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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第一部 七月、東京

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8/16

第八話 写真

 翌日、草野浩は昼まで寝た。


 起きたときには部屋が暑くなっていて、カーテンの隙間から入る光が床の半分まで伸びていた。久世から仕事の連絡はない。林若晴は無事だと自分で言っている。林以安は台北へ帰った。二日前まで名前すら知らなかった人たちが、まとめて浩の生活からいなくなった。


 冷蔵庫を開けると、卵が二個あった。最初の夏休みの日から数が変わっていない。


 浩は一個を焼いた。


 昼を過ぎても何もすることがなかったので、下北沢を歩いた。本屋へ入り、文庫を一冊買い、古着屋を二軒見た。三軒目へ入る気力はなかった。駅前では昨日と同じように人が待ち合わせをしていて、昨日とは違う人間が同じ場所で立っていた。


 考えてみれば、たった三日ほどのことだった。


 久世に呼ばれ、箱を開けた。台湾から来た女と知り合い、その姉を探してホテルと交番へ行った。CIVICAという会社を知り、K-17という意味の分からない記号を覚えた。


 それで終わった。


 何かが解決したというほどでもなかった。ただ、本人が大丈夫だと言ったので、他人が追いかける理由がなくなった。


 浩はそのことに、少し不満だった。


 不満に思う筋合いがないことも分かっていた。


 夕方、喫茶店で買った本を読んでいると、以安から写真が送られてきた。


〈家に着きました。母への説明も終わりました。疲れた〉


 そのあとに食卓の写真が一枚来た。料理がいくつも並び、端に誰かの腕が写っている。


〈おいしそう〉


〈母は怒ると料理が増えます〉


〈いいシステムですね〉


〈食べるだけならね〉


 それで会話は終わるかと思った。


 五分ほどして、もう一枚写真が届いた。


〈これ、姉の部屋にあった〉


 古い紙だった。


 机の上に何枚か重なっている。以安が真上から撮ったらしい。若晴の部屋なのだろう。画面の隅に、本や電源コードや、飲みかけらしい水のボトルが見切れていた。


 浩は写真を拡大した。


 一番上の紙には、バンコクの地図らしいものが印刷されている。知らない文字の住所や路線名に混じって、赤いペンの書き込みがあった。


 K-17


 それは駒場で見たものと同じだった。


 その下に、


 BKK


 とだけ書かれている。


〈これ、昨日のやつですよね〉


 以安から来た。


〈たぶん〉


 浩は写真をさらに拡大した。


 K-17から矢印が伸び、紙の端で切れている。その先は下の資料に隠れていた。


〈下の紙も見たい〉


 送ってから、少し図々しかったかと思った。


 それでも数分後、別の写真が来た。


 今度は、以安が上の紙をどかしている。


 下にはCIVICAのロゴが入った資料があった。


 英語の表題。


 浩には全部は分からない。ただ、見覚えのある単語がいくつかあった。


 LATTICE。


 Bangkok。


 Evaluation。


 その脇に若晴の手書きで、


 before intervention?


 とある。


〈これどういう意味?〉


 以安から訊かれた。


〈介入前?〉


〈何の介入〉


〈知らない〉


〈先生に送る?〉


 浩は少し考えた。


〈送った方がいいと思う〉


 そのまま写真は久世にも送られた。


 十分ほどして、久世から三人のチャットが作られた。


〈見た。若晴の古い資料だと思う〉


 浩が返した。


〈K-17って結局何ですか〉


〈知らん。推測するな〉


〈先生も少しは推測してください〉


〈研究者にそれを言うな〉


 以安から笑っている顔の絵文字が来た。


 少しして、久世がもう一通送った。


〈若晴には写真を送っておく。本人が話したくなれば話すだろう。それ以上は追わなくていい〉


 浩は画面を見た。


 正論だった。


 以安も、


〈了解〉


 と返した。


 浩も同じように送ろうとして、やめた。


 写真をもう一度開いた。


 K-17。


 BKK。


 LATTICE。


 before intervention?


