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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第二部 八月、台北

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第十話 林家

 林以安の家は、浩が想像していたより普通だった。


 台北へ来てから、普通だと思うものが増えている。地下鉄も、コンビニも、マンションのエレベーターも、玄関前に置かれた宅配便の箱も、細部は違うのに使い方はだいたい分かる。以安が鍵を開けた部屋もそうだった。靴を脱ぐ場所があり、傘があり、壁に家族の写真があり、奥から夕飯の匂いがした。


「ただいま」


 以安が中国語で何か続けると、台所から母親らしい女性が出てきた。浩を見るなり、以安へ早口で何か言う。以安も返す。二人とも途中で浩を見たので、自分の話をされていることだけは分かった。


「何て?」


「思ったより若いって」


「何歳だと思ってたの」


「先生の友達みたいなの想像してたらしい」


「なんで」


「私の説明が雑だったから」


 母親は浩に日本語で「いらっしゃい」と言い、すぐに英語へ切り替えた。浩も英語で挨拶を返したが、三往復ほどしたところで双方が面倒になり、以安が間へ入った。


「お母さん、日本語分かる?」


「少し。話すのはあんまり」


「僕、中国語ゼロ」


「知ってる」


「今日どうするの」


「適当に」


「適当に通訳できる?」


「家ではいつも適当だから」


 食卓にはすでに料理が並んでいた。東京で以安から聞いた「母は怒ると料理が増える」という話は本当らしく、三人で食べるには明らかに多かった。


「お父さんは?」


「もう帰る」


「じゃあ四人か」


「六人分くらいあるけどね」


「怒ってる?」


「かなり」


「僕に?」


「なんで草野さんに怒るの」


 以安は冷蔵庫を開けながら言った。


「姉にです」


 その姉は、今日バンコクへ移動したらしい。


 東京で妹との約束をすっぽかし、スマートフォンをホテルに置いたまま姿を消した台湾人研究者、林若晴。浩と以安は一時警察まで行ったが、若晴本人から「大丈夫」という連絡が入り、捜索する理由はなくなった。浩はその数日後、誰にも頼まれないまま台北へ来た。


 自分で整理すると、やはり少しおかしい。


 父親が帰ってきたのは、浩がその家のソファで麦茶らしい飲み物を飲みながら、自分がここにいる理由をもう一度考えていたころだった。


 玄関で以安と何か話し、リビングへ入って浩を見る。四十代後半か五十代くらいに見えた。浩は立ち上がった。


「草野浩です。お邪魔しています」


 父親は少し考えてから、日本語で「どうぞ」と言った。


 それで日本語の在庫をほぼ使い切ったらしく、あとは英語になった。


 食事が始まると、以安は忙しかった。父と母が中国語で話し、浩が分からない顔をすると日本語にして、その間に自分も食べる。浩が英語で直接答えれば今度は母親へ中国語に直す。十分もしないうちに、「もうみんな英語にして」と言い出した。


 父親の英語はかなり流暢だった。母親も聞く分には困らないらしい。結果として、一番英語が怪しいのが浩になった。


「東京で、以安を助けてくれたそうですね」


 父親に言われた。


「助けたというほどでは」


「警察へ一緒に行った」


「ついていっただけです」


「ホテルにも」


「はい」


「そして台湾にも」


 浩は箸を止めた。


「それは別件です」


 以安が吹き出した。


「別件なんだ」


「観光だから」


 父親は浩と娘を交互に見た。


「二人は、いつから知り合いですか」


「四日前」


 以安が答えた。


 父親が止まった。


 母親も止まった。


「言ってなかったの?」


 浩が小声で訊いた。


「言ったと思う」


「絶対言ってない反応じゃん」


 以安は中国語で説明し直した。今度は母親が浩を見て何か言い、父親が笑った。


「何?」


「若晴と同じ種類じゃないかって」


「どういう種類」


「急に外国へ行く人」


「一緒にしないでよ」


「私もそう思う」


 若晴の名前が出ると、食卓の空気が少し変わった。


 深刻になるわけではない。むしろ、全員が慣れている感じだった。母親が何か長く話し、以安が途中から訳した。


「姉は高校のころ、学校の研修で二週間アメリカに行く予定だったのに、帰りに一人でニューヨーク寄ってきたことがあるって」


「高校生で?」


「大学だったかな」


 母親が訂正した。


「大学一年だって」


「僕と同じじゃん」


「草野さんは台北だからまだ近いね」


「比較がおかしい」


 父親も話に加わった。


 若晴は家族旅行でも、一人だけ途中で別の場所へ行く。食事の約束をしていても研究室から帰ってこない。家族のグループチャットを数週間読まないことがある。そのくせ、何年も前に一度行った店の場所や、祖母が昔住んでいた住所は妙に正確に覚えている。


