第一話 氷
東京の大学に入って最初の夏休み、草野浩には、驚くほど何もなかった。
七月の最後の金曜日だった。
前期の試験が終わったのは昨日で、朝、目を覚ましたときには十一時を過ぎていた。アラームはかけていなかった。カーテンの隙間から差し込む光で、部屋の中がもう十分に暑い。
浩はベッドの上でスマートフォンを見た。
高校の友人は、今日の夜行バスで帰るらしい。
大学の友人は、サークルの合宿で長野へ行くと言っている。
別の一人は恋人と沖縄だった。六月にはまだ恋人はいなかったはずなので、大学というところはすごい。
母親からもメッセージが来ていた。
〈夏、帰ってくる?〉
浩はしばらく考えて、
〈たぶん帰らない〉
と返した。
〈なんで〉
〈とくに理由ない〉
送ってから、それでは質問への答えになっていない気がした。
けれど本当に理由はなかった。
家族と仲が悪いわけではない。帰れば飯は出るし、寝る場所もある。高校の友人にも会える。
ただ、帰らなくてもよかった。
大学に入ってから、こういうことが増えた。
高校までは、だいたい次に何をするか決まっていた。
授業を受ける。試験を受ける。模試を受ける。受験する。
とくに三年の秋からは、世界がずいぶん簡単だった。
正解があった。
そこへ向かえばよかった。
四月に東京へ出てきて、その正解だけが突然なくなった。
もちろん大学には授業があった。課題も試験もあった。語学の小テストもあったし、提出期限を一度忘れて面倒なことにもなった。
けれどそれは、次にどこへ行けばいいのかという話ではなかった。
進学先を決めるのはまだ先だった。
将来やりたいことを聞かれても、浩には特になかった。
研究者。
官僚。
商社。
起業。
コンサル。
大学に入ると、そういう単語を急に口にする人間が増えた。
浩はどれも嫌ではなかった。
同じくらい、どれでもよかった。
十九歳の夏くらい、何者にもならずにいてもいいだろうと思っていた。
十一時四十分、浩はようやくベッドから降りた。
冷蔵庫を開けた。
麦茶。
卵二個。
半分になったマヨネーズ。
賞味期限を三日過ぎた豆腐。
閉めた。
シャワーを浴び、Tシャツと短パンに着替えた。財布とスマートフォンをポケットに入れ、部屋を出た。
階段を下りたところで、暑さが待っていた。
東京の夏は、暑いというより、逃げ場がなかった。
日陰へ入っても暑い。風が吹いても暑い。アスファルトからも、室外機からも、停まった車からも熱が来る。
下北沢の駅前は、平日の昼なのに人が多かった。
若い男女が歩いている。外国人旅行者がスマートフォンを見ながら立ち止まっている。宅配便の台車が横切る。古着屋の前に、何の店なのか分からない行列ができている。
浩はその横を通った。
誰も浩を知らない。
浩も誰も知らない。
それでも信号は変わり、電車は来て、店では水が出て、昨日注文した洗剤は今日の夕方にはアパートへ届くことになっていた。
浩はそんなことを普段はいちいち考えなかった。
今日も考えなかった。
ただ暑かった。
昼飯を食べようと思って外へ出たのに、途中でかき氷の旗を見つけた。
白地に赤い「氷」の一文字が、風もないのにわずかに揺れていた。
浩は立ち止まった。
昼飯より先に氷を食べるのは、人として何かを諦めている感じがした。
夏休み初日としては悪くない。
店に入った。
一人でかき氷を食べることには、思っていたより何の抵抗もなかった。
考えてみれば、ラーメンも牛丼も一人で食うのに、氷だけ二人以上で食べなければならない理由はない。
窓際の小さな席に案内された。
浩は宇治金時を頼んだ。
隣のテーブルでは、高校生らしい二人組が写真を撮っていた。向かい側では、ノートパソコンを開いた男がオンライン会議をしている。イヤホンをしているので相手の声は聞こえず、男だけが時々真剣な顔でうなずいていた。
そのすぐ横で、幼児が氷を落として泣いた。
店員が布巾を持ってきた。
誰もオンライン会議を止めなかった。
浩はぼんやりそれを見ていた。
かき氷が来た。
でかかった。
「うわ」
思わず声が出た。
店員は聞こえなかったふりをして去った。
山のように盛られた氷へ抹茶の蜜がかかり、上に餡が載っていた。白玉も三つある。
写真を撮るか迷った。
