三冊目 秘密基地
かなり長いですが全体の中間あたりです。よろしくお願いしまーす!
三冊目 秘密基地
「秘密基地作ったから来いよ」
それは唐突な申し出。じゃれついてくる英守を、いつもの通り無視し、どうやって読書に集中しようかと考えていた給食後。
今日も急遽、集団下校になった。ただ前回と違うのは、親の在宅状況や、自宅の方向も考えて、変則的な集団下校になっている。前回の集団下校で何やら反省点があったらしく、教師や父母が会話し合いをしたようだ。僕の場合、今日はお父さんが現場ではなく、自宅の作業場で働いているため、集団下校の最初の組に加わることもできたが、そうしなかった。こんな早い時間に帰ったら間違いなく大工見習いが始まってしまうためだ。先生には適当な理由をつけて、最後の組が出発するまで、学校で静かに本を読むことにした。時間までは校内で自由行動の為、僕は早々に図書コーナーに移動したが、英守は目敏く、見つかってしまった。そしてこの発言だ。
「なあ?興味あるだろ。秘密基地」
限りある読書の時間を妨害され続けている。他の生徒が帰ったら静かになるだろうと思っていたが、当てが外れてしまった。一通り無視してもいなくならない時には、何かしら答えて満足させないと、彼はいなくならないだろう。それが分かるくらいには、侵略され慣れてしまった。
「行かない」
秘密基地よりも本を読んでいたい。視線は文字を追ったまま、顔も上げない。不愛想な返答は、絶対に揺らない意思表示。普段なら無視を続けて予鈴が鳴るのを待つが、放課後扱いの今は、残念ながら予鈴は助けてくれない。
声を荒げて怒ると、真っ直ぐな英守はいなくなるだろうが、基本的に素直で悪意がない事は分かっているだけに、その後の事を考えると、そうする気も起きない。
英守は何とか誘い出せないかと唸りながら懸命に考えている。たっぷりと一、二分唸り続けて一転、閃きました!と言わんばかりの分かりやすい声がした。
「秘密基地には本がある!それなら来るよな!」
秘密基地の場所も、本のタイトルも知らせずに、僕が釣れると思っているようだ。疑問形ではなく、決めつけた言い方には、自信が伺える。「本がある」その言葉だけで、貴重な読書の時間を削り、喜んで僕がホイホイついて行くと、コイツは本気で思ってるのだろうか?だとしたら、ハッキリ言ってやらねばなるまい。
「行く」
即決だった。僕はすでに二度読んだ本を閉じる。どれだけ秘密基地の魅力を語られようと、揺らぎはしなかった。しかし、未だ見ぬ物語と出会えるなら、僕は喜んで行く。新しい物語に飢えている僕に、その説得材料は暴力的だ。
まだ着かないのか、と喉まで上がりかけた言葉を意地で飲み込む。むせ返るような濃い緑の匂いがする。近所にある山。その獣道を、彼は歩き慣れた様子でグングン進む。疲労を微塵も感じさせない。僕は大工仕事で多少鍛えている自信はあるが、日々バスケットで鍛えている英守には、敵わないようだ。彼の事を少し見直した。だが、弱音は聞かれたくない。奥歯を噛みしめ、黙々と英守の後を登る。
正直、獣道を甘く見ていた。登るのがこんなに辛いとは思わなかった。ぬかるんだ泥で足に力は入りにくいし、木の根や大きさが異なる石は踏みどころを限定する。大きめの岩でも、苔でうっかりコケるかもしれない。気をつけながら一歩一歩踏み出すのは、体力も心も磨り減る。目的地が正確に分からないのも相当きつい。山は足以外にも不親切だ。枝や蔦だ。足元ばかりに気を取られていたら枝や蔦が顔や身体に当たる。互いに絡み合うように密集しているし、下手をすると絡めとられて身動きが取れなくなりそうだ。目的地は英守しか知らない為、彼を見失う訳にはいかない。笹薮の中では、一メートルも離れたら、姿がほとんど見えなくなってしまう。
そして、体力温存のために余計な口を利かないが、僕は先ほどからずっとイライラしている。前方を歩く英守、奴が押し退けた笹はしなる。笹は踏んで折らない限り、元の位置へ、反動で加速し戻ってくる。顔に当たって痛いし、煩わしい。英守の後を追っているはずなのに、顔に蜘蛛の巣が絡まった。―――そろそろ挫けてしまいそうだ。
英守の足が止まる。腕で汗を拭い、振り向いて叫ぶ。
「ゴール‼」
その声で、やっと到着したことに安堵する。英守が言う「ゴール」が、これほど嬉しかったことはない。ハイタッチの後、両手を掲げ「「ゴール」」と共に叫ぶ。
「ハイタッチしてくれるんだな」
目を見開いた英守の表情は戸惑っているようにも、喜びを噛みしめているようにも見える。冷静に指摘するのは反則だ。喜びの共有に味をしめた彼は、さらにハイテンション。何度も「ゴール」とハイタッチを強要する。当然無視。冷静に指摘された後に、出来る訳がない。
目的地にはポツリと小屋があった。どう見ても廃屋。笹薮より丈が低い雑草の中に、苔むした木造の古小屋が建っている。
「入ろうぜ」
英守に何の躊躇はない。自然体で我が家に入るかのようだ。建付けが悪くなった扉は、力任せに引くと、軋みながら開いた。
期待が高まる。この先に、どんな面白い本が待っているのか。新たな出会いがもたらす、時間や余韻は、どれだけ甘美だろう。想像しただけで興奮する。
屋内は、薄暗い。明るい場所から、急に光が弱い場所に入ったため、目が慣れるまでに時間がかかる。
英守は慣れた足取りで、壁際の箱に近づく。箱の上には、無造作に本が詰まれていた。本を手に、彼は達成を手招きする。
本は実在した。半信半疑だったが、実物を見て、駆け寄る。ニヤニヤした英守から、本を受け取る。
本は埃っぽくざらついている。表紙は色褪せ過ぎて、ほとんどモノクロ。何が書いているかは分からない。保存状態が悪いようだ。中身は無事だろうか、と不安がよぎる。湿気で歪んだページを恐る恐る開く。そして叫んだ。
「なんなんだ!」
叫ばずにはいられない。睨む僕に、彼は言った。
「やけに興奮してるな。お気に召したか?それ、俺のお気に入り」
にやけ顔のサムズアップが癇に障る。
「話が違う!」
「えー?じゃあ、こっちの方が好みか?」
唇を尖らせ、わがままだなという様子で、無造作に詰まれた本の中から、新たな一冊を投げて寄こす。
僕は本を見るどころか、受け取りもしない。空中で叩き落とす。
「だから、違う!何なんだこれは⁉」
初めに渡された本を広げ、押し付けるように見せる。英守はキャー、とわざとらしく恥ずかしがり、両目を覆う。
その本には、大人の女性が身体をくねらせ、ポーズを取った写真が載っている。起伏に富んだ身体を、読者に見せつける。脳殺をあざとく狙った上目遣い。次のページにも女性。その次も。どのページにも全裸の女性写真しか写っていない。苦労して手に入れた宝は、ただのエロ本だった。
労力を払えば相応の対価を得られる訳ではない。現実の残酷な一端を僕は十歳という年齢で垣間見た。
「もう絶対来ない」
断言したが、もしかしたら、まともな本もあるかもしれない。後ろ髪を引かれる思いで、山詰みの本を物色する。それを見て、勘違いしたようだ。
「やっぱり興味あるだろ?」
「お前が帰るまで、帰れないんだから仕方ないだろ。」
帰り道も、英守が頼りだから仕方がない。それから一時間ほど、彼が飽きるまで、適当に過ごした。顔が熱いのはきっと怒ったせいだ。
国語の教科書に触発されて、次は古典でも読んでみようかなと考えていた。
「秘密基地行くぞ」
眩暈を覚えるほどの、強烈な既視感。あれからまだ、一週間も経っていない。時だった。
「いやだ」
顔も見ずに即答。
「本あるぜ?」
「ただのエ……エロ本じゃないか」
期待を裏切られた気持ちを思い出し、声を荒げそうになったが、我に返り、声を潜める。
