第三十話 帰り道の終わり
晩夏の夕暮れの時間。
ザビーネ湖が日没の光を映し出していく。赤と金色の光が湖面で溶け合い、木々の影が暗く長く伸びていた。
精霊祭の日の事で、普段なら鬱蒼と茂る森の木々は静寂に包まれているはずだったが、遠く、村の方角からは笛や太鼓の音が微かに聞こえていた。
アッシュとエリーゼは、鍾乳洞からの帰り道を、並んで歩いていた。来た時は、張りあうように追いかけっこして歩いたが、今はそんなことはなく、ゆったりとした足取りで自然体で歩いていた。距離が、来た時よりも近いくらいだった。
十歳の夏、アッシュがエリーゼに「幽霊」と言ってしまったことが発端となって、様々な事件があった。三年近く離れていた事もあった。だが、その事を忘れられそうなぐらい、二人はよく話したし、笑い合った。
文通で話した内容もあったし、鍾乳洞の見事さも話したし、三年の間の村の話や街の話の知らなかった部分を共有した。
灯り舟の話をしたし、アッシュは今夜はびっくりさせてやると言った。また、精霊祭で企画を立てたらしい。内容はヒミツだとか。どんなイベントなのだろうとワクワクする。
(アッシュから手紙を貰った時は本当、びっくりしたけれど、来て良かった)
エリーゼは本当にそう感じていた。
その時、アッシュが言った。
「……なんか、そのさ」
「え?」
「今日は楽しかった」
アッシュはエリーゼから目をそらし、湖の方を見ていた。顔はよく見えないが、風精人ウィンディの尖った長い耳はよく見える。その耳が、夕焼けのせいなのか、真っ赤だった。
「私も。思ったより、ずっと」
エリーゼはアッシュの方を見てそう答えた時、何だか自分の顔が熱くなるのを感じた。もしかしたら、自分の耳も夕焼けを反射したように赤いのだろうか?
「じゃ、また来ればいいだろ? いつだって」
アッシュが相変わらず湖の方を見ながら言う。
「精霊祭じゃなくても?」
「……う、うん。別に」
いつもは言い切る口調が多いアッシュだったが、今はなんだか違うようだった。
「エリーゼ。今度は、俺もっと探検して、奥の地底湖を見せてやるよ。秘密の場所、もっと整えておく」
アッシュは、鍾乳洞の事を、今は他の誰かに話したくないのだとエリーゼは思った。
「じゃあ次は、私、新しいお弁当作ってくるね」
「ああ。……エリーゼ、綺麗にして来いよ」
そこでアッシュはそんなことを言い出した。
「綺麗にして???」
一体どういう意味だろうとエリーゼは絶句してしまう。
そのとき、エリーゼが着ていたのはクローバーと薔薇を染め抜いた緑色の布地で作ったローウェストの動きやすいドレスだった。胸と襟の目立つ位置に、青い蝶の小さな刺繍がついている。若草色のレースのついたキャプチェに、チェックの布地のついた編み上げブーツ。膝までのハイソックス。そんなに変な格好だろうかと、思わず自分の服装をチェックしてしまう。
一方、アッシュの方は、村の少年なら誰でも着るような格好だった。相変わらず布などの素材はいいものだったが。暗い青のチュニックに生成りのズボン、肩を覆う程度のマント。マントの色は鮮やかな赤だった。後は皮の頑丈そうなブーツ。ブロンズのショートソード。
(確かに村の中では、アッシュの着ているのは素材のいいものだけど、綺麗にしていろってどういう意味……?)
