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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第一部 七月、東京

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第六話 CIVICA

 林若晴のスマートフォンは、その夜も鳴らなかった。


 翌朝、草野浩が駒場の研究室へ行くと、林以安はもう来ていた。昨日と同じ服ではなかったが、昨日と同じ椅子に座り、姉のスマートフォンを机の上に置いている。


「寝ました?」


 浩が訊くと、以安は「少し」と答えた。


「連絡は?」


「ないです」


 それ以上は訊かなかった。


 久世は窓際でコーヒーを淹れていた。昨日見つけたCIVICAのイベント案内が机に残っている。


「先生、昨日の続き」


「朝から元気だな」


「気になって」


「知ってる」


 久世は紙コップを持って座った。


 CIVICAは都市データを扱う企業だった。設立は十年ほど前。行政や不動産会社、物流、商業施設などから得たデータを統合し、人の移動や地域の変化を分析する。最初はコンサルティングに近かったが、やがて自社の予測モデルを売るようになった。


「便利そうですね」


「便利だよ」


「そこ否定しないんだ」


「なんで否定するんだよ」


 久世はそう言って、CIVICAの古い資料を浩へ渡した。


 写真には、巨大なスクリーンの前に立つ男女が写っていた。道路や鉄道、建物が三次元の都市模型のように表示され、上に色の違う点が重なっている。今となっては特別珍しい画面でもない。


「こっち」


 久世が別の写真を指した。


 若い林若晴がいた。


 今の浩が知っているのは履歴書の写真だけだったが、たぶん本人だった。三十代前半だと聞いていたから、これは二十代半ばくらいだろう。その隣に、背の高い男がいる。


「梁志恒?」


「そう」


 昨日のイベント案内にあったCIVICAの創業者だった。


 二人とも笑っていた。


「仲良さそうですね」


「仲はよかったよ」


「先生も知ってるんですか」


「梁とは何度か会った」


 久世は写真を受け取った。


「頭のいい人だよ。人に説明するのもうまい。若晴よりずっと」


「姉、説明下手なんですか」


 以安が訊いた。


「興味がない人に説明するのが下手」


「ああ」


 以安は妙に納得した。


 久世によれば、若晴がCIVICAに入ったのは、研究をやめたかったからではない。


 逆だった。


「大学で都市を研究すると、何が困ると思う?」


 浩は考えた。


「金がない」


「それもある」


「データがない」


「そっち」


 都市について大胆な仮説を立てても、検証できるデータには限界がある。統計は粒度が違い、時期も違い、都市ごとに形式も違う。企業が持つ移動履歴、決済、物流、不動産、店舗のデータには、大学だけでは触れられないものも多かった。