教室で「エロ本」と言って、からかわれないはずがない。騒がしい奴らは、下ネタには敏感だ。すぐに調子に乗る。くだらない下ネタを、大声で連呼するのは日常茶飯事。そういう奴らは、ネタを探して、常にアンテナを張っている。目を付けられると、しばらく面倒だ。読書に支障をきたす。
声を潜めた達成を見て、英守も声を潜めて笑う。
「今度は、ゴール向けのちゃんとした本だよ」
「もう騙されない。まともな本なんて、なかったじゃないか。それに、あんなに大変な道はもう歩きたくない」
「ごめん。あれは俺が秘密基地を見つけた日に、最初に歩いたハードモード。ホントはもっと楽な道があるんだ。それに、俺が見つけた本は―――」
本のタイトルを耳元で囁いた英守が、ニヒルに笑う。
「行く」
怒ることも忘れて頷いた。今日は見習いがあるけど仕方ない。昨日も喧嘩したし、怒られるのは覚悟して、さぼろうと決めた。前回行った時に、まともな本はなかったはずだが、見落としがあったのだろう。もし今回も嘘だったら、物質的な意味合いで、校内一の硬度と重量を誇る、植物図鑑で、血祭りの刑を真剣に検討しよう。
怒り忘れたことに気付き、顔に不本意を滲ませる。英守はそれを見て、快活に笑った。
「じゃあ決まりな」
「暇人め」
せめてもの意趣返しに悪態をつくが、彼には響かない。
校門には珍しく警察官がいた。
「気を付けて、真っ直ぐ帰るんだよ」
寄り道する後ろめたさから、心臓が跳ね上がる。
「はーい。お巡りさんも頑張ってね」
英守の愛想に救われた。よく見ると、警察官はにこやかだ。元々不審があって声をかけてきた訳ではない。僕が話すと、余計なことを口走り、不審がられたかもしれない。
雑談をしながら歩く。やけにパトカーが多い住宅街を抜け、民家が疎らになり始めた。電柱に、破れた指名手配書が貼ってある。大事な顔部分が破れているため、意味を成していない。辛うじて、下に記載されている犯人の名前と、連絡先が読める程度だ。名前は「鬼塚虎次郎」、連絡先はお馴染みの「ひゃくとうばん」。指名手配所は雨風に晒されて、ボロボロだ。昨日今日で貼り出したものではなく。もしかしたら、犯人はとっくに逮捕されているかもしれない。
「こんなの貼ってても、捕まるわけないのにな」
「きっと、貼り替える人もいないんだろ」
英守の呟きに答えると、彼は閑散とした風景見回して、ああ、と納得したような、間の抜けた声を出す。
「お前って頭いいな」
「そうでもないさ」
校門を抜ける時の英守を思い出した。頭が良いとは違う長所だが、素直に受け止められない。
「何で顔のところが、破られてると思う?」
なんとなくクイズを出す。
「ゴール探偵はどう思われますか?」
「質問を質問で返すなよ」
嘆息しつつも、少し名探偵気分で、顎に手を添えて考える。
「ボロボロなのは何年も雨風に晒されて風化したんだろ。でも、破り口が擦れてないから、破られたのは比較的最近。たぶん、近所の悪ガキのイタズラだろ?」
「よっ、シャーロックホームズ!それにしても、十歳が他の子どもを、ガキ呼ばわりか!捻くれるけど、なかなか鋭い」
素直になり切れないところに、誉め言葉を重ねられた。何だか照れ臭いと思う。照れくさいから素直になり切れないのか、と自分の気持ちに当てはまる言葉を見つける。
「本読んでる時の、涼し気な横顔とか、結構かっこいいよな」
英守の真っ直ぐな澄んだ視線。淀みなく生まれる本心からの称賛は、直球すぎて返って戸惑う。
僕にとっては褒められることも、褒めることも照れ臭いが、彼は違うようだ。以前、もしかしたら、からかっているのかと疑ったこともある。今回も、こちらが恥ずかしがるのを楽しんでいる様子はない。穿った見方をする自分は、やはり少し、捻くれているかもしれない。
「鳥肌が立つからやめろ」
だから、素直に喜べない。でも、英守がコナンドイルを読んでいるのは本心から意外だった。僕は洋書に、まだ気後れがある。
「お前も意外と本読んでるじゃん」
「いや、アニメとかでも有名だろ?お前くらいだよ、ホームズって言って最初に原作を想像する本の虫は」
「そうか?」
そのあたりの感覚は達成には分からない。当たり前を客観視するのは難しい。
「シャーロキアンって、言うんだっけ?じいちゃんもお父さんも本好きでさ。なんかそんなこと言ってたよ」
彼の家族が羨ましいと思った。
「その域の変態ではないよ。で、ワトスン君の見立ては?」
指名手配書が破れている件に話を戻す。苦笑の仮面で本心を隠した。
質問に対して彼は「そうだなぁ」と言いつつ長考する。
「こういうのはどうかな?案外、犯人がここの近くに潜んでいて、住民に気づかれないように、自分で破き回っている。どうよ?」
英守はなぜか、両手を脱力させ、お化けの真似をしながら言う。
「バーカ何百枚、何千枚と破いて回るのかよ。それだと、逃げるために破いて、破くために歩き回って捕まるだろ」
冗談だと知っている。なのに、罵倒はつっかえずに表現できてしまう。
「だよなー本末転勤って言うんだっけ?」
「転勤してどうする。本末さんはどこのサラリーマンだよ。正解は本末転倒」
「そっちか、確かに知り合いに、サラリーマンの本末さんはいないや。やっぱりお前って面白いな」
英守は自分のボケで自滅し、爆笑だ。
「マッチポンプで愉快なやつ」
でも、自問自答で内心落ち込む、捻くれた僕より、よっぽどお前の方が良いよ。
「マッチポンプ?その言葉は知らないな。それはそうと、入口に着きましたー」
英守は数歩走って、正面に回り込む。嬉しそうに両手を広げ、声高らかに告げた。
英守の明るさは、達成を悩ませるが、結局は釣られて笑わされる。二人の少年は並び、笑いながら山道に入る。
体格が良い男が、物陰に身を隠している。少年達は男の存在に気付かない。
山道は踏み均され、道沿いに木が埋め込まれている。斜面が急な場所では、木が階段上に寝かされている。以前の獣道と同じ山とは思えない心遣い。格段に楽なので、リスを観察する余裕すらある。いくら田舎でも、街中でリスを見る機会はない。英守は大はしゃぎだ。
「ウオ――――」
突如、けたたましい雄叫びが聞こえ、二人で硬直。長閑な山道が急に怖くなる。
「ここって熊出る?」
「どうだろ?」
笹薮から何か出てくる妄想と戦い、結局は何事もなく目的地へ到着。
「な?」
楽だったろ?と言外に、振り向いた英守は自慢げだ。少し前に、怖い思いをしたことは、すでになかった事になったらしい。だが、急に変化する。
英守の表情が曇る。目を細め、じっとこちらを見たり、ゴシゴシと目を擦る。目にゴミが入った様子でもない。不思議に思い聞いてみた。
「ん?どうかしたか」
「いや、えーっと……」
言い淀む彼は、らしくない。答えの先を促すように、黙って見つめる。
「ここまで来てなんだけど―――帰らないか?」
自信がない呟きが、言いにくそうに絞り出される。
「急にどうした?何か隠し事でも思い出したか?」
いやー、あのー、と煮え切らない前置きから、何とか言葉にしようと考えている。
「―――勘、そう、勘なんだけどさ、今日は辞めといた方が、良いと思うんだ」
英守がここに来て、急に落ち着かなくなった理由を考える。後ろめたい理由がありそうだ。
「怪しいな。実は本なんて置いてないとか?」
「いやいや、ホントにそういうんじゃないよ。本はまた今度にして、今日は辞めといた方が良いかなって」
理由が分からず胡乱な視線を送り続けても、具体的な解答はない。目的地は目と鼻の先、また後日来るのも面倒だ。
「じゃあ本だけ取ったらすぐ帰る。どこに置いたか教えてくれたら、僕だけ行くよ。それならどうだ」
一人で行くことを提案する。
「―――仕方ない。勘違いかもしれないけど、本取ったらすぐ帰るぞ?そして俺も行く」
強引だったが、本さえ手に入れば長居は不要。結局は当初の目的通り、彼も渋々妥協したようだ。
扉を開ける。英守が頻繁に来ているせいか、前回のような埃っぽい空気はない。彼は中に入るなり、慌ただしく走り出し、棚の上を探している。