「お姉さん、昔から研究者っぽかったんですか」


 浩が訊くと、以安が訳した。


 両親は顔を見合わせた。


 母親が笑った。


「違うって」


「じゃあ何になりたかったの?」


 もう一度訊く。


 今度は父親が長く話した。


「建築家」


 以安が訳した。


「最初は?」


「たぶん。街を作る人になりたかったって」


「都市研究じゃなくて」


「子供のころだから、そんな区別ないでしょ」


 若晴は道路地図が好きだったらしい。旅行へ行く前に地図を見て、帰ってきたあとも見る。家族が住む場所を変えたときも、引っ越しそのものより、地下鉄の駅まで何分になったかを気にしていた。


「変な子だった?」


 浩が訊くと、以安は訳さずに答えた。


「それは今も」


「本人いないから言いたい放題だな」


「いたらもっと言う」


 家族の中の林若晴は、浩が東京で組み立てた人物とはかなり違っていた。


 比較都市研究。


 CIVICA。


 LATTICE。


 都市の予測。


 K-17。


 それらを剥がすと、約束を忘れ、家族に連絡せず、冷蔵庫に入れておいた妹のものを勝手に食べる人間が残った。


「何食べるの?」


「プリン」


「そこまで具体的なんだ」


「名前書いても食べる」


「ひどいな」


「それで『家族なんだからいいでしょ』って言う」


「共同体を研究する人の発言とは思えない」


 以安は箸を置いた。


「姉、共同体なんて研究してないと思うけど」


「都市って共同体じゃないの?」


「知らない。本人に訊いて」


 東京にいたときと同じ言葉だった。


 本人に訊け。


 本人はいつも、少し先にいる。


 食事の途中で母親が若晴の話を始めると、以安がだんだん黙った。内容は訳されなかったが、声の調子で分かった。母親は怒っている。東京で妹を待たせたこと、連絡しなかったこと、また急にバンコクへ行ったこと。


