第五話 事件性
ホテルを出たあと、以安が警察へ行きたいと言った。
近くの交番で事情を説明すると、話は思っていたより簡単だった。林若晴は成人した研究者で、今朝、自分でホテルをチェックアウトしている。大きな荷物も客室には残っていない。妹との待ち合わせには現れず、電話にも出ないが、それだけで犯罪に巻き込まれたとは判断できない。ホテルにスマートフォンを置いていたことについても、警察官は「普段そういうことをしない」という以安の話を丁寧に聞いたが、そこから先へは進まなかった。
「じゃあ、何か起きるまで探してもらえないんですか」
以安はかなり直接的に訊いた。警察官は困った顔をせず、「危険を示す事情があれば話が変わります」と答えた。持病、自殺をほのめかす連絡、事件を疑わせる人物、脅迫。どれもなかった。
久世が横から、「分かりました。まず知人や予定を確認します」と言って話を終えた。
外へ出ると、以安はしばらく歩いてから言った。
「事件じゃないんですね」
「事件じゃないとは言われてないよ」と久世は答えた。「事件だと判断できる材料がないだけだ」
「私には同じです」
「警察には違う」
以安は納得していなかったが、それ以上は言わなかった。手にはホテルから受け取った若晴のスマートフォンがある。画面はロックされたままで、以安も暗証番号を知らなかった。
「家族でも知らないんだ」
浩が言うと、以安は少し苛立った顔で振り向いた。
「草野さん、自分のスマホの暗証番号、お母さんに教えてます?」
「教えてないです」
「じゃあ同じです」
言われてみれば、その通りだった。
家族なら何でも知っている。家族なら何でも分かる。浩はなんとなくそういうものだと思っていたが、実際には姉のスマートフォン一つ開けられない。そのくせ、以安は若晴がそれをホテルに置いていく人間ではないことだけは確信している。
駒場へ戻るころには、夕方になっていた。
久世は研究室へ入ると、朝まで資料整理に使っていた机を空けた。以安が若晴のスマートフォンを置き、三人でそれを見た。黒い画面には何も出ていない。
「若晴を探すなら、まず今日何をしていたのかだな」
「先生と会う予定でした」
「三時にな。それより前が分からない」
「ホテルを出たあとのこと?」
「そう」
久世は床の段ボール箱を引き寄せた。
「昨日の続きやろう」
「今からですか」
「今だからだよ」
浩は時給を確認したかったが、以安の前ではやめた。
資料を、今度は内容ではなく日付で見ていった。若晴の研究資料は相変わらず整理が悪く、都市史の論文に飛行機の搭乗券が挟まり、バンコクの都市図の裏から台北の歯科医院の領収書が出てきた。
「本当に歯医者の紙まで入ってる」
浩が言うと、以安は「家も同じです」と返した。少し前まで深刻な顔をしていたのに、姉の散らかし方について話すときだけ、いつもの調子に戻るらしかった。
それでも、新しい資料が出るたび、三人の手は止まった。
台北の土地利用図。バンコクの人流データ。イスタンブール、メキシコシティ、上海。それらに混じって、古代ウルクの復元図がある。時代も人口も制度もまるで違う都市を、若晴は同じ形式の表へ押し込もうとしていた。
浩は一枚の表を久世へ見せた。
「これ、昨日見た記号と同じですよね」
「そうだな」
「若晴さん、本当に全部比べてたんですか」
「全部、は言いすぎだが、かなり広くやってた」
「無茶じゃないですか」
「無茶だよ」
久世はあっさり言った。
「じゃあ、なんで」
「面白かったからだろ」
「本人が?」
「俺もだ」
浩は顔を上げた。
久世はその表を机へ置いたまま、しばらく眺めていた。
「昔、少し一緒にやってた。都市が時代も文化も違うのに、似た問題を繰り返してるんじゃないかって。水をどう運ぶか、人をどう集めるか、物をどこへ置くか、誰が記録するか。そういうものを同じ机に載せてみたくなる時期があった」
「じゃあ、昨日言ってたのは」
「似ていることと、つながっていることは違う、だろ」
「はい」
「似ているかもしれないと思うことまで禁止したら、研究なんかできない。ただ、面白い仮説ほど、自分で壊しにいかないと駄目になる」
久世はそこで話を切った。
浩は少し意外だった。この人は最初から慎重な研究者なのだと思っていた。実際には、慎重になった理由があるらしい。
以安が別のファイルを開いた。
「これ、姉の経歴です」
英文の履歴書だった。大学、研究機関、論文、プロジェクト。その途中に、浩の知らない会社名があった。
CIVICA
「これ何ですか」
浩が訊くと、以安が答えた。
「姉が前にいた会社」
「会社?」
「都市のデータを扱ってたところ。私は詳しく知らないですけど」
久世が履歴書を取った。
「これ、いつの版だ」
ページをめくる。その後ろから、企業イベントの案内が出てきた。開催地はバンコク。日付は三日後だった。
浩が先に名前を見つけた。
「梁志恒」
登壇者の欄に、Founder & CEO, CIVICA とある。
その横に若晴の赤い字で、短いメモが書かれていた。
久世は読んだあと、何も言わなかった。
「何て書いてあるんですか」
「まだ同じことをやってる、だな」
「誰が?」
久世はイベント案内を机へ置いた。
以安が訊いた。
「姉、CIVICAに会いにバンコクへ行くんですか」
「分からない。ただ、この会社と若晴が無関係じゃないのは確かだ」
浩は履歴書を見た。大学の研究者が、なぜ都市データの会社へ行ったのか。その会社を辞めたあとも、なぜバンコクのイベントを追っているのか。
「CIVICAって、何をする会社なんですか」
久世は少し考えた。
「昔の若晴は、都市を比べたかった」
「はい」
「その次に、都市を説明したくなった」
久世は机の上のバンコクの地図を指で軽く叩いた。
「CIVICAは、その先へ行った会社だよ」
「その先?」
「都市が次にどう変わるかを、当てようとした」
浩はもう一度イベント案内を見た。
「未来予測?」
「そんな大げさな言い方はしない。人流、商業、交通、不動産。データから、次にどこが伸びるかを予測する」
「当たるんですか」
久世は答えなかった。
代わりに、若晴の赤い書き込みを指でなぞった。
「たぶん若晴は今、それを確かめに行こうとしてる」
「バンコクへ?」
「さあ」
久世はそこで初めて、少し嫌そうな顔をした。
「問題は、予測が当たったかどうかじゃないかもしれない」