「あれ?ここに置いたと思ったんだけどな……」
本が見つからず、頭を掻く。
「やっぱり嘘か?」
「嘘じゃないって、俺がゴールに嘘ついたことあるか?」
「あるじゃん。しかもここで、あれで。」
達成が指さしたのは卑猥本の山。
「うっ」
わりと最近の事実を指摘され、英守は怪我を負ったように顔を歪める。本気で失念していたらしい。
「ごめん、あの時はホントにごめん。例外にしてくれないか?」
懇願し、謝罪する様子には、偽りは無さそうだ。返事の代わりに、深いため吐息。
「あーーーっ!」
「突然、大声出すなよ。驚くだろ。」
「本っ!あったよ!」
「でかしたっ!」
本は、破廉恥本のすぐそばにあった。前回来た時に、その場所は探したはずだが、見落としていたようだ。もしくは、僕がいない時に英守が見つけ、何気なしに置いたのだろう。本の発見で、自然とテンションが上がる。
【星の王子さま】名前だけなら誰でも聞いたことがある、大ベストセラー。この小説があると聞いたからここまで来た。前々から気になっていた作品だが、洋書だし、もしかすると、少しハードルが高いかもと思っていた。少ないお小遣いで限られた物語しか、楽しむことができないので、古本屋で見かけても、購入を見合わせていた。タダで手に入るなら、是非とも冒険したい作品だ。
「縁は擦れてるが、思ったより状態が良いな」
本当はページが捲りにくい等の変形に惑わされず、真っ新な気持ちで物語を受け入れたい。だが、例え湿気に侵されていても、内容が読めるなら価値がある。手早く検分を終えた僕は、ほくほく顔で尻ポケットに優しく本を挿し入れる―――その時、低い声がした。
「おい」
大人の声に、びくりと身を竦め、ゆっくりと入口へ振り向く。
そこに立っていたのは、短く刈りあげた頭髪を虎柄のように染めた男だった。筋肉質で平均的な大人より大きく見える。手には、身体との比較で小さく見えてしまうが、鎌が握られていた。
「ひっ」
強面の大男と凶器の組み合わせに、情けない声を上げたのは、自分だったのか、英守だったか。怯える僕らに大男が言った。
「何をしている」
「ほっ、本を探しに―――」
英守が緊張し、弱々しくだが答える。
「あぁ~?」
声を聞き取れなかったのか、聞こえた上で不満があるのか。彼は眉間に皴を寄せ、怪訝な声で凄む。
僕らは声の暴力で、一回り縮む。英守の提案に乗って、大人しく帰っていればよかった、と激しく後悔する。
ここは彼の家だったのだろう。廃屋と決めつけ、知らず知らずの内にしてはいけないことをしていた。咎めるような張り詰めた空気に、背筋が凍える。
英守が意を決し、聞こえるようにと、腹から力ある声を出す。
「あの!住んでいる方がいるとは知らずに、サーセンデシタ!」
体育会系の謝罪。ギュッ、と音が鳴りそうなくらい強く握った拳は、力を込め過ぎて白く変色している。そして彼は達成の手を掴む。
「行こ!」
緊張で硬直し、口をパクパクさせていた僕は、謝罪どころか、何も言えなかった。英守の手は冷たく湿り、震えていた。彼も同じく緊張していたんだ。気が付くと、足が動いた。そして、自分を情けなく感じる。同い年の友人にできて、僕にはできない。
「待て」
このまま何事もなく帰りたかった。大男の脇を通り抜け、入口から出ようとすると、大きな手で、行く手を阻まれる。男は僕のポケットから少しだけ見えている本を指す。盗む気があった訳ではないが、緊張して忘れていた。彼がこの小屋の住人なら、返す他ない。
「すみません!お返しします」
今度は自分で謝れた。両手で本を差し出す。
彼はなかなか本を受け取らない。身長差分、高い位置から見つめられる。沈黙が辛い。
「ほしいのか」
「―――えっ」
意外な言葉だった。日本語として理解できるまでに時間がかかってしまい、ややしばらく遅れて返答。
「ほ、ほしいです!」
これ以外の答えはない。素直に気持ちを口にできた。
僕の言葉を聞いた大男は、じっと纏わりつくような視線を送る。まるで値踏みされている様だ。
「ここに来たのはお前らだけか?」
「「はい」」
声を揃えた肯定。男は二人の目をじっくりと見比べ、何か考えている。僕らは睨まれた蛙の様に動けない。子供二人で危ない山道に入ったことを叱られるのか。それとも、泥棒と間違われて怒られるか。
「あー考えてもわかんねぇ。考えるのは兄貴の仕事だったしな。よし、決めた。くれてやる」
「―――え?」
「聞こえなかったか?くれてやるといったんだ。もともと龍兄―――いや、貰い物だ。俺は本なんて読まないし、ほしいならくれてやる。ただし、ちょっとした手伝いをしてくれたらの話だ。やってくれるだろ?」
「よ、よろしくお願いします。」
本をもらう手前、頼みは断れない。英守には申し訳ないが、独断で引き受けた。難しい事じゃなきゃいいが、何はともあれ、これで正式に本を手に入れることができた。
僕らの必死の返答に、男は静かに笑う。その笑顔は強面のせいで、僕らに恐怖しか与えない。
強面の男は「トラ」と名乗った。そのため、俺らは「トラさん」と呼ぶ事にした。「トラおじさん」という案もあったが、視線が一層怖さを増したため、却下した。
「このあたりでいいか」
トラさんの案内で目的地に到着した。周囲に大きな樹木はなく、広々としていた。日当たりが良く、そこらかしこに、似たような形の雑草が広がっている。
トラさんのちょっとした手伝いとは「山菜取りみたいなもの」。野草の採取という、本当に些細な手伝いで、俺らは安心した。トラさんが足元の雑草を無造作に摘み、実物で説明してくれた。
「この形の葉っぱだ。白い雌しべが、こうやって茶色とかオレンジに変色してきてるのを選んで、種を茎から詰んでくれ。後から俺が選別する」
最初は怖かったけど、手伝ったら無断で家に入ったことも許してくれるし、ゴールが大好きな本もくれると言う。もしかしたら、優しい人かもしれない。人は見かけで判断しちゃいけない。早速、説明された雑草を摘みに取り掛かる。
英守は達成の顔を見る。友人の表情はまだ硬く、緊張が完全に落ち着いた訳ではなさそうだ。でも、そもそもあいつの表情はわかりにくい、と彼は思っている。
物申したいが、実際言ったところで、「だからどうした?」と言われるだけのような気がする。ちょっと冷たいようにも見えるが、俺と違って頭いいんだよな。他の奴らとは、一味違うカッコ良さがある。最近、積極的に話しかけたおかげで、普段見られない笑顔も良く見れるようになった。ちょっと狂ってるくらいに、本に執着してるのも面白い。少しずつツボが分かり始めてきた。仲良くなったと思ってもいいのかな?
「ちょっといいか?」
山菜取りに集中して気付かなかったが、別の場所で採っていたはずの、ゴールが隣にいた。心なしか、声を潜めている。
せっかく本が手に入るっていうのに、浮かない表情。なぜ声を潜めて聞いてくるのかはわからない。元々大きい声で話す奴じゃないし、サボったら本が没収になると思っているかもしれない。
「どうした」
声を発したのは英守ではなく、いつのまにか背後に立っていた大男。英守が話し出す前に話しかけられる。
「いや、何でもないです」
ゴールはやけに驚いている。結局何も言わず、少し離れた位置で作業を再開する。やっぱり何考えてるのか掴み切れないんだよな。挙動不審はトラさんの強面のせいか。
英守は達成の行動に、少し疑問を持つが、緊張のためだと納得した。追及せずに採取に戻る。
「一度採った物を小屋に置いてくる。また戻るまで頼んだ」
トラさんが雑草をまとめた袋を持ち、小屋に戻る。
トラさんの姿が見えなくなるのを見計らったかのように、ゴールが駆け寄って話しかけてきた。
「逃げるぞ」
「え?なんで?」
その言葉に従うよりも、当然疑問が先行する。本の持ち逃げになるんじゃないか?