 若晴から両親には、まだ直接連絡がないらしい。


「お母さんには連絡してないの?」


「私には来た」


「それを伝えた?」


「伝えた」


「じゃあ安心はしてる?」


「安心と怒るのは別」


 その言葉はよく分かった。


 やがて父親が浩へ訊いた。


「あなたは、若晴の研究に興味があるんですか」


 突然だったので、浩は少し迷った。


「分かりません」


「分からない?」


「資料を整理するアルバイトをしただけなので。最初は何をやっている人かも知りませんでした」


「それで台湾まで?」


 もっともだった。


「気になったんです」


「何が?」


 以安が笑った。


「それ、私も聞いた」


 浩は箸を置いた。


「東京の大学に、若晴さんが昔置いていった箱があったんです。台北とかバンコクとか、イスタンブールとか、ウルクとか、いろんな都市の資料が一緒に入ってて」


 父親が反応した。


「ウルク?」


「知ってます?」


「若晴が昔から行きたがっていた」


「やっぱり」


「やっぱり?」


「今度行く予定だって、久世先生から聞きました」


 以安が顔を上げた。


「それ、姉からは聞いてない」


「東京でも言ってたじゃん」


「聞いたけど、ほんとに行くんだ」


 母親にも話が伝わり、また若晴に対する怒りが一段増えた。海外へ行く予定をなぜ家族が他人から聞くのか、という話らしい。


 浩は申し訳なくなった。


「言わない方がよかった?」


「どうせそのうち分かるからいい」


 以安はそう言ったが、疲れた顔をしていた。


 食事が終わるころには、最初に並んでいた料理の半分もなくなっていなかった。


 本当に多かった。


「これ全部どうするの?」


「明日も食べる」


「怒りが翌日まで残るんだ」


「そういうこと言わないで」


 母親が果物を出してきたので、食事はまだ終わらなかった。


 浩はもうかなり満腹だったが、断り方が分からず食べた。


 そのとき、父親が何か思い出したように以安へ話しかけた。


 短いやり取りのあと、以安が浩を見た。


「何?」


「お父さんが、草野さんが姉の資料に興味あるなら、部屋見てもいいって」


「いいの?」


「私が一緒なら」


「本人いないのに?」


「本人は家のもの勝手に持っていくから、お互いさま」


「家族ってすごいな」


「さっき共同体とか言ってた人が何言ってるの」


 浩は少し迷った。


 若晴の私物だ。東京では久世が保管している研究資料を仕事として見ていた。ここでは違う。


「嫌ならいいよ」


 以安が言った。


「いや、見たい」


「正直」


「そこはもう諦めた」


 以安の部屋は廊下の手前にあり、若晴の部屋はその奥だった。


 扉を開ける。


 浩は、少し拍子抜けした。


 普通の部屋だった。


 本棚。


 机。


 ベッド。


 衣装ケース。


 古いノートパソコン。


 大学の卒業写真。


 壁には何年も前のカレンダーが残っている。


「今はここに住んでないから、ほとんど昔のまま」


 以安が電気をつけた。


 東京の久世の研究室ほどではないが、本は多かった。中国語、英語、日本語。専門書らしい厚い本に混じって、小説や漫画もある。


「勝手に触らないでね」


「分かってる」


「写真もなし」


「はい」


 机の上には、以安が浩へ送った資料がまだ残っていた。


 K-17。


 BKK。


 LATTICE。


 写真で見るより、それらはずっと普通の紙だった。


 浩は手を触れずに眺めた。


「これが送ってくれたやつか」


「うん。たまたま机に出てた」


「いつから?」


「知らない。姉、ここに来ても片づけないから」


 その下に別の資料がある。台北の古い地図だった。さらにその下には、浩が駒場で見たものとよく似た表がある。都市名が縦に並び、項目ごとに数字や記号が入っている。


 林若晴は、東京でも台北でも同じことをしていた。


「昔からこれ?」


「何が」


「都市を並べるやつ」


「さあ」


 浩は本棚を見た。


 背表紙の間に、一冊だけ、文字のほとんどない黒いファイルが挟まっている。


 以安がそれに気づいた。


「あ」


「何?」


「これ、懐かしい」


 彼女がファイルを抜いた。


「触っていいの?」


「これは私も知ってる。昔、姉がずっと持ち歩いてたやつ」


 開く。


 研究資料ではなかった。


 写真だった。


 若い若晴。


 大学らしい建物。


 知らない学生たち。


 海外の街。


 学会。


 食事。


 旅行。


 研究者になる前から続いている、ただの写真の束だった。


「普通に写真撮るんだ」


「何だと思ってたの」


「もっと地図だけ見てる人かと」


「姉を何だと思ってるの」


 ページをめくる。


 途中から、同じ男が何度も出てきた。


 背が高く、痩せている。眼鏡をかけている写真もある。若晴と二人でホワイトボードの前に立っている。別の写真では、数人でビールを飲んでいる。


 浩には見覚えがあった。


「梁志恒」


 以安がページを止めた。


「知ってるの?」


「CIVICAの社長。ホームページで見た」


「ああ」


 以安はしばらく写真を見た。


「この人か」


「会ったことない?」


「ない。名前は聞いたことあるけど」


 さらに一枚めくる。


 今度は三人だった。


 若晴。


 梁。


 そして、若い久世征一。


 今より髪が黒い。


「先生もいる」


「久世先生?」


「うん」


 三人は、どこかの屋外で笑っていた。


 後ろには大きな河川と、高層建築が見える。


 写真の余白に、若晴の字で日付と都市名が書かれていた。


 Bangkok.


 十年近く前の日付だった。


 その下に、もう一行ある。


 浩は読んだ。


 First run.


「最初の実験?」


 以安が訊いた。


「たぶん」


「何の?」


 浩は答えられなかった。


 写真の裏側に、何か書いてあるのが透けて見えた。


 以安が裏返す。


 二人とも黙った。


 そこには若晴の字で、たった一つだけ書かれていた。


 K-17

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