必死に引き剥がそうとする。しかし、クルザードの緻密な魔力によって維持された流体魔法は、どれだけ引き裂かれようとも瞬時に元の形へと戻り、男の気道を完璧に塞ぎ続けた。
「な、何だこれ!? 突如として水が現れて、ボスの顔を完全に塞ぎやがったぞ!」
「魔法使いか!? どこから現れやがった、あの荷物持ちのガキは!」
残る四人の男たちが、その異様な光景に顔色を変えて大慌てで後退りした。
クルザードは背中の大袋を揺らすこともなく、静かに、しかし流れるような手際で腰の短剣を滑らかに引き抜いた。
一歩の踏み込み。
その速度は、周囲の誰も、そして彼自身の論理的な理解を置き去りにするほどに圧倒的だった。
一切の無駄な軌道を排除し、最も効率的なルートを描いた刃が、暗闇の中で冷徹に閃いた。
クルザードの短剣は、男たちの肉体の「本質的な弱点」だけを、針の穴を通すような精密さで正確に切り裂いていった。
命を奪うための急所は、意図的に一ミリの狂いもなく完璧に外されている。
切り裂いたのは、武器を握るための右腕の運動神経。
地面を蹴るための両足の強固な腱。
肉体を駆動させるための、最も重要な「繋ぎ目の組織」。
「ぎゃあああああっ!? 俺の、俺の手の感覚が完全に消えやがった!」
「腕が動かねぇ! 足の力が抜けて、立ち上がれねぇぞ、クソッ!」
一瞬にして、二人の男が血を流しながら地面へと崩れ落ち、苦悶の悲鳴を上げた。
後ろでその手際を見ていたステファンが、呆然としながら、心底震えるような声を漏らした。
「……相変わらず、近くで見ていて本気で背筋が凍りつく手際だな、お前は」
クルザードは決して敵を無意味に殺さないし、必要以上に肉体を修復不能なまでに壊すこともしない。
でも――相手の戦闘能力だけを、一分の手戻りもなく完全に無条件で剥奪するその技術の精度は、通常の冒険者の常識を遥かに超越して恐ろしかった。
「次だ。まだ立ち向かう無駄なエネルギーが残っているなら、全員まとめてその流れを止めるよ」
陽気さを完全に排した、静かな、しかし確固たる重みのある声。
その圧倒的な制圧の迫力を前にして、生き残っていた最後の二人の男たちの顔から、一瞬にして血の気が引き、真っ青に変色して戦慄した。
「ま、待て! 頼む、悪かった! 武器をおさめてくれ、荷物持ち!」
「金だ! 今日までに奪った全ての金をここに置いていく! だから命だけは!」
「金なんか要らんさ。そんな不確かな資源よりも、今は目の前の合理的な行動が大事だ」
クルザードは短剣に付着した血を滑らかに拭いながら、ハキハキとした明晰な声で言い放った。
「そんなに飢えていて生存の危機を感じているなら、他者から略奪する無駄な時間を使うのをやめて、今すぐ俺の拠点で真面目に働くといい」
「は? は、働く……?」
「他者の資産を暴力で奪い合う行為は、全体の資源をただ破壊するだけで、最も未来への投資として効率が悪い大損だからね。君たちのその頑強な肉体は、物流の運搬にこそ、最高の効率を発揮するはずさ」
男たちは、その非の打ち所がない冷徹な合理主義の言葉を聞いても、ただ恐怖に身を震わせながら、意味が分からないといった顔で呆然とするしかなかった。常人の感覚では、この荷物持ちの脳内のスケールを理解することなど到底不可能だった。
クルザードは彼らへの興味を完全に失ったように、滑らかな動作で短剣を鞘へと収めると、背後で壁にもたれかかっている虎獣人の女へとゆっくりと近づいていった。