「説明してる暇はない!はやく逃げないと」
ゴールが採取をやめない俺の手を、無理に引こうとする。
強引な行動や、疑問を解消されないことに戸惑う。ゴールは苛立っているようだが、説明なしじゃ分からない。俺は手を振り払い言った。
「説明してくれなきゃ分からないって!」
自分で思ったよりも、大きな声が出てた。俺よりゴールは驚いたようだ。
「今僕らが取ってるのは、たぶん―――」
動こうとしない僕を見て、冷静に説明する気になったようだ。言い淀みながら話し出す。
「たぶん大麻だ」
彼は、声を潜めながらも、力強く言った。
大麻。その悪魔の単語が耳元で反響し、記憶を引きずり出す。
「雑草という植物はない」
その日ゴールは、図鑑を広げていた。大きくて無駄に重たそうな、植物図鑑。図書コー
ナーに漫画はない。無駄と言いたくなるくらい、似たような各種図鑑類が勢ぞろいしている。ゴールと話すようになって、図鑑が多い事を知った。それまでは、本棚はただの風景だった。
以前、彼は新しい物語がなくてつまらないと呟いた。それでも飽きることなく、同じものを読んだり、時折こっそり自前の小説を持ち込んで読んでいるようだった。よく飽きないものだと、感心と呆れが半々。
興味を持って観察していたからこそ、その日は珍しく図鑑を読んでいる事にも気が付いた。ゴールとの関りが世界を広げる。
「なんだ。雑草の本か」
「雑草という植物はない」
彼は決め台詞のように、誇らしげに繰り返す。
また何かの小説に影響を受けたのだろう。そのセリフを言いたいようだ。そこまでは察しがついた。だが、会話を広げるために「何の本のセリフ?」と聞くのは下策。読む気もないくせに、と拗ねるだろう。下手に「俺も読んでみようかな」なんて言ってはいけない。そのルートでは、「あれ読み終わったか?」と翌日には、珍しく彼から話し出すのは間違いない。そして、読んでいなかった時の、落ち込みは半端ではない。感想を言い合いたくてうずうずしているのだろう。彼と違い、俺は本をそんなに早くは読めない。その質問は毎日続くだろう。きっと彼は、日を追うごとに苛立ち始める。あれは親に「勉強しなさい」と言われる強迫感に近いものがある。読めと言われると読みたくなくなるし、なぜか机の周りがすごく片付いてしまう。そうなってくると、もう手がつかない。何度かこのパターンで、ケンカした苦い思い出がある。
だからここでの正解は―――
「気になる雑草はあったか?」
「だから雑草じゃないんだって」
雑草じゃなくて植物と言うべきだった。咄嗟にいろいろ考えたせいでしくじったが、ゴールは口を尖らせながらも、気になった「植物」を探してくれている。
「コレ」
会話が繋がった。彼は一つの写真を指差す。
会話を始める時が一番難しい。ちょっとしたスリルと達成感がある。余談だが、ゴールの前で達成感と言うのも、ややタブー。「達成感」と、おだって無視されたのは何日前だったか。しばらくは言えない。
ともかく、せっかく会話が繋がった。指さされた植物の写真を注意深く観察する。ギザギザし、先端に向けて鋭く伸びた葉が扇状に並んでいる。
「やっぱり普通の植物に見えるけど、なにこれ」
注意深く見ても他の雑草と見分けがつかない。その雑草の写真を指先でノックしながら正解を聞く。
「大麻」
追加の説明を求めると、ゴールはいたずらっぽい笑みを浮かべ、説明文を読んむ。
難しい説明に理解が追いつかないが、「平たく言うと麻薬の一種。日本では栽培しても、採っても、警察に逮捕される」らしい。
勉強にはなったが、元々植物に興味がない。俺の顔には「それがどうしたの」と書いてあったらしい。ゴールがここからが重要、とわざとらしく神妙に言う。
「大麻は僕らの近所に生えまくっている」
さすがに驚く。そんな危険なものは遠い世界のもので、自分たちには関係ないと思っていた。
「嘘だぁ」
思わず口を突いて出た。ゴールは証拠とばかりに生息域が記載されている項目を指す。
「道草、食べて逮捕されるなよ」
ゴール観察史上、上位にノミネートするドヤ顔だった。それから、駄洒落を指摘して、また無視された。また一つ彼を知る。
回想終了。微笑ましく、何気ない記憶は毒性を帯びた。理解が追いつき、慄く。
「ヤバいじゃん!」
「だから逃げるんだって」
彼が焦っていた理由を、俺も共有できた時、すっと全身を覆う大きな影が差した。
「どうした」
低い声に心臓が鷲掴みにされる。振り向くと、無表情のトラさん。
全身の鳥肌が立つ、景色は褪せ、音が遠のく。草木の揺れる音や、虫の鳴き声の代わりに、耳元で心臓の音がやけに大きく聞こえる。警鐘を激しく鳴らすように、心臓が脈打つ。一瞬で頭が真っ白になる。
逃げないと、逃げないと、逃げないと―――でも、何と言えばいい。どうすべきだ。慌てて思考を回す。
そして思い至った。理屈は何でもいい。
「―――用事を、用事を思い出しました」
俺が口を開こうとした時、先に対応したのはゴール。この事態を想定していたのかもしれない。シンプルイズベスト。嘘を言う時には、言葉を重ねたくなるが、言い繕いを重ねると白々しくなる、と以前彼は、『交渉術』の知識を披露していた。
ゴールと目が合う。大丈夫。考えてることは同じのようだ。
俺らは示し合わせもなく、スタート。ほぼ同時に走り出す。
大丈夫。俺はクラスで一番足が速い。ゴールは運動系のクラブに入らず、読書三昧のくせに意外と体力がある。俺らなら大丈夫。走りでは負け知らずだ。
ミニバス少年団で、初めて褒められたのは、ドリブル中のロールターン。ボールを持っていない分、今までで一番、理想のきれいなフォームで方向転換できた。
ゴールの呼吸を肌で感じる。間違いなく付いてきている。すぐ後ろについてきている事が見なくても分かった。アイコンタクトでの見事な意思疎通。そこから弾かれたように一気に加速。これなら、突き抜けられる。
ゴールとエース。俺らが組めば最強だ。得点量産間違いなし。帰ったら少年団に誘ってみよう。一歩踏み出すごとに、一体感が胸を躍らせる。万能感。だがそれは、たった数メートル先で崩壊する。
「うっ」
喉を詰まらせたような声。振り向くと、襟首を掴まれ、ゴールが宙に浮いている。
「ガキ相手だと思って侮っちまった。気が付かなければ帰れたのにな、運のない奴らだ」
嘆息混じりに男が呟く。
ゴールが四肢を振り回して暴れるが、男は歯牙にもかけていない。体格差がありすぎた。いくら足が速いと言っても、それは小学校の範囲内でだ。大人がその気になれば、鍛えていようが、才能があろうが、そんなことは関係ない。捕まったゴールが自力で逃げ出すのは難しい。
「英守逃げろ!」
「うるせぇ!」
暴れながら懸命に叫ぶゴールを、男は力任せに地面に叩きつけた。地面に叩きつけられた彼の身体が、跳ねる。
ゴールは弱々しく呻き、蹲る。息をするのもやっとの状態。大男は何の躊躇いもなく踏みつける。
「やめろおおおお!」
血が沸騰する。男に向かって突進。
「お前も黙れ」
決死の突進は届かない。圧倒的な力の差。遠くまで伸びてきた足が、肩に当たって、車に跳ねられたように身体が吹っ飛ぶ。肩から聞いたこともない、鈍い音が鳴る。
「―――英守」
無残に地面に転がるまま、耳がゴールの声を拾った。絞り出すような苦しい声は、自分を気にかけている。俺の耳はそのまま、彼が暴行を受ける音も拾う。友人の声を聞くにしては、あまりにも大きな代償。視界はまだチカチカと光り、焦点は合わない。早くゴールの元へ行き、逃げないと、と気持ちばかりが先行する。
地面に手を突き、立ち上がろうとする。そして、再び地面に顔を着ける羽目になった。出したはずの腕が出ていない。支えはなく、そのまま転倒。意思に背き、力の入らない腕は、しびれている。まるで肩に心臓が肩にあるような熱い痛みが走った。
「あー腕が外れちまったか」
転倒し、絶叫する様子を、男は冷静に見ていた。彼の言葉で、理解不能の現象が、肩の脱臼と知る。
男は何でもないかのように普通に歩み寄る。無造作に動かなくなった腕を掴み上げ、そのまま手を離す。脱臼の事実を再確認するように、痛めつける。
「―――っ」
激痛に「痛い」の声が出ない。
「かわいそうにな」
