第二話 箱
「三つに分けて」
久世征一は言った。
「必要。不要。分からない」
草野浩は、床に置かれた段ボール箱を見た。
「何に必要なんですか」
「それが分からないから、分からないって山を作るんだよ」
「すごい仕事ですね」
「大学の仕事なんて、だいたいそうだ」
東京大学の駒場キャンパスは、夏休みに入って急に人が減っていた。昨日まで試験を受ける学生で埋まっていた建物にも、今日はところどころしか人がいない。蝉の声だけがやたら大きい。
浩は大学一年生だった。昨日から夏休みに入り、予定が何もなかったところへ、前期に授業で知り合った久世から連絡が来た。
〈暇なら手伝え〉
時給が出るというので来た。
研究室というものを浩はもっと格好いい場所だと思っていたが、久世の部屋は本と紙に侵食された普通の部屋だった。机の半分は本で、椅子の一つにも本が積まれている。窓際には、いつ置いたのか分からないペットボトルの水。壁には地図が二枚貼られていて、一枚は東京、もう一枚は中東らしかった。
久世本人も、大学教授らしい威厳を出す努力をほとんどしていなかった。白い半袖シャツの裾をズボンから半分出し、サンダルを履いている。五十代で、眼鏡。髪には白いものが多い。
浩が初めて授業のあとに質問したときも、久世は「それ俺に聞く?」と言いながら二十分付き合った。そして最後に、「知らん」と言った。
浩はそのとき、この人を少し信用した。
「で、何の資料なんですか」
「人の」
「それは見れば分かります」
「林さんという研究者のだよ」
「昨日送ってきた写真の」
「そう」
久世は自分の机へ戻り、パソコンを開いた。
「林、若晴」
「リン?」
「林。若晴。台湾の人」
浩は床へ座った。
「専門は?」
「それを一言で言うと本人が怒る」
「めんどくさい人ですね」
「研究者はだいたいそうだ」
昨日、久世から送られてきた写真に、この箱が写っていた。側面には黒いマーカーで、
URUK
と書いてあった。
浩は家へ帰ってから調べた。ウルク。現在のイラク南部にある古代都市遺跡。何千年も前、人間が巨大な都市を作って暮らしていた場所。それ以上のことは、ほとんど知らない。
「なんでウルクなんですか」
「その質問をする前に働け」
浩は箱を開けた。最初に出てきたのはクリアファイルだった。英語の論文。次も論文。その次も論文。
「これ全部読むんですか」
「読んだら夏が終わるぞ」
「じゃあどうやって必要か判断するんです」
「題名、著者、年、書き込み。あと、挟まってるもの」
「雑ですね」
「資料整理だからな。研究じゃない」
浩は作業を始めた。
最初の十分は、本当に退屈だった。都市史、都市地理、考古学、人口統計。英語、中国語らしいもの。浩には読めない漢字も混じっている。
論文の余白には、細い字で大量の書き込みがあった。日本語、英語、中国語。矢印、疑問符、丸。たまに大きく、
NO
と書いてある。
「自分の論文にもNOって書く人なんですね」
浩が言うと、久世が顔を上げた。
「何見てる?」
「林さんの名前があります」
「それは分からないの山」
「必要じゃないんですか」
「本人に聞け」
浩はファイルを右側へ置いた。
必要。不要。分からない。
三つの山は、最初のうちは同じくらいの高さだった。二十分すると、ほとんど全部が「分からない」になった。
「先生」
「ん」
「これ、仕事として破綻してません?」
「正しい」
「正しいんだ」
「お前に判断できると思ってないからな」
「じゃあなんで僕なんですか」
「暇だから」
久世は平然と言った。浩は納得した。
さらに一冊。今度は論文ではなかった。折り畳まれた大きな紙で、広げると地図だった。道路、河川、地下鉄、色分けされた区域。右上に、
TAIPEI
とあった。
「台北」
浩は言った。
その下から、もう一枚出てきた。今度は、
BANGKOK.
浩は二枚を床へ並べた。
「台湾とタイ」
「そうだな」
久世は画面を見たまま言った。
さらに下から、遺跡の平面図らしいものが出てきた。
URUK.
