第1話「もう無理、引っ越す」
午前二時、あたしは友情の葬式を執り行っていた。
喪主はあたし。参列者もあたし。死因は、今日一日、さつきのメッセージに絵文字が一個もついていなかったこと。
普通の人はそこで一回返事をして寝る。でもあたしは寝ない。さつきから届いた五文字のメッセージを前に、四十分かけて九回下書きを作った。たった五文字の返事に四十分。時給換算したら大赤字だけど、誰にも請求できない。
問題は絵文字だ。最後に届いた「明日ひま?」にもハートがない。句読点もなくて、疑問符だけ。しかも今日のさつき、昼の「りょうかーい」にも、夕方の「いま大学出た」にも、絵文字が一個もついていなかった。さつきの過去メッセージを遡ると、ここ二週間、一日まるごと絵文字が消えた日はなかった。なのに今日はゼロ。ゼロって、数字にすると冷たい。
つまりあたしは嫌われた。
いや待って、深呼吸。まだ葬儀場を押さえるには早い。八回目の下書きは「明日あいてるよ! どうした?」で、そのあとに絵文字をつけようとして手が止まる。にこにこ顔は距離を感じるし、ハートは重いし、猫は意味不明だし、泣き笑いはテンションが合わない。絵文字のセレクト画面を二分くらい見つめるって、人類として根本的に間違った時間の使い方だと思う。
にこにこ顔で送信した。
したんだけど、今の「どうした?」は探りすぎた気がした。こっちは今日一日、絵文字ゼロに怯えてたのに、急に事情聴取みたいになるのも違う。そう思って送信取り消ししたけど、通知はもう飛んでる。「宵原ねむがメッセージの送信を取り消しました」って相手の画面に出てるわけで、何を書いて消したのか気になるに決まってる。送信取り消しは「気になってください」ボタンじゃないのに、あたしはたぶん、少しそういう使い方をしてる。
九回目、「明日あいてるよー!」だけ送った。絵文字なし。にこにこ顔ひとつに二分くらい悩んだ結果がこれ。人間、悩み抜いた末に雑になることがある。
既読がつかないまま六分が経って、あたしはスマホを枕の下に埋葬した。でも十秒後には掘り出していて、まだつかない既読を見ながら、さつきは寝てるんだろうなと思う。普通の人は午前二時に友達の絵文字を曜日別に統計したりしない。分かってるけど、考えるのが止まらない。
裏アカを開く。フォロワーは三百人ちょっとで、表のあたしを知ってる人は誰もいない。
『本日の戦績:下書き九回、送信一回、取り消し一回、所要時間四十分、情緒ジェットコースター案件。え、時給換算したら時給マイナスじゃん……!? 閉店間際の半額弁当の気持ち、ガチで分かるんだけど! 誰かに必要とされたい、でも定価では買ってもらえない。半額シールください。もう半額でいい。友情の告別式、香典はいいねで受け付けます。お気持ちだけでも。』
三十秒でいいねが二件ついた。一件はいつもの常連——中の人は知らないけど通知欄でいちばん見るアカウント。知らない人からの「分かる」、これがあるからあたしは今日もダメな自分を面白く書いてしまう。自虐が上手くなるほど承認が増えるっていう、たぶん世界で一番歪んだ自己啓発。
* * *
翌朝、鏡の前でメイクを仕上げる。仕事用なので普段より控えめだけど、涙袋だけは譲れない。ここを手抜きすると一日のテンションが上がらない。
ゴシック系のパーカーを羽織ってフードを被る。チェーンがじゃらっと鳴って、鏡に映るのは全身黒の塊。この格好のまま歩いて数分の個人経営のカフェに向かう。
更衣室でパーカーを脱いで制服に着替えた瞬間、スイッチが入る。
「おはようございます! 宵原、本日も愛想を大量入荷して入りまーす!」
三秒で別人になる。声のトーンが二段階上がって、表情筋が全部起動して、さっきまでの黒い塊とは別の生き物。日本で五番目くらいに嘘がうまい笑顔だと思う。
「おはよう、宵原さん。今日もよろしくね」
店長は穏やかな三十代の女性で、この店を一人で切り盛りしている。あたしの派手なメイクにも黒い格好にも「個性があっていいじゃない」で済ませてくれる人。ありがたい。この店でだけあたしは元気で有能な「宵原さん」でいられる。
「いらっしゃいませっ! 今日のおすすめはマロンラテです! 人生がちょっとしょっぱい日に、かなり効きます!」
