第三話 待ち合わせ
林若晴は、午後三時に来ることになっていた。
その妹は、一時すぎに来た。
「久世先生ですか」
ノックのあと、研究室の扉から顔を出した女は、二十歳くらいに見えた。白いTシャツに薄手のシャツを羽織り、片手で小さなスーツケースを引いている。額に汗が残っていた。明らかに、この暑さの中を荷物ごと移動してきた顔だった。
久世征一はコンビニの冷やし中華を食べる手を止めた。
「そうです」
「林以安です。若晴の妹です」
「ああ。初めまして」
草野浩は床に座ったまま二人を見ていた。
東京大学に入って最初の夏休み。予定のなかった浩は、久世に雇われて、台湾人研究者・林若晴が何年か前に残していった資料を整理している。昨日からその作業を始めたばかりだった。
床にはまだ、世界中の都市の地図が散らばっていた。
台北。バンコク。ウルク。
現代の地下鉄路線図と、何千年も前の都市遺跡の平面図が、同じ段ボール箱から出てきた。
その持ち主が、今日ここへ来る。
浩はそれを少し楽しみにしていた。
だが、以安は挨拶を済ませると、すぐに訊いた。
「姉、もう来てますか」
「いや。三時の約束だけど」
久世が壁の時計を見た。
以安は目を閉じた。
「やっぱり」
心配しているというより、腹を立てているようだった。
「何かあった?」
「十一時に会う約束だったんです」
「若晴と?」
「はい。ホテルで」
「来なかった?」
「一時間待ちました」
以安は日本語をほとんど淀みなく話した。発音にわずかな違いがあるだけで、浩より丁寧なくらいだった。
「電話も出ない。メッセージも読まない。だから、もしかしたら先に先生のところへ来たのかなと思って」
「こっちには来てないな」
「ですよね」
ため息をついてから、ようやく以安は浩に気づいた。
「……誰ですか」
「草野浩です」
「学生?」
「一年です。この資料を整理してます」
浩が床を指すと、以安は散らばった紙を見渡した。
「姉の?」
「はい」
「大変ですね」
「かなり」
「家にもあります」
「これが?」
「もっとあります」
「それは大変だ」
「私が言ってるんです」
以安は少し笑った。
笑うと急に、飛行機で外国から来た研究者の妹ではなく、浩とそう変わらない年齢の人間に見えた。
久世が訊いた。
「こういうこと、よくあるの?」
「何がですか」
「約束して、来ない」
「あります」
以安は即答した。
「自分で予定を決めて、自分で変えて、連絡を忘れます。あとから『忙しかった』って言う」
「若晴らしいな」
「先生までそう言うんですね」
「昔からだから」
「家族はずっと迷惑してます」
言葉はきつかったが、本気で姉を嫌っている人間の言い方ではなかった。
浩は昨日まで、林若晴という人物を勝手に想像していた。
世界中の都市を比較して、地図の余白に細い字で大量の書き込みを残し、自分の論文にまで大きく「NO」と書く研究者。少なくとも普通ではなさそうだった。
そこへ今、「予定を変えて家族に迷惑をかける姉」という情報が加わった。
その方が妙に実在感があった。
「じゃあ、今日も予定変えただけじゃないですか」
浩が言うと、以安は肩をすくめた。
「たぶん」
「なら三時には来るかも」
「そうですね」
言いながら、以安はスマートフォンを確認した。
何も来ていないらしい。
久世も若晴へ電話した。しばらく耳に当てていたが、やがて切った。
「出ない」
「寝てるとか」
「それもあります」
また即答だった。
「あるんだ」
「姉なので」
どういう理屈なのか分からなかった。
ひとまず三時まで待つことになった。
以安は空いた椅子に座った。浩は資料整理へ戻り、久世もパソコンを開いた。夏休みの研究室に、エアコンと蝉の音が戻った。
ただ、昨日までとは少し違った。
浩は紙を一枚取るたび、その向こうに持ち主を考えるようになった。
バンコクの地図を広げる。
赤いペンで丸がついている。
その横に小さく、K-17。
「これ、最近のですか」
以安がいつの間にか覗き込んでいた。
「分かるんですか」
「姉、今もバンコクの仕事してるから」
久世が顔を上げた。
「今も?」
「明後日から行くはずです」
「明後日?」
「聞いてません?」
「行くとは聞いてたけど、日程までは」
浩は地図を見た。
「東京の次がバンコク?」
「たぶん」
以安は言った。
「そのあと、またどこか行くって言ってましたけど」
「どこ?」
