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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第二部 八月、台北

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9/16

第九話 台北

 飛行機を降りても、草野浩の人生は特に変わらなかった。


 入国審査でパスポートを出し、預けていない荷物を肩にかけて歩き、案内表示に従って空港の到着ロビーまで出た。そこにはコンビニがあり、両替所があり、スマートフォンを見ながら誰かを待つ人がいた。


 もっと「外国へ来た」という瞬間があるものだと思っていた。


 飛行機の扉が開いたときかもしれないし、入国審査のスタンプかもしれない。知らない言葉に囲まれた瞬間、胸の中で何かが鳴るのかもしれない。


 実際には、機内であまり眠れなかったので眠かった。


 台湾は暑かった。


 東京も暑かったので、その点でも大きな感動はなかった。


 浩は到着ロビーの端で立ち止まり、スマートフォンを確認した。通信は普通につながった。林以安から一時間ほど前にメッセージが来ている。


〈着いたら自分で市内まで来て〉


 その下に、乗る電車と降りる駅が書いてあった。


〈迎えに行かないって言ったからね〉


 念押しまでされている。


〈了解〉


 浩は返した。


 すぐに既読がついた。


〈本当に着いた?〉


〈着いた〉


〈台湾に?〉


〈他にどこがあるの〉


 しばらくして、


〈信じられない〉


 と返ってきた。


 浩も少しそう思った。


 三日前まで、台北へ行く予定などなかった。


 大学一年最初の夏休み。暇だったので久世征一という教員の資料整理を手伝った。そこに台湾人研究者・林若晴の古い資料があり、その妹の以安が東京へ来て、姉と連絡が取れなくなった。三人でホテルや警察へ行き、若晴が昔関わっていた都市データ企業CIVICAや、K-17という意味の分からない記号を知った。


 その若晴からは、結局、自分は無事だから心配するなという連絡が来た。


 事件は終わった。


 以安も台湾へ帰った。


 浩も下北沢の部屋へ戻った。


 そこまでなら、夏休みのちょっと変わった三日間で済んでいた。


 ところが翌日、以安から若晴の部屋で見つけた資料の写真が送られてきた。


 K-17。


 BKK。


 その数時間後、浩は台北行きの航空券を買った。


 誰にも頼まれていない。


 久世からは来いとも言われていないし、以安からはむしろ来なくていいと言われた。


 だから今、空港で一人だった。


 自業自得である。


 市内へ向かう列車に乗ると、空港の周囲の景色が窓の外を流れ始めた。高架道路、倉庫、マンション、工事中の建物。漢字の看板が多いので、まったく読めないわけではない。しかし読めると思って近づくと、よく分からない。


 浩はそれが面白かった。


 知っている文字で、知らない世界が書かれている。


 向かいの席では、学生らしい女がイヤホンをつけて動画を見ていた。その隣では男が寝ている。親子連れが荷物を足元に置き、子供が何度も窓を指差していた。


 誰も、外国へ来た浩のことなど知らない。


 当たり前だった。


 台北に近づくにつれて建物が増えた。


 浩は何となく、久世の研究室に広がっていた地図を思い出した。台北、バンコク、イスタンブール、ウルク。林若晴はそれらを同じ形式へ押し込み、比較しようとしていた。


 今の浩には、目の前の街が何と似ているかより、駅を降りたあとどちらへ行けばいいかの方が重要だった。


 指定された駅で降りた。


 出口を間違えた。


 地上へ出てから気づいた。


〈着いた〉


〈どこ〉


〈駅〉


〈何番出口〉


 浩は頭上の表示を見た。


〈4〉


 すぐに返事が来た。


〈反対〉


〈まじか〉


〈なんで4から出るの〉


〈知らないよ〉


〈そこで待ってて〉


 五分ほどして、横断歩道の向こうに以安が現れた。


 東京で会ったときとは違い、Tシャツに短いパンツ、サンダルだった。髪も後ろで雑にまとめている。旅行者の格好ではなく、家の近所へ出てきた人間の格好だった。


 信号が変わる。


 以安は道路を渡ってきて、浩の前で止まった。


 しばらく何も言わずに顔を見る。


「何」


 浩が訊いた。


「本当に来た」


「来るって言ったじゃん」


「普通、来ないでしょ」


「航空券送ったじゃん」


「キャンセルすると思ってた」


「なんで」


「冷静になると思って」


「なったよ」


「その結果?」


「来た」


 以安は呆れた顔をして、それから笑った。


「馬鹿じゃないの」


「七万円くらいしたんだけど」


「もっと馬鹿」


 浩は三日前に東京で別れた人間と、外国の駅前で話していることが急に可笑しくなった。


「とりあえず、ホテル行きたい」


「どこ取ったの?」


 浩が予約画面を見せると、以安は住所を読んだ。


「なんでここ?」


「安かったから」


「まあ、行けるけど」


「よかった」


「何が?」


「存在してるホテルで」


「そこから?」


 二人で歩き始めた。


 以安は先に立って案内しなかった。浩が地図を見ながら歩き、間違えそうになると「そっちじゃない」と言う。その程度だった。


 通りにはスクーターが多かった。店の軒下に椅子が出ている。コンビニの前で制服姿の若者が飲み物を飲み、交差点では配送車が無理のある位置に停まっていた。浩が何かを見るたびに立ち止まるので、以安は途中から振り返らなくなった。