昨日見た名前だった。
浩は三枚を並べた。台北。バンコク。ウルク。
「先生」
「ん」
「この人、何を研究してるんですか」
「都市」
「広いな」
「だから一言で言ったら怒るんだよ」
久世は笑った。
浩は地図を見た。台北には地下鉄の線が走っている。バンコクには大きな道路と川がある。ウルクには、現代の道路も地下鉄もない。三枚を同じ机に置く理由が、浩にはよく分からなかった。
「これ、比較してるんですか」
「してた」
「何を?」
「いろいろ」
「先生、説明する気ないですよね」
「お前は資料整理に来たんだろ」
「そうですけど」
浩はウルクの平面図を持ち上げた。紙の隅に、林若晴らしい筆跡で数字が書かれている。その横に小さな四角と矢印。台北の地図にも、似た印があった。
浩は二枚を重ねてみた。
「何してる」
「いや」
縮尺はまるで違う。重ねても意味はない。浩は紙を離し、今度はバンコクの地図を見た。
そこにも似た四角があった。
「これ、同じ記号じゃないですか」
久世が初めて手を止めた。
「どれ」
浩は三枚を指差した。
「これ」
久世は立ち上がってきて、床にしゃがんだ。眼鏡を少し上げる。
「ああ」
「なんですか」
「分類記号」
「何の?」
「若晴が自分で作ったやつ」
「三つの都市で同じものを探してたってことですか」
「そういう時期はあった」
「東京も?」
「ある」
「他は?」
「あるよ」
「どこですか」
久世は段ボール箱を指差した。
「掘れ」
それから十五分、作業は急に面白くなった。
ニューヨーク、イスタンブール、上海、メキシコシティ、ラゴス、ロンドン。知らない都市もあった。同じ箱ではない資料まで久世が引っ張り出してきた。
「これも」
「これも?」
「昔のやつ」
浩の周囲に、都市が増えていった。地下鉄路線図、土地利用図、人口密度の図、古代都市の復元図、衛星写真、手書きのメモ。コンビニのレシートまで出てきた。
「なんでレシート」
「知らん」
「残す?」
「分からない」
右側の山へ投げる。
浩は床に座ったまま、地図を見回した。世界中の都市が、久世の薄汚れた研究室の床に広がっている。ほんの一時間前まで紙の山だったものに、少しだけ形が出てきた。
「これ」
浩は言った。
「似てません?」
久世はコーヒーを飲んでいた。
「何が」
「全部」
「全部は便利な言葉だな」
「いや、なんというか」
浩はうまく説明できなかった。道路の形が同じわけではない。建物も違う。時代も違う。人口も違う。ウルクには地下鉄などない。
それでも、林若晴は何か同じものを探していたように見えた。
人が集まる場所。物を置く場所。道が細くなる場所。水。境界。中心。
浩は地図を行ったり来たりした。
「人間が大勢住むと、結局、似たような形になるとか?」
久世はコーヒーを置いた。
「ならない」
即答だった。
「早いな」
「雑すぎる」
「でも、この人は比べてたんでしょう」
「比べるのと、同じだと言うのは違う」
「似てるじゃないですか」
「似ていることと、つながっていることも違う」
浩は黙った。
久世は床のウルクを指差した。
「たとえば、ここに四角がある」
「はい」
「台北にも四角がある」
「はい」
「だから同じものか?」
「分からない」
「そう」
久世は立ち上がった。
「分からないを飛ばして、分かった顔をするのが一番早い。あと一番楽しい」
「先生もやったことあるんですか」
「あるから言ってる」
久世は机へ戻った。浩は少し笑った。
「林さんも?」
久世は答えなかった。代わりにキーボードを数回叩き、それから言った。
「その箱、昔ここに置いていったやつなんだ」
「台湾から送ってきたんじゃないんですか」
「違う。何年か前」
「じゃあ、なんで今整理してるんです?」
「本人が来るから」
浩は顔を上げた。
「日本に?」
「もう東京にいる」
久世は言った。
「明日、ここへ来る予定だ」
「林若晴さんが」
「そう」
浩は足元を見た。
さっきまでただの紙だったものが、急に誰かの持ち物に戻った。この地図へ線を引いた人間。余白にNOと書いた人間。台北とバンコクとウルクを同じ箱へ放り込んだ人間。
「何しに来るんですか」
「俺もそれを聞く」
「先生も知らないんですか」
「だいたいは」
「だいたい」
「若晴とはそういう付き合いなんだよ」
久世のスマートフォンが鳴った。画面を見て、久世が眉を寄せる。電話ではなく、メッセージだったらしい。数秒、画面を読んでいた。
「どうしました」
「いや」
久世はスマートフォンを伏せた。
「明日、もう一人来る」
「誰ですか」
「林以安」
「また林」
「若晴の妹だ」
「妹?」
「台湾から来る」
「なんで?」
久世はそこで、少し困った顔をした。今日初めて見る顔だった。
「姉と東京で会うことになってるらしい」
「ここで?」
「いや。先に別の場所で」
浩は何となく、嫌な言い方だと思った。
「じゃあ、なんでここにも来るんですか」
久世は答えず、もう一度スマートフォンを手に取った。画面を操作して耳へ当て、しばらく待った。
「出ないな」
「林さん?」
「ああ」
「忙しいんじゃないですか」
「かもな」
久世は電話を切った。
床にはまだ、世界中の都市が散らばっていた。台北。バンコク。ウルク。
浩はそれらを箱へ戻そうとして、手を止めた。
「先生」
「何」
「明日も僕、来るんですか」
久世は少し考えた。
「暇だろ」
「暇ですけど」
「じゃあ来い」
浩はウルクの地図を畳んだ。
そのときにはまだ、明日ここへ来るはずの人間が一人足りなくなることを、誰も知らなかった。




