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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第一部 七月、東京

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2/16

第二話 箱

「三つに分けて」


 久世征一は言った。


「必要。不要。分からない」


 草野浩は、床に置かれた段ボール箱を見た。


「何に必要なんですか」


「それが分からないから、分からないって山を作るんだよ」


「すごい仕事ですね」


「大学の仕事なんて、だいたいそうだ」


 東京大学の駒場キャンパスは、夏休みに入って急に人が減っていた。昨日まで試験を受ける学生で埋まっていた建物にも、今日はところどころしか人がいない。蝉の声だけがやたら大きい。


 浩は大学一年生だった。昨日から夏休みに入り、予定が何もなかったところへ、前期に授業で知り合った久世から連絡が来た。


〈暇なら手伝え〉


 時給が出るというので来た。


 研究室というものを浩はもっと格好いい場所だと思っていたが、久世の部屋は本と紙に侵食された普通の部屋だった。机の半分は本で、椅子の一つにも本が積まれている。窓際には、いつ置いたのか分からないペットボトルの水。壁には地図が二枚貼られていて、一枚は東京、もう一枚は中東らしかった。


 久世本人も、大学教授らしい威厳を出す努力をほとんどしていなかった。白い半袖シャツの裾をズボンから半分出し、サンダルを履いている。五十代で、眼鏡。髪には白いものが多い。


 浩が初めて授業のあとに質問したときも、久世は「それ俺に聞く?」と言いながら二十分付き合った。そして最後に、「知らん」と言った。


 浩はそのとき、この人を少し信用した。


「で、何の資料なんですか」


「人の」


「それは見れば分かります」


「林さんという研究者のだよ」


「昨日送ってきた写真の」


「そう」


 久世は自分の机へ戻り、パソコンを開いた。


「林、若晴」


「リン?」


「林。若晴。台湾の人」


 浩は床へ座った。


「専門は?」


「それを一言で言うと本人が怒る」


「めんどくさい人ですね」


「研究者はだいたいそうだ」


 昨日、久世から送られてきた写真に、この箱が写っていた。側面には黒いマーカーで、


 URUK


 と書いてあった。


 浩は家へ帰ってから調べた。ウルク。現在のイラク南部にある古代都市遺跡。何千年も前、人間が巨大な都市を作って暮らしていた場所。それ以上のことは、ほとんど知らない。


「なんでウルクなんですか」


「その質問をする前に働け」


 浩は箱を開けた。最初に出てきたのはクリアファイルだった。英語の論文。次も論文。その次も論文。


「これ全部読むんですか」


「読んだら夏が終わるぞ」


「じゃあどうやって必要か判断するんです」


「題名、著者、年、書き込み。あと、挟まってるもの」


「雑ですね」


「資料整理だからな。研究じゃない」


 浩は作業を始めた。


 最初の十分は、本当に退屈だった。都市史、都市地理、考古学、人口統計。英語、中国語らしいもの。浩には読めない漢字も混じっている。


 論文の余白には、細い字で大量の書き込みがあった。日本語、英語、中国語。矢印、疑問符、丸。たまに大きく、


 NO


 と書いてある。


「自分の論文にもNOって書く人なんですね」


 浩が言うと、久世が顔を上げた。


「何見てる?」


「林さんの名前があります」


「それは分からないの山」


「必要じゃないんですか」


「本人に聞け」


 浩はファイルを右側へ置いた。


 必要。不要。分からない。


 三つの山は、最初のうちは同じくらいの高さだった。二十分すると、ほとんど全部が「分からない」になった。


「先生」


「ん」


「これ、仕事として破綻してません?」


「正しい」


「正しいんだ」


「お前に判断できると思ってないからな」


「じゃあなんで僕なんですか」


「暇だから」


 久世は平然と言った。浩は納得した。


 さらに一冊。今度は論文ではなかった。折り畳まれた大きな紙で、広げると地図だった。道路、河川、地下鉄、色分けされた区域。右上に、


 TAIPEI


 とあった。


「台北」


 浩は言った。


 その下から、もう一枚出てきた。今度は、


 BANGKOK.


 浩は二枚を床へ並べた。


「台湾とタイ」


「そうだな」


 久世は画面を見たまま言った。


 さらに下から、遺跡の平面図らしいものが出てきた。


 URUK.


 昨日見た名前だった。


 浩は三枚を並べた。台北。バンコク。ウルク。


「先生」


「ん」


「この人、何を研究してるんですか」


「都市」


「広いな」


「だから一言で言ったら怒るんだよ」


 久世は笑った。


 浩は地図を見た。台北には地下鉄の線が走っている。バンコクには大きな道路と川がある。ウルクには、現代の道路も地下鉄もない。三枚を同じ机に置く理由が、浩にはよく分からなかった。