だが流石に、ここで、疑問を投げれば、「私が綺麗じゃないっていうの!!」と怒っているように聞こえるだろうと思って、エリーゼは変な顔になって言葉を飲み込んだのだった。
一方、アッシュはエリーゼが黙ってうつむいてしまったのを、どう受け取っていいか分からないようだった。
そのアッシュが、ふと立ち止まった。
それは、村の入り口の少し前の事だった。エリーゼも、妙な違和感を覚えて、アッシュのすぐ後ろで足を止めた。
最初に気づいたのは、祭の音がしないことだった。祭の独特の匂いもしない。
不自然な静けさだった。
エリーゼは空を見上げた。--鳥がいない。鳥の鳴き声も聞こえない。
かわりに、村の木立の向こうに、うっすらと煙が立ち上っている事が分かる。
「……なんだ?」
「待って。何かおかしいわ」
アッシュとエリーゼは同時に違和感を口にし、顔を見合わせた。
「……祭、終わるには早いよな?」
「……ええ。変ね?」
今度はアッシュの言葉にエリーゼが答える。
エリーゼも、10歳の時に村の精霊祭りに参加している。だから、夕暮れの時刻に祭が終わる事は考えづらかった。考えられる事は、祭の最中に何か事故が起こった事だった。
「火事でも起きたのか?」
アッシュ達は、灯り舟を作るのに創意工夫をしすぎて、魔素の使い方を間違えるなど、ありそうな事を考えたのだった。
そういう気持ちで、村の入り口に入っていくと、何かが道々に落ちている事が分かった。
「アッシュ、これ……」
エリーゼは、ライムグリーンの瞳を大きく見開いて声を上げた。
精霊祭の花輪が、泥にまみれて踏み潰され、地べたに落ちていた。
そのほかにも、今夜の祭が本番であろう、布きれや飾りが地面で泥と一緒に潰れている。
「何だ? 何があったんだ?」
アッシュは辺りを見回し、エリーゼの前に出て更に道を進んだ。
いつもの通り、中央広場への曲がり角を曲がって、絶句する。
荷車が横倒しになっていた。車輪は折れて粉々に砕かれ、周りに積み荷だった野菜が散乱している。
そして、近くに--血。血痕。
アッシュは一瞬、意味が分からなかった。
エリーゼは顔色が変わった。真っ青になった。
「どういうこと……」
後ずさりをするエリーゼに対して、アッシュは前に進んだ。荷車の方へ。信じたくない。何かの間違いだと言う事を確かめるために、荷車をよく見ようとした。
数歩進んだ先で、アッシュはさらに気がついた。人が倒れている。
誰か--恐らく知っているだろう、狭い村の誰かの、腕が草叢から突き出ている。折れ曲がった足が見える。
「……やめろよ」
「アッシュ」
「違う、だって、そんな」
--見てはいけないものが見えた。本当にそう思った。
だが、何が起こったのかはまだ分からなかった。
「……アッシュ?」
誰かの声が聞こえた。よろめきながら、怪我をした村人が……アッシュの知っている誰かが現れた。エリーゼには、分からない。だが、アッシュの顔を見れば、知り合いだということが分かった。
「アッシュ、お嬢様、生きて……」
男は、二人を見つけた瞬間、安堵の表情を浮かべ、途端に、絶望に陥ったように虚空を仰いだ。そうして、流血している胸をおさえ、叫んだ。
「逃げろ! 魔族だ!」
魔族。その言葉の意味を咀嚼する暇がなかったほどだった。
だが、男が叫んだ途端、顔のない鎧の騎士が現れた。真っ黒な甲冑に兜、だが、その兜の下は虚空。錆びた剣を両手に持って、騎士は何もしていない、逃げ惑う村人を斬りつける。
唖然とするアッシュとエリーゼ。
「村に入るな! 子どもは……倉庫……」
逃げようとする村人を、騎士は背中から斬る。一度、二度、何度も。
血反吐を吐いて忽ち村人はトドメを刺され、倒れた。
エリーゼが本能的な悲鳴を上げる。
一瞬、アッシュは棒立ちになった。なんで、ここで、この村で、こんなことが起こっているのか分からなかった。そのアッシュを庇うようにエリーゼは横に立ち、彼に寄り添おうとした。
だが、その顔のない甲冑の騎士の仲間が、次々と現れた事で硬直は終わった。森の影から……村道の向こうから……次々と、顔のない甲冑が現れたのだ。昔、絵本で読んだ事がある。それは、鏡面や水面や、ものをうつす画面から飛び出てくると言う、悪意の塊。「鏡面騎士」。
呪われた存在で、絵本の物語の中では、必ず正義の英雄に討ち果たされる存在だった。それが、現実に、ゆっくりゆっくり歩きながら、アッシュとエリーゼの方に進んでくる。
「みつ……けた……」
「"器”、……発見……」
顔もないのに、口もないのに、鏡面騎士達は次々にそう言って、こちらに向かってきた。
獲物を見つけたという意味だと理解したアッシュは、無言でエリーゼの手を掴んだ。そして、物も言わずに彼女を連れて走り出した。走って逃げる、今はそれしか出来なかった。
◆◆◆