自分でしておいて、そう言い放った顔に、憐れみはない。
「―――ください。―――せん」
俺の言葉に、男は怪訝な顔をする。
肩の痛みがなんだ。カラカラに乾いた口がなんだ。口に入り込んだ土がなんだ。今はこれを言わなきゃいけないんだ。深く息ができない事が煩わしい。声を出せない喉が、もつれる舌が煩わしい。言わせてくれ、一言だ。俺の身体、俺の言葉を邪魔するな。
「―――許して、ください。誰にも言いません。―――大麻の事は、誰にも、言いません。ごめんなさい」
痛みが増していく中、今伝えなければいけない言葉を、絞り出す事に成功する。
「仕方ないか」
許してもらえた。やっとの想いで繋いだ言葉を、受け入れてもらった。たどたどしくても、格好悪くても、評価された。言えて良かった。謝れてよかった。
「仕方ないか」
言葉は繰り返された。引っ掛かりを感じた。
英守は力を振り絞り、顔の向きを変える。男の顔を見上げた。少し動くだけでも、肩は容赦なく痛みを主張する。
男の目は虚ろだった。目が合っているはずなのに、その感覚が全くない。
「仕方ない」
また呟く。まるで、自分に暗示をかけているようだった。彼はズボンのポケットを弄り、並んだ穴が特徴的な、手の平大の棒を取り出す。
カシャカシャカシャ
男の手首の動きに合わせ、繋がった二本の棒はヌンチャクのように動く。軽い金属音が鳴り止む。ヌンチャクの動きが掌に納まったときには、わかりやすい凶器が太陽光を反射し、銀色に光る。手品のような早変わり。単なる棒からナイフが現れた。
「知られた以上、返すわけにはいかないだろ?まさか、ガキを手に掛ける事になるとな」
男は嗜虐的な笑みで、口元を歪める。
「せめて楽に―――」と言った男は手を振り上げる。逆手に握りしめるナイフを叩きつけるように振り下げる。
英守はナイフを見るまで許しを得たと思い込んでいた。硬直し、死を覚悟する余裕も、走馬灯を見る猶予もない。迫りくる脅威、沸き立つ恐怖。身体がせめてもの抵抗にと、動かせたのは瞼だけ。
もう死んだのか。だとしたら一瞬だったかな。それとも夢だったのか。何だか騒がしい。重いし、痛い―――痛い?違う。夢でもなければ、死んでない。
目を開ける。初めての試合後よりも身体は重いし、残念ながら肩も痛いままだ。恐怖で一瞬気を失っていたらしい。思考が噛み合い始め、視覚も機能する。
目に飛び込むのは、至近距離で屈んだ男。ゾッとしたが、彼が自分を見ていないことに気付いた。男と自分との間にはゴールがいた。ゴールは倒れている俺に、背中を預けるように横たわっている。全体重が預けられている感覚に、寒気がする。直前の記憶が蘇る。ゴールが身代わりになって刺されたのだ。
男が舌打ちしながら立ち上がる。
「ゴール!」
叫びながら、動かせる左腕でゴールを抱える。
「ゴール‼」
「うるせぇ!」
返事があった。
「ゴっ」
「うるせえ!叫ぶな、揺らすな、頭が痛ぇ‼それに身体が怠い!傷に響くから動かすな‼」
生きていたことが嬉しくて、叫ぼうとしたら口を塞がれる。そして怒涛の文句。
ゴールの姿は痛々しい。頭から流れた大量の血が、顔を汚している。見た目より元気そうで、さらに嬉しくなる。
「まるで助かったような喜び方だな」
ハッとして男を見る。その通りだ。まだ何も終わっていない。
鼻白んだ男が、忌々し気にバタフライナイフに刺さった本を抜き取り、こちらに投げつけた。開いた本が、バタバタとページを乱しながら飛ぶ。
それは、大麻集めと交換条件で、譲り受けるはずの本だった。ゴールは本を盾にし、俺を守ってくれた。
「―――あっ」
達成は驚きの声を短く発し、投げつけられた本を見事にキャッチ。英守はその行動に、驚きを通りこして呆れた。行き過ぎた行為に、尊敬に近い呆れだ。
この緊急事態にお前ってやつは!
「そんな小さな本を盾にして、また助かると思ってるのか?そんな偶然は続く訳ねぇだろ」
男はゴールの行動を見て嘲笑する。だが、解釈は根底から間違っている。そんな理由じゃない。本は読むもの。彼が本を再び身を守る道具にする訳がない。
「本を大事にしろ!」
―――ほらね?
立場も状況も関係なく、ゴールがキレた。彼にとって、飛んできた本をキャッチするのは自然。小説と分かっている本なら何が何でも死守する。盾や武器として、手を伸ばす訳がない。本を大切に想うからこそ、本を傷つけたことは、どれだけ彼を傷つけただろう。
なのに、俺は嬉しくなってしまう。彼も酷い怪我だ。こんな状況なのに、愛する本を犠牲にしてまで、救ってくれたのだから。
英守の目の前にひらひらと紙が降ってきた。一ページでも本が欠けていたら、相棒は落ち込むだろうなと思い、紙切れを拾い上げる。切迫した状況で、本を優先する彼は、達成の影響を大いに受けている。
拾った紙は、質感が違った。そして、切られた訳ではなく、雑に破られている。表面も擦れてボロボロ。印刷された顔写真だ。紙切れを見つめ、英守は紙と男の顔を交互に見比べる。同じ顔がそこにある。
破られた指名手配書、山で大男に遭遇、大麻、手元にある紙片―――断片的な情報が繋がり、閃いた。
「犯罪者!」
思わず叫ぶ。手にしている紙切れは、電柱に貼られていた指名手配書だ。この男は、ここに向かう途中でそれに気付き、破いたのだろう。
推理遊びのつもりが、ワトスン役の推理が、不幸にも見事に的中してしまった。しかし、推理が成立するには遅すぎた。それが最大の不幸。読んだことがなくても、原作ホームズでは、もっと華麗に推理が展開されるはずである。現実は残酷なほど厳しい。ここで推理が整っても、どうすることもできない。
だが、英守は状況を投げ出す手前で踏み止まる。場違いなことを考えすぎて、冷静さを取り戻す。
今こそ考えろ。どうするべきか。何ができるか。
達成も英守と同じく、冷静に似たような事を考えていた。彼は怪我による頭痛や、本への無礼に怒り心頭だ。気が紛れ、適度に恐怖が削がれている。
だが、いくら考えても画期的な打開策も奇策も思い浮かばない。横目で見た英守も、何か考えているらしいが、表情から策が無さそうなのも読み取れる。
絶体絶命。逃げるにしても全身が痛くて、満足に走れそうにない。ダメもとで走るか?いや、もっと考えろ。万全の身体でも、逃げ切れなかったじゃないか。このままでは、二人とも殺される。
もう一度英守を見る。腕を負傷しているが、走れそうだ―――なんだ、簡単じゃないか。
達成は作戦を思いついた。英守が自分と同じ結論に達する前に、実行すべき作戦だ。
「なあ」
「なんだよ」
達成の潜めた問いかけに、余裕のない返答が返ってきた。
「お前、普段から自分のことエースって言うくらいだからまだ走れるよな」
「―――たぶん」
「なら、問題ないな」
「何がだよ」
「一生に一度のお願いだ。ちょっと走って、助け呼んできてくれないか?」
「は?」
近所へのおつかいを頼むような気安さに、英守は怪訝な声を出す。振り向いた彼に、達成は不敵に笑う。
「頼んだぜ。―――相棒」
言葉の途中で走り出した。最後の言葉は、たぶん聞こえていないだろう。それでいい、僕が思ったんだからそれでいい。もう友達以上だな。相棒、次はちゃんと逃げるんだぞ。
メッセージは伝わったはずだ。直接言葉にするのはくすぐったいが、心の中くらいでは認めてやっても恥ずかしくない。英守になら、英守だからこそ、恥ずかしくない。お前はやっぱり僕にはもったいないくらい、良い友達だったよ。
悲鳴を上げる身体を気合でねじ伏せる。力を振り絞り、地面を手で押し退けた。勢い任せに足の裏で地を蹴る。倒れそうな程の前傾姿勢のまま、足を回転させる。
「うぉおおおおお!」
一世一代、全身全霊のタックル。少しでも時間が稼げればそれでいい。
「諦めろ」
頭に激痛が走る。視界がグラつくが――――関係ない。
舐めるなっ!こっちは毎日のようにお父さんにしごかれてんだ。踏んだ場数は伊達じゃない。
がむしゃらに伸ばした手に、相手の服の感触があった。掴んだ服を支えにする。よろけてしまいそうな足で一歩を踏み出す。
腰に手が回った。絶対に逃がさない。
「エース!―――っ」
その先に続けたかった、逃げろという言葉は、再び殴られる事で遮られた。決死の覚悟でしがみつく腕が緩む。