彼女は激しい呼吸を繰り返し、右足から大量の血を流しながらも、黄色い瞳の奥に宿る鋭い警戒の光を、クルザードに向けて崩してはいなかった。
「自分で立ち上がるだけの、最低限の肉体の余力は残っているかい」
「……あぁ? お前、人間……。この私を助けて、一体どんな下卑た見返りを受けるつもりだ」
「見返りなんかどうでもいいさ。そんな不確定な要素よりも、温かい飯を胃袋に流し込む方が、今の君のシステムにとっては最も最優先の判断だからね。飯、食うかい?」
虎獣人の女――ティグリスは、その場にカチリと完全に固まった。
「……は? 飯、だと? お前、私がこれだけの致命傷を負って死にかけているのが、目に見えていないのか?」
「見えているさ。だからこそ、熱い水分と脂質の補給が必要なんだ。君の肉体は今、極限の飢餓状態によって、内部から完全に駆動エラーを起こしかけているからね」
張り詰めた沈黙が、冷たい雨の降る路地裏を満たした。
そして、その緊迫した静寂を打ち破るようにして、ぐうぅぅ、と、彼女の引き締まったお腹の底から、物凄く大きくて情けないお腹の音が盛大に鳴り響いた。
広場全体が、一瞬にして不気味なほどに静まり返る。
ティグリスは一瞬にして、その虎の耳の先端にいたるまでを真っ赤に染め上げ、恥ずかしそうに両手で自分の腹を押さえて俯いた。
横で見ていたドミニクが、そのあまりにも完璧なタイミングの拒絶の崩壊に、堪えきれずに大声で吹き出した。
「あははは! 物凄いタイミングでお腹が鳴ったわね、ティグリス!」
「笑うな、ドミニク。彼女の肉体は、生きるための最も健全で正しい合理的な悲鳴を上げているだけさ」
「いや、でも今の空気でそれは本気で無理よ! 我慢できるわけないじゃない!」
ティグリスは、耳まで真っ赤にしながら、牙を剥いてクルザードを激しく睨みつけた。
「……うるさい! 殺す、お前ら全員、今すぐ一撃で噛みちぎって殺してやる!」
「はは、殺すのはその怪我を完全に治し、腹一杯の温かい飯を食ってからにしてくれ。腹が減っていては、人を殺すための踏み込みの速度も致命的に鈍るだろ?」
クルザードは口元に明るく快活な笑みを浮かべ、気さくなトーンで当然のように言った。
その日の夜。
崖の上の古い廃屋の内部には、昼間の冷たい雨風を完全に圧し戻すような、至高の鍋の香りが心地よい流れとなって満ちあふれていた。
今夜の拠点の飯は、港の大手商会から最優先で回してもらった、獲れたての一番新鮮な海の幸をこれでもかと贅沢に使った「特製魚介鍋」であった。
肉厚な白身魚。
大ぶりの貝類。
海の塩気を孕んだ、豊かな海藻。
各種の新鮮な山の野菜。
そして全体の味に深みをもたらす、塩牙猪の香ばしい燻製脂。
それらすべての厳選された資源が、彼が最近になって完全に開発に成功した、あの高温水蒸気による「蒸気調理」の精密な熱効率によって、完璧に火を通されていた。
石鍋から激しく立ち上る白い湯気と、五感を芯から揺さぶる濃厚な海の香りが、部屋の隅々まで広く行き渡っていく。
「……」
虎獣人のティグリスは、デニーゼの完璧な回復魔法によって腹部と足の致命傷を完全に治してもらった後も、未だに強い警戒のオーラを崩さずにいた。
用意された中央の椅子には決して座ろうとせず、廃屋の一番隅、背後に壁を背負い、いざとなれば一瞬で外へと逃げ出せる窓の傍のポジションを頑強に維持している。それは、数々の過酷な修羅場を潜り抜けてきた、一人の本物の戦士、あるいは傭兵特有の冷徹な戦場の動きそのものだった。
「まずは、お前の正確な名前を聞かせてもらえるかい」