「これ、比較してるんですか」


「してた」


「何を?」


「いろいろ」


「先生、説明する気ないですよね」


「お前は資料整理に来たんだろ」


「そうですけど」


 浩はウルクの平面図を持ち上げた。紙の隅に、林若晴らしい筆跡で数字が書かれている。その横に小さな四角と矢印。台北の地図にも、似た印があった。


 浩は二枚を重ねてみた。


「何してる」


「いや」


 縮尺はまるで違う。重ねても意味はない。浩は紙を離し、今度はバンコクの地図を見た。


 そこにも似た四角があった。


「これ、同じ記号じゃないですか」


 久世が初めて手を止めた。


「どれ」


 浩は三枚を指差した。


「これ」


 久世は立ち上がってきて、床にしゃがんだ。眼鏡を少し上げる。


「ああ」


「なんですか」


「分類記号」


「何の?」


「若晴が自分で作ったやつ」


「三つの都市で同じものを探してたってことですか」


「そういう時期はあった」


「東京も?」


「ある」


「他は?」


「あるよ」


「どこですか」


 久世は段ボール箱を指差した。


「掘れ」


 それから十五分、作業は急に面白くなった。


 ニューヨーク、イスタンブール、上海、メキシコシティ、ラゴス、ロンドン。知らない都市もあった。同じ箱ではない資料まで久世が引っ張り出してきた。


「これも」


「これも?」


「昔のやつ」


 浩の周囲に、都市が増えていった。地下鉄路線図、土地利用図、人口密度の図、古代都市の復元図、衛星写真、手書きのメモ。コンビニのレシートまで出てきた。


「なんでレシート」


「知らん」


「残す?」


「分からない」


 右側の山へ投げる。


 浩は床に座ったまま、地図を見回した。世界中の都市が、久世の薄汚れた研究室の床に広がっている。ほんの一時間前まで紙の山だったものに、少しだけ形が出てきた。


「これ」


 浩は言った。


「似てません?」


 久世はコーヒーを飲んでいた。


「何が」


「全部」


「全部は便利な言葉だな」


「いや、なんというか」


 浩はうまく説明できなかった。道路の形が同じわけではない。建物も違う。時代も違う。人口も違う。ウルクには地下鉄などない。


 それでも、林若晴は何か同じものを探していたように見えた。


 人が集まる場所。物を置く場所。道が細くなる場所。水。境界。中心。


 浩は地図を行ったり来たりした。


「人間が大勢住むと、結局、似たような形になるとか?」


 久世はコーヒーを置いた。


「ならない」


 即答だった。


「早いな」


「雑すぎる」


「でも、この人は比べてたんでしょう」


「比べるのと、同じだと言うのは違う」


「似てるじゃないですか」


「似ていることと、つながっていることも違う」


 浩は黙った。


 久世は床のウルクを指差した。


「たとえば、ここに四角がある」


「はい」


「台北にも四角がある」


「はい」


「だから同じものか?」


「分からない」


「そう」


 久世は立ち上がった。


「分からないを飛ばして、分かった顔をするのが一番早い。あと一番楽しい」


「先生もやったことあるんですか」


「あるから言ってる」


 久世は机へ戻った。浩は少し笑った。


「林さんも?」


 久世は答えなかった。代わりにキーボードを数回叩き、それから言った。


「その箱、昔ここに置いていったやつなんだ」


「台湾から送ってきたんじゃないんですか」


「違う。何年か前」


「じゃあ、なんで今整理してるんです?」


「本人が来るから」


 浩は顔を上げた。


「日本に?」


「もう東京にいる」


 久世は言った。


「明日、ここへ来る予定だ」


「林若晴さんが」


「そう」


 浩は足元を見た。


 さっきまでただの紙だったものが、急に誰かの持ち物に戻った。この地図へ線を引いた人間。余白にNOと書いた人間。台北とバンコクとウルクを同じ箱へ放り込んだ人間。


「何しに来るんですか」


「俺もそれを聞く」


「先生も知らないんですか」


「だいたいは」


「だいたい」


「若晴とはそういう付き合いなんだよ」


 久世のスマートフォンが鳴った。画面を見て、久世が眉を寄せる。電話ではなく、メッセージだったらしい。数秒、画面を読んでいた。


「どうしました」


「いや」


 久世はスマートフォンを伏せた。


「明日、もう一人来る」


「誰ですか」


「林以安」


「また林」


「若晴の妹だ」


「妹?」


「台湾から来る」


「なんで?」


 久世はそこで、少し困った顔をした。今日初めて見る顔だった。


「姉と東京で会うことになってるらしい」


「ここで?」


「いや。先に別の場所で」


 浩は何となく、嫌な言い方だと思った。


「じゃあ、なんでここにも来るんですか」


 久世は答えず、もう一度スマートフォンを手に取った。画面を操作して耳へ当て、しばらく待った。


「出ないな」


「林さん?」


「ああ」


「忙しいんじゃないですか」


「かもな」


 久世は電話を切った。


 床にはまだ、世界中の都市が散らばっていた。台北。バンコク。ウルク。


 浩はそれらを箱へ戻そうとして、手を止めた。


「先生」


「何」


「明日も僕、来るんですか」


 久世は少し考えた。


「暇だろ」


「暇ですけど」


「じゃあ来い」


 浩はウルクの地図を畳んだ。


 そのときにはまだ、明日ここへ来るはずの人間が一人足りなくなることを、誰も知らなかった。

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