 CIVICAはそれを持っていた。


「若晴には魅力的だったんですね」


「ものすごくな」


「先生は行かなかったんですか」


「誘われてない」


「誘われたら?」


「どうだろうな」


 久世は笑った。


 以安が写真を見ていた。


「姉、会社員だった時期、短いですよね」


「数年だな」


「家では全然話さなかった」


「そういう仕事の話をする家じゃない?」


「というより、姉がしないです。聞いても『説明しても分からない』って」


「嫌な言い方だな」


「嫌な人なんです」


 以安は写真を机へ戻した。


 その言い方も、もう浩には少し分かるようになっていた。


 久世がCIVICAの資料を何枚か広げた。


「最初は、都市をよく見るための道具だったんだと思う」


「最初は?」


「見えるようになると、次は当てたくなる」


 昨日聞いた話だった。


 人がどこへ移動するか。どの地区に店が増えるか。地価がどう動くか。物流量がどこで増えるか。そうした変化を過去のデータから予測する。


「天気予報みたいなものですか」


 浩が訊いた。


「昔、若晴もそんな説明をしてた」


「分かりやすい」


「だから危ない」


「え」


「分かりやすすぎるんだよ」


 久世は椅子にもたれた。


「明日雨が降るって予報を見ても、雨は人間の都合で降らない。でも、来年この街の地価が上がるって予測を投資家が見たらどうする?」


「買う」


「店が増えると言われたら?」


「出店する」


「物流が伸びると言われたら?」


「倉庫を作る」


 浩はそこで止まった。


「予測したから、そうなる?」


「場合によっては」


「じゃあ当たったことになるんですか」


「面白いだろ」


 久世が言った。


 浩は少し笑った。


「先生も好きじゃないですか、こういう話」


「好きだから困るんだよ」


 机の端で、以安が姉のスマートフォンを見ていた。


 久世は続けた。


「ただし、今のは一般論だ。CIVICAが何か不正をしたって話じゃない」


「昨日のメモは?」


「『まだ同じことをやってる』だけじゃ分からん。批判なのか、ただの感想なのかも分からない」


「梁って人と揉めて辞めたとか」


「そういう話にしたい?」


「ちょっと」


「やめとけ」


 久世は笑った。


「若晴と梁は、少なくとも最初は同じものを見てた。都市を経験とか勘だけで語るのを減らしたかった。人間が暮らす場所なんだから、もっと測れるはずだって」


「いいことじゃないですか」


「いいことだよ」


 久世は即答した。


「だから面倒なんだ」


 善意から始めたものが、途中で悪になる。


 浩はそういう話を想像したが、久世が言っているのは少し違うらしかった。


「若晴は何が嫌になったんですか」


「本人に聞け」


「いないから聞いてるんです」


「正しい」


 久世はしばらく考えた。


「たぶん、測ることより、使うことの方が速くなったんだよ」


 浩にはよく分からなかった。


「会社なんだから使うでしょ」


「そう。梁はそう思った」


「若晴は?」


「使う前に、もっと疑いたかった」


「研究者だ」


「研究者なんだよ」


 久世は少し笑った。


「予測精度が七十から八十になったら使えると思う人間と、残り二十が何なのか気になる人間が、一緒に会社をやれば、そのうち喧嘩する」


「それで辞めた?」


「そんな単純でもない。若晴だって、実社会で使えることに興奮してた。自分の研究が役に立つの、嫌な研究者ばかりじゃないからな」


 浩は若晴の写真を見た。


 昨日までは、どこかでトラブルに巻き込まれた研究者だった。


 今は少し違って見えた。


 都市を比べる研究をして、もっとデータが欲しくなり、企業へ行った。そこで自分の考えが実際の街に使われるようになった。


 その人間が今、自分でホテルを出て、スマートフォンだけを残している。


「このLATTICEって何ですか」


 以安が言った。


 二人とも彼女を見た。


 以安は別の資料を開いていた。CIVICAの古いプレゼンテーションらしく、表紙に大きく名前が出ている。


 LATTICE


「それ、どこにあった?」


「このファイル」


 久世が受け取った。


「昔の企画書だな」


「知ってるんですか」


「名前は」


 浩が横から覗く。


 英語ばかりだったが、図なら分かった。複数の都市データが中央のモデルへ集まり、そこから未来の人口分布や人流らしい図へ線が伸びている。


「これが予測するやつ?」


「原型だろうな」


「若晴さんが作った?」


「一人で作るものじゃない」


 久世はページをめくった。


 研究チームの名前が並んでいる。


 林若晴。


 梁志恒。


 ほかにも何人もいる。


 浩は若晴の名前の横に、小さく書かれた肩書きを読んだ。


「Urban Priors?」


 久世の指が止まった。


「そこは今いい」


「なんで」


「長くなる」


「気になるなあ」


「お前は気になるものが多すぎる」


 浩は企画書を取り戻した。


 後ろのページへ進むと、世界地図が出てきた。いくつかの都市に点が打たれている。台北、シンガポール、バンコク、そのほかにもいくつか。


 そのうち、バンコクだけに赤い丸が付いていた。


 手書きだった。


「これ、若晴さんの字ですよね」


 以安が覗いた。


「たぶん」


 赤い丸の横には、


 K-17


 と書いてあった。


 昨日、バンコクの地図にもあった記号だ。


 三人とも黙った。


 偶然ではなかった。


「K-17って、何なんですか」


 浩が訊いた。


「知らない」


 久世は答えた。


 今度の「知らない」は、昨日までとは少し違った。


 以安がスマートフォンを取り出した。


「検索すれば出るんじゃないですか」


「会社の内部名なら出ないかも」


 浩も自分のスマートフォンを出した。


 検索する。


 K-17 CIVICA Bangkok。


 それらしいものは出ない。


 LATTICE K-17。


 出ない。


「ないですね」


 以安は中国語でも試していた。


「こっちもない」


 久世は古い企画書と、昨日見つけた三日後のイベント案内を並べた。


 どちらにもCIVICA。


 どちらにもバンコク。


 一方には、若晴の赤い字でK-17。


「若晴が東京に来た理由って、先生に昔の資料を見せてもらうためだったんですか」


 浩が訊いた。


「その予定だった」


「何を見るって?」


 久世は答えようとして止まった。


「先生?」


「待て」


 椅子を立ち、奥の棚へ行く。本を何冊かどかして、古いファイルボックスを引き出した。


「若晴から、東京に来る前にメールがあった」


「何て?」


「昔の共同研究の資料を残してないかって」


「何の?」


「都市比較の評価方法」


 久世はファイルを探しながら答えた。


「俺はてっきり、ウルクの調査で使うんだと思ってた」


「ウルク?」


 以安が反応した。


「ああ。バンコクのあと、調査に行く予定がある」


「それ、私が聞いてなかったやつか」


「たぶんな」


 久世が一冊のファイルを抜いた。


 表紙には年度と共同研究名しかない。


 ページをめくる。


 途中で止まった。


「ない」


「何が?」


「評価条件の原本」


「原本?」


「若晴が見たがってたやつ」


 久世はもう一冊開いた。


 そちらにもない。


「持って帰ったんじゃないですか」


「昨日までは、そう思ってた」


「いつ?」


「一昨日」


 浩と以安が同時に顔を上げた。


「林さん、ここに来てたんですか」


「来たよ」


「聞いてない」


 以安の声が低くなった。


 久世は少し困った顔をした。


「東京に着いた日に、一時間くらい。昔の資料を見せてくれって」


「それで?」


「何冊か出した。若晴は写真を撮って帰った」


「その中に、その原本が?」


「あったはずだ」


「今ない」


「ないな」


 久世は棚をもう一度探した。


 浩は机の上の資料を見た。


 CIVICA。


 LATTICE。


 バンコク。


 K-17。


 そして、なくなった昔の評価条件。


「先生」


「何」


「林さん、それを持っていったんじゃないですか」


 久世は手を止めた。


「勝手に?」


「写真だけじゃ足りなかったとか」


「若晴なら、借りるなら言う」


 以安が横から言った。


「約束は忘れるのに?」


「そういうのは言います」


 久世も頷いた。


「研究資料だけはな」


「じゃあ」


 浩が言いかけたところで、机の上のスマートフォンが震えた。


 三人ともそちらを見た。


 若晴のものではない。


 以安のスマートフォンだった。


 画面にメッセージが一件届いている。


 彼女が開く。


 読んだあと、表情が変わった。


「誰?」


 久世が訊いた。


 以安は画面を二人へ向けた。


 送信者は知らない名前だった。


 英語で、一行だけ書かれている。


 Are you Lin Ruo-Qing’s sister?


 林若晴の妹ですか。


 その下に、もう一件届いた。


 My name is Pim. She told me to contact you if I couldn’t reach her.

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