アヤカ視点(前半)
健康オタク……というわけではないけれど、「体にいいらしいよ」なんて言われた食材は積極的に食事に取り入れ、運動不足解消で自転車で最寄り駅まで頑張っていたし、毎日寝る時間・起きる時間は規則的にしていた。大好きな晩酌もレモンサワーにヘルシーなつまみ、決して飲み過ぎず、休肝日もちゃんと設けていたのだ。納豆とヨーグルトは毎日欠かさなかったし、寝る前には涼ちゃんと腹筋もしていた。暴飲暴食はせず、人間ドックをきちんと毎年受診して、人生百年時代に向け、そこそこ気を遣った生き方をしていたのに。
うん……? 何だろう、胸が痛いなぁ。
触れるとなんだか胸に硬い部分がある。
あ、でもそろそろ月ものだから、きっとそれね。胸が張るって言うし。
何か違うと感じた時、人間は自分を安心させる方向に思考が展開されてしまうのか。自覚したのは胸の痛みぐらい。あとはすこぶる健康だった。日頃から便秘がちだし、曇りの日は少し頭痛もする。でもそれは何も今に始まったことではない。
いつもとちょっと違うけど、そんな大したことではないだろう。
そうやって最初はやり過ごしたけれど……。
あれ? 月のものが終わったのに、まだ痛む。それになんかやっぱり硬い。
少し不安になり、「あ、でも」となる。二十代の頃、乳腺嚢胞の疑いあり、と診断され、その後ずっと経過観察だった。
きっとこれね。
そうやって自分を納得させ、さらに一週間が経ち……。
いや、なんか違う。これは一度病院を受診して、スッキリした方がいいわよね。
こうしてようやく病院へ行ってからは……あっという間ということはなかった。長かった。「癌である可能性が高い」から「どんなタイプの癌であるか」が判明するまでに一か月以上かかっている。それは何だかもう「お前は地獄行き決定!」と言われてから、黒縄地獄へ堕とされるのか、焦熱地獄へ送り込まれるのかと、戦々恐々で待つような状態。
いろいろ全部調べ、実際に点滴治療が始まって辿り着いた地獄、それは――
摩訶鉢特摩地獄。
八寒地獄の最深部にあるとされ、寒さによる痛みが最も強いと言われている。そう、点滴治療はまさにこれ! 手足のしびれ回避と口内炎防止のため、冷却措置を手足に行い、点滴中、氷を食べ続ける。これは任意であり、辞退できるもの。それでも手足に支障が出たら、涼ちゃんのためにご飯が作れなくなる。仕事も続けられなくなってしまう。だから我慢。口内炎も大量にできたら食事も億劫になるだろう。闘病中は体力勝負でもある。口内炎を作るわけにはいかない!
治療なのに苦行。治すための苦しみ。まるで神様から生きたければ苦痛に耐えろと言われるように思えるけど、我慢するしかない。
涼ちゃんは治療を続けるうえで私に起きる副作用を見て、とても落ち込んでいる。
愛する旦那さんを悲しませるわけにはいかない!
弱音はなるべく吐かず、前向きに、明るく、笑顔で。
子どもたちも心配している。
だから「大丈夫よ、大袈裟よ! 平気、平気」とからからと笑う。
強がり? そんなことはない。もし自分自身が「ああ、もうダメだわ」と思ったら、負けてしまう。だからポジティブに考える。
「すごいわ! いくらダイエットしても痩せなかったのに、こんなに痩せている!」
「ウィッグなんて若い子がおしゃれでつけるイメージだったけど……。見て、ずっと黒髪だったけど、茶髪も似合うでしょう、私!」
「涼ちゃんが作ってくれるおかゆ、美味しいわ~。これだけは食べられちゃうよ!」
そうやって闘病して、手術もして、再び点滴治療をして……。
ようやくその点滴も終わった。
「……湊と陽菜が温泉旅行をプレゼントしてくれた。二人でのんびり行ってきて、って」
これは嬉しいと思うものの、やっぱり傷跡がちょっと気になっちゃうわよね。私よりも周りの人がびっくりしちゃうのでは?
そう思ったら……。
「あいつらまだ稼ぎはそんなにないのに、源泉かけ流しの温泉が部屋についている離れの個室の高級宿をとってくれた」
「まあ、そうなの!」
「しかものんびり滞在できるように三泊四日」
「ええっ、そうなの!? お金遣わせちゃって申し訳ないわね~」
そこで気づく。
「え、でも涼ちゃん、仕事あるわよね? 本部長に昇進して、忙しくなったでしょう?」
「大丈夫だよ。土日挟んで金曜と月曜休むぐらいはできる。せっかく子どもたちがプレゼントしてくれたんだ。行こう、綾香」
そうして涼ちゃんと行った温泉は本当に楽しかった。
温泉は部屋についているから、入りたい放題!