ほんとは店員が言うことじゃない。でも言った。お客さんは一瞬きょとんとして、それから笑って「じゃあ、それで」と頷いてくれる。おすすめが通った。元気って、たまに勢いで合法になる。
カップを取るために背を向ける三秒だけ、客席からは顔が見えない。その隙にスマホを見ると、既読だけついていた。返信はない。未読よりそっちのほうが怖いのに、振り返る頃には「お待たせしました!」って言えてしまう。
シフト終わり。店長に「来週のシフト、先に作っておきました!」と渡したら「助かるー、ほんと宵原さんがいないと回らないよ」って言われて、脳内で紙吹雪が舞った。もっと言って。もっと言って。
「あとこれ、クッキー焼いてきたんです! 店長のはナッツ入りにしました!」
店長が包みを開けて目を丸くした。
「えっ、嬉しい! ありがとう宵原さん!」
今朝四時に起きた甲斐がある。二人分、好みに合わせて焼き分けた。店長にはナッツ入り、もう一人のバイトの後輩にはプレーン。
後輩の月白あめちゃん。高校二年生のバイト仲間で、なぜかカフェでのあたしを本気で尊敬してくれている。家でのあたしを見たら泣くと思う。
そのあめちゃんが、あたしより先にシフトが終わっていた。更衣室にクッキーを置いておいたんだけど、「お疲れっすー!」と裏口から走って帰っていった。棚の上のクッキーには気づかないまま。
くすみベージュのリボン。プレーン味。今朝四時にオーブンの中で輝いてたクッキーが棚の上で忘れ去られている。クッキーの気持ちになってみてほしい。あたしか? これはあたしか?
カバンにしまった。あめちゃんにはまた焼いてくるとして、このクッキーは誰かにあげよう。一度忘れられたクッキーを本人に渡すのは、あたしのプライドが許さない。
* * *
更衣室でパーカーを羽織り直して黒い塊に戻る。店を出たら、さつきが立っていた。
「ねむー! おつかれ!」
「あ、さつき! おつかれー! わざわざ来てくれたの!? ありがとう!」
スイッチが入ったまま声が跳ねる。でもさつきの顔を見た瞬間、すとんと力が抜けた。この子の前だと、鎧を着続ける理由がなくなる。
「……ねむ、顔暗い。返信のこと? また一人で悩みすぎたんでしょ」
図星だった。さつきはいつもこうだ。顔を見ただけで全部分かる。
「……絵文字がなくて」と小さく言ったら、さつきが呆れた顔をした。
「それで嫌われたとか思ってるの?」
「思ってないけど」と答えたら、さつきが半目になった。
「思ってる人の『けど』じゃん」
「ていうかあの時間に送信取り消しされたらこっちも気になるんだけど。何書いたの」
「……にこにこ顔つけて『どうした?』って送って、探りすぎかなって消した」
「『どうした?』で事情聴取になるの、ねむだけだよ」
「送信取り消しされたら、そりゃ気になるからね」
「……それは、まあ」
「今の間でほぼ自白だったよ」
さつきが笑った。あたしも少し笑った。この子の前だとスイッチが中途半端な位置で止まる。表でも裏でもない、ちょうど面倒くささの真ん中くらい。
「あ、そうだ。これ、よかったら」
カバンからクッキーの包みを出した。あめちゃんに渡すはずだったプレーン。
「え、手作り? また焼いたの?」
「余っただけだよ」と言ったら、さつきが包みを受け取りながら目を細めた。
「嘘。ねむの『余っただけ』は百パー誰かのために焼いてる」
「ねむはさ、もうちょっと肩の力抜いていいと思うよ」
「抜いてるけど」と返したら、さつきがクッキーの包みを軽く持ち上げた。
「午前二時に友情の葬式して、朝四時にクッキー焼いてきた人が? それ、もうだいぶ面白いから」
何も言い返せない。
「……てか、寝てる?」
からかう調子のまま、さつきがこっちの顔を覗き込んできた。
「寝てない」と素直に答えたら、さつきが包みを軽く振った。
「だろうね。ちゃんと寝なよ、マジで。……あと、返信の件だけど」
さつきの声のトーンが少しだけ低くなる。
「『どうした?』くらいで別に何とも思わないし、ちょっと面倒な日はあるけど、にこにこ顔消したくらいで嫌いになんないよ。ねむ、そういうとこで勝手に減点しすぎ」
さつきの「何とも思わない」は嘘じゃない。この子だけはそれが嘘じゃないと分かるから、どういう顔をしていいか分からなくなる。
* * *
