神さまの小鳥
虫の知らせ、という言葉がある。
幼い頃のアーサーは好奇心旺盛な上に、小さなことも気になる性格だったので、何故、犬でも猫でも、なんなら帝国お得意の童話に登場するドラゴンでもなく虫であるのか、それは非常に疑問だった。もちろん、黙っているタイプでもない。
「本を片っ端から調べたんだよ。幸運なことに、ストウナーの家には貸本屋ができるほどの蔵書があった……昔の話だよ」
興味深そうに目を輝かせていたマリアが頷く。アーサーは乳白色のマグカップを口へ運ぶと、一口紅茶を味わった。
今日は珍しくアーサーが早起きした。出勤前の朝食にも余裕があり、窓枠に止まっていた蜜蜂を見つけ、そんな話になったのである。
たいして面白くもない話題だろうに、マリアは早く続きを、と目でアーサーに語りかける。アーサー負けず劣らず、好奇心旺盛な奥方なのだ。
アーサーはまごついた。
「ええと、端的に言って、その…」
「ええ」
「その……後悔したね」
「…なぜです?」
「つまり、なんというか……食事時には向かないお話だったんだ。虫の知らせというのは、身体の中にある虫を指していたんだ。も、もちろん、僕たちの身体の中には本当にはいないけれど、遥か東の国では生まれつき人間の体の中には3匹の虫が棲みついていると考えられていたんだ」
マリアは猫のように目を丸くし、自らの胸に手を当てた。ぱち、と瞬く。
毛並みの良い白猫が吃驚しているようで、可愛らしい。
「3匹ですか」
「諸説あって9匹とも…言われている」
朝食を食べ終えていたのは幸いだった。手持ちがこんな話題しかないのも、常々、妹から叱られる理由になっていたので、アーサーはちょっと後悔する。
マリアから微妙に目を逸らしながら、指を自分の方へ向けた。とん、と頭を軽く突く。
「頭。次にお腹。そして脚。それぞれに、ね、いるらしいと言われていた」
「腕は?」
「う、腕?」
予想だにしない質問に、アーサーは二口目の紅茶を逃した。
今の話を聞いて悲鳴を上げるのではなく、質問が思い浮かぶとは。とても深窓の令嬢育ちとは思えない。マリアは顔色ひとつ変えることなく、頬に手を当て、考え込む仕草をした。
「頭というのは首も含まれるのでしょうか? 胸は? 心臓が一番大切でしょうに、そこは適当なのかしら。それに虫の知らせということは、予知能力を持った虫ということ? 外の国のお方は、帝国と違って、独特なものの捉え方をなさるのですね……あ、旦那様、形はどうなのでしょう」
「……」
唖然とするアーサーを十数秒、マリアは碧の瞳で見つめた。
「……」
ポンコツアーサーはまだ動かない。
マリアは時計を確認した。あら、と声を上げる。
「もう家を出る時間です、旦那様。お弁当もお忘れなく」
「う、うん」
「あと、昨日も申し上げましたが今日は先に夕飯を食べててくださいな。ステファニーとの用事があるので、私、遅くなるかもしれません」
ステファニー・ヨークとはアーサーの実の妹にあたる。
ステファニーの息子、マキシミリアン・ヨークがあわや大怪我を負う危険もあった事故で、マリアは身を呈して小さな甥っ子を守ったのは記憶に新しい。ステファニーがマリアに信頼を寄せているのも無理はなかった。
アーサーはなんの用事かは問うことはせず、ただ、頷いた。
「うん。遅くなるならステファニーの所に泊まっておいで。きっと妹も喜ぶから」
幸い、マリアに後遺症はなかったけれど、二度とあんな思いはしたくない。けれどマリアは倹約家なので、馬車も使わず、夜道を歩こうとするだろう。
マリアを一人で? いくら電灯が発明されたとして、暗い闇夜が既に過去のものに風化したとしても、冗談じゃない。きっと、自分は夕食どころではないだろう。
「心配で食事が喉も通らないよ。だから、ね?」
マリアの手を握る。アーサーとしては精一杯の気持ちを伝えたつもりだった。
マリアは掴まれた手に視線を落とし、溜息をついた。どうも雲行きが怪しい。感嘆の溜息ではない。どちらかというと呆れている様子に近い。
ナニが駄目だったんだ!
アーサーは焦った。もっと誠心誠意、真心を見せろと言われても、元々口は上手くない方なのだ。いや、多くを話そうとはしないマリアのこと。むしろなにも言わないほうがセイカイだったのだろうか。難しい、奥さん、僕には難しすぎます…!
「アーサー」
「は、はい」
「心配しすぎです。私も慣れておりますから、どうか、信じてくださいませ。それに私が帰らなかったら、明日の朝、誰が旦那様を起こすのです? 私以外、誰にだって、その役割はありませんわ」
マリアの白い指が伸びる。アーサーの襟元を直し、曲がっていたタイを整える。
息継ぎをするように、マリアはそっと言った。
「なにより、私も、誰にも、渡したくはないのです」
何を?
そう訊きたくなるのを、アーサーは堪える。
毎日アーサーを起こし、暖かい湯気の立ち上るコーヒーに紅茶を淹れ、玄関で見送りをする前のほんの一時、ほんの一瞬だけ互いの頬に触れる。アーサーにとっての幸福の全ては、マリアにとっても、大切なものなのだろうか。
そうであって欲しい。
そうであるなら、幸せはこんな形をしているのだと、抱きしめられる気がした。
「いってらっしゃい、アーサー」
「うん。ありがとう、マリア」
マリアの微笑みを網膜に映し、アーサーは扉を押した。
花に留まっていた蜜蜂が翅を震わせ、飛び立ってゆく。蜜蜂はただの虫ではない。黄金の蜜を集めることから愛の象徴、または、偉大な主なる神の鳥とも呼ばれている。
アーサーは胸元のポケットに入れていた手紙に指を這わせた。今朝、早く起きたのは胸騒ぎがしたからだった。まさに虫の知らせで、いつもは当たらないカンが、珍しく当たった形になった。
手紙の宛名はマリア、それもマリア・ノルデンに宛てている。つまり、結婚前のマリアを知る者。手紙の差し出し人は、マリアに婚約破棄を言い渡した貴族に違いなかった。
(さて、どうするかな)
陽にかざしてみる。さすがに何が書いてあるかは見えなかった。開けるのは無粋がすぎるので、自重する。
幸福を刺す少しの罪悪感に、薄い唇を緩める。長い指でアーサーはひらひらと手紙を弄んだ。




