第八話 写真
翌日、草野浩は昼まで寝た。
起きたときには部屋が暑くなっていて、カーテンの隙間から入る光が床の半分まで伸びていた。久世から仕事の連絡はない。林若晴は無事だと自分で言っている。林以安は台北へ帰った。二日前まで名前すら知らなかった人たちが、まとめて浩の生活からいなくなった。
冷蔵庫を開けると、卵が二個あった。最初の夏休みの日から数が変わっていない。
浩は一個を焼いた。
昼を過ぎても何もすることがなかったので、下北沢を歩いた。本屋へ入り、文庫を一冊買い、古着屋を二軒見た。三軒目へ入る気力はなかった。駅前では昨日と同じように人が待ち合わせをしていて、昨日とは違う人間が同じ場所で立っていた。
考えてみれば、たった三日ほどのことだった。
久世に呼ばれ、箱を開けた。台湾から来た女と知り合い、その姉を探してホテルと交番へ行った。CIVICAという会社を知り、K-17という意味の分からない記号を覚えた。
それで終わった。
何かが解決したというほどでもなかった。ただ、本人が大丈夫だと言ったので、他人が追いかける理由がなくなった。
浩はそのことに、少し不満だった。
不満に思う筋合いがないことも分かっていた。
夕方、喫茶店で買った本を読んでいると、以安から写真が送られてきた。
〈家に着きました。母への説明も終わりました。疲れた〉
そのあとに食卓の写真が一枚来た。料理がいくつも並び、端に誰かの腕が写っている。
〈おいしそう〉
〈母は怒ると料理が増えます〉
〈いいシステムですね〉
〈食べるだけならね〉
それで会話は終わるかと思った。
五分ほどして、もう一枚写真が届いた。
〈これ、姉の部屋にあった〉
古い紙だった。
机の上に何枚か重なっている。以安が真上から撮ったらしい。若晴の部屋なのだろう。画面の隅に、本や電源コードや、飲みかけらしい水のボトルが見切れていた。
浩は写真を拡大した。
一番上の紙には、バンコクの地図らしいものが印刷されている。知らない文字の住所や路線名に混じって、赤いペンの書き込みがあった。
K-17
それは駒場で見たものと同じだった。
その下に、
BKK
とだけ書かれている。
〈これ、昨日のやつですよね〉
以安から来た。
〈たぶん〉
浩は写真をさらに拡大した。
K-17から矢印が伸び、紙の端で切れている。その先は下の資料に隠れていた。
〈下の紙も見たい〉
送ってから、少し図々しかったかと思った。
それでも数分後、別の写真が来た。
今度は、以安が上の紙をどかしている。
下にはCIVICAのロゴが入った資料があった。
英語の表題。
浩には全部は分からない。ただ、見覚えのある単語がいくつかあった。
LATTICE。
Bangkok。
Evaluation。
その脇に若晴の手書きで、
before intervention?
とある。
〈これどういう意味?〉
以安から訊かれた。
〈介入前?〉
〈何の介入〉
〈知らない〉
〈先生に送る?〉
浩は少し考えた。
〈送った方がいいと思う〉
そのまま写真は久世にも送られた。
十分ほどして、久世から三人のチャットが作られた。
〈見た。若晴の古い資料だと思う〉
浩が返した。
〈K-17って結局何ですか〉
〈知らん。推測するな〉
〈先生も少しは推測してください〉
〈研究者にそれを言うな〉
以安から笑っている顔の絵文字が来た。
少しして、久世がもう一通送った。
〈若晴には写真を送っておく。本人が話したくなれば話すだろう。それ以上は追わなくていい〉
浩は画面を見た。
正論だった。
以安も、
〈了解〉
と返した。
浩も同じように送ろうとして、やめた。
写真をもう一度開いた。
K-17。
BKK。
LATTICE。
before intervention?
