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第3話「朝食は、未知の味」

コン、コン。


 控えめなノック音で、心臓がばくばく鳴り出した。ドアの向こうに誰かが立っている。手のひらに汗。息を止めて数秒、考えかけた時だった。


 ドアの向こうから、やわらかい声がした。


「こんばんは。ちょっといい? なつめさんに部屋を聞いて、お茶淹れてきたんだけど。飲めそうなら、少しだけでも」


 初対面のはずなのに、何年も一緒に住んでる人みたいな声がする。


 恐る恐るドアを少し開けた。廊下に立っていたのは、白いカーディガンの住人だった。丸眼鏡をかけて、ゆるい茶髪で、やわらかい笑顔。病院の受付にいそうな見た目で、手にはマグカップ。さっきまでの警戒が、ちょっと気まずい。


「初めまして。隣の部屋の纏井(まとい)るいです」


「あ、こんばんは! 今日入居した宵原です! よろしくお願いします!」


 カフェ用の声が勝手に出た。心臓はさっきまで跳ねっぱなしだったのに、口だけ全力で営業してる。


 るいさんはマグカップを差し出した。「カモミール。引っ越しの日って、眠りが浅くなりやすいみたいだから」


 なんでそこまで気が回るんだ。この人は優しいのか、優しすぎて別の生き物なのか、まだ判別できない。


 あたしは差し出されたマグカップより先に、「あの、机にあったポーチ、もしかしてるいさんですか?」と聞いた。


 るいさんは少しも迷わず頷いた。


「うん。ねむちゃん、黒とピンクが好きそうだったから」


 答え合わせが早い。もっと段階を踏んでほしい。せめて少しは迷うふりをしてほしい。


「えっ、なんで好み分かったんですか!?」


「なんとなく、ね」とるいさんが嬉しそうに微笑んだ。


 「なんとなく」で、そんな精度を出さないでほしい。それ、もはや「なんとなく」じゃない。


 階段の下から足音がして、なつめさんが廊下に現れた。


「るいちゃん、それ、普通に怖いよ。入居初日でやる距離感じゃない」となつめさんが言う。


「いえ、気になったので。好みに合ってなかったら、今日ちゃんと眠れないなと思って」とるいさんは首を傾げた。


「悪意がないのが一番説明しづらいんだよね……」と、なつめさんが遠い目になってから、あたしに向き直った。


「あ、ねむちゃん。今夜、仕事で夕食作れなかったから、各自で。ごめんね」


「いえ、もう済ませてます」


 るいさんは気にした様子もなく笑ったまま、マグカップをあたしに持たせた。温かいし、香りも落ち着く。舌だけ先に白旗あげた。残りのあたしは、まだ戦闘中。


「ついでに、朝ごはんは普段から私が作ってるから、ねむちゃんも明日から食べるでしょ」となつめさんが言った。


 るいさんの笑顔が、半拍、止まった。あたしから見えたかどうかは分からない。でも、たぶん止まった。


「あ、はい、よろしくお願いします」


「明日もなつめさんの朝食ですね」とるいさんが穏やかに笑った。笑っているのに、目の温度が半拍だけ下がった。


「いつも通りね。明日もレシピ見ながら作るよ」となつめさんが頷いた。


「はい。毎朝ちゃんと目が覚めます」


 るいさんの敬語が、普段の優しさより一段だけ平らだ。朝ごはんの話にしては、声が少しだけ冷たい。


「るいちゃん、朝ごはんの感想として、ちょっと怖いんだよね」となつめさんが眼鏡の奥で目を細めた。


「はい、知ってます」とるいさんが微笑んだ。


 含みがすごい。初日の夜にこの匂わせを聞かされて、あたしは明日の朝に何を覚悟すればいいのか分からない。毎朝なつめさんの朝食を食べてる住人が、ああいう顔になる理由だけは分かった。