「待って」


「普通の道ですよ」


「僕には普通じゃない」


「三日いたら普通になる」


「三日しかいない」


「じゃあ最後まで珍しいね」


 ホテルまでは十五分ほどだった。


 チェックインを済ませ、荷物を置く。部屋は狭かったが、下北沢の自宅と比べれば大して変わらない。違うのは窓の外に知らない看板があるくらいだった。


「これからどうする?」


 ホテルのロビーへ戻ると、以安が訊いた。


「どうするって?」


「台北に何しに来たの」


 浩は答えに詰まった。


「観光」


「それは聞いた」


「じゃあ観光する」


「どこ」


「知らない」


「何が見たい?」


「まだ知らない」


「すごいね」


「だから来たんだよ」


 以安はソファに座った。


「姉の資料を見るためじゃないの?」


 やはりそこは避けられなかった。


「見たいよ」


「姉を探すため?」


「それは違う」


「CIVICAを調べる?」


「それも、別に」


「じゃあ何」


 浩は向かいに座った。


 自分でも説明しづらかった。


 若晴の資料は気になる。K-17も、CIVICAも、久世が話していた都市予測のことも気になる。しかし、それだけなら写真を送ってもらえばいい。久世に訊けばいい。インターネットで調べてもいい。


 飛行機に乗る必要はなかった。


「東京でさ」


「うん」


「若晴さんの資料見てたとき、台北もバンコクもウルクも、全部ただの紙だったんだよ」


「うん」


「でも林さんが来て、若晴さんの妹だって分かって」


「私は最初から妹だけど」


「そういう意味じゃなくて。若晴さんも研究者じゃなくて、お姉さんになったじゃん」


 以安は少し考えてから、「まあ」と言った。


「だから台北も、一回ちゃんと街として見たいというか」


「それ、姉みたい」


「やめてよ」


「姉もそういうこと言います」


「本当に?」


「もっと難しくして言うけど」


 以安は立ち上がった。


「じゃあ歩こう」


「どこへ?」


「その辺」


「観光地?」


「違う」


「何があるの」


「家」


「誰の?」


「私の」


 浩は一瞬、意味が分からなかった。


「え」


「母が、ご飯食べていけって」


「僕が?」


「そう」


「なんで?」


「知らない。東京で私と警察まで行った日本人が、わざわざ台湾に来たって言ったら」


「言ったの?」


「聞かれたから」


「なんて説明した?」


「大学の人」


「大学違うよね」


「そこまで説明すると長いから」


「僕、林家では何者なの」


「私も分からない」


 以安はスマートフォンを確認した。


「あと、母は姉のことで機嫌悪いから」


「行きたくなくなってきた」


「もう料理作ってる」


「怒ると増えるやつ?」


「覚えてるんだ」


「重要情報だったから」


 二人はホテルを出た。


 日はまだ高かった。東京とは少し違う角度から光が落ちているような気がしたが、そんなものは気のせいかもしれない。


 以安の家まで、地下鉄を使うという。


 駅へ向かう途中、浩は訊いた。


「若晴さんから、その後連絡あった?」


 以安の歩く速度が少し落ちた。


「一回」


「何て?」


「元気。バンコクに行く。心配しないで」


「やっぱりバンコクなんだ」


「うん」


「いつ?」


「今日」


 浩は足を止めた。


「今日?」


「たぶん、もう着いてる」


「ピムには?」


「分からない」


「K-17は?」


「それも分からない」


 以安は振り返った。


「でも、先に言っとくね」


「何を?」


「私、姉を追いかけてバンコクには行かないよ」


「うん」


「草野さんが勝手に来たからって、私まで勝手に行く人になったわけじゃないから」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは本当にって言って」


 浩は笑った。


 地下鉄の入口が見えた。


 人が次々と階段へ吸い込まれていく。仕事帰りらしい人、学生、買い物袋を持った老人。地上ではスクーターが走り、店から料理の匂いが流れてくる。


 台北に着いて数時間。


 まだ何も起きていなかった。


 浩はそれが、少し嬉しかった。


「そういえば」


 階段を下りながら、以安が言った。


「母には、姉の資料を見に来たって言ってないから」


「言わない方がいい?」


「どっちでもいい」


「じゃあ言わない」


「あと父にも」


「お父さんもいるの?」


「いますよ。普通に」


「いや、そうじゃなくて」


「草野さん」


「はい」


 以安は改札の前で立ち止まった。


「姉のこと、東京で聞いた話だけで分かった気にならない方がいいよ」


 浩は何も答えなかった。


 以安はカードをかざして改札を通った。


「家に来たら、たぶん分かるから」


「何が?」


 彼女は振り返らなかった。


「姉が、どれだけ面倒な人か」

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