第七話 帰る人
林若晴さんの妹ですか。
そのメッセージを送ってきたピムという人物は、タイにいる大学生だった。
林以安が英語で返信すると、返事はすぐに来た。若晴とは都市データの仕事を通じて知り合ったこと。昨日まで連絡を取っていたこと。そして、もし自分から連絡が途絶えたら妹に知らせてほしいと、若晴本人から言われていたこと。
そこまで読んで、研究室の空気がまた変わった。
「昨日までって、いつ?」
久世が訊いた。以安がそのまま英語で送り、数十秒後に返事が来た。
「昨日の午後。日本時間だと夕方くらい」
「ホテルを出たあとだな」
草野浩は机の上のスマートフォンを見た。若晴がホテルに置いていった端末だった。本人はそれを持たずに、別の手段でタイの学生と連絡を取っていたことになる。
「パソコンじゃないですか」
「たぶんな」
ホテルの部屋にはパソコンも荷物も残っていなかった。若晴は自分でチェックアウトし、どこかへ移動している。少なくとも昨日の夕方までは、自分の意思で誰かと連絡を取っていた。
以安が次の質問を送った。
〈姉が今どこにいるか知っていますか〉
今度は少し待った。
〈No. I thought she was in Tokyo.〉
以安は露骨に顔をしかめた。
「なんなの、この人」
「ピムが悪いわけじゃないだろ」
「姉です」
「ああ」
さらに何通かやり取りをしたが、分かったことは多くなかった。ピムはバンコクにいる。若晴とは以前から連絡を取っていた。K-17という名前も知っているらしい。しかし詳しい話を訊くと、そこから返事が鈍くなった。
〈What is K-17?〉
以安が送ったメッセージには、五分経っても返事がなかった。
浩は時計を見た。もう夜の八時を回っていた。昨日までなら、今ごろ下北沢で夕飯をどうするか考えていた時間だった。
「電話できないんですか」
「訊いてる」
少しして、ピムから返事が来た。
〈Not now. Sorry.〉
「怪しい」
浩が言うと、久世がすぐに「そういう言い方をするな」と返した。
「だって、若晴さんがいなくなって、連絡してきて、質問したら答えない」
「それだけで怪しい人間が完成するなら、世の中だいたい怪しい」
「先生は疑わなさすぎじゃないですか」
「お前が早すぎるんだよ」
久世はそう言ったが、ピムのメッセージを何度も読み返していた。
以安は黙って画面を見ている。姉の無責任さに腹を立てているときとは違う顔だった。
そのとき、研究室のパソコンが音を鳴らした。
久世が画面を見て、動きを止めた。
「若晴だ」
以安が立ち上がった。
メールは久世宛だった。
件名はなかった。
本文も短かった。
〈ごめんなさい。予定を変更しました。私は大丈夫です。以安がそちらへ行っていたら、心配しなくていいと伝えてください。スマホを忘れました。数日中に連絡します。〉
それだけだった。
三人で読んだ。
「……は?」
以安が言った。
久世がもう一度読み直した。
「若晴だな」
「本人?」
「このアドレスは本人のだし、文面もまあ本人だ」
「『スマホを忘れました』?」
以安は机の上にある姉のスマートフォンを指差した。
「それだけ?」
「本人はそう言ってる」
「私、台湾から来たんですけど」
「知ってると思う」
「十一時に待ち合わせしたんですけど」
「それも知ってると思う」
「警察まで行ったんですけど」
「それは知らないだろうな」
以安は中国語で何か言った。浩には分からなかったが、たぶん日本語にしない方がいい種類の言葉だった。
久世はすぐに返信した。
〈今どこにいる。以安へ直接連絡しろ。〉
送信。
待った。
五分。
十分。
返事は来なかった。
「電話は?」
「メールだけだ」
「位置とか分かりません?」
「俺は警察じゃない」
以安は自分のメールも確認した。若晴からは来ていない。
「ほんと最悪」
今度の言葉には、心配より怒りの方が多かった。
それでも、彼女の肩から力が抜けているのを浩は見ていた。
若晴は生きている。
少なくとも、自分は大丈夫だと言える状態にいる。