帰ってきた。パーカーのフードを被り直してスイッチ完全オフ。冷蔵庫を開けたら消費期限が明日の食材が三つもある。あたしが精神的に終わっていても冷蔵庫の中身は待ってくれないから、死んだ顔のまま完璧な作り置きを仕上げる。包丁さばきだけは感情に左右されない。この几帳面さを就活の自己PRに書けばよかった。「精神崩壊時でも冷蔵庫の在庫管理を継続できます」って。……確実に落ちるな。
さつきからメッセージが来てた。「クッキーおいしかった! 明日駅前のカフェでいい?」。ちゃんとクッキーのことを書いてくれていて、少しだけ気が軽くなった。
保存袋にマジックで日付を書いていると、隣の部屋からテレビの笑い声が漏れてきた。壁が薄い。あたしはこの壁に向かって「すみません、少し音量を」と言う練習を七回やったのに、一回も言えてない。接客コンテストの練習より真剣だったのに、前のアパートでも同じだった。結果だけは学習済みで、あたしには言えない。
それに、壁は双方向だ。深夜に作り置きをしていたら、まな板を叩く音に合わせて壁がコンと一度鳴った。それ以来、包丁を置くのも音を殺してやっている。音が気になって引っ越すんじゃない。料理するだけで誰かの神経を使わせる生活に、もう気力がもたない。
裏アカを開いて投稿する。
『帰宅後:冷蔵庫の消費期限チェック3分→作り置き20分→隣人のテレビに7回抗議の練習→0回実行。抗議力、打率ゼロで詰み! あたしの行動力、冷蔵庫の前でだけ覚醒するタイプ。それ以外は省エネモード。永久に。』
一分でいいねが三件ついて、そのまま検索窓に「一人暮らし 限界」と打ち込んでた。
検索結果に並ぶのは、あたしと同じようなことを書いてる人たちの投稿だった。壁が薄い、隣の音が気になる、一人が辛いのに一人でいたい。分かる。全部分かる。あたしだけじゃなかった。
その中に「シェアハウスに引っ越したら楽になった」という投稿があった。一人暮らしが限界で、でも実家には帰れなくて、シェアハウスにしたら自分から話しかけなくてもキッチンで自然に会話が生まれた、と。
シェアハウス。壁の向こうどころか同じ屋根の下で他人と暮らす。無理のインフレが止まらない。でも「自分から話しかけなくても」という部分が引っかかった。あたしが七回練習しても言えないことを、シェアハウスという構造が代わりにやってくれるなら。
近所のシェアハウスを検索してみたら、一件だけ出てきた。
『女子限定シェアハウス 格安 事情は問いません』
「事情は問いません」。その一行が妙に救いに見える。事情を聞かれない家なら、あたしみたいな面倒くさい人間でも入れるってことだろうか。あるいはワケありが集まる家、という意味だろうか。どっちでもいい。今のあたしには、聞かれないという一点だけで十分だった。ブックマークだけして閉じた。
翌日も見た。その翌日も。フォームを開く、画面を見つめる、閉じる、ブラウザごと落として寝る。二日連続で同じ動作をやって、新しい習慣ができてしまった。友達への返信に四十分かかる人間が、シェアハウスへの問い合わせなんて何日かかるか分からない。
結局、五日目の深夜。フォームを開いたまま画面を見つめていたら、親指がふいに送信ボタンに触れた。あ、と思った時にはもう送信済みだった。
送った後は眠れなかった。変なこと書いてなかったか、名前の漢字間違えてないか、そもそも送るべきじゃなかったんじゃないか。スマホを何度も開いて閉じてを繰り返して、うとうとし始めた朝方に通知が光る。
普通の文面が来た。お問い合わせありがとうございます、ご希望の日時をお知らせください。こっちが五日かけて勝手に盛り上がってただけで、向こうからしたら普通の業務連絡。五日間も悩んでた自分、ちょっと馬鹿だったかも。
『明後日の午前十時でお願いします』、たったそれだけの返信に三回書き直した。どうにか送信したら三分で『承知しました、お待ちしております』が戻ってきて、五日悩んだ問い合わせも向こうはたぶん同じテンポで捌いてた。世界の速度が違いすぎる。
安心した勢いで、裏アカに一行だけ投げた。
『勢いでシェアハウスに問い合わせた……! 人生の送信取り消し機能、ください……!』
画面を閉じたら、カーテンの隙間が明るくなっていた。五日間悩んで、向こうにしたら数分。これから始まる生活も、きっとそのくらい呆気なくて、そのくらい予測不能。
内見は明後日の朝。知らない屋根の下に知らない他人が何人いるのか、考えだしたらまた眠れない。たぶん確実に。