到着してすぐに、ひとふろ浴びる。
夕食をいただき、しばらくしてからもう一度。
離れの美しい日本庭園を眺め、涼ちゃんとおしゃべりをして、寝る前にもうひとふろ。
翌朝は、元気に早起きして朝風呂。
美味しく朝食をいただき、観光へ。
出先では足湯も楽しみ、疲れて戻ったら早速お風呂!
本館の大宴会場で民族舞踊を見ながら夕食をいただき、終わってのんびりしたらお風呂。
星空観察会に参加した後は、ゆっくりお風呂に入り、就寝。
そんな感じで過ごした三泊四日はあっという間だった。
「治療が始まるまでは長くて、始まったらそれはもうロングロングコースで。手術をしても終わりではなくてその後があって。長い長い時間だったのに。楽しい温泉はあっという間に終わっちゃったね」
「綾香が気に入ったのなら、ここには毎年来てもいいんじゃないか。今回は秋だった。今度は春に桜を見に来てもいいだろう? 冬は湯豆腐が美味しいと言っていたから冬でもいいし」
「あら、でも高いわよ?」
「それぐらい。俺だってこれでも本部長だ。年に一度の贅沢ぐらいできる」
「でも湊と陽菜の結婚資金も貯金しないといけないし。家もローンがあるでしょ。それに……私の治療で随分、お金使わせちゃったわよね? まあ、私もこれから頑張って働くけど」
すると涼ちゃんはこんな風に言ってくれた。
「結局さ、俺も湊も陽菜も、綾香の病気を肩代わりするなんて出来なかった。綾香は辛い治療も手術も……最後まで一人で耐えた。その体一つで耐えたんだ。少しぐらい贅沢してもいいだろう」
「人間、生まれる時も死ぬ時も結局、一人なんだもん。それにこんな大変な病、涼ちゃんや湊や陽菜に肩代わりなんてさせられないわ! もう癌のことはやっつけたから、大丈夫。今度は春に来たいわね。ロビーにポスター貼ってあったわよね。満開の桜、綺麗だった。あれ、目の前で見たら感動よね。桜吹雪がぱーっとなったら、すごそうよ」
その時の私は自分に当然、来年の春が訪れると思っていた。
春どころか、夏も、秋も、冬も。
子どもたちが愛する人と出会い、結婚して、孫を抱く日がやって来る――
そう思っていた。
この旅館に毎年、涼ちゃんと足を運び、四季を楽しめる。そう信じていた。
前向きに。ポジティブに。未来を信じて生きて行く。
でも……。
「……涼ちゃん、ごめん。やっぱりお酒はやめとく。涼ちゃんが渾身の力で絞ったレモンサワー、大好きだったのに、ごめんね」
「それは構わないけど……。疲れているなら、無理しないで休んだ方がいい。俺は適当に食べて片付けておくから。今日は湊と陽菜も帰って来て、綾香は朝から頑張っていた」
「そうだね。ちょっと張り切り過ぎたのかも。ごめんね、片付けできないけど……」
「いいって、いいって。風呂はすぐ沸かすから。それともシャワーだけにするか?」
「……うん。シャワーでいいかな。ごめんね、ずぼらな嫁で」
「何を言っているんだか。明日は日曜日なんだ。仕事も家事も休む日って決めただろう? だからずぼらでもいいんだよ」
「ありがとう、涼ちゃん!」
この時、ベッドに横になった私は「大丈夫だよね。ただ疲れただけだよね」と何度も思っていた。
ただ、病は気から――で前回、失敗している。だから月曜日。会社は半休をもらい、病院へ行って――
まさか、転移しているなんて。しかも即入院になっちゃうなんて。
乳がんの時は、どんなタイプの癌なのか診断されてからの、点滴治療、手術、再びの点滴治療。それはとっても長く感じた。振り返ってもあっという間――なんてことはなかった。あっという間だったのは温泉旅行と……。
「涼ちゃん……ごめん。私……ちょっと疲れちゃった。先にね、休ませてもらう。陽菜と湊のこと、お願いしてもいい?」
再発した癌は容赦ないスピードで私の体を蝕んでいく。
見たかったなぁ。陽菜のウェディングドレス姿。
湊のお嫁さんになる人に、湊の好物のレシピ、教えてあげたかったなぁ。
涼ちゃんと一緒におじいちゃん、おばあちゃんになって、あの旅館の縁側で桜を眺めたかっ……




