クルザードが、木べらを滑らかに動かしながら気さくに尋ねた。
「……ティグリスだ。それ以上を詮索するつもりなら、今すぐここを出ていく」
「俺はクルザード。よろしく頼むよ、ティグリス」
「知っている。お前の名前くらい、この街の底辺にいれば嫌でも耳に飛び込んでくるからな」
「ほう。俺のようなただの資源の管理者の名前が、そこまで広く流通しているのかい?」
「ああ。『港外れの崖の上に、世界の常識をへし折るような最高に奇妙で美味い飯を出す、変な飯屋がいる』ってな」
ドミニクが、そのあまりにも的確で直球な評判を聞くや否や、お腹を抱えて大声で笑い転げた。
「あははは! 間違ってないわ、ティグリス! クルの本質をこれ以上ないほど完璧に表現しているわよ、それは!」
クルザードは彼女たちの笑声を陽気に受け流すと、具材が並々と注がれた熱々の木椀を、ティグリスの手元へと滑らかに差し出した。
「能書きよりも、まずは食うといい。これだけの極上のアミノ酸を含んだスープを無駄に冷まさせておくのは、俺の合理主義が許さないからね。さあ、遠慮はいらないさ」
ティグリスは数秒の間、完全にその場に動きを止めて木椀を見つめていた。
立ち上る、暴力的なまでに美味そうな海の香り。
彼女の鋭い鼻腔を刺激し、再びお腹の底がぐう、と小さく鳴り響く。
結局、本能的な飢えの不効率に抗うことはできず、彼女は椀を受け取ると、恐る恐るそのスープを口へと運んだ。
そして、その場で劇的に目を見開いたまま、全細胞が硬直した。
熱。
完璧な精製海塩の塩気。
燻製肉から染み出た極上の脂の甘み。
そして、高温の蒸気によって旨味を内側に完全に閉じ込められた、白身魚のフワフワとした驚異的な食感。
スープが喉を通り、胃袋へと落ちた瞬間、冷え切っていた彼女の肉体の全神経が、一瞬にして劇的な温かさと活力によって満たされていった。
「……う、うまい。信じられないほど、身体の奥に染み渡る……」
その声は、驚愕のあまり、極めて小さく震えていた。
「当然さ。俺の判断の通りに作られた、最高の栄養効率を誇る鍋だからね」
クルザードは口元に明るい快活な笑みを浮かべ、当然の事実を告げるように、気さくなトーンで淡々と答えた。
「お前、本当に自分で作った飯を、そんな風に何食わぬ顔で堂々と平然と自画自賛するのね……普通ならもっと謙遜するものよ?」
ドミニクが呆れたような笑みを浮かべて突っ込みを入れる。
ティグリスはそんな彼らの賑やかなやり取りを他所に、無言のまま、物凄い速度で二杯目、三杯目の大きな椀を平らげていった。
その食べる速度は驚異的だったが、不思議なことに、その手つきには一切の汚らしさや無駄な手戻りが存在しなかった。獣のように皿を貪り食うのではなく、最も合理的で、洗練された美しい所作。それは、彼女の肉体が過去に、極めて高度で厳格な戦闘訓練、あるいは規律ある軍隊や傭兵団の環境に長く身を置いていた事実を、雄弁に証明していた。
クルザードは手を動かしながら、彼女のその澱みのない所作の全体を、瞳の奥で静かに観察していた。
彼の視線が固定された瞬間、鑑定の無機質なデータが脳内へ直接流れ込んでくる。
『技能:対人戦闘技能:最高値。四方の危険を察知する索敵能力に特化』
『適性:最前線で集団の盾となる、圧倒的な前衛戦士としての適正あり』
『経歴:多国籍の傭兵団、あるいは特殊工作部隊における実戦経験を多数捕捉』
『結論:組織の防衛力の核として、最優先で拠点へ組み込むべき超優良人材』