やめた。
誰に見せるわけでもない。
ひと口目はうまかった。
二口目もうまかった。
三分の一を過ぎたところで寒くなってきた。
店の外は三十五度近いはずなのに、浩の身体だけが季節を間違えた。
途中でスマートフォンが震えた。
大学のグループチャットだった。
〈八月どっか行く人いる?〉
すぐにいくつか返事がついた。
〈実家〉
〈北海道〉
〈免許合宿〉
〈彼女んち〉
〈死ね〉
浩は笑った。
〈草野は?〉
指名された。
スプーンを持ったまま考えた。
〈下北〉
と送った。
〈近〉
〈旅行ですらない〉
〈草野の夏終了〉
その通りだった。
浩はスマートフォンを伏せた。
別に焦りはなかった。
夏休みは長い。
今日が終わっても明日がある。
明日が終わっても、その次の日がある。
何もしないまま八月になったら、それはそれでいい気がしていた。
この街には本屋がある。
映画館もある。
大学から借りたまま読んでいない本も、部屋に三冊あった。
夜になれば飲みに誘われる日もあるだろう。
金がなくなったらバイトを探せばいい。
恋人はいない。
作ろうとも思っていない。
十九歳の夏は、それくらいの広さで十分だった。
残りの氷が崩れた。
餡の塊が器の底へ落ちた。
浩はスプーンで拾った。
そのとき、もう一度スマートフォンが震えた。
今度はグループチャットではなかった。
久世征一。
浩は少し姿勢を正した。
久世は、前期に浩が少しだけ世話になった駒場の教員だった。
別に親しいわけではない。
研究室へ入り浸っているわけでもない。
久世が浩を特別に目にかけているとも思わない。
ただ、授業のあとにくだらない質問をして、そのまま十分くらい話したことが何度かある。
その久世から個人的に連絡が来るのは初めてだった。
〈草野、夏休み暇か〉
浩は、自分の前にある半分溶けたかき氷を見た。
さっきのグループチャットを誰かから聞いたのかと思った。
〈暇です〉
送る。
十秒ほどで既読がついた。
〈明日、駒場に来られるか〉
〈何時ですか〉
〈午後ならいつでもいい〉
少し間があった。
〈資料の整理を手伝ってほしい〉
浩は拍子抜けした。
研究者から夏休みに呼ばれてやることとして、資料整理以上に似合う仕事もなかった。
〈バイトですか〉
〈払う〉
〈行きます〉
即答した。
〈助かる〉
そこで会話は終わった。
浩はスマートフォンを置いた。
明日の予定ができた。
それだけで、夏休みが少しまともになった気がした。
残った氷を食べる。
すっかり水っぽくなっていた。
会計を済ませ、外へ出た。
熱気が一気に身体を包んだ。
さっきまで寒かったのが嘘みたいだった。
浩は駅とは逆の方向へ歩いた。
本屋へ寄って、それから夕方まで適当に時間を潰すつもりだった。
交差点の手前で、またスマートフォンが震えた。
久世だった。
文章はなかった。
写真が一枚だけ送られてきていた。
薄暗い部屋。
床に置かれた古い段ボール箱。
蓋は半分開いていて、中にはファイルや封筒や、折り畳まれた地図らしい紙が詰め込まれている。
浩は歩きながら画像を拡大した。
箱の側面に、黒いマーカーで何か書いてあった。
アルファベットだった。
最初は人の名前かと思った。
信号が赤になったので、浩は立ち止まった。
もう一度拡大する。
四文字。
その下に、小さく数字。
浩は読んだ。
URUK
知らない単語だった。
人の名前にも見えない。
何となく検索窓へ入れた。
結果が出る。
ウルク。
古代メソポタミアの都市。
現在のイラク南部。
世界最古級の都市のひとつ。
「……なんで?」
浩は小さく言った。
目の前で信号が青になった。
人々が一斉に歩き始める。
浩も反射的についていった。
スマートフォンの画面には、乾いた大地の写真が映っていた。
見渡す限りの土。
崩れた壁。
そこに、何千年も前、人が集まって暮らしていたらしい。
浩は画面から顔を上げた。
下北沢の交差点を、知らない人間たちが次々と渡っていく。
誰かが笑った。
自転車がベルを鳴らした。
宅配のトラックが曲がってきた。
頭上を電車が走った。
明日、駒場へ行く。
段ボール箱の整理をする。
それだけだった。
浩はスマートフォンをポケットへしまった。
そして、青信号を渡った。




