第六話 CIVICA
林若晴のスマートフォンは、その夜も鳴らなかった。
翌朝、草野浩が駒場の研究室へ行くと、林以安はもう来ていた。昨日と同じ服ではなかったが、昨日と同じ椅子に座り、姉のスマートフォンを机の上に置いている。
「寝ました?」
浩が訊くと、以安は「少し」と答えた。
「連絡は?」
「ないです」
それ以上は訊かなかった。
久世は窓際でコーヒーを淹れていた。昨日見つけたCIVICAのイベント案内が机に残っている。
「先生、昨日の続き」
「朝から元気だな」
「気になって」
「知ってる」
久世は紙コップを持って座った。
CIVICAは都市データを扱う企業だった。設立は十年ほど前。行政や不動産会社、物流、商業施設などから得たデータを統合し、人の移動や地域の変化を分析する。最初はコンサルティングに近かったが、やがて自社の予測モデルを売るようになった。
「便利そうですね」
「便利だよ」
「そこ否定しないんだ」
「なんで否定するんだよ」
久世はそう言って、CIVICAの古い資料を浩へ渡した。
写真には、巨大なスクリーンの前に立つ男女が写っていた。道路や鉄道、建物が三次元の都市模型のように表示され、上に色の違う点が重なっている。今となっては特別珍しい画面でもない。
「こっち」
久世が別の写真を指した。
若い林若晴がいた。
今の浩が知っているのは履歴書の写真だけだったが、たぶん本人だった。三十代前半だと聞いていたから、これは二十代半ばくらいだろう。その隣に、背の高い男がいる。
「梁志恒?」
「そう」
昨日のイベント案内にあったCIVICAの創業者だった。
二人とも笑っていた。
「仲良さそうですね」
「仲はよかったよ」
「先生も知ってるんですか」
「梁とは何度か会った」
久世は写真を受け取った。
「頭のいい人だよ。人に説明するのもうまい。若晴よりずっと」
「姉、説明下手なんですか」
以安が訊いた。
「興味がない人に説明するのが下手」
「ああ」
以安は妙に納得した。
久世によれば、若晴がCIVICAに入ったのは、研究をやめたかったからではない。
逆だった。
「大学で都市を研究すると、何が困ると思う?」
浩は考えた。
「金がない」
「それもある」
「データがない」
「そっち」
都市について大胆な仮説を立てても、検証できるデータには限界がある。統計は粒度が違い、時期も違い、都市ごとに形式も違う。企業が持つ移動履歴、決済、物流、不動産、店舗のデータには、大学だけでは触れられないものも多かった。
CIVICAはそれを持っていた。
「若晴には魅力的だったんですね」
「ものすごくな」
「先生は行かなかったんですか」
「誘われてない」
「誘われたら?」
「どうだろうな」
久世は笑った。
以安が写真を見ていた。
「姉、会社員だった時期、短いですよね」
「数年だな」
「家では全然話さなかった」
「そういう仕事の話をする家じゃない?」
「というより、姉がしないです。聞いても『説明しても分からない』って」
「嫌な言い方だな」
「嫌な人なんです」
以安は写真を机へ戻した。
その言い方も、もう浩には少し分かるようになっていた。
久世がCIVICAの資料を何枚か広げた。
「最初は、都市をよく見るための道具だったんだと思う」
「最初は?」
「見えるようになると、次は当てたくなる」
昨日聞いた話だった。
人がどこへ移動するか。どの地区に店が増えるか。地価がどう動くか。物流量がどこで増えるか。そうした変化を過去のデータから予測する。
「天気予報みたいなものですか」
浩が訊いた。
「昔、若晴もそんな説明をしてた」
「分かりやすい」
「だから危ない」
「え」
「分かりやすすぎるんだよ」
久世は椅子にもたれた。
「明日雨が降るって予報を見ても、雨は人間の都合で降らない。でも、来年この街の地価が上がるって予測を投資家が見たらどうする?」
「買う」
「店が増えると言われたら?」
「出店する」
「物流が伸びると言われたら?」
「倉庫を作る」
浩はそこで止まった。
「予測したから、そうなる?」
「場合によっては」
「じゃあ当たったことになるんですか」
「面白いだろ」
久世が言った。
浩は少し笑った。
「先生も好きじゃないですか、こういう話」
「好きだから困るんだよ」
机の端で、以安が姉のスマートフォンを見ていた。
久世は続けた。
「ただし、今のは一般論だ。CIVICAが何か不正をしたって話じゃない」
「昨日のメモは?」
「『まだ同じことをやってる』だけじゃ分からん。批判なのか、ただの感想なのかも分からない」
「梁って人と揉めて辞めたとか」
「そういう話にしたい?」
「ちょっと」
「やめとけ」
久世は笑った。
「若晴と梁は、少なくとも最初は同じものを見てた。都市を経験とか勘だけで語るのを減らしたかった。人間が暮らす場所なんだから、もっと測れるはずだって」
「いいことじゃないですか」
「いいことだよ」
久世は即答した。
「だから面倒なんだ」
善意から始めたものが、途中で悪になる。
浩はそういう話を想像したが、久世が言っているのは少し違うらしかった。
「若晴は何が嫌になったんですか」
「本人に聞け」
「いないから聞いてるんです」
「正しい」
久世はしばらく考えた。
「たぶん、測ることより、使うことの方が速くなったんだよ」
浩にはよく分からなかった。
「会社なんだから使うでしょ」
「そう。梁はそう思った」
「若晴は?」
「使う前に、もっと疑いたかった」
「研究者だ」
「研究者なんだよ」
久世は少し笑った。
「予測精度が七十から八十になったら使えると思う人間と、残り二十が何なのか気になる人間が、一緒に会社をやれば、そのうち喧嘩する」
