第三話 月族の里
風が吹いた。
その風を受け、迅は思わず赤い目を細める。
二十年間。
いや、体感ではもっと長く感じた暗闇の世界から出てきたばかりだ。
空が青い。
そんな当たり前のことが、胸に刺さるほど嬉しかった。
光がある。
自由に歩ける。
ただそれだけのことが、
こんなにも有難いとは思わなかった。
もっとも。
現在進行形で重大な問題も抱えていた。
「寒いな」
「当たり前でしょ!」
即座にリュネが叫んだ。
迅は首を傾げる。
「そうか?」
「そうよ!」
リュネは顔を真っ赤にしていた。
どうやら本気で怒っているらしい。
だが迅としても今さら恥ずかしがる訳にはいかない。
こういう時は開き直りが肝心だ。
そう、迅は生まれたばかりなのだから仕方ないではないか。
「いや、だって生まれたばかりだぞ?」
「だから何!?」
「赤ん坊に服を要求するのは酷じゃないか?」
「あなた赤ん坊じゃないでしょ!」
リュネのツッコミが冴え渡る。
「ほぉー」
迅は少し感心した。
なかなか良い切り返しだ。
警察学校時代なら人気者になれたかもしれない。
それに、どこを見て赤ん坊じゃないと判断したんだ?なんて聞いたら、まじの変質者だ。
「とにかくこれ!」
リュネは肩に掛けていた外套を投げて寄越した。
迅は受け取る。
「助かる」
素直な感想だった。
腰に巻き付ける。
最低限の尊厳は守られた。
「お前、優しいな」
「普通、見知らぬ男に外套貸したくないだろ?」
「しょうがないじゃない!全裸男と歩くよりマシよ」
リュネは迅を少し見上げ一瞬睨みつけた。
「そうか」
「そうよ」
即答だった。
「ふー」
リュネもようやく安堵したように息を吐いた。
「だが、よくあんな変態の前から逃げなかったな?」
「どの口が言ってるの?」
「アンタみたいの放置できるわけないでしょ!?」
「そうか」
迅は少し微笑んだ。
また、少し睨まれた。
「日本でなら、立派な警官になれそうだな」
「ケイカン?」
「ふ、こっちの話だ」
「本当に変わった人ね」
リュネは小首を傾げた。
◆
二人は森を歩き始めた。
木々はどれも巨大だった。
日本で見た杉や檜とは比べ物にならない。
まるで山がそのまま立っているような大きさだった。
見上げれば枝葉が空を覆い隠している。
その隙間から差し込む木漏れ日が美しい。
鳥の鳴き声。
風の音。
草木の香り。
すべてが新鮮だった。
迅は何度も足を止めた。
そのたびに少女が振り返る。
「どうしたの?」
「いや」
迅は空を見上げた。
「心が洗われるようだ」
リュネが目を丸くする。
そんなことを言われるとは思わなかったのだろう。
「……変な人」
「よく言われる」
「本当に?」
「たぶんな」
実際は言われたことがない。
だがそういう気分だった。
リュネは小さく笑った。
その笑顔を見て、迅も少しだけ口元を緩める。
「ところで」
迅が尋ねた。
「ここはどこなんだ?」
リュネが立ち止まる。
「そこからなのね……」
「悪いな」
「本当に何も知らないの?」
「そう言っているだろ」
迅は無意識に懐へ手を伸ばし、
途中で止めた。
もう煙草は無い。
リュネは困ったように頭を掻いた。
そして説明を始める。
「ここは世界樹大森林」
「世界樹?」
「あなたがいた場所にあった大きな樹よ」
迅は振り返った。
遥か彼方。
それでも見える。
空へ届くほど巨大な樹。
「あれか」
リュネは空を貫く巨木を見上げて言う。
「世界樹は、この世界で最初に生まれた命だと言われているの」
「最初の命?」
「ええ。世界樹は大地に魔力を流し、森を育て、獣を生み、人々に恵みを与えてきた」
リュネは迅を見た。
「だから私たちは世界樹を、世界そのものの象徴として敬っているのよ」