エリーゼはアッシュに負けず劣らず、走るのは速い。
その速度に負けずに、物語の鏡面騎士達が、見た事のない魔獣を連れて追いすがってくる。魔獣の多くは、巨大化された家畜に似ていた。牛や豚に似ているが、ツノが生え、目が充血して真っ赤に輝いている。牙も蹄も普通の家畜に比べ何倍も強靭で凶悪だ。それらが、物凄い勢いで突進してくるのに、どうやって逃げ切れというのか。
アッシュとエリーゼがどんなに足が速いと言ったって、それは普通の人間の範疇の事であり、魔力で底上げされた魔獣や、鏡面騎士達に、いつの間にか追いつかれそうになっていた。
エリーゼの長い三つ編みの髪が二本、風で後ろになびいている。
魔族の鏡面騎士は、走りながら手を振り回してその美しい銀の長髪を掴み上げようとした。
「キャッ!!」
エリーゼは本能的な動きでそれを避け、その途端に、大きく横にバランスを崩した。
「危ない!」
アッシュが叫ぶ。辛うじて鏡面騎士に捕まってはいないが、今にもその細腕か髪の毛を掴み取られそうな状況だ。
アッシュはエリーゼを庇って彼女の前に立とうとした。そのとき--。
「風の炸裂!!」
豪快な気砲が鳴り響き、一番手前の鏡面騎士が容易く吹っ飛んだ。
空気の塊が文字通り炸裂し、その衝撃でエリーゼを襲おうとした鏡面騎士は地面に伸びてしまっている。アッシュはその声に聞き覚えがあった。
「親父!?」
「アッシュ、お前か!!」
矍鑠とした老齢の風精人ウィンディ、ヴィスター村の村長カールであった。
カールは、アッシュを見て、一瞬、安堵の表情を見せた。だがすぐに顔を引き締め、威厳のある村長の顔になった。
アッシュは、父の強さを知っていた。なぜなら、彼は--。
「アッシュ! よく聞け、今すぐ走れ!」
「親父!?」
一緒に戦う、と言いかけたアッシュの言葉を凄い勢いでカールは遮った。
「村はずれの倉庫へ行け! クルトたちがいる! 年下を連れて隠れろ! 絶対に戻るな!」
「親父、何が起きてるんだ!」
咄嗟にアッシュは叫んだ。
「魔族ってなんのことだ? みんなはどうしたんだ!?」
カールはそれには答えられなかった。険しい顔の中に、目に濡れた光が宿っていた。
そのときアッシュは気がついた。父親が手負いで、服も最早ボロボロであることに。
自分と同様、丈夫でいい素材のものをいつも着ているのに、上着は引き裂かれ、ロングソードを手に持ち、傷だらけだった。
「村は戦場だ! お前は生きろ! 走れ、アッシュ!!」
訳が分からない……だが、ここに、エリーゼといていいわけではないことは、分かった。アッシュはエリーゼの方を向いて頷くと、一緒に、村の空き地に向かって走り出した。
カールは、鏡面騎士達の方に、ロングソードを構えて立ち塞がった。
「どけ……じじい……お前に用はない……」
「ポンコツが……」
カールはかっと目を見開いた。
「戦争経験者を舐めるな!!」
その気迫に飲まれ、鏡面騎士達はその場に立ち止まった。
「魔族は人間と戦争を起こす気か? 戦争は、バカのやることだ。さっさと戻って、お前達の上官に言うがよい。自分が死にたくなければ、ただちに矛をおさめて魔界へ帰れ!!」
カールは、250歳。まだ若い頃、神聖バハムート帝国と隣国グリフォニア王国の領土争いの戦争が起こった時、前線で兵士をしていた。そこで負傷して引退、ヴィスター村で療養をした後に住み着いて、皆に求められて村長になっていたのである。だから戦争の現実を知っている。戦争に反対するからといって、弱虫の卑怯者ということはあり得ないのだ。
「死を恐れて……戦場に立つモノはいないぞ……ジジイ……!」
ゆるゆると手に手に武器を構えて鏡面騎士が威嚇するような大声を立てた。
◆◆◆
焼けた柵。
倒れた屋台。 血のついた祭具。 魔物の死体。
無我夢中で村の空き地に向かって走りながら、アッシュとエリーゼは目の端に異常な光景がよぎっていくのを、呆然とみていた。
倒れている村人。
家の戸口で戦った跡。
子どもを逃がした痕跡。
通りに転がっている、小さすぎる靴の片方。子どもを担いで逃げた母親の落とし物か?
村の大人達は、何もせずに殺された訳ではない。最後まで、大切な家族を守って戦ったのだろう。
(俺が見ていない間に、何が起きたんだ!)
自然と怒りがわく。だが、同時に恐怖があった。信じたくなかった。今見た光景を信じたくなかった。
だが、確かめようにも、足を止めたら終わりと分かっている。
魔族に追いつかれる。
あらゆる意味で、息が荒くなる。隣を走るエリーゼの顔が変に青白い。
エリーゼは必死に走りながら、泣かない事が精一杯だった。
ほんの数年、別荘で暮らしていたエリーゼでさえが、辛いのだ。生まれた時からヴィスター村に守られ、育ったアッシュの衝撃はどれぐらいだろう。そう思うと、とても泣けなかった。
(アッシュ……どうするの……!?)