激痛の中で、頭は妙に冴えている。視界の端で、ナイフを持った腕を捉えた。
「エース!」
早く、早く逃げてくれ。時間は稼ぐ。例え刺されても構わない。
凶器を持った腕が迫るが、全力で飛びつき、叫んだ口で噛みつく。
喰い千切ってやる。
「痛ぇなっ!」
顔を歪めた男が怒鳴る。男は腕に噛みつかれ、腰を屈めていた。
次はどう来る。打撃か、ナイフか、降り飛ばされるか。分からないが、受けきるしかない。全身に力を込めて一秒でも長く、足掻いてやる。
「バカヤロー!」
後方から来た英守が、叫びながら突進した。
「「痛ッ」」
英守の全速力の頭部が衝突する。男は鼻を強打した。
衝撃に弾かれた英守は、すぐにバランス立て直し、男の胴に左腕一本で飛びつく。
「相棒を見捨てて、逃げやれるかバカヤロー」
「んんんんん!」
噛みついているせいで、言ってやれないのが悔しい。どっちがバカヤローだ。せっかく時間を稼いでいるのに、これじゃあ意味がない。
だが、思いがけずチャンスは来た。男は立ち上がろうとしていたところに、鼻面に強打を受け、仰け反っている。
今しかない。英守が逃げてくれないなら、敵を倒すしかない。もう少しで、転倒させることができる。相棒とならできる。
「―――だ」
小声で聞き取れなかったが、男の声が背筋を騒めかせる。
「無駄だ」
男のバランスは崩れ切らない。
「何でだ。何で上手くいかない」
英守の悲痛な叫びが空しく響く。
男が鼻血を流しながらニタリと笑う。そこからの展開はさらに圧倒的だった。
まず、英守が片手で引き剥がされ、サッカーボールの様に蹴り飛ばされる。勢いのままかなりの距離を転がる。友人がそんな状況になっていても、唖然と見守るしかなかった。
次に、達成を浮遊感が襲う。噛み付いたままの腕を、軽々と振り上げられた。瞬く間に地面が迫り、激突。叩きつけられる。
眼前に火花が散り、一瞬の暗転。
「手間取らせやがって、今度こそ確実に刺し殺す」
男の無駄に大きな声で、目を覚ます。視界が回っている。苦しい。背中が痛くてなかなか息が吸えない。
気を失っていないのは奇跡的だった。だが虫の息。もう歯向かう力が微塵もない。
男は僕が噛んだ傷を擦りながら、ゆっくり近づいてくる。一瞬でも倒せると思った幻想は、簡単に壊れた。理不尽に屈する以外、どうやら許されていないようだ。
神様なんていない。いたとしても、残酷な神か、怠惰な神しかい。理不尽を見過ごす神なら、いっそのこと死んでしまえ。
ナイフがギラギラと光る。あれで死ぬんだな。あと何歩かな。無感動にナイフを見つめる。神に内心で毒を吐く気力も、すぐに底を着いた。命の散り際に、感情を動かすにも体力がいる事を知った。
どうせ死ぬなら、なぜ頑張ったのだろう。こんな死に方をしなきゃいけない、悪い事を僕はしたのだろうか。英守にしてもそうだ。ああ、もう痛いのは嫌だな。どうせ死ぬなら、楽に死にたい。
達成は理不尽に膝を屈する。諦めと後悔が、心の中でグルグル回る。全てを絞り出した。搾りカスまで絞った。感情を動かせなくなるまで、出し尽くした。それでも届かないのか。ただ生きたいと望むのも大変で、もう疲れた。
もったいぶって近づく男の足音を聞きながら、目を閉じる。
「うおおおおおおおおおお!」
――――熊?
雄叫びを聞き、大きく獰猛な獣の姿が脳裏に浮かぶ。力なく目を開いた。
笹薮の中から巨体が飛び出す。突如現れた巨体は、身体より大きな巨木を担いでいる。そして巨木をこちらに向かって投げつけた。
「離れろ!」
全身が黒く見える巨体からの警告。しかし、少年たちは満身創痍で、指先ひとつ動かせる状況ではない。
「な、なんなんだ⁉」
もう一人、飛来する巨木に慄く大男が言った。ダイナミックに飛び込み、間一髪で躱す。
馬鹿力で放られた巨木は地震のように地面を振動させ、重音と共に大地に刺さる。
達成らと男は分断された。巨木との距離は、一メートルと離れていない。
巨木を投擲した者は本当に人間だろうか。距離があるため、やはりまだ確定できないが、人語を話したことで、確実に熊ではないだろう。
ナイフを持った男と、巨木を放った黒い男の視線が衝突する。
「そこの珍妙な虎柄頭。俺の目の黒いうちは、好き勝手させねーぞ。息子が大工を継げない身体になったら、どうしてくれる。それと達成!勝手に諦めるな。それでも【神木家】の男児か」
黒い男は巨木の落下音にも引けを取らない音量の声で好き勝手に叫んだ。睨みを効かせながら、力強くこちらに踏み進む。その姿は、恐れるものは何もないと語っている。
指名手配犯、虎次郎に動きはない。状況を把握しようと警戒している。
警戒するのも無理はない。乱入してきたのは、怪力の男と飛ぶ巨木。突然飛来した巨木の脅威は去ったが、黒い男は筋骨隆々で圧倒的な存在感を放っている。
虎次郎も引けを取らない体格だが、警戒を強めるのは、見せつけられた怪力だけではないだろう。同等の体格だけで腰が引けるような奴ではなさそうだ。なによりも、刃物を持っている。刃のサイズは小さいながらも、大きなアドバンテージだ。
ではなぜ、という疑問に回帰する。警戒するのは乱入者の外見だろう。彼は全身が赤黒く染まっている。遠目では、人語を話さなければ人間だと気付けない。体格と色合いを見れば、熊とも見紛う。人間離れした存在が、人語を話し乱入。人間にも本能はある。理解の範囲外の出来事を、警戒するのは当然だろう。
異様な緊迫感の中、距離が縮まり、二つの事実が明らかになる。
一つ目に、全身が赤黒く見えていた理由。これは、血や泥に塗れているからだった。身に着けた服は、作業着だが、原型も原色も留めていない。
二つ目は、男の正体。こちらは薄々勘づいていた。修行中か、戦争の真っただ中か、それとも、未曽有の大災害か。どんな説明を受けても、その壮絶で勇ましすぎる姿を、納得できる説明にはならない。
何がどうなったらそうなる?あと、さっきの巨木、あと少しズレていたら、完全に下敷でした。そこのところどうなの?―――ねえ、お父さん。
達成には、全身が血みどろの父親が、突如として現れたという事しか分からない。この事実以外は全く分からない。分からないことだらけ。瀕死の重傷で、怒られる理由も分からず、大人は理不尽で、理解不能だと思っていた。
「ちと熊の相手に手こずったが、間に合って良かった。熊の次は虎狩りか。こりゃダチに自慢できるネタが、また増えちまった」
準備運動のように肩を回しながら、お父さんが呟いた。本人の口から、疑問の答えが飛び出すが、ん?熊と戦ってた?と混乱は避けられない。
謎が謎を呼ぶ。複雑な心持ちだが、自信満々な口調から察するに、どうやら熊に勝ったらしい。
達成の父は虎次郎に向かって言葉を放つ。
「テメェ、この【神木丈夫】の息子に手ぇ出すとはいい度胸だな。タダで帰れると思うな」
「あーあ、また面倒そうなのが出てきたが、今度は手加減に困らなさそうだ」
丈夫は虎次郎の言葉に答えず、達成に手を差し伸べる。
「間に合って良か―――立てるか」
微妙に間に合っていない気もしたが、絶体絶命の状況に、希望が差したのは確かだった。
達成は身体の痛みを堪え、屈強で傷だらけの父の手に、自分の小さな手を重ねる。最後に握ったのが、いつだったか、その手は温かい。
「伊達に、あの巨大な木を投げ飛ばす腕に、毎日殴られてないよ。全然平気」
立てるか、と聞かれれば立つしかない。弱音を吐いたところで、叱られるのは分かっている。達成は精一杯強がった。普段は理不尽でめちゃくちゃだが、この状況においては、これほど頼もしい理不尽な人間を、他に知らない。気持ちにゆとりが生まれ、満身創痍の身体に気力が沸く。
「馬鹿者、あれは教育だ。―――あと、遅くなってすま……いや、もう一人のガキも連れて下山しろ。適当な家に助けを求めて、救急車と警察を手配しとけ、119では救急車ってちゃんと言えよ」
達成の様子をよく見て、「間に合って」いないことに、やっと気付いたのだろう。「遅くなってすまない」と謝ろうとしたのも分かる。