 どれも、浩が知る必要のない言葉だった。


 スマートフォンを伏せた。


 本を読もうとした。


 三ページ進んで、内容が頭に入っていないことに気づいた。


 もう一度スマートフォンを取った。


 検索窓に「台北 航空券」と入れた。


 自分でも、何をしているのかよく分からなかった。


 羽田から台北。


 成田から台北。


 往復。


 日付をずらすと値段が変わる。安い便なら、思っていたほどではない。それでも大学一年生が何となく払うには十分高かった。


 浩は銀行口座の残高を見た。


 入学祝い。


 高校のころから残っていた貯金。


 四月から少しだけやったアルバイトの金。


 払えない額ではなかった。


 払っていい額かは別だった。


 七万円くらい使えば、宿や食事も含めて何とかなるかもしれない。


 七万円。


 頭の中でその数字を何度か転がした。


 iPhoneが買える。


 それなりの服も買える。


 何もしなければ、そのまま残る。


 その金で台湾へ行く理由を考えた。


 以安に頼まれたから。


 違う。


 若晴を探すため。


 もう無事だ。


 久世の研究を手伝うため。


 そんな話はない。


 CIVICAを調べるため。


 誰に頼まれた。


 全部違った。


 ただ、行ってみたかった。


 浩はその答えがいちばん馬鹿らしく、いちばん正確だと思った。


 台北へ行ったことがない。


 外国へ一人で行ったこともない。


 林若晴の部屋には、駒場にあったものと同じような紙が積まれている。台北とバンコクとウルクを、一人の研究者がどうして同じ机の上へ載せたのか、その続きを少し見てみたい。


 それだけだった。


 以安へメッセージを送った。


〈来週って暇?〉


 すぐ既読がついた。


〈何〉


〈台北〉


〈台北が何〉


〈行こうかなと思って〉


 しばらく返事がなかった。


 浩は少し恥ずかしくなった。書いてみると、自分でもかなり変だった。


 一分ほどして返信が来た。


〈なんで?〉


 当然の質問だった。


 浩は答えを考えた。


〈写真が気になる〉


 送ってから、違うと思った。


 もう一通送る。


〈というのは半分で〉


〈半分?〉


〈一回行ってみたい〉


 今度はかなり長く返事がなかった。


 やがて、


〈本当に来るの?〉


 と来た。


〈まだ航空券取ってない〉


〈来なくていいですよ〉


〈ひどい〉


〈姉のことなら、本当にもういいです〉


〈うん〉


〈私も姉を追いかけるつもりない〉


〈分かってる〉


 浩はそこで少し迷った。


〈お姉さんを探しに行くんじゃない〉


 以安から返事はなかった。


 五分ほどして、


〈じゃあ何しに来るの〉


 と来た。


 浩は笑った。


〈観光〉


〈今さら?〉


〈台北行ったことないし〉


〈夜市とか?〉


〈それも〉


〈かき氷ありますよ〉


 浩はそこで負けた。


 航空券の画面へ戻った。


 出発は三日後。


 帰りは決めすぎない方がいい気もしたが、片道は高い。往復で取った。


 購入ボタンを押す直前になって、指が止まった。


 七万円。


 本当に使っていいのか。


 あとで馬鹿だったと思うかもしれない。


 たぶん思う。


 浩は押した。


 画面に予約完了と表示された。


 その瞬間、何かが始まった感じはしなかった。


 口座の金が減っただけだった。


 以安へスクリーンショットを送る。


 すぐ返事が来た。


〈え〉


 続けて、


〈本当に取ったの?〉


〈取った〉


〈草野さん、ちょっとおかしいよ〉


 浩はベッドへ寝転がった。


〈先生にも言われる〉


〈私もそう思う〉


〈じゃあ三日後〉


 しばらくして、


〈空港は迎えに行かないからね〉


 と来た。


〈了解〉


〈自分で来て〉


〈了解〉


〈迷ったら連絡して〉


〈了解〉


 浩はスマートフォンを置いた。


 窓の外で、夜の下北沢を電車が走っていった。


 大学一年最初の夏休み。


 昨日まで、浩には何の予定もなかった。


 三日後、台北へ行くことになった。

第一章 七月・東京 了

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