通りを二人で走っていると、向こうからも鏡面騎士が走ってくるのが分かった。挟み撃ちだ。
左右に、抜け出られそうな隙間はない。アッシュとエリーゼはその場で立ち止まって、逃げ道を探す。
「逃がすな。片方でも回収すれば褒賞だ!」
「いや、二つともだ」
大人よりも大きな鏡面騎士達に、気がついたら前後から囲まれてしまった。通りの左右は玄関が壊れて塞がった民家である。それでも、アッシュはエリーゼを連れて民家の方へ逃げようとした。
(何? 何だ? 俺達をカイシュウ……? する気なのか?)
訳が分からない。
エリーゼは大人しく、アッシュとともに民家の方へ走った。
玄関のドアをショートソードで殴って叩き割り、中に入ろうとするアッシュ。
だが、そうしている間にも鏡面騎士が太い腕を伸ばして子どもを捉えようとする。
「アッシュ!」
そのとき、二度目の”風の炸裂”が通りを貫いた。戦争で培ったカールの魔法技だ。皮肉にも、戦争を知っていたから、カールは生き残る事が出来たのだ。
鏡面騎士が二人吹っ飛ばされ、残りのカオナシの騎士達が武器を携えてカールを狙う。その数、4体。
「振り向くな! 今だけは村長命令だ、走れ!!」
カールは怒鳴った。凄まじい形相だった。血まみれだった。よく立ってられる、とエリーゼでさえが思った。
「親父! 無茶するな、一緒に逃げよう!!」
「父親の言う事を聞け!!」
二回目の”風の炸裂”を作るために呪文詠唱を始めるカール。
アッシュは仁王立ちの父親の悲壮な姿に一瞬声が出ない。だが、エリーゼが、そのアッシュの手を握った。
「逃げよう……逃げなきゃ!」
ここにいたら自分たちは足手まといだ。エリーゼの判断に気がついて、アッシュは全身が鉛になったような気持ちになりながら、父親に背を向けた。今は、大人の判断に従うしかないのか。
村はずれの空き地。エリーゼにとっては、懐かしい場所だ。
だが、三年の間に、そこに倉庫が建てられていた。村の備品などを入れておくためらしい。
アッシュが扉を叩くと、中からクルトの声が聞こえた。
「虫と言ったら?」
「カブト」
決められた合図の言葉を継げると、中から扉が開けられた。
アッシュとエリーゼは中にはいると、薄暗い、様々なモノが詰まった倉庫の中に、子ども達がいた。
クルト。ヴァルター。ミラ。ヴィルヘルム。エマ。パウル。ルーカス。ヨナス。フランツ。
「エリーゼ!?」
エマとミラが驚いて彼女の方に駆け寄ってきた。エリーゼは本当に泣きそうになったが、こらえた。
11歳になったエマとミラはどちらも髪が伸びて、美しい少女に変化し始めていた。
他に年下の小さな子ども達が、たくさん。
怪我人がいる。泣いている子がいる。だが、皆、必死に音を立てまいと気を遣っている事が分かった。
この場をまとめているのは、どうやら、13歳でまだ年長の方に入るクルトのようだった。
仲間が生きていてくれた。だが、親や大人達の姿が全くない。息も整わないまま、アッシュはクルトに向かった。
「生きていたのか!」
「生きてたよ。……アッシュ、お前こそ」
親友同士は互いの右手を握り合った。
指先から伝わる相手の心音で、相手が本当に生きている事が分かる。
「親父が、倉庫へ行けって。年下の子達を守れって言った」
「外、村が……」
利発なクルトにしては、苦々しげな顔で言葉を濁す。
「知ってる。見た」
アッシュは、クルトに言わせないようにした。クルトだって、村の惨状を自分で言いたいはずがない。それぐらい、笑い事ではない被害だった。
アッシュは、年下の子ども達の顔をのぞき込み、全員の顔と名前を確認しようとした。
そうしなければ、守るモノも守れない。
そして、気がついた。
静かだ。
倉庫の中で息を潜めている子ども達とは別に、外が妙に静かだ。
戦いの音が全くしない。
恐怖を誘う静けさだ。
アッシュが黙ったので、クルトは敏感に異変に気がついた。
「……来る」
魔法感知が出来るヨナスが小さく呟いた。
倉庫の戸。何の変哲もない金属のドア。
そのドアを挟んで向こう側に、誰かの気配が止まっている
「そこですね?」
丁寧で、ちょっとだけ気味の悪い若い男の声がした。
「見つけました」