そして、子供に頭を下げるのを、頑固なプライドが良しとしない。頑固で理不尽極まりない父だが、バツが悪そうに目を逸らすのを見て、自然と頬が緩む。視線は外しているが、優しい気遣いは、引き上げる手から受け取った。――――いろいろ反則だろ。かっこいいと思っちゃったじゃないか。
もっと本を読ませてほしいと、反発し続けていた。だけど、窮地に追いやられ、自分の父親がこんなにかっこいい男だって、やっと気が付いた。もう、他の家族を羨ましいだなんて思わない。だって、不器用でも優しい人だって分かったから。この手に自分は、どれだけ助けられていたのか。僕はまだ推し量れていない。うっかりすると緊張が緩んだせいで泣いてしまいそうだ。話したいことがいっぱいできた。でも、今伝えなくちゃいけないことは知ってるよ。
「ありがとう」
今はこれだけ。それでも、不器用なあなたの息子にしては上出来でしょ?これからはちゃんと、その手からたくさん学ぶ。助けてもらっている事に気付けるように努力するよ。
「―――ぐっ」
「お父さん⁉」
お父さんが何かをいち早く察し、敵に向き直った。広い背中が揺らぐ。僕を広い背中に置き、守ってくれたことに気付く。虎次郎が子供を逃がすまいとしたのだろう。体当たりで先制攻撃を仕掛けてきた。
「早くいけ!」
繋がれていた手は、もう振りほどかれていた。手の動きだけで、追い払うように、逃げろと指示される。
「敵前でよそ見するなんて、危ないぜ」
虎次郎の一声から、殴り合いの応酬が始まる。
僕は迷う。理屈で考えれば、ここにいても、足手まといになるだけだ。でも、お父さんを残して行ってもいいのか。理屈抜きで迷った。
「帰ったら説教だ。さっさとダチ連れて、下で待ってろ」
それが後押しとなる。足を引きずりながら、懸命に英守の元へ駆け寄る。
息子たちを傷つけた敵は、子供たちが逃げる方向を一瞬確認して言った。
「心温まる親子のシーンの途中ですまなかったな」
虎次郎は微塵も悪びれていない。勝ち誇った笑みを浮かべている。
「ガキ二人に手を焼き、不意打ちを仕掛けるなんてな。無作法なチンピラだ」
丈夫は噴き出る脂汗を、汚れ切った腕で拭い、脇腹を抑える。
「もうすぐ死んじまうオッサンに、何言われようが構わねぇが、獄蓮会の【鬼塚虎次郎】様を前にして、いい度胸だ」
「どこのヤクザもんか知らんが、高が知れてるな」
「オイオイ、強がるのもいい加減にしろよ。余計に血が出ちまうぜ?」
柄を伝って血が流れている。雑草の上に血が滴り、土に染み込む。元々血みどろだったシャツに、さらに染み込む。丈夫に、体当たりで刺されたナイフが、深々と刺さっていた。
「急所を外したと言っても浅くはない。なかなかの反応だったが、俺にはまだやらなきゃいけねぇことがある。全員逃がす訳にはいかねーんだよ。ガキらにもすぐに追いつく。さっさとくたばれ」
丈夫は一瞬よろめくが踏み留まる。
「ああ、思い出した。その珍妙な頭。数年前にここらで、事件起こしたヤクザもんか。兄貴が捕まったそうじゃねぇか。何しに戻って来やがった。また他の組織頼みか?」
丈夫は汗を滲ませ、痛みを堪えながら、虎次郎の目をきつく睨み付け言った。
「ほー。前回の逃走の件は極秘だったんだが、地元じゃあ噂になってても仕方ないか」
虎次郎の皮肉めいた笑みは、どこか自慢気だ。余裕の態度は、負傷している丈夫に負ける訳がないと、思っているためだろう。昔の悪事を隠し立てする様子はなく、不意打ちも辞さない。
丈夫は虎次郎をチンピラと言った。彼は本物を知っている。よって、目の前の敵が、ヤクザを名乗るのはおこがましいと思う。只のチンピラだ。道を踏み外したままの悪餓鬼。
「一つ分からない事があるんだが、いいか?」
「時間が惜しいが、一つだけならな。冥土の土産だ」
虎次郎の顔から笑みは消えない。
「採った大麻をどうする」
「オッサン、物知りそうだから、想像ついてるんじゃねぇの?」
その通りだ。丈夫は知っている。
「閻魔会か」
「ご明察。龍兄もヘマして逮捕されちまうしよ。俺らの獄蓮会じゃあ、今の状況はちと厳しいんだわ。だから、前回、龍兄が交渉して、逃走に協力してもらった、閻魔会の伝手を頼ろうと思ってよ。知ってそうだから言っちまうが、さすがに、これから匿って貰うのに、手土産もねぇんじゃ寂しいだろうが。そのうち龍兄の釈放か、減刑にも手を借りなきゃいけねぇしよ」
虎次郎は自身の計画を誇り、饒舌に語る。そして、手を広げ、辺り一帯を指す。
「だからこれよ。大麻なんて宝の山がある。前回の逃亡中に知ったんだが、大麻は金になる。他のヘマした組の連中が、ポリに押収された大麻が、いくらだったか知ってるか?四千本で末端価格二十臆円だとよ。そんなに金になるのは知らなかった。地元じゃあ取り放題なのにな。知らないで損したなって、龍兄と笑ったぜ」
「おめでたいな。うまくいくと思ってるのか」
丈夫は鼻で笑う。
「それだけの血を流してまだ強がるか。うまくいくに決まってる。オッサンは会話で長く俺を足止めする気か?立ってるのもやっとだろ、さっさと楽になれよ」
虎次郎も笑った。
「丈夫と書いて丈夫だ。舐めてもらっちゃ困るな。チンピラ、俺はちーっとばかり、血の気が多くてな。有り余ってる血を適度に捨てられて、ここが冴えたぜ」
丈夫は血塗れの指で、軽く頭を叩いく。
――――本当にめでたい奴め。俺の言葉も履き違えていやがる。組の情勢も、大麻への知識も浅すぎる。『うまくいく』訳がない。
三年前、獄蓮会と名乗る組織が暴行、覚せい剤所持の容疑がかけられていたことは記憶に新しい。警察の懸命な捜査にも関わらず、犯人たちの逮捕には至らなかったのは、表向きでも知られている。表向き不動産屋として、看板を掛け換えた裏社会組織がある。地域柄と仕事柄、大工の中には、密かに繋がりがある者もいる。丈夫もその内の一人だ。虎次郎の素性を言い当てたように、少し以上に、腐った深い付き合いがある。
丈夫は地元で【不動産屋】を営む、昔からのダチと、酒を交わした時の事を思い出す。
ここは馴染みの居酒屋。ダチとはいつも、この店で呑んでいる。
「最近、大麻で他の組が摘発受けたじゃねぇか。お前のところは大丈夫か」
「心配ご無用。我が閻魔不動産は、クリーンな物件を提供する、クリーンな会社だからな」
丈夫の心配に、禿頭の髭面はジョッキを傾けながら、豪快に呵々と笑い、話を続ける。
「北海道でも自分で吸うのか、売ろうとしてるのか、何の目的かは知らねぇが、ありゃ大馬鹿者のすることだ」
「確かに自生しているところなんか、時期になったら警察が張り込んでるしな。毎年逮捕される連中が、どれだけ追い込まれて、浅はかな行動に出ているのか、想像したら哀れだな」
丈夫がタレ付きの串焼きを豪快に頬張り、ビールで流し込む。
禿頭の不動産屋は立派に育った豊かな髭を撫で、反対の指を自慢げにチッチッチと左右に振う。丈夫が知らないことを披露できるとあって、泣く子も黙る強面が、悪餓鬼の頃のようにはしゃいだ。
「哀れなのはそれだけじゃねんだわ。地元民でも知らない奴は多いが、大麻も栽培しなきゃいけねぇ農作物って訳だ」
「そりゃまた何で。あんなもん手軽に乾燥させて、炙ったら、煙で夢見心地になるんじゃねぇのかよ。」
「ほぉーーれ。それこそ浅はか。ほら、ムッとするんじゃねぇよ。万が一にもないと思うが、大人になった達成が、道踏み外さねぇように聞いとけ。昔のお前は今でこそ大工仕事に打ち込んで、シャンとしているが、昔は好奇心旺盛で俺より危なっかしかったって、去年亡くなった、あのカミナリじいさんが言ってたぜ。息子の好奇心旺盛なところは、昔のお前そっくりだ。あとはのめり込んだ時の行動力もな。本取り上げてからかったのは、俺が悪いが、今時の小一で、俺に文字通り噛みつく奴なんか、そうそういないぜ?」
禿頭の旧友は、逞しい腕に付いた、まだ新しい歯型を見せつける。
「だからすまん、と思って奢ってんじゃねぇか」
「将来が楽しみだな」
子供がいない彼は、遠くを見て優しく微笑んだ。
「うちのガキは、立派な大工になるんだ。道なんて踏み外させないし、また、お前のところの裏社会に引き込もうとするなよ?言ってることと、やってることが違う」
彼に子供がいない事情を知っている丈夫は、慌てたフリをして噛みついた。
「丈ちゃんの目が黒い内はおっかなくてできねぇわ」
