第2話「とりあえず、入居した」
引っ越し当日の朝、さつきにメッセージを送った。「今から出る」。書き直しゼロで送れた自分を表彰したいけど、賞状を用意する気力はない。先週の内見でオーナーの顔を見て即決してしまったから、今日がもう入居日だ。もうあの部屋にいたくない気持ちの方が、文面を推敲する気力より勝った。
さつきの返信は早かった。「気をつけてね。落ち着いたら遊びに行く」。絵文字つき。あたしは三十秒くらいその画面を見つめて、絵文字一個分の体力が戻った気がした。気のせいでも、玄関までは持ってくれれば十分だと思って、スマホをポケットにしまい込んだ。
荷物はスーツケースひとつ。ゴシック系のパーカーを羽織って、フードを被る。家具は先週のうちに処分した。人の顔色を読むのに体力を使いすぎて、物の行き先まで考える余裕が最後まで出なかった。
玄関で振り返る。何もなくなったワンルーム。壁が薄くて、隣の音が気になって、何度練習しても「すみません」が言えなかった部屋。裏アカに投稿した。
『引っ越し当日! 何度練習しても「すみません」不発のまま卒業です。次のステージ、難易度上がってる気がする……これチュートリアル戻れないやつでは?』
一分でいいねが四件。その中に、いつもいいねをくれるあのアカウントもいた。
ドアノブに手をかけたまま、もう一度だけ部屋を見渡す。それから、もう来ないこの部屋のドアを閉めた。
* * *
歩いて十五分くらい、住宅街の角を曲がると瓦屋根の二階建てが見えた。木の外壁と少し色あせた壁が築何十年の年季を感じさせるのに、手入れだけはきちんと行き届いている。手書きの表札に「こもれび」。玄関の横に植木鉢が並んでて、枯れてないけど元気でもない。中途半端の見本市みたいで、なぜか親近感がわく。
庭が広い。大きな木が一本あって、葉の隙間から光が漏れてる。こもれびって、これのことかな?
フードを下ろして深呼吸。カフェの前に立つ時と同じ要領で、声のトーンを上げて、表情筋を起こす。
「すみませーん! 今日から入居の宵原です! 元気、先行搬入完了しました! 本体は破損なし、取扱注意、よろしくお願いしまーす!」
引っ越し先でも笑顔は鎧。
玄関のドアが内側から開いた。先週の内見でも会った、オーナーの藤崎なつめさん。スウェットにマグカップ片手、四角い眼鏡、肩までの髪、すっぴん。あたしの元気なあいさつに、穏やかに、でもテンションは合わせずに応じてくれる。
「取扱注意の自己申告って何。本体もちゃんと中まで搬入するようにね」と、藤崎さんが小さく笑いながら玄関の奥を指した。
二十代後半くらい。妙に普通の印象で、スウェットにマグカップという組み合わせが日曜の朝みたいだった。あたしの中の警戒レベルが少し下がる。
「荷物それだけ? 身軽だね」と藤崎さんが玄関のドアを広く開けてくれた。
「あ、はい! 荷物は少なめで、挨拶の方を多めに持ってきました!」と返して、心の中で「物に回す余力がないだけです」と補足した。
玄関で靴を脱ぐ。藤崎さんのシンプルなスニーカーの横に、きれいに揃えられた白いパンプスと、少しくたびれたスニーカーが並んでいる。二人分。あたしの黒いショートブーツを横に置いたら、ちょっとだけ浮いた。
藤崎さんのあとについて廊下を歩く。内見で一度通ったはずなのに、外の佇まいとのギャップは二度目でもまだ面白い。畳や土間はどこにもなくて、木のフローリングと白い壁ですっきり仕上げられている。リビングにはソファと四人掛けのテーブルが見えた。棚の上に写真立てが一つ置いてある。
「おばあちゃんの家で、表札はそのまま。一人じゃ広すぎて、シェアハウスにした」と藤崎さんが玄関の方を親指で示した。
中に入ってから見る手書きの表札は、賃貸サイトの物件とは違って、誰かが暮らした気配を残していた。少し肩の力が抜ける。
「一緒に住むなら、家族みたいなものだし、家の中では藤崎さんじゃなくて、なつめでいいよ」と藤崎さんが続けた。