どうしてスマートフォンを置き忘れたまま連絡もしなかったのか。なぜ予定を変えたのか。K-17とは何なのか。CIVICAと何を確かめようとしているのか。分からないことはいくつも残ったが、それはもう「今すぐ行方を探さなければならない」という話とは違っていた。
「警察にも連絡しとこう」
久世が言った。
「本人からメールが来たって?」
「ああ。少なくとも状況は変わったからな」
「じゃあ終わり?」
浩が訊いた。
久世は少し考えた。
「何が」
「林さんを探すの」
「本人が大丈夫だと言ってる。成人だ。これ以上どうする」
「でもK-17とか」
「それは若晴の仕事だろ」
「CIVICAも」
「それも若晴の仕事だ」
浩は黙った。
正しかった。
むしろ当たり前だった。
若晴は助けを求めていない。事件に巻き込まれた証拠もない。久世の古い資料が一部見当たらないことも、本人に確認すれば済むかもしれない。ピムというタイの学生についても、若晴自身が連絡先を教えていたのだから、少なくとも知らない第三者ではない。
昨日まで浩が面白がっていたものは、結局、林若晴という研究者の仕事だった。
他人の仕事だった。
翌日、以安は台北へ帰ることにした。
「せっかく来たんだから東京にいればいいのに」
浩が言うと、以安は渋谷駅へ向かう電車の中で呆れた顔をした。
「誰と?」
「観光とか」
「一人で?」
「一人でもできますよ」
「草野さんはできそうですね」
「かき氷とか」
「それ観光?」
「下北沢では観光かもしれない」
以安は笑った。
昨日会ったばかりなのに、妙な感じだった。一緒にホテルへ行き、交番へ行き、研究室で夜まで姉の資料を探した。もっと長く知っているようでもあり、何も知らないようでもあった。
「本当に帰るんですか」
「帰ります。姉が大丈夫なら、私が東京にいる理由ないから」
「姉には会わなくていい?」
「会いたいですよ」
以安は窓の外を見た。
「でも、会いたい人が勝手にいなくなったからって、ずっと待ってる必要もないでしょ」
浩は何も言わなかった。
以安は台北に大学があり、友人がいて、予定がある。東京へ来たのは、若晴の妹である前に、自分の夏休みを過ごすためだったのだろう。
「草野さんも、もうバイト終わり?」
「たぶん」
「じゃあ夏休みですね」
「そうなんですよ」
「何するんですか」
「何も」
「本当に?」
「本当に」
「羨ましい」
「そうですかね」
「私は帰ったら母に全部説明します」
「ああ」
「姉から連絡が来なかったことも、ホテルにスマホを忘れたことも、警察に行ったことも」
「大変ですね」
「ずっとです」
その言葉を、浩は前にも聞いた。
渋谷で電車を降りるところで二人は別れた。以安は空港へ向かい、浩は下北沢へ戻る。
「じゃあ」
「はい」
「姉がお騒がせしました」
「林さんのせいじゃないでしょう」
「姉も林です」
「あ」
以安は笑って、人混みの向こうへ消えた。
浩は井の頭線に乗った。
下北沢の駅を出ると、いつもの街だった。
古着屋。居酒屋。工事中の建物。歩きながらアイスを食べている人。駅前で誰かを待っている人。昨日まで自分も知らない人間を探していたことなど、この街には何の関係もなかった。
部屋へ帰ると、不在票が入っていた。注文した洗剤だった。
冷蔵庫には、賞味期限をさらに二日過ぎた豆腐が残っていた。
浩は捨てた。
夜、久世からメッセージが来た。
〈若晴からもう一度連絡あり。心配不要とのこと。資料の件も後で説明するそうだ〉
〈了解です〉
少し考えて、もう一つ送った。
〈明日バイトありますか〉
〈ない〉
〈了解です〉
今度こそ、本当に夏休みになった。
浩はベッドに寝転がり、スマートフォンを見た。台北行きの以安から、
〈着いたら連絡します〉
と来ていた。
その下には大学の友人たちのグループチャットが流れている。長野の合宿。実家。花火。誰かの恋人。どうでもいい写真が何枚も届いていた。
浩は少し眺めてからスマートフォンを伏せた。
若晴は無事だった。
以安は帰った。
ピムという学生も、CIVICAも、K-17も、浩には関係がない。
段ボール箱の中に世界中の都市が入っていた理由だけは少し気になったが、大学が始まればまた久世に訊けばいい。
夏はまだ一か月以上ある。
何もしなくてもよかった。
翌日の午後まで、浩は本当にそう思っていた。