(素晴らしいな……頭痛はまだ少し残るが、情報の取捨選択がこれほど完璧に行えれば、目の前にいる人員の本当の価値を、一瞬で正しく『振り分け』て動かすことができる)
ティグリスは空になった三杯目の椀を置くと、その黄色い鋭い瞳で、クルザードの姿をじっと凝視した。
「……おい、お前。本当は何者だ。ただの荷物持ちが、あんな一瞬で五人の熟練の冒険者を完全に無力化する水魔法を放ち、おまけにこれほどの奇跡のような飯を作るなんて、絶対に常識があり得ない」
「はは、買い被りすぎだよ。俺はご覧の通り、背中に大きな荷袋を背負った、ただの陽気な料理人さ」
「違う。そんな飯炊きが世界にいるわけがない」
「それなら、ただの荷運び人であり、資源の適切な管理者さ。呼びやすい名前で呼んでくれればいいよ」
「もっと違う。お前、自分の本質を隠そうとしているだろ」
クルザードは大きな木べらを止め、少しの間だけ、暖炉の揺れる赤い火を見つめて思考を巡らせた。
そして、彼はいつもと変わらない、ハキハキとした明るい声で静かに答えた。
「……実際、俺自身にも自分の本当の正体はよく分かっていないんだよ。ただ、俺にとっては目の前にあるこの不効率な世界を、最も正しい最高効率の形へと塗り替えていくことだけが、唯一の確実な関心事だからね」
ティグリスは彼のその一片の揺らぎもない、底の知れない瞳を見つめると、呆れたように、しかし深い畏敬の念を込めて小さく呟いた。
「……本当に、底の知れない変な男だな、お前は」
「はは、よく言われるよ。褒め言葉として受け取っておくよ、ティグリス」
その夜、ティグリスは街の貧民街へは戻らず、この古い廃屋の片隅に宿泊することを静かに承諾した。
理由は極めて単純だった。外の冷たい雨が吹き荒れる不条理な街の路地裏よりも、この男の放つ圧倒的な力の防壁に守られた廃屋の内部の方が、傷ついた彼女の肉体にとっては、遥かに「安全で合理的である」と、彼女自身の戦士としての本能が冷徹に判断したからだ。
次の日の朝。
まだ東の空が僅かに白み始めたばかりの極めて早い時間だというのに、クルザードの肉体はすでに限界の速度で活発に駆動していた。
井戸からの大量の水汲み。
大鍋の火加減の精密な調整。
燻製小屋の煙の質の厳密な確認。
次の量産ラインに向けた、発酵パンの生地の仕込み。
そして、アイテムボックスから取り出した大量の雑多な物資の完璧な整理。
それらすべての大規模な作業を、彼は口元に明るい笑みを浮かべたまま、たった一人で完璧な手際で淡々とこなしていた。
早朝に目を覚ましたティグリスは、その彼の常軌を逸した仕事量を間近で目撃し、驚愕のあまりその虎の耳を小刻みに震わせた。
「お前……まさか、昨夜から一睡もせずに今の時間まで動き続けているのか?」
「いいや、ちゃんと寝ているさ。無駄に肉体を酷使するのは、最も効率が悪い大損だからね」
「嘘を言うな。私が眠りについた時も、そして今朝目を覚ました瞬間も、お前は全く同じ場所で同じように手を動かしているじゃないか」
「三時間は確実に、深いレム睡眠を確保して全細胞を完全に修復したよ。俺の計算に間違いはないさ」
「三時間!? 人間がそんな短い睡眠でこれほどの大規模な重労働を毎日こなしていたら、数ヶ月で脳の機能が完全に停止して死ぬぞ!」
「はは、これだけの莫大な魔力を体内に最適に循環させているからね。通常の肉体の限界値なんて、論理的な計算の工夫一つでいくらでも書き換えられるのさ」
ティグリスは、彼のその非の打ち所がない徹底した合理主義の姿勢を聞くと、ただただ呆れて開いた口が塞がらなかった。