「じゃ、仕事戻るね」となつめさんが言って、階段を下りていった。


「片付けの邪魔しちゃうから、部屋戻るね。また明日、ねむちゃん」とるいさんが微笑んだ。


「はい、ありがとうございます」


 るいさんが隣の部屋のドアを静かに閉めた。あとに残ったのは、カモミールの香りだけ。


* * *


 ベッドの端に座ってカモミールを飲んだ。普通に美味しい。お茶を淹れてくれる隣人って、当たり物件かもしれない。


 一口飲むごとに肩が落ちていって、そのまま少しだけ目を閉じた。次に時計を見たら、二時を回っていた。気疲れが勝った。お腹が軽く鳴いたけど、今から何か作る気力はない。


 ベッドに倒れ込んで、さつきへのメッセージ画面を開いた。「今日、隣の人と会った……」まで打って消す。「隣人、推察力がバグっ……」まで打って、また消す。下書き三回、送信ゼロ。


 深夜に送る長文なんて、翌朝の機嫌を殺す迷惑メールでしかない。今日のあたしにできるのは、下書きの供養だけ。


 裏アカを開いて投稿する。


『新居の隣人、推察ガチ勢だった件……! 好みを初手で当てられて心臓が先に引っ越した。カモミールは美味しい。明日の朝食、何が出てくる……?』


 すぐにいいねが二件ついた。そのうち一件はいつもの常連。見守られてるの、家の中だけで十分なんだけど。


 るいさんの「なんとなく、ね」が、耳の奥で一周だけ再生された。一周目は寝かしつけの子守唄で、二周目からは勝手に再生ボタンが押される。「なんとなく」の精度、寝る前に答え合わせの機会をくれてもよかったのに。


 スマホを伏せた瞬間、廊下で誰かが動く気配がした。軽い足音、それからドアが閉まる音。方向からして、たぶん隣の隣の部屋の住人。この時間でも起きてるらしい。顔も名前もまだ知らないのに、生活リズムだけ先に把握した。


 歯磨きだけ済ませて、ベッドに潜り込む。風呂キャン。初日から終わってるけど、今からシャワーを浴びる気力がない。朝シャワーでいい。アラームは設定しない。体はカフェのシフトで五時半起きに慣れてる。明日は休みだけど、朝食が気になるから、寝る。


* * *


 五時半、体が勝手に目を覚ました。朝のカフェシフトで染みついた生活リズムは、布団への未練に勝てる。


 まず風呂場に直行した。朝食の前に、シャワーだけ先に済ませたい。熱すぎないお湯を浴びたら、眠気は少し剥がれた。


 洗面台の鏡を見た。前髪は無事。でも目の下には、初日の気疲れが地層で残ってる。シャワーでどうにかなるのは眠気までらしい。昨日の自分を責める体力もない。冷たい水で目元だけごまかす。


 乾いた黒のルームウェアに着替えて、洗面所を出る。


 風呂・洗面はキッチンのすぐ隣だ。ドアを開けた瞬間、まな板の音と、だしっぽい匂いがした。あたしがシャワーを浴びてる間に、なつめさんが朝食を作り始めたらしい。


 キッチンを覗いたら、なつめさんがレシピ本を広げて真剣な顔で菜箸を持っていた。四角い眼鏡をかけて、寝癖もそのまま、たぶんすっぴん。


「あ、ねむちゃん。早いね」となつめさんが振り向いた。


「おはようございます! お手伝いしましょうか?」と聞いたら、なつめさんが軽く首を振った。


「ありがと。でもレシピ通りに作ってるから、一人で大丈夫だと思う」


 言われるまま、あたしはリビングのソファに座って少し待った。


 テーブルに並び始めた朝食を見た瞬間、あたしの表情筋は全員勤務を拒否した。


 ご飯の色がどこか黄色い。味噌汁の具は判別できない固体状。卵焼きは、焼いたというより焦げと生焼けのハーフアンドハーフ。なぜか煮物の小鉢まで付いている。


 三人分しかない。一人分足りない、と思ったら、なつめさんが言った。


「一人は朝ごはん食べないの。夜型だから」


 そういえば、二時過ぎにも廊下で足音がしていた。朝に起きてこないなら、生活リズムはかなり逆らしい。朝の食卓には、最初から一人分だけ空きがある。


 廊下の方からるいさんが現れて、小さく挨拶してから椅子にそっと座った。


「おはよう、朝ごはんちょうどできたところ」となつめさんが言って、三人で「いただきます」と声を揃えた。


 るいさんがあたしを横目で見た。目が微笑んで、口元も穏やかで、でも目の奥で何かを伝えようとしている。たぶん「覚悟して」。やわらかい顔で、本気の忠告だけ置いてくる視線だ。