「じゃあ、なつめさんで」
「うん、その方が楽」
「キッチンとお風呂は共有ね。冷蔵庫は自分のスペースにラベル貼ってもらえると助かる」となつめさんが説明してくれた。
ラベル付けは好きな作業の上位に入る。冷蔵庫の中身を整理してる時だけ世界が静かになる。いや、初日から「冷蔵庫のラベル任せてください!」とか言ったら引かれるから言わない。
「はい、ラベルは貼ります! 文字が整列すると、頭の中まで並ぶ気がするので!」と反射で返してしまった。
「相当好きなやつだね、それ。今ので冷蔵庫担当にしたくなった」となつめさんが小さく笑った。
返事の熱量でバレた。冷蔵庫の平和がかかる話には弱い。
「あと、応募の時にも書いたけど、この家、入居したら一人ひとつ役割を持ってもらってるの。掃除とか買い出しとか、料理とか」となつめさんが続けた。
役割って、シェアハウスなのに急に当番表みたいな単語が出てきた。
「できないことは無理しなくていいよ。私がやるか、できる人がやるから。何もしない人だけは、退去してもらうかもってだけ。普通のシェアハウスって、そこが一番荒れるし」
それはちょっと安心した。全部できますって顔で入って、初日で破綻する未来が見えてたから。
「住人、確か今は二人でしたよね?」と、一応確認のつもりで改めて聞いた。なつめさんがマグカップのコーヒーをひと口飲んでから答えた。
「そう、今二人。ねむちゃんが入って三人目、私を入れて四人」
「その顔になるよね。中に入ってから数え直すと、一回だけ不穏になるの分かる」となつめさんが続けた。
内見でも聞いた数字なのに、中に入ってから数え直すと一瞬だけ身構える。でも、なつめさんが先に言ってくれたので、少しだけ救われた。
「みんな個性的ではあるけど、悪い子たちじゃないから」となつめさんが苦笑いした。
個性的、と言って普通とは言わなかった。求人票で「アットホームな職場です」と書いてあるやつと同じ匂いがする。少し気になる。
なつめさんがリビングの写真立てをちらっと見た。「前は人の出入りが多かったから、静かすぎると落ち着かなくて」
感情を盛らずに事実だけ置く。この人はそういう人だ。あたしとは正反対。
「ねむちゃんは、前はどこに住んでたの?」
「近所のワンルームです」
「そっか。ワンルームからシェアハウスって、結構変化大きいよね」
「そうですね」と笑顔で返した。言えなかったことも、壁越しの音が怖かったことも、ここでは飲み込んで笑うしかない。なつめさんはそれ以上聞かなかった。メールに書いてあった通り、「事情は問いません」の人だ。
「部屋は二階の角部屋ね。案内するよ」
階段を上がってすぐ、廊下のいちばん手前のドアが薄く開いていた。そこからアニメの音声が微かに聞こえる。
ちらっと見えた部屋の中が、紫色だった。壁にポスター、棚にフィギュア、天井から何かぶら下がってる。内見の時は閉まっていて覗けなかったドアが、今日は半開き。中身の情報量が想定外だ。一瞬で視界が紫に染まって、あたしは思わず足を止めた。
「他の住人は今度紹介するね」となつめさんが振り返らずに言った。
今度、ってことは今日は会わない前提らしい。どんな人なんだろう。さっき見えた紫だけで十分情報量が多いのに、中身まで濃かったら心臓がもたない。なつめさんがもう先に歩いているので追いかける。
角部屋の前に着く。なつめさんがドアを開けてくれた。
部屋自体は内見の時のままだった。ベージュの壁、フローリング、何もない机と棚。ホッとしたら、机の上に小さな包みと白いカードが置かれていた。
「あの、これ——なつめさんが、ですか?」と聞いたら、なつめさんの表情が微妙に変わった。困惑と諦めの中間みたいな顔。
なつめさんは包みを見て、息をついた。「こういうことするのが好きな子がいるんだよね。入居祝いだと思うから、気にせず受け取ってあげて。いつ置いたんだろ。善意なんだけど、届き方がたまにホラーなんだよね」
「見てもいいですか」と一応聞いたら、「うん、ねむちゃん宛でしょ」と返ってきた。