「それで辞めた?」
「そんな単純でもない。若晴だって、実社会で使えることに興奮してた。自分の研究が役に立つの、嫌な研究者ばかりじゃないからな」
浩は若晴の写真を見た。
昨日までは、どこかでトラブルに巻き込まれた研究者だった。
今は少し違って見えた。
都市を比べる研究をして、もっとデータが欲しくなり、企業へ行った。そこで自分の考えが実際の街に使われるようになった。
その人間が今、自分でホテルを出て、スマートフォンだけを残している。
「このLATTICEって何ですか」
以安が言った。
二人とも彼女を見た。
以安は別の資料を開いていた。CIVICAの古いプレゼンテーションらしく、表紙に大きく名前が出ている。
LATTICE
「それ、どこにあった?」
「このファイル」
久世が受け取った。
「昔の企画書だな」
「知ってるんですか」
「名前は」
浩が横から覗く。
英語ばかりだったが、図なら分かった。複数の都市データが中央のモデルへ集まり、そこから未来の人口分布や人流らしい図へ線が伸びている。
「これが予測するやつ?」
「原型だろうな」
「若晴さんが作った?」
「一人で作るものじゃない」
久世はページをめくった。
研究チームの名前が並んでいる。
林若晴。
梁志恒。
ほかにも何人もいる。
浩は若晴の名前の横に、小さく書かれた肩書きを読んだ。
「Urban Priors?」
久世の指が止まった。
「そこは今いい」
「なんで」
「長くなる」
「気になるなあ」
「お前は気になるものが多すぎる」
浩は企画書を取り戻した。
後ろのページへ進むと、世界地図が出てきた。いくつかの都市に点が打たれている。台北、シンガポール、バンコク、そのほかにもいくつか。
そのうち、バンコクだけに赤い丸が付いていた。
手書きだった。
「これ、若晴さんの字ですよね」
以安が覗いた。
「たぶん」
赤い丸の横には、
K-17
と書いてあった。
昨日、バンコクの地図にもあった記号だ。
三人とも黙った。
偶然ではなかった。
「K-17って、何なんですか」
浩が訊いた。
「知らない」
久世は答えた。
今度の「知らない」は、昨日までとは少し違った。
以安がスマートフォンを取り出した。
「検索すれば出るんじゃないですか」
「会社の内部名なら出ないかも」
浩も自分のスマートフォンを出した。
検索する。
K-17 CIVICA Bangkok。
それらしいものは出ない。
LATTICE K-17。
出ない。
「ないですね」
以安は中国語でも試していた。
「こっちもない」
久世は古い企画書と、昨日見つけた三日後のイベント案内を並べた。
どちらにもCIVICA。
どちらにもバンコク。
一方には、若晴の赤い字でK-17。
「若晴が東京に来た理由って、先生に昔の資料を見せてもらうためだったんですか」
浩が訊いた。
「その予定だった」
「何を見るって?」
久世は答えようとして止まった。
「先生?」
「待て」
椅子を立ち、奥の棚へ行く。本を何冊かどかして、古いファイルボックスを引き出した。
「若晴から、東京に来る前にメールがあった」
「何て?」
「昔の共同研究の資料を残してないかって」
「何の?」
「都市比較の評価方法」
久世はファイルを探しながら答えた。
「俺はてっきり、ウルクの調査で使うんだと思ってた」
「ウルク?」
以安が反応した。
「ああ。バンコクのあと、調査に行く予定がある」
「それ、私が聞いてなかったやつか」
「たぶんな」
久世が一冊のファイルを抜いた。
表紙には年度と共同研究名しかない。
ページをめくる。
途中で止まった。
「ない」
「何が?」
「評価条件の原本」
「原本?」
「若晴が見たがってたやつ」
久世はもう一冊開いた。
そちらにもない。
「持って帰ったんじゃないですか」
「昨日までは、そう思ってた」
「いつ?」
「一昨日」
浩と以安が同時に顔を上げた。
「林さん、ここに来てたんですか」
「来たよ」
「聞いてない」
以安の声が低くなった。
久世は少し困った顔をした。
「東京に着いた日に、一時間くらい。昔の資料を見せてくれって」
「それで?」
「何冊か出した。若晴は写真を撮って帰った」
「その中に、その原本が?」
「あったはずだ」
「今ない」
「ないな」
久世は棚をもう一度探した。
浩は机の上の資料を見た。
CIVICA。
LATTICE。
バンコク。
K-17。
そして、なくなった昔の評価条件。
「先生」
「何」
「林さん、それを持っていったんじゃないですか」
久世は手を止めた。
「勝手に?」
「写真だけじゃ足りなかったとか」
「若晴なら、借りるなら言う」
以安が横から言った。
「約束は忘れるのに?」
「そういうのは言います」
久世も頷いた。
「研究資料だけはな」
「じゃあ」
浩が言いかけたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
三人ともそちらを見た。
若晴のものではない。
以安のスマートフォンだった。
画面にメッセージが一件届いている。
彼女が開く。
読んだあと、表情が変わった。
「誰?」
久世が訊いた。
以安は画面を二人へ向けた。
送信者は知らない名前だった。
英語で、一行だけ書かれている。
Are you Lin Ruo-Qing’s sister?
林若晴の妹ですか。
その下に、もう一件届いた。
My name is Pim. She told me to contact you if I couldn’t reach her.