どれも、浩が知る必要のない言葉だった。
スマートフォンを伏せた。
本を読もうとした。
三ページ進んで、内容が頭に入っていないことに気づいた。
もう一度スマートフォンを取った。
検索窓に「台北 航空券」と入れた。
自分でも、何をしているのかよく分からなかった。
羽田から台北。
成田から台北。
往復。
日付をずらすと値段が変わる。安い便なら、思っていたほどではない。それでも大学一年生が何となく払うには十分高かった。
浩は銀行口座の残高を見た。
入学祝い。
高校のころから残っていた貯金。
四月から少しだけやったアルバイトの金。
払えない額ではなかった。
払っていい額かは別だった。
七万円くらい使えば、宿や食事も含めて何とかなるかもしれない。
七万円。
頭の中でその数字を何度か転がした。
iPhoneが買える。
それなりの服も買える。
何もしなければ、そのまま残る。
その金で台湾へ行く理由を考えた。
以安に頼まれたから。
違う。
若晴を探すため。
もう無事だ。
久世の研究を手伝うため。
そんな話はない。
CIVICAを調べるため。
誰に頼まれた。
全部違った。
ただ、行ってみたかった。
浩はその答えがいちばん馬鹿らしく、いちばん正確だと思った。
台北へ行ったことがない。
外国へ一人で行ったこともない。
林若晴の部屋には、駒場にあったものと同じような紙が積まれている。台北とバンコクとウルクを、一人の研究者がどうして同じ机の上へ載せたのか、その続きを少し見てみたい。
それだけだった。
以安へメッセージを送った。
〈来週って暇?〉
すぐ既読がついた。
〈何〉
〈台北〉
〈台北が何〉
〈行こうかなと思って〉
しばらく返事がなかった。
浩は少し恥ずかしくなった。書いてみると、自分でもかなり変だった。
一分ほどして返信が来た。
〈なんで?〉
当然の質問だった。
浩は答えを考えた。
〈写真が気になる〉
送ってから、違うと思った。
もう一通送る。
〈というのは半分で〉
〈半分?〉
〈一回行ってみたい〉
今度はかなり長く返事がなかった。
やがて、
〈本当に来るの?〉
と来た。
〈まだ航空券取ってない〉
〈来なくていいですよ〉
〈ひどい〉
〈姉のことなら、本当にもういいです〉
〈うん〉
〈私も姉を追いかけるつもりない〉
〈分かってる〉
浩はそこで少し迷った。
〈お姉さんを探しに行くんじゃない〉
以安から返事はなかった。
五分ほどして、
〈じゃあ何しに来るの〉
と来た。
浩は笑った。
〈観光〉
〈今さら?〉
〈台北行ったことないし〉
〈夜市とか?〉
〈それも〉
〈かき氷ありますよ〉
浩はそこで負けた。
航空券の画面へ戻った。
出発は三日後。
帰りは決めすぎない方がいい気もしたが、片道は高い。往復で取った。
購入ボタンを押す直前になって、指が止まった。
七万円。
本当に使っていいのか。
あとで馬鹿だったと思うかもしれない。
たぶん思う。
浩は押した。
画面に予約完了と表示された。
その瞬間、何かが始まった感じはしなかった。
口座の金が減っただけだった。
以安へスクリーンショットを送る。
すぐ返事が来た。
〈え〉
続けて、
〈本当に取ったの?〉
〈取った〉
〈草野さん、ちょっとおかしいよ〉
浩はベッドへ寝転がった。
〈先生にも言われる〉
〈私もそう思う〉
〈じゃあ三日後〉
しばらくして、
〈空港は迎えに行かないからね〉
と来た。
〈了解〉
〈自分で来て〉
〈了解〉
〈迷ったら連絡して〉
〈了解〉
浩はスマートフォンを置いた。
窓の外で、夜の下北沢を電車が走っていった。
大学一年最初の夏休み。
昨日まで、浩には何の予定もなかった。
三日後、台北へ行くことになった。
第一章 七月・東京 了