普通なら信じない。
だが迅は信じた。
実際に見たからだ。
あれは常識で測れる存在ではない。
さらに、リュネは迅を見たまま話し続ける。
「世界樹は命を育むだけじゃないわ」
「?」
「太古の昔、自らを守るために守護種族を生み出したと言われているの」
「守護種族?」
「虫人種よ」
リュネはそこで言葉を切った。
「そして、その中でも最も強大だったのが甲虫族」
「そうか」
「……本来なら、もう滅んだはずの種族よ」
迅は片眉を上げた。
◆◆
「私は月族」
リュネが言った。
「月族?」
「エルフの一種よ」
「耳が長い奴か」
「知ってるの?」
「昔話でな」
リュネは少し驚いていた。
月族は艶のある黒髪と
月光を思わせる銀紫色の瞳を持つ。
その姿からダークエルフと呼ばれている。
迅は耳を見た。
確かに少し尖っている。
さらに、リュネが続ける。
「月族は夜に強くなるの」
「夜?」
「身体能力も魔力も上がる」
「便利だな」
「そのせいで嫌われることも多いけど」
リュネの表情が少し曇った。
「まあ、慣れてるから」
迅は察した。
偏見か。
どこの世界にもあるらしい。
人は、自分と違う者を極端に嫌う。
その時。
リュネの瞳が微かに揺れる。
悲しみ。
不安。
戸惑い。
そして、
深い孤独。
まただ。
勝手に感じ取ってしまう。
この男の心は真っ暗だった。
深い闇。
終わりのない孤独。
すべてを諦めたような静けさ。
闇と同化するほどの時間が、
そこには確かに刻まれていた。
暗闇の中で生き続けた男。
いや、死ねなかった男。
その事実を知っているのは今のところ彼女だけだ。
だがこの先も、
この男はきっと誰にも話さない。
誰にも頼らない。
だから誰も知らないままなのだろう。
「なあ」
迅が訝しげに声を掛ける。
「なんでそんな顔してる?」
「え?」
「俺、何かしたか?」
「してないわ」
リュネは慌てて首を振る。
「ただ……」
言葉に詰まる。
何と言えばいいのか分からない。
あなたが可哀想だなんて言えない。
そんな言葉は失礼だ。
「変な人ね」
結局それしか出なかった。
「ふ、よく言われる」
「それさっきも聞いた」
リュネは苦笑した。
◆◆◆
それから一時間ほど歩いた頃だった。
森が開ける。
そこには巨大な集落があった。
樹の上に作られた家々。
枝と枝を繋ぐ橋。
自然と共存する街並み。
迅は思わず声を漏らした。
「ほぉ……すげぇな」
心からの感想だった。
「ここが月族の里」
リュネが言う。
だが。
次の瞬間だった。
一人の男が迅を見て固まった。
そして顔色を変えた。
「まさか……」
男の視線は迅の背中へ向いていた。
そこには羽化した時から刻まれていた紋様がある。
甲虫族の証。
「どうした?」
誰かが尋ねる。
男は震える声で叫んだ。
「甲虫族だ!」
「それも、赤目だ」
その瞬間。
里の空気が変わった。
「何だと!?」
「まだ生き残りがいたのか!」
「それも、王の血統」
「近付くな!」
敵意。
恐怖。
嫌悪。
あらゆる負の感情が迅へ向けられる。
日本にいた頃もそうだった。
人は見たいものしか見ない。
肩書きや噂だけで人を判断する。
それは、この世界でも同じらしい。
迅は静かに周囲を見回した。
誰もが怯えている。
まるで化け物を見るように。
どこの世界でも、本質は変わらないようだ。
俺は何もしていない。
誰も傷付けていない。
ただ、いるだけ。
それだけなのに。
「ふ、なるほどな」
迅は苦笑した。
「歓迎されてる訳じゃないらしい」
その言葉は、完全な諦めを含んでいた。
そして。
その孤独を感じ取ったリュネは、
思わず一歩前へ出た。
迅を庇うように。




