第四話 ホテル
ホテルは渋谷駅から少し離れた大通り沿いにあった。外国人客の多い、中くらいのホテルだった。
駒場からここまで、林以安はほとんど喋らなかった。
草野浩も黙っていた。
三十分前までは、知らない研究者が待ち合わせに来ないという話だった。それが電車を一つ乗り継いだだけで、その人間が最後にいた場所へ向かうことになった。
浩は少し後悔していた。
面白そうだからついてきた。
それ自体は嘘ではない。
ただ、ホテルが近づくにつれて、これは本当に他人の生活なのだという感じが強くなった。
自動ドアが開く。
冷房の風と、微かに香水のような匂いがした。
「ここです」
以安は迷わずフロントへ向かった。
久世が浩に小さく言った。
「俺たちは後ろでいい」
浩は頷いた。
以安は受付の女性に日本語で事情を説明した。
「林若晴という名前で泊まっているはずです。姉です。今日の十一時にここで会う約束だったんですけど、連絡が取れなくて」
受付の女性は端末を確認し、少し困った顔をした。
「恐れ入りますが、ご宿泊のお客様については――」
「分かってます」
以安は遮らなかった。
「部屋を教えてほしいわけじゃないです。姉に連絡だけしてもらえませんか」
それなら、と受付の女性が電話を取った。
しばらく待つ。
応答はなかった。
「やっぱり出ませんか」
「はい」
以安はスマートフォンを握ったまま、フロントの奥を見た。
「朝もお願いしたんです。同じでした」
受付の女性がもう一度端末を確認した。
その指が止まった。
「少々お待ちください」
奥へ消えた。
浩は久世を見た。
「何ですかね」
「さあ」
久世はそれ以上言わなかった。
数分して、別の男性が出てきた。責任者らしかった。以安にもう一度名前と関係を確認し、パスポートを見せてもらっている。
話は英語になった。
浩には全部は聞き取れなかった。
ただ、途中で以安が、
「Checked out?」
と聞き返したのは分かった。
久世も顔を上げた。
話が終わる前に、以安がこちらを振り返った。
「姉、もうチェックアウトしてます」
「今日?」
「今朝」
久世がフロントへ近づいた。
「本人が手続きを?」
男性は慎重に言葉を選んだ。
詳細は答えられない。ただ、宿泊はすでに終了している。それだけは間違いないという。
「何時ごろですか」
以安が聞いた。
そこまでは答えてもらえなかった。
「でも、おかしい」
以安は言った。
「十一時にここで会うって、昨日の夜に確認してるんです」
スマートフォンを開き、メッセージを見せた。
〈明天十一點,飯店大廳?〉
その下に、若晴から短い返信がある。
〈OK〉
浩にも、それだけは読めた。
「チェックアウトしてから戻ってくるつもりだったとか」
浩が言った。
以安は少し考えた。
「なくはないです」
姉の行動としては、まだあり得るらしい。
「荷物は?」
久世が聞いた。
「分かりません」
「バンコクに行くなら、かなり持ってきてるんだろ」
「スーツケースと、リュック。あとパソコン」
「パソコン?」
「仕事だから。絶対あります」
若晴は東京のあと、バンコクへ向かう予定だった。
そこまでは本人の予定通りなのかもしれない。
朝ホテルを出た。
どこかへ行った。
妹との待ち合わせを忘れた。
電話に出ない。
浩は頭の中で並べた。
林若晴という人物について、昨日から聞いた話だけなら、どれもそれほど不可能には思えなかった。
むしろ、そういう人なのだと言われれば納得できる。
「じゃあ、まだ事件って感じじゃないですね」
浩は言った。
久世は彼を見た。
「事件にしたいのか」
「そういう意味じゃないです」
「なら、決めるな」
「はい」
久世はフロントへ向き直った。
「忘れ物はありませんでしたか」
ホテルの男性が少し迷った。
それも本来なら答えにくい質問だったらしい。
以安が姉の写真を見せ、もう一度事情を説明した。男性は別のスタッフと相談してから、奥へ入っていった。
待っているあいだ、以安は母親からの着信をまた無視した。
「出なくていいの」
浩が聞いた。
「まだ言うことがないから」
「チェックアウトしたって言えば」
「そうしたら、『どこに行ったの』って聞かれます」
「分からない」
「でしょ」
以安はスマートフォンをポケットへ入れた。
「分からないことを家に報告すると、分からないことが増えるだけなんです」
浩には少し分かる気がした。
五分ほどして、男性が戻ってきた。
手には何も持っていなかった。
「お荷物については、こちらには残っていません」
以安が聞いた。
「スーツケースも?」
「はい」
「パソコンも?」
「そういったものは確認されていません」
久世が小さく息を吐いた。
「じゃあ、持って出た可能性が高いな」
「姉ならそうします」
以安の声に、少しだけ力が戻った。
自分でチェックアウトした。
荷物も持っていった。
つまり、少なくともホテルから消えたわけではない。
「ほら」
浩が言った。
「普通に移動したんじゃないですか」
「どこに?」
「それは分からないけど」
「だから困ってるんです」
「はい」
また余計なことを言った。
しかし、以安もさっきほど青い顔はしていなかった。
姉は自分でホテルを出た。
それはたぶん、よい情報だった。
三人が帰ろうとしたとき、フロントの女性が男性を呼び止めた。
小声で何か話している。
男性が振り返った。
「林様」
以安が立ち止まった。
「はい」
「申し訳ありません。先ほど、忘れ物はないとお伝えしましたが、一点だけ確認がありました」
「何ですか」
「客室清掃の際に、電子機器が一つ見つかっております」
以安の顔が止まった。
「電子機器?」
「携帯電話です」
今度は誰も喋らなかった。
男性が奥へ行き、透明な袋に入った黒いスマートフォンを持って戻ってきた。
本人の所有物かどうか確認してほしいという。
以安は袋の上から一度見ただけだった。
「姉のです」
「分かる?」
久世が聞いた。
「分かります」
ケースの角が割れていた。
背面には、小さな丸いシールが貼ってある。
以安はそれをしばらく見ていた。
浩は、昨日から何度も聞かされた話を思い出した。
予定を忘れる。
連絡を忘れる。
人を待たせる。
勝手に予定を変える。
そういう姉。
「スマホも、よく忘れるの?」
浩が聞いた。
以安は答えなかった。
フロントの男性と何か手続きをして、袋の中の端末をもう一度見る。
画面は消えていた。
「以安?」
久世が呼んだ。
彼女はようやく顔を上げた。
「姉、明後日バンコクなんです」
「うん」
「航空券も、ホテルも、仕事の連絡も、全部これです」
それから、少し考えて付け加えた。
「財布なら忘れます」
浩は何も言わなかった。
「パスポートも一回忘れたことがあります」
久世も黙っていた。
以安は袋の中のスマートフォンを見た。
「でも、これを置いていったことはないです」
ホテルのロビーでは、外国人の家族が大きなスーツケースを引いてチェックインしていた。
自動ドアが開くたび、外の熱気が少しだけ入り込んでくる。
林若晴は、自分でホテルを出た。
荷物も持っていった。
パソコンもない。
ただ、スマートフォンだけが、部屋に残されていた。
その三つをどう並べればいいのか、浩にはまだ分からなかった。




