第九話 台北
飛行機を降りても、草野浩の人生は特に変わらなかった。
入国審査でパスポートを出し、預けていない荷物を肩にかけて歩き、案内表示に従って空港の到着ロビーまで出た。そこにはコンビニがあり、両替所があり、スマートフォンを見ながら誰かを待つ人がいた。
もっと「外国へ来た」という瞬間があるものだと思っていた。
飛行機の扉が開いたときかもしれないし、入国審査のスタンプかもしれない。知らない言葉に囲まれた瞬間、胸の中で何かが鳴るのかもしれない。
実際には、機内であまり眠れなかったので眠かった。
台湾は暑かった。
東京も暑かったので、その点でも大きな感動はなかった。
浩は到着ロビーの端で立ち止まり、スマートフォンを確認した。通信は普通につながった。林以安から一時間ほど前にメッセージが来ている。
〈着いたら自分で市内まで来て〉
その下に、乗る電車と降りる駅が書いてあった。
〈迎えに行かないって言ったからね〉
念押しまでされている。
〈了解〉
浩は返した。
すぐに既読がついた。
〈本当に着いた?〉
〈着いた〉
〈台湾に?〉
〈他にどこがあるの〉
しばらくして、
〈信じられない〉
と返ってきた。
浩も少しそう思った。
三日前まで、台北へ行く予定などなかった。
大学一年最初の夏休み。暇だったので久世征一という教員の資料整理を手伝った。そこに台湾人研究者・林若晴の古い資料があり、その妹の以安が東京へ来て、姉と連絡が取れなくなった。三人でホテルや警察へ行き、若晴が昔関わっていた都市データ企業CIVICAや、K-17という意味の分からない記号を知った。
その若晴からは、結局、自分は無事だから心配するなという連絡が来た。
事件は終わった。
以安も台湾へ帰った。
浩も下北沢の部屋へ戻った。
そこまでなら、夏休みのちょっと変わった三日間で済んでいた。
ところが翌日、以安から若晴の部屋で見つけた資料の写真が送られてきた。
K-17。
BKK。
その数時間後、浩は台北行きの航空券を買った。
誰にも頼まれていない。
久世からは来いとも言われていないし、以安からはむしろ来なくていいと言われた。
だから今、空港で一人だった。
自業自得である。
市内へ向かう列車に乗ると、空港の周囲の景色が窓の外を流れ始めた。高架道路、倉庫、マンション、工事中の建物。漢字の看板が多いので、まったく読めないわけではない。しかし読めると思って近づくと、よく分からない。
浩はそれが面白かった。
知っている文字で、知らない世界が書かれている。
向かいの席では、学生らしい女がイヤホンをつけて動画を見ていた。その隣では男が寝ている。親子連れが荷物を足元に置き、子供が何度も窓を指差していた。
誰も、外国へ来た浩のことなど知らない。
当たり前だった。
台北に近づくにつれて建物が増えた。
浩は何となく、久世の研究室に広がっていた地図を思い出した。台北、バンコク、イスタンブール、ウルク。林若晴はそれらを同じ形式へ押し込み、比較しようとしていた。
今の浩には、目の前の街が何と似ているかより、駅を降りたあとどちらへ行けばいいかの方が重要だった。
指定された駅で降りた。
出口を間違えた。
地上へ出てから気づいた。
〈着いた〉
〈どこ〉
〈駅〉
〈何番出口〉
浩は頭上の表示を見た。
〈4〉
すぐに返事が来た。
〈反対〉
〈まじか〉
〈なんで4から出るの〉
〈知らないよ〉
〈そこで待ってて〉
五分ほどして、横断歩道の向こうに以安が現れた。
東京で会ったときとは違い、Tシャツに短いパンツ、サンダルだった。髪も後ろで雑にまとめている。旅行者の格好ではなく、家の近所へ出てきた人間の格好だった。
信号が変わる。
以安は道路を渡ってきて、浩の前で止まった。
しばらく何も言わずに顔を見る。
「何」
浩が訊いた。
「本当に来た」
「来るって言ったじゃん」
「普通、来ないでしょ」
「航空券送ったじゃん」
「キャンセルすると思ってた」
「なんで」
「冷静になると思って」
「なったよ」
「その結果?」
「来た」
以安は呆れた顔をして、それから笑った。
「馬鹿じゃないの」
「七万円くらいしたんだけど」
「もっと馬鹿」
浩は三日前に東京で別れた人間と、外国の駅前で話していることが急に可笑しくなった。
「とりあえず、ホテル行きたい」
「どこ取ったの?」
浩が予約画面を見せると、以安は住所を読んだ。
「なんでここ?」
「安かったから」
「まあ、行けるけど」
「よかった」
「何が?」
「存在してるホテルで」
「そこから?」
二人で歩き始めた。
以安は先に立って案内しなかった。浩が地図を見ながら歩き、間違えそうになると「そっちじゃない」と言う。その程度だった。