しかし、彼女が本当に驚嘆したのは、その彼の圧倒的な体力のことではなかった。
朝の混雑が始まるにつれて、クルザードが中心に立ち、集まってきたメンバーたち全員へ向けて、一秒の無駄もない見事な役割の「振り分け」の指示を、ハキハキと言い渡していくその大局的な差配の手際だった。
「ドミニク、次の仕込みに必要な、水桶の第一陣の配置をお願いするよ」
「はいよー、ここに完璧に用意してあるわ!」
「ガルド、裏手の燻製小屋の第二の通気穴の石材に、熱による微微な摩耗が生じている。今すぐ修理の手順を踏んでくれ」
「そんな細かいこと、後で時間が空いた時にやればいいだろ、小僧!」
「ダメさ、ガルド。先にその澱みを完全に補修しておかなければ、次の瞬間には内圧の偏りによって、石窯全体の構造が中央から完全に崩壊して大損を出すのが目に見えているからね。今すぐやるんだ」
「……チッ、本当にお前には、何もかもが最初から見えてやがるな。気持ち悪ぃ能力だぜ、その鑑定ってやつは」
「はは、俺もそう思うよ。毎日これだけの雑多なデータを頭に直接叩き込まれる身にもなってもらいたいものさ」
クルザードは気さくに笑いながら、目の前の長い列の全員へ向けて、完璧な速度で温かい飯を均等に分配していった。
ティグリスは壁にもたれかかりながら、その廃屋の敷地全体を包み込んでいる、異質な空気の流れを静かに、そして鋭い目で見つめていた。
やはり、ここは根本から何かがおかしかった。
この剥き出しの悪意と搾取だけが支配していた港町アルフェイドにおいて、ここだけは、人間の理不尽な喧嘩や流血の不効率が、完全にゼロに抑え込まれている。
豊かな美味い飯がいつでもそこにあり、誰もが笑顔を浮かべて語り合い、全細胞の腹が完璧に満たされている。
だからこそ、彼らの心の中には、この世界で最も貴重な資源たる「精神の余裕」が、驚くほど強固に生まれ始めていた。
力による強要など、どこにも存在しないのに。
「……なぁ、クル。何故これほどの規格外の人間たちが、お前のそのささやかな言葉一つで、これほど完璧な規律を持ってここへ集まるんだ?」
ティグリスが、胸の内の疑問を抑えきれずにぼそりと呟いた。
「簡単な話さ。他でもない、美味い『飯』がここにあるからだよ」
クルザードは木べらを動かしながら、一瞬の迷いもなく即答した。
「生き物である以上、人間は必ず腹が減る。それは世界のいかなる教義よりも揺るぎない絶対の因果関係だからね」
「……本当に、ただそれだけのシンプルな理由なのか?」
「ああ、それだけで十分すぎるさ」
クルザードは石鍋の豊かな湯気を見つめながら、ハキハキとした明晰な声で言葉を繋いだ。
「腹が減ると、人間の脳からは余裕という名の最も重要な機能が完全に消滅する」
「余裕が消滅すると、人は生き残るために他者から物資を力ずくで略奪し始める」
「略奪が始まれば、街の治安は混沌に荒れ果て、全ての産業の歯車が止まる」
「産業が止まれば、人が無駄に死んでその絶対数が減少し、最終的には街全体の機能が完全に詰まって死ぬ。最悪の不効率な流れさ」
ティグリスは、彼のその社会の本質を完璧に見抜いた論理の構築を、息を呑んで黙って聞き入っていた。
「だが、その逆の流れを作ることも、同じくらい簡単に成立させられるのさ」
「ここに、どこよりも確実に美味い『飯』がある」
「肉体を内側から完璧に温める、最高の温度がある」
「どんな致命的な過酷な環境からでも、安心して深く眠れる絶対の安全がある」
「そして、どんな深い傷口であっても、一瞬で元通りに修復できる確実な治療がある」
