花冠
本編からの、番外編になります。
マリア・ストウナーが俺、アーサー・ストウナーの奥方となり、初めての春が訪れようとしていた。
まだ雪の根深い頃、マリアが一時俺の勤める大学で、俺の補佐役として働いていたのも随分と前のことになる。
生徒諸君はマリアとの別れをひどく惜しんだ。俺としては内心複雑な思いを抱いてしまった。
確かにマリアの隠れた美点は感嘆に値する。
……一応、断らせてもらうと、これは夫の立場からの欲目ではない。
常に教員の意図を汲み取り、必要な資料を必要な時に手渡す気配りも、
他の補佐役の気がそれている時には、黙ってフォローに徹する辛抱強さも、
生徒の話に辛抱強く耳を傾ける誠実さも、
全てが我が奥方の美点に違いないのだから。
それに、女学校で常に首席を保ち続けたマリアの勤勉さは並ではない。
少し会話をすれば、多くは語らないマリアの聡明さを伺い知れるだろう。
そんなわけで、マリアの素晴らしさに当てられた生徒諸君が、フラフラとけしからん視線を送っていたのも無理はない。
無理はない……が、いい気はしないのだ。
マリアは他でもない、俺の奥方だ。
そのマリアにポーッとする若き青年たち……いい気はしない、決まっている!
という経緯から、俺、アーサー・ストウナーの神経は些かすり減らされてしまった。
マリアに駆け寄る馬鹿、もとい、可愛い生徒たちを片っ端から大学の窓から放り投げてやりたい衝動に襲われ、それを自制するのには随分と苦労した。
……本当に、苦労したのだ。
「目が怖いぞ」
とは、悪友、ハロルド・グレイの言葉である。
俺はため息をついた。
「俺は生まれた時からこんな顔だ」
「それはそれで嫌だな」
ハロルドは爽快に笑い飛ばす。
悪友は優雅な仕草で煙草を取り出したので、机に入れていたマッチ箱を探る。擦り、火をつけた。
マリアと結婚してからは禁煙している。マッチも幾分か湿っていた。
「どうも……あのな、アーサー。ちょっと、マトモではない目つきをしているのは自覚した方がいいと思うぞ。お前、それでも教職についてるんだから」
「ああ」
その指摘はもっともだったので、俺は頷く。ハロルドは煙と共に息を吐くと、部屋を見渡した。
壁にはドライフラワーを編んで作られた花かんむりがかけられている。作り手の誠実さが伺い知れる、丁寧な花かんむり。
マリアが一本、一本、手ずから編んだものだった。
「いつ来ても華やかだな。これ、生徒からだっけ」
「そう。マリアの務めの最終日には、大きな花束が贈られたんだ。今まで名誉教授が退官しても、誰も、自分からは買おうともしなかった花だぞ。それが、全員から一輪ずつ、そんなもんだから、そりゃ馬鹿でかかった。
さもこれが伝統ですみたいな顔で渡したから、俺は空いた口が塞がらなかったね。猫の皮を五枚か六枚も被っているようなものじゃないか」
「そう言ったのか」
「言った。言ったとも。あんな青ガキ共に騙されてはいけないよと言ったんだけど、むしろ俺が怒られた」
俺は肩をすくめる。
猫は人間ではありません、とは奥方の冷静な返答である。
「結局、マリアはそんな大切な花を枯らせては勿体ないと言うから、僕は花の保管方法について調べたよ」
「それがドライフラワー? 氷公にしては可愛い提案だ」
「…いいんだよ、マリアは喜んでたんだから」
花束を差し出された時の、マリアのほころんだ口元を俺は思い出す。
ふんわりと、花よりも甘い笑みを浮かべ、マリアはまぶたを閉じていた。
睫毛の影が頬に落ち、綺麗なカーブを描いていたのを、
絵画の一枚でも眺めている気分で、ただ、俺は見惚れていた。
何も言えなかった。
柔らかで、美しい光景が、すぐ目の前にあったので。
マリアは言った。
「幸せな香りです」
「…ウン」
本当は、色んな花々がなんの規則もなく、ごそっとより集められた花束なので、調和のカケラもなかった。
大変主張の強い匂いをまき散らしている花束を、マリアは大切そうに抱えた。
「……旦那様のお陰ですね。旦那様のお陰で、知ることのできた…」
「……」
「私、きっと旦那様に嫁がなければ、こんな機会もなかったでしょう。私は…幸運なんだわ」
「マリアが良い人だから、みんな好いていただけだよ…俺としては、ちょっと、まぁ、カナリ…その、複雑だけけどね……いやッ、嬉しいからね、嬉しいから、俺も!」
マリアは目を丸くし、次いで、黒い瞳を瞬いた。
薄桃色の唇が開く。
「…ありがとうございます、旦那様。私、旦那様が生徒のみなさんに、学校の方々に愛されているのを見れて、嬉しかったのですけれど…」
「けど?」
「……ちょっと妬いてしまいましたから」
「…え」
「…妬いたんです!」
「嘘だ」
「信じなさい、アーサー! それに、二度言わせないでください……だから、いいでしょう! つまり、その、お互いモヤッとしたんですから……そうです、おあいこです」
俺の奥方は少し頬が赤くなっていた。
俺の視線が痛いのか、マリアはそっと俯いた。
「……」
どうしよう、と俺は思ってしまった。
どうしよう。
歳を重ねたはずなのに、こんなにもみっともない、恥ずかしい、けれど幸せで満たされた気持ちになってしまうのは、何故なのだろう。
「アーサー、返事は?」
「…ど、同意します」
「結構です」
気の利いた返事ができないのは、何故なのだろう。
マリアの瞳が、きらきらと西日に照らされて眩しい。
誰にも言えない、俺だけの、大切な秘密が一つ、増えた日だった。




