カランコエ村のルビギノーサ 2
少女は目覚めると、首をさすり、右手をみた。身体もすっかり汚れが落ち、真っ白な白いタオルケットがかけられている。汚れた衣類は窓際に小さくまとめられ、部屋には穏やかな顔をした女と、背の高い、すらりとした不機嫌そうな男が、それぞれ黒髪を太陽に青く光らせて、こちらを見つめている。
どこかでみたような瞳だ。
優しい穏やかな瞳と険しいが少女を案ずるような瞳。
少女は家族を知らない。赤ん坊の頃に人攫いに売られ、奴隷として生きてきた。最初は貴族の農奴として、他の奴隷達とともに生かされたが、そのうち貴族の長男に目をつけられ慰みものされそうになった。
謎の障壁が阻んでくれたおかげで、なんとか企みは果たされずに済んだが、それからは地獄だった。毎日鞭で打たれ、首輪や枷をつけられて、畜生の如く扱われた。やがてすっかり骨と皮だけになると、貴族も戯れに飽きたのか、短剣一本を渡されて、沢の近くの山に棄てられた。
最初の日、少女の血の匂いに釣られた、大きな灰色の野犬が一匹現れた。てくてくと周囲を歩き回って涎を垂らしていたが、やがて何故か少女に寄り添って、眠りはじめた。いつ食われるかもわからない恐怖でおかしくなりそうだった。夜が深まり、少女が疲れ果て眠ると、野犬は起き上がり森の中に立ち去っていった。
次の日、少女が朦朧とするなか目を覚ますと、脚の折られた兎が目の前に置かれていた。少女は農奴として働きながら、たまに野うさぎと遊んでいたし、兎は小さくてふわふわで、可愛いくて大好きだったのだが、空腹が堪え切れずに仕方なく、短剣で刺し殺し、食った。ばくばくとした小さな拍動の手応えを、まだ思い出せてしまうほど。
その次の日、久しぶりに食事を取れたおかげか、身体が動くようになり、喉が無性に乾いた。起き上がり、せせらぎの聴こえる沢までなんとかたどり着くと、身体を清め、水を飲んだ。痩せて擦り切れた体のあちこちが沁みて痛んだが、その痛みで生き返ったように感じて、あたりの自然の素晴らしさに気がついた。深い森。でも日差しは明るくて、ほっとするような、冷たさと暖かな自然の森。
それから日が経って、少女は木の実を食べたり、兎を狩ったりし、村を見つければ人のいない間に、盗みに入った。小さな獣達と戦う技術も徐々に洗練されてきていたが、森で仕事を終えて木のウロで眠りにつこうとした時、再び、あの野犬に出会ってしまった。大きな大きな野犬。灰色の身体に、毛布のような豊かな毛並みを持つ森の主。
しばし野犬は少女をじーっと見つめると、身体を回転させながらふんわり突進し、つんのめって倒れた少女の身体をぺろぺろとなめる。不思議に痛みはなかった。それだけして満足したように吠え、また姿を消す。
その日を境に、野犬はたびたび現れては、何度も何度も同じ回転突進を繰り返し、ぺろぺろと少女舐め、消えていく。
少女もわけがわからず、きょとんとしていたが、なんとなく野犬の意図するところがわかり、少女はそのふんわりとした回転動作を、沢に飛び込みながら練習し始めた。
ある日などは、飛び込むための巨岩に戻ると野犬が現れ、少女ぺろぺろと褒めるように舐めた。少女もなんだか嬉しくて、盗みの暇を見つけては、野犬の動きを思い出し、猛烈に練習した。
それからさらに日が経って、完全にコツを掴み、洗練された動きを少女が見せると、沢に現れた野犬は威嚇し、吠えては甘噛みを繰り返しはじめた。徐々に威力をます歯牙に狼狽えたが、意思のある殺意を野犬から感じて、必死に逃げ回る。野犬は少女に見せた突進を、加速を上げ、何回も何回も繰り返して、殺そうとする。
少女は遂にこの大きな灰色の森の主の意図を知った。戦わねばならないのだ。
そして、ぼろぼろに錆びて砕けそうな短剣を構え、泣きながらその技を放つ。同時に野犬もカナリウスの神速の如き風を纏って突撃する。眼前に見えたその巨大な灰色の野犬の瞳は、厳しくも悲しそうで、牙は何故か、しまわれていた。
二つの竜巻が激突する少女等の纏った風が、次第に大きな渦を巻き、枯葉を巻き上げ、低木を粉砕し野犬の遠吠えじみた怒涛の咆哮を生み出した。そう、遠吠えのような回転の剣線。
爆発的な巨大な衝撃波が、森を揺らす。
徐々に静まりかえる森で少女と野犬は倒れ込んだ。
少女は全てが終わったあと、血だらけの野犬に近寄る。野犬は前足で幼い少女を抱き寄せて、ぺろぺろと優しく少女の涙をぬぐった。
そして残った力の全てを野犬は振り絞って少女を寝かすと、そのそばに寄り添って、穏やかな顔のまま、息を引き取った。暖かい野犬の温度はは少女にはじめての暖かさをくれた。生きる強さも。
黒ずくめの男と女の衣服が差し込むペレイデスによって染められて灰色に染まる。
少女の名前はルビギノーサ。
誰につけられたのかもわからない
記憶の奥底の宝石のような名前。
「お父さんお母さん……おかえりなさい」
緋色の瞳から涙が一雫。溢れて、落ちた。