「知りません。姉の予定を全部覚えてたら、私の人生なくなるので」
「そんなに?」
「そんなにです」
浩は笑った。
以安は笑わなかった。
その顔を見て、浩は少しだけ申し訳なくなった。
二時を回った。
若晴から連絡はなかった。
二時二十分ごろ、以安のスマートフォンが鳴った。彼女は画面を見て、通話を切った。
「お母さん?」
久世が訊いた。
「はい」
「出なくていいの」
「姉がいないって言うと、今度は私が説明することになるので」
以安はスマートフォンを伏せた。
「いつも私なんです。姉に連絡するのも。母に説明するのも。姉が忘れたことを思い出させるのも」
久世は「ああ」とだけ言った。
謝らなかった。慰めもしなかった。
たぶん、長い付き合いの中で似たものを見てきたのだろう。
浩は聞こえないふりをして資料をめくった。
他人の家族の話だった。
昨日まで林若晴の研究は面白かった。
台北とバンコクと古代メソポタミアを同じ箱に入れている。その理由を知りたかった。
でも以安にとっては、そんなことより十一時の待ち合わせに姉が来なかったことの方が大きい。
二時四十五分。
久世がもう一度電話する。
出ない。
二時五十七分。
廊下を歩く音がした。
三人とも、ほとんど同時に扉を見た。
足音はそのまま通り過ぎた。
三時。
林若晴は来なかった。
「おかしい」
以安が言った。
その声から、さっきまでの苛立ちが消えていた。
久世も今度は否定しなかった。
「何が一番おかしい?」
「姉が約束を忘れるのは、おかしくないです」
「ひどい言い方だな」
「本当です。でも今回は、自分から言ったんです」
「何を?」
「今週、東京に来ればいいって。私、来週来るつもりだったのに」
久世の表情が変わった。
「若晴が、あなたの予定を今週に変えさせた?」
「はい」
「理由は?」
「東京にいるから、会おうって」
「それだけ?」
「それだけです」
久世はしばらく考えたあと、机からスマートフォンと財布を取った。
「ホテルへ行こう」
以安はすぐ立ち上がった。
浩だけが床に残った。
久世は彼を見た。
「草野、今日はここまででいい。時間はつけとく」
「あ、はい」
それが普通だった。
浩は資料整理のアルバイトに来ただけだ。
若晴に会ったことはない。
以安とも、二時間前に会った。
失踪したと決まったわけでもない。二人がホテルへ行けば、若晴が寝ぼけた顔で戻ってくるかもしれない。
以安がスーツケースのハンドルを伸ばした。
久世が研究室の鍵を取った。
浩は床を見た。
バンコクの地図。
その下に台北。
少し離れて、古代都市ウルクの平面図。
昨日は、この三つがなぜ同じ箱に入っているのか知りたかった。
今日は、その箱を作った人間がどこにいるのか知りたかった。
「先生」
久世が振り返った。
「僕も行っていいですか」
以安の方が先に反応した。
「なんで?」
もっともだった。
手伝えるかもしれない、と言うこともできた。
一人多い方がいい、と言うこともできた。
けれど、どちらも嘘くさかった。
「気になるから」
浩は言った。
「何が?」
「林さんが」
「会ったことないですよね」
「ないです」
「他人ですよ」
「そうですね」
以安はしばらく浩を見てから、久世へ顔を向けた。
「この人、大丈夫ですか」
「知らん。昨日から雇ってるだけだから」
「先生も知らないんだ」
久世は浩に言った。
「来るのは構わない。ただし、面白そうだからってだけなら帰れよ」
浩は返事をしかけて、やめた。
まさに面白そうだから行きたかった。
知らない研究者。
来なかった待ち合わせ。
台湾から来た妹。
世界中の都市を詰め込んだ箱。
昨日まで予定のなかった夏に、急に穴が開いたようだった。
その向こうを覗いてみたかった。
「たぶん、面白半分です」
浩は言った。
以安が呆れた。
久世は一秒ほど黙ってから笑った。
「正直でよろしい」
それから表情を戻した。
「でも向こうにとっては違う。そこだけ忘れるな」
浩は以安を見た。
彼女はもう笑っていなかった。
「分かりました」
三人で研究室を出た。
久世が鍵をかける。窓の外では蝉が鳴いていた。建物から出ると、午後三時を過ぎても駒場は容赦なく暑かった。
以安が先を歩く。
スーツケースの車輪が、舗装の継ぎ目を規則正しく叩いた。
浩はその後ろについていった。
この夏、初めて、自分とは何の関係もない人間のために電車へ乗った。