「ただそれだけの当たり前の流れをここに整えておくだけで、人間は自らの意思でここに長く残ろうとする。人が残れば、彼らの持つ貴重な技術と才能がその場所に蓄積される。技術が蓄積されれば、社会という巨大な歯車は爆発的な勢いで回り始め、最終的には国という名の、最も強固な最強の都市が勝手に形成されるのさ」
クルザードの放ったその言葉のスケールは、すでに一介の荷物持ちの次元を完全に置き去りにしていた。
しかし、誰もそれを否定できなかった。なぜなら、現にこの崩れかけた古い廃屋の周囲には、彼の言葉通りの偉大なる変革の基盤が、完璧な流れを伴って出来上がりつつあったからだ。
「……お前の言っていることは、ただの飯炊きの戯言じゃないな。それは、一つの強大な『国家』の建国そのもののデザインだぞ」
「はは、多分、遅かれ早かれそうなるのが、この世界の不効率を駆逐するための最も正しい合理的な判断だからね」
ティグリスはその不敵な笑みを浮かべる青年の顔をじっと見つめ、その黄色い目を細めた。
「お前……本当に、ただの普通の料理人なのか?」
「ああ、飯を作るよ。俺の手で、最高の合理的な手順のスープをね」
「それは分かっている。だが、お前のその思考の先は――」
「でも多分、俺のこの活動は、ただの飯の提供だけでは二度と終わらない流れにある、それだけは確かさ」
クルザードは石鍋から立ち上る、真っ白な湯気の行方を見つめながら、明るく快活に言い放った。
まさにその瞬間、廃屋の敷地の敷界のすぐ外側、南通りの方角から、激しい鐘の音と共に大きな騒がしさがここまで響いてきた。
「おい! 助けてくれ、またあの悪質な盗賊どもの襲撃だ!」
「南通りの大手の商隊の荷馬車が、完全に包囲されて物資を奪われかけているぞ!」
ティグリスはその叫び声を聞いた瞬間、一瞬にしてその黄色い瞳を殺気立たせ、泥を蹴って力強く立ち上がった。その踏み込みの速度、全身の筋肉の緊張の張り方は、完全に一線の戦場を支配する本物の前衛戦士の動きそのものだった。
クルザードは表情一つ変えることなく、腰の短剣の柄にその素手を滑らかに添えた。
「流れを滞らせる邪魔なノイズが出たようだね。行くよ、ティグリス」
「……おい、お前、私までその修羅場へと連れて行くつもりかい? 私は未だ、お前の仲間になったつもりはないぞ」
「はは、何を言っているんだい。君は昨日の夜、俺の作った最高の魚介鍋を、あんなに満面の笑みで腹一杯に食っただろ?」
ティグリスは彼のそのあまりにも気さくで、しかし非の打ち所がない合理的な理屈を聞くと、一瞬だけ呆気にとられ、それから――この場所に来て初めて、口元を大きく釣り上げて心底楽しそうに笑声を上げた。
「……がははは! 本当に、どこまでも変で、最高に合理的で、とんでもない理屈を叩く男だな、お前は!」
「無駄のない判断が、俺の唯一のルールだからね。さあ、その自慢の牙で、全体の流れを通しにいこうか」
「いいだろう! お前のその美味い飯の対価として、襲いかかる雑魚どもを片っ端から泥の中に叩き伏せてやるよ!」
そしてこの日を境にして。
圧倒的な前衛戦闘能力を誇る、最強の虎獣人ティグリスは、崖の上のこの古い廃屋の防壁の核として、当然のようにここに深く住み着くこととなった。
立ち上る豊かな白い煙の向こう側で。
一人の荷物持ちの「判断」によって集められた最強の才能たちが、澱んだアルフェイドの都市国家を根底から塗り替え、新たなる巨大な歴史の歯車を、今、完璧な速度で駆動させようとしていた。