通りにはスクーターが多かった。店の軒下に椅子が出ている。コンビニの前で制服姿の若者が飲み物を飲み、交差点では配送車が無理のある位置に停まっていた。浩が何かを見るたびに立ち止まるので、以安は途中から振り返らなくなった。
「待って」
「普通の道ですよ」
「僕には普通じゃない」
「三日いたら普通になる」
「三日しかいない」
「じゃあ最後まで珍しいね」
ホテルまでは十五分ほどだった。
チェックインを済ませ、荷物を置く。部屋は狭かったが、下北沢の自宅と比べれば大して変わらない。違うのは窓の外に知らない看板があるくらいだった。
「これからどうする?」
ホテルのロビーへ戻ると、以安が訊いた。
「どうするって?」
「台北に何しに来たの」
浩は答えに詰まった。
「観光」
「それは聞いた」
「じゃあ観光する」
「どこ」
「知らない」
「何が見たい?」
「まだ知らない」
「すごいね」
「だから来たんだよ」
以安はソファに座った。
「姉の資料を見るためじゃないの?」
やはりそこは避けられなかった。
「見たいよ」
「姉を探すため?」
「それは違う」
「CIVICAを調べる?」
「それも、別に」
「じゃあ何」
浩は向かいに座った。
自分でも説明しづらかった。
若晴の資料は気になる。K-17も、CIVICAも、久世が話していた都市予測のことも気になる。しかし、それだけなら写真を送ってもらえばいい。久世に訊けばいい。インターネットで調べてもいい。
飛行機に乗る必要はなかった。
「東京でさ」
「うん」
「若晴さんの資料見てたとき、台北もバンコクもウルクも、全部ただの紙だったんだよ」
「うん」
「でも林さんが来て、若晴さんの妹だって分かって」
「私は最初から妹だけど」
「そういう意味じゃなくて。若晴さんも研究者じゃなくて、お姉さんになったじゃん」
以安は少し考えてから、「まあ」と言った。
「だから台北も、一回ちゃんと街として見たいというか」
「それ、姉みたい」
「やめてよ」
「姉もそういうこと言います」
「本当に?」
「もっと難しくして言うけど」
以安は立ち上がった。
「じゃあ歩こう」
「どこへ?」
「その辺」
「観光地?」
「違う」
「何があるの」
「家」
「誰の?」
「私の」
浩は一瞬、意味が分からなかった。
「え」
「母が、ご飯食べていけって」
「僕が?」
「そう」
「なんで?」
「知らない。東京で私と警察まで行った日本人が、わざわざ台湾に来たって言ったら」
「言ったの?」
「聞かれたから」
「なんて説明した?」
「大学の人」
「大学違うよね」
「そこまで説明すると長いから」
「僕、林家では何者なの」
「私も分からない」
以安はスマートフォンを確認した。
「あと、母は姉のことで機嫌悪いから」
「行きたくなくなってきた」
「もう料理作ってる」
「怒ると増えるやつ?」
「覚えてるんだ」
「重要情報だったから」
二人はホテルを出た。
日はまだ高かった。東京とは少し違う角度から光が落ちているような気がしたが、そんなものは気のせいかもしれない。
以安の家まで、地下鉄を使うという。
駅へ向かう途中、浩は訊いた。
「若晴さんから、その後連絡あった?」
以安の歩く速度が少し落ちた。
「一回」
「何て?」
「元気。バンコクに行く。心配しないで」
「やっぱりバンコクなんだ」
「うん」
「いつ?」
「今日」
浩は足を止めた。
「今日?」
「たぶん、もう着いてる」
「ピムには?」
「分からない」
「K-17は?」
「それも分からない」
以安は振り返った。
「でも、先に言っとくね」
「何を?」
「私、姉を追いかけてバンコクには行かないよ」
「うん」
「草野さんが勝手に来たからって、私まで勝手に行く人になったわけじゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは本当にって言って」
浩は笑った。
地下鉄の入口が見えた。
人が次々と階段へ吸い込まれていく。仕事帰りらしい人、学生、買い物袋を持った老人。地上ではスクーターが走り、店から料理の匂いが流れてくる。
台北に着いて数時間。
まだ何も起きていなかった。
浩はそれが、少し嬉しかった。
「そういえば」
階段を下りながら、以安が言った。
「母には、姉の資料を見に来たって言ってないから」
「言わない方がいい?」
「どっちでもいい」
「じゃあ言わない」
「あと父にも」
「お父さんもいるの?」
「いますよ。普通に」
「いや、そうじゃなくて」
「草野さん」
「はい」
以安は改札の前で立ち止まった。
「姉のこと、東京で聞いた話だけで分かった気にならない方がいいよ」
浩は何も答えなかった。
以安はカードをかざして改札を通った。
「家に来たら、たぶん分かるから」
「何が?」
彼女は振り返らなかった。
「姉が、どれだけ面倒な人か」