 味噌汁を一口。


 舌の上で、味の位置情報が迷子になった。しょっぱいのか薄いのか、熱いのかぬるいのか、何と何が混ざってそこに来たのか、一切の情報が届かない。味覚だけ見知らぬ駅に置いていかれた感じがする。まだ帰り道が分からない。


 なつめさんの朝食は、未知の味だった。


「どう?」となつめさんが聞いた。


「……個性的な味ですね」


 個性的、しか出せなかった。おいしいともまずいとも言わずに済む、便利な言葉だ。カフェで鍛えた語彙力、全部ここで使っている。


 るいさんがあたしのお椀をちらっと見て、自分の椀に口をつけた。「はい、今日もなつめさんの味です」


「だから普通だってば」


「はい、普通のなつめさんの味ですよ」とるいさんが繰り返した。


 るいさんの言い方は攻撃じゃない。事実をそのまま、やわらかく出してくる。優しい言い方なのに逃げ場がない。


 卵焼きに進む。最初に甘さが来て、そのあと塩気が追いかけてきた。砂糖と塩が同じ皿で別の話をしていて、出汁はたぶん欠席している。


 ご飯は黄色い。たぶんバターが関わっている。白米にバターを持ち込んだ理由、レシピのどの行に書いてあったんだろう。


「……あれ? 砂糖と塩、もしかして」と、なつめさんが自分の卵焼きを一口食べて、ぼそっと呟いた。


「レシピ通りだから、たぶん」と自分で即答した。


 語尾の「たぶん」で、なつめさんの「レシピ通り」が一瞬だけぐらついたのを、あたしは聞き逃さなかった。


「なつめさん、あの」


 口が勝手に動いた。お椀を置く手に、ちょっとだけ力が入る。これ以上は、あたし一人の感想で済ませちゃだめだ。この家の胃袋、たぶん今が分岐点だと思う。


「明日からの朝ごはん、もしよかったら、あたしが担当してもいいですか」


 なつめさんが一瞬だけ目を丸くして、それからちょっと照れたみたいに笑った。


「え、いいの? 助かる、正直。私、レシピ通りにやっても家庭科で百点取れないタイプで」


 告白が重い。それ、レシピの読解力に問題がある可能性を先に検討してほしい。


「ねむちゃんにお願いしましょう。そっちの方が絶対いいです」とるいさんが頷いた。


 なつめさんは自分の卵焼きを見て、それから味噌汁をもう一口飲んだ。悔しそうに少しだけ眉を寄せたけど、否定はしなかった。自分で作って自分で食べた以上、今回は認めるしかないらしい。


「じゃあ、今日のお昼お願いしていい? よさそうなら、朝と夜のごはんもお願いしたい。今ほぼ私が作ってるから、一人増えると助かる」となつめさんが言った。


「冷蔵庫見て決めてもいいですか。足りなければ買ってきます」


「うん。共有分は立て替えで、レシート渡してくれたら払うよ」となつめさんが頷いた。


「お昼、何がいいですか」


「私は生姜焼きとか、普通の昼がいい」となつめさんが言う。


「私は作りやすいもので。味噌汁は飲みたいです」とるいさんが笑った。


 昼で決まる。役割ができれば、この家にも馴染みやすい。責任は重い。でも、やる理由は十分だ。


 あたしは箸を置いた。先に冷蔵庫を見て、足りないものは駅前で買う。


 問題は二つ。もう一人の分も、みんなと同じでいいのか。そして寝起きの前髪だけは、気合いでどうにもならない。

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