「そもそもだ。昔も今も、危ないのはお前の方だろ」
「まあまあ、その話を始めると、喧嘩になるだろうが。カミナリじいさんがくたばって、ここの先代が隠居したんだから、俺らを止められる現役は、お前のところの上さんしかいないんだから、話を戻すぞ」
ダチが先に話を振り、勝手に丸められたため、丈夫は納得がいかない顔をした。しかし、上さんが出張ってきても面倒だと思い、渋々ジョッキに口を付け、矛を納める。今回は一枚上手だったダチが、気分良く授業を再開した。
「ああ、大麻ってのはなぁ、雑草並みの生命力で、その辺にたくさん生えてんだろ。あれがそのまま金になるなら、金を積んで、土地ごと買い占める。あとは、そこそこの画策すりゃ、何とでもなるんだわ。だが、さっきも言ったように、ありぁ農作物。わや手間かけて育てないと、売り物にはならんわ」
旧友はそれから、売り物になる大麻の生態や他の組の失敗談、自分の組織に入った無知な若者の話も交えて、ジョッキ何杯分も語った。
「―――ってな訳で、勝手気ままに交配しまくる雑草に、商品価値はなし。そんだけ手間かけて育ててりゃ、言い訳もできない。見つかりゃあ逮捕って、リスキーな商品よ。すまん。ここからはただの独り言で愚痴だ。最近、そのリスキーな商品捌いてたって、因縁つけられた。うちの若いのが関わっててよ、不本意ながらチンピラの逃走に加担しちまった。俺の人生史上最大の汚点だ。またあいつらが、この街に顔見せるような事があったら、次こそはロハじゃ済まさねぇ」
旧友が言う、タダですまない事態を、丈夫にはおおよその察しがついた。組織を危険に晒した若造は、こってりと絞られただろう。だが、それ以上はあえて聞かない事にした。聞かなければ、言いすぎることもない。ダチも互いに、熱くなったら止まれない性格だと、分かっていて、『独り言』を呟いたのだ。昔は同じ尺で生きていたが、大人になると、言ってはいけない事が増えすぎる。善悪の判断も難しい。特に、それぞれの職場では、当事者以外には理解できない事も起こり得るのだから。
傷だらけの身体を二人で支え合い、身体を引きずって下山する。後方から聞こえていた、野獣同士の咆哮じみた声は、距離が離れるにつれ、次第に聞こえなくなった。
お父さんならきっと勝つと信じて、自分はできることをしなければ、早く警察に通報しないといけない。そう考えていた矢先。
どちらともなくバランスを崩した。寄り添うように支え合っていた二人は、踏み止まれない。一緒に整地されていない笹薮に転がり出る。
「「痛てて」」二人で呻く。
下山するまではしっかりしないと。今、希望があるなら、選択肢があるなら、噛みついてでも手放さない。空回りしていても、上滑りしていても、思考も感情も動かなくなるよりはずっといい。
達成は心の中の自分に鞭を打つ。鞭を打ち続けなければ、次はもうない。気力が尽きた時、もう何もできない。そんな確信がある。
二人の粗い呼吸音は森に吸われる。切迫した人間の状況など、素知らぬ顔で、空の青さも、風の優しさも、笹同士が擦れ合う音も長閑だ。僕らにとって大きなことが起こっているのに、世界は変わらない。
沈黙を破ったのは、呼吸もまだ整っていない英守。
「ゴールごめん。俺が秘密基地なんて言い出さなかったら、それにすぐにヤバい植物だって、ゴールみたいに気が付いていたら」
顔は見ていないが、声を聞けばどんな顔をしているのか想像できた。
歯を食いしばって一足先に立ち上がる。そして、英守に手を差し伸べた。ちらりと表情が見えたが、すぐに顔を背けて見えなくなった。一瞬見えた顔は案の定、泣き出す寸前。英守相手だからこそ、こんな時に自然と悪態をついてしまう。
「バーカ。引き返そうって言われて、最後は本読みたさに、僕が行くって決めたんだ。お前の責任じゃねぇよ。謝るのは僕だ」
咄嗟に馬鹿とは言ったものの、声は尖っていないはずだ。責める権利なんて、僕にはない。責任があるのは、あの指名手配犯と、存在するか分からない神、そして友人の勘を汲み取り、引き返す選択ができなかった僕なのだから。
英守はこちらを見ようとしない。耳だけは傾けているのは分かっているので、構わず続ける。謝った後、お前にも伝えたい言葉があるんだ。そのまま聞いていてくれ。
「置いて行かないでくれてありがとう。お前のお陰で何とか逃げられた。僕さ、無事に帰れたら、何か変われる気がしそうなんだ」
自分の手を見つめながら話す。
「何かって」
「分からないけど、何か」
この手で、大切な人から沢山のものを受け取った。そして平和な日常を少し逸れれば、理不尽があり、非情な人間もいると知った。何をしていいのかは分からないけど、それを誰から学んでいくのかは分かった。支え合える親友も目の前にいる。
「何だよそれ」
英守は堪らず吹き出した。そして、目元を拭い真っ直ぐに目を見つめる。
「俺からもありがとう。ゴールから相棒って言われて嬉しくてさ。気が付いたら無我夢中で飛び込んでた」
「聞こえてたのか」
耳が熱い。まさか聞こえていたなんて。
「俺も頑張ってみるよ。何をとか言うなよ?これからちゃんと考えるんだから」
「バーカ」
この一体感が気持ち良い。英守に今なんと言っていいかは分からないけど、言わなくても通じている気がした。
「出口まであと少しだ」
英守を引っ張り上げる。
「ああ、一緒に頑張ろう」
世界が隠している悪意が、突然牙を向けてきても、こいつとなら立ち向かい、乗り越えていける。傷だらけで、泥だらけで全く格好はついていないが、二人はただニヤリと笑う。
笹薮から、整地された山道に戻ろうとした時、英守の足が止まる。
「どうした?」
「しっ、上から何か聞こえないか?」
「ごめん、良く聞こえないんだ」
「そっか。上から聞こえる」
英守は僕の気持ちを察して、それ以上聞かなかったようだ。僕は、過剰に心配させないように、詳しくは話さなかった。虎次郎と戦っていた時には必死で気にならなかったが、先ほどから、耳鳴りが大きくなっている。耳へのダメージが大きかったのだろう。下山したら、腕を負傷している英守と、病院に行かないと。
「たぶん足音だと思う」
英守が身振りも使って、静かに補足する。声を潜めている分聞き取りにくいが、近くにいるため、ギリギリ分かる。
「―――お父さんが追いかけてきたのかな」
それだけをやっと呟く。なんだか耳鳴りだけでなく、元々少しあった眩暈も大きくなってきた。下まで歩くのは厳しいかもしれない。お父さんが追いついて来てほしい、という希望が湧く。
―――いや、待てよ。
散々悪意に振り回されたのに、まだ懲りてないのか、と自分の甘さから目を覚ました時、英守が言った。
「お前のところのお父さん強いもんな。降りるまでに、だいぶ時間かかったから、あいつをやっつけて、追いついてきたのかも。上に分かれ道あるから、はぐれないように呼ぼうぜ―――って、大丈夫か?」
足音に耳を澄ませていた英守が、振り向いて狼狽する気配があった。相当、顔色が悪いらしい。
伝えないと。その足音はお父さんであってほしいけど、もしかしたら―――
眩暈が強くて足に力が入らない。前後左右、上下に至るまで掴みどころがない。全く別の世界だ。伝えなければいけないのに、言葉が出てこない。「まずは安全のため様子を見よう」その一言だけでいいんだ。その一言だけ話させてくれ。僕はどうしてしまったんだ。混乱をしながらも、懸命に声を発する。
「あ、あー、あ、うぅあ……」
なんで声が出ない⁉とにかく隠れないと‼
意志とは反して、言葉が出ない。明らかに意味を成していない。
英守のシャツを握らなければ、すぐに倒れてしまいそうだ。ここにいて、もしお父さんではなく、あいつが来たら、次こそ殺される。
「おいゴール!どうしたんだよ⁉」
英守は達成の肩を掴み揺すった。
馬鹿!声が大きい!くそっ、心の中では文句を言えるのに、全く話せない。出るのは「あー」や「うー」だけ。ヤバイ。シャツを掴んでいる手にも、力が入らなくなってきた。
隠れろ。隠れろって。気持ちだけが焦る。伝えないと、という一心で、達成はシャツを手繰り寄せ、何とか英守の首に腕を回した。そのまま一緒に倒れ込む。直後、急激な吐き気とともに、意識が吹っ飛んだ。