カードには「入居おめでとう」とだけ書かれていた。差出人なし。包みを開ける。出てきたのは、ピンクのフリル付きレースポーチ。黒のリボン付き、内布も黒。あたしが買うか迷って、棚に戻したやつだ。
あの系統の店にありそう、くらいなら分かる。でもその中で、あたしが戻した方まで当ててくるのは別だ。
なつめさんが息をついた。「前に私も置かれたけど、好みのもの入ってるんだよ。何で知ってるんだってなるよね」
包装まで丁寧すぎて、逆に怖い。
ポーチ自体はとびきり可愛い。でも、受け取るには一拍ためらった。感情が渋滞してる。
なつめさんが「何かあったら一階にいるよ。今日はずっと仕事してるから」とマグカップを持って降りていった。
* * *
一人になった部屋で、スーツケースを開けた。荷物を棚にしまいながら、視界の端で机の上のポーチがチラつくたび、口元が勝手に緩む。
窓の外の木もきれいだった。前のアパートは隣のビルの壁しか見えなかったから、葉の影が揺れてるだけで少し呼吸が楽になる。
一通り荷物の整理が終わってから、一階に降りてキッチンを覗いた。なつめさんがマグカップに飲み物を入れていた。
「あ、ねむちゃん。キッチンは自由に使ってね。調理器具はここにあるから」
「ありがとうございます! あの、さっき言ってた役割って、あとで相談して決める感じですか?」
「うん。今は私が空いてるところを埋めてるだけだから。朝の簡単なごはんとか、共用部の掃除とか、買い出しとか。料理できる人は普通に神。ねむちゃんができそうなのがあれば助かる。無理にすぐ決めなくていいけど」となつめさんが言って、マグカップを置いた。
役割分担がある家。ちょっと変だけど、全員で暮らすならその方が平和かもしれない。料理ならたぶんできる。でも初日に「朝食担当やれます!」は就活の自己PRみたいで嫌だ。落ち着け、まだ入社初日ですらない。もう少し様子を見る。
冷蔵庫を開けてみた。中は各自のスペースに分かれていて、ラベルはない。誰のスペースに何が入っているのか、あたしには分からないし、たぶん住人同士も曖昧に管理している。
引き出しにあったマスキングテープを少しだけ借りて、自分の段に小さく「宵原」と貼った。他の人のスペースまでは触らない。そこまでやり始めるのは三日目くらいからでも十分早い。
「もう貼ったんだ。仕事が早いね」となつめさんが少し笑った。
小さく頷いた。自分の名前が冷蔵庫の一段にあるだけで、この家の中に自分の場所がちゃんとできた気がした。
また自室に戻って、さつきにメッセージを送った。「入居先の部屋の机に入居祝い置いてあった!! 差出人不明!! 中身まんま好み!! 何で!! 怖い!!」。事実を報告するだけなのに、返ってきたのは「差出人不明でまんま好みって何??? 普通に怖い」だった。
裏アカを開いて投稿する。
『新居に着いた。机に入居祝いのポーチが置いてあった。差出人不明、中身がまんま好み。観察力ゴリゴリすぎる案件……! 怖い。でも可愛い。怖い!』
スマホを伏せて机に置いた。改めて、机の上のポーチを手に取る。
ピンクのフリルに黒のリボン、内布も黒。あたしがよく見てるブランドの、ずっと狙ってた配色だ。フリルの段もレースの透け感も、見るたびに指が伸びる。
可愛い。何度見ても、可愛い。
とりあえず入居できたし、部屋の整理もできた。冷蔵庫の一段にも名前を貼った。今日のあたしは、ここで店じまい。
ベッドに倒れ込んで、真っ白な天井をぼんやり眺めた。辿る木目もシミもない。肩と背中に入っていた力が、やっと抜けていく。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
なつめさんは仕事中で一階から動かない。ご飯にもまだ早い。ということは、まだ会ってない住人——机にこのポーチを置いた誰かが、二階まで上がってきた。
足音が、止まった。あたしの部屋の前で。




