岩の橋 1
デルとルビーが眠る宿家は朝露のなかビオイデスに飲まれた。黒い川の中で佇むその景色をタークも見てみたかったがビオイデスから出て来れなくなるような失態も許される状況ではないので諦めざるを得なかった。
いよいよ老人と港町に旅立つ日になったのだ。短い間、世話になったカランコエ村の人々と老人の妻に家族一同、短い別れを告げその森から離れる。老人もいくつもの籠に薪と林檎を一杯にし荷車に乗せると大袈裟に手を振って懐かしむように村を眺め、まるで今から死にに行くような表情を浮かべた。まなじりは険しく連峰の剣先のようでもあるのだがいささか出っ張った腹では締まりもなくタークには少し笑えるというものだ。
荷馬車を引くのはもちろんタークだ。その装いは未だ執事じみた黒装束で、ちっぽけな荷馬車一台を引くにはもったいないようにはたからは見えるのか村人達に笑われてしまう。しかしそんな笑顔もニ刻もすればかなり遠方に霞んで消え、日常から再び切り離されたように曇りぞらの森の静けさだけが今は周囲に広がっている。高木の種類が常緑樹から落葉樹に変遷し、森の奥に隠されている小川のきらきらとした水音が聴こえると旅が始まったと告げられたような気がした。
老人は他愛のない話をタークにしながら合間には、すっかり消失してしまった空き宿のことをしきりに尋ねてきたがタークがあまりにはぐらかすのが達人のようであったのでそのうち妖精に隠してもらったのかなどと言いながらこくり。と頷き妙に納得したようにタークの背中をばんばんはたいた。
タークには言わせてみればこの人懐っこい老人も言葉通り老獪に感じられ、あまり手のうちを見せないほうが良いのではないか?という曖昧な思考を抱かせるほどである。ことあるごとに岩や変わった花々に会釈しているような仕草がそれを引き立たせている。
エガの魔法の使い手じみた独特の雰囲気が漂うドワーフの様な老人と荷馬車を押す影のある黒の執事はのんびりとした旅を続ける。
やがて一際大きな岩の橋が大きな川に掛かった自然の奇跡のような場所に辿りついた。相変わらず森は周囲を閉ざしてはいるのだが岩が水で穿たれたように滑らかにアーチを築いたそれを見ると、伝承の世界に迷い込んだのではという錯覚を抱くほどだ。しかし目に見える神秘的な景色とは裏腹に薄汚れた魔素の気配がタークに緊張感を覚えさせる。
森の木々の影を縫うように何かが近付いている。微かな気配が引きずるようなずずっ。という音を立てながら。
「ご老人。身を隠されたほうがいいかもしれませんね」
「おお…お主、魔素を捉えられるのか?」
「いえそういうわけではありませんが…魔の者です」
短い問答を終えると老人はタークの助言に従い荷車の上で身を屈ませると、汚れた麻布でそのふとっちょの体を隠した。タークはそれを確認してすぐビオイデスからエボルスを抜き取る。
ゔぃーーーーーーーーーーーーん
長い長い低周波振動音だ。姿を隠しているのかエボルスでは捉えられないほど微力な生命力しか持たないのかそれは判然とはしない。しかしこの森の中にタークらに害を為そうという者が潜んでいることは明らかになった。
森の影が歪むような濃霧が途端に立ち込める。今まで断ち合ったどんな魔獣とも違う異質な気配。それはどうやらターク達の眼前にある岩の橋の影に今やその殺気を移し待ち受けているように感じられる。
「人か!人であれば命は取らん!出てこい」
タークが気配に声を掛けるが返答はない。人であればまだ力量が知れるが今やこの森は災禍の後に変容し見知らぬ魔が現れてもおかしくないのだ。不気味に静まり返るがいよいよ異変らしい異変が起こった。
「人か!人であれば命は取らん!出てこい」
タークはゾッとした。木霊や反響とは違う明確な声がタークを真似て岩橋の下から叫んだのだ!エボルスの剣身の悪魔の角どもも思わず竦むように振動を強める。
ヴィイヴィイイイヴィヴィヴィヴィヴィイイ!!!!
「気色の悪い魔族風情が…戯れる間をこの俺がくれてやっていると思うなよ…」




