第十話 林家
林以安の家は、浩が想像していたより普通だった。
台北へ来てから、普通だと思うものが増えている。地下鉄も、コンビニも、マンションのエレベーターも、玄関前に置かれた宅配便の箱も、細部は違うのに使い方はだいたい分かる。以安が鍵を開けた部屋もそうだった。靴を脱ぐ場所があり、傘があり、壁に家族の写真があり、奥から夕飯の匂いがした。
「ただいま」
以安が中国語で何か続けると、台所から母親らしい女性が出てきた。浩を見るなり、以安へ早口で何か言う。以安も返す。二人とも途中で浩を見たので、自分の話をされていることだけは分かった。
「何て?」
「思ったより若いって」
「何歳だと思ってたの」
「先生の友達みたいなの想像してたらしい」
「なんで」
「私の説明が雑だったから」
母親は浩に日本語で「いらっしゃい」と言い、すぐに英語へ切り替えた。浩も英語で挨拶を返したが、三往復ほどしたところで双方が面倒になり、以安が間へ入った。
「お母さん、日本語分かる?」
「少し。話すのはあんまり」
「僕、中国語ゼロ」
「知ってる」
「今日どうするの」
「適当に」
「適当に通訳できる?」
「家ではいつも適当だから」
食卓にはすでに料理が並んでいた。東京で以安から聞いた「母は怒ると料理が増える」という話は本当らしく、三人で食べるには明らかに多かった。
「お父さんは?」
「もう帰る」
「じゃあ四人か」
「六人分くらいあるけどね」
「怒ってる?」
「かなり」
「僕に?」
「なんで草野さんに怒るの」
以安は冷蔵庫を開けながら言った。
「姉にです」
その姉は、今日バンコクへ移動したらしい。
東京で妹との約束をすっぽかし、スマートフォンをホテルに置いたまま姿を消した台湾人研究者、林若晴。浩と以安は一時警察まで行ったが、若晴本人から「大丈夫」という連絡が入り、捜索する理由はなくなった。浩はその数日後、誰にも頼まれないまま台北へ来た。
自分で整理すると、やはり少しおかしい。
父親が帰ってきたのは、浩がその家のソファで麦茶らしい飲み物を飲みながら、自分がここにいる理由をもう一度考えていたころだった。
玄関で以安と何か話し、リビングへ入って浩を見る。四十代後半か五十代くらいに見えた。浩は立ち上がった。
「草野浩です。お邪魔しています」
父親は少し考えてから、日本語で「どうぞ」と言った。
それで日本語の在庫をほぼ使い切ったらしく、あとは英語になった。
食事が始まると、以安は忙しかった。父と母が中国語で話し、浩が分からない顔をすると日本語にして、その間に自分も食べる。浩が英語で直接答えれば今度は母親へ中国語に直す。十分もしないうちに、「もうみんな英語にして」と言い出した。
父親の英語はかなり流暢だった。母親も聞く分には困らないらしい。結果として、一番英語が怪しいのが浩になった。
「東京で、以安を助けてくれたそうですね」
父親に言われた。
「助けたというほどでは」
「警察へ一緒に行った」
「ついていっただけです」
「ホテルにも」
「はい」
「そして台湾にも」
浩は箸を止めた。
「それは別件です」
以安が吹き出した。
「別件なんだ」
「観光だから」
父親は浩と娘を交互に見た。
「二人は、いつから知り合いですか」
「四日前」
以安が答えた。
父親が止まった。
母親も止まった。
「言ってなかったの?」
浩が小声で訊いた。
「言ったと思う」
「絶対言ってない反応じゃん」
以安は中国語で説明し直した。今度は母親が浩を見て何か言い、父親が笑った。
「何?」
「若晴と同じ種類じゃないかって」
「どういう種類」
「急に外国へ行く人」
「一緒にしないでよ」
「私もそう思う」
若晴の名前が出ると、食卓の空気が少し変わった。
深刻になるわけではない。むしろ、全員が慣れている感じだった。母親が何か長く話し、以安が途中から訳した。
「姉は高校のころ、学校の研修で二週間アメリカに行く予定だったのに、帰りに一人でニューヨーク寄ってきたことがあるって」
「高校生で?」
「大学だったかな」
母親が訂正した。
「大学一年だって」
「僕と同じじゃん」
「草野さんは台北だからまだ近いね」
「比較がおかしい」
父親も話に加わった。
若晴は家族旅行でも、一人だけ途中で別の場所へ行く。食事の約束をしていても研究室から帰ってこない。家族のグループチャットを数週間読まないことがある。そのくせ、何年も前に一度行った店の場所や、祖母が昔住んでいた住所は妙に正確に覚えている。
「お姉さん、昔から研究者っぽかったんですか」
浩が訊くと、以安が訳した。
両親は顔を見合わせた。
母親が笑った。
「違うって」
「じゃあ何になりたかったの?」
もう一度訊く。
今度は父親が長く話した。
「建築家」
以安が訳した。
「最初は?」
「たぶん。街を作る人になりたかったって」
「都市研究じゃなくて」
「子供のころだから、そんな区別ないでしょ」
若晴は道路地図が好きだったらしい。旅行へ行く前に地図を見て、帰ってきたあとも見る。家族が住む場所を変えたときも、引っ越しそのものより、地下鉄の駅まで何分になったかを気にしていた。
「変な子だった?」
浩が訊くと、以安は訳さずに答えた。
「それは今も」
「本人いないから言いたい放題だな」
「いたらもっと言う」
家族の中の林若晴は、浩が東京で組み立てた人物とはかなり違っていた。
比較都市研究。
CIVICA。
LATTICE。
都市の予測。
K-17。
それらを剥がすと、約束を忘れ、家族に連絡せず、冷蔵庫に入れておいた妹のものを勝手に食べる人間が残った。
「何食べるの?」
「プリン」
「そこまで具体的なんだ」
「名前書いても食べる」
「ひどいな」
「それで『家族なんだからいいでしょ』って言う」
「共同体を研究する人の発言とは思えない」
以安は箸を置いた。
「姉、共同体なんて研究してないと思うけど」
「都市って共同体じゃないの?」
「知らない。本人に訊いて」
東京にいたときと同じ言葉だった。
本人に訊け。
本人はいつも、少し先にいる。
食事の途中で母親が若晴の話を始めると、以安がだんだん黙った。内容は訳されなかったが、声の調子で分かった。母親は怒っている。東京で妹を待たせたこと、連絡しなかったこと、また急にバンコクへ行ったこと。
若晴から両親には、まだ直接連絡がないらしい。
「お母さんには連絡してないの?」
「私には来た」
「それを伝えた?」
「伝えた」
「じゃあ安心はしてる?」
「安心と怒るのは別」
その言葉はよく分かった。
やがて父親が浩へ訊いた。
「あなたは、若晴の研究に興味があるんですか」
突然だったので、浩は少し迷った。
「分かりません」
「分からない?」
「資料を整理するアルバイトをしただけなので。最初は何をやっている人かも知りませんでした」
「それで台湾まで?」
もっともだった。
「気になったんです」
「何が?」
以安が笑った。
「それ、私も聞いた」
浩は箸を置いた。
「東京の大学に、若晴さんが昔置いていった箱があったんです。台北とかバンコクとか、イスタンブールとか、ウルクとか、いろんな都市の資料が一緒に入ってて」
父親が反応した。
「ウルク?」
「知ってます?」
「若晴が昔から行きたがっていた」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「今度行く予定だって、久世先生から聞きました」
以安が顔を上げた。
「それ、姉からは聞いてない」
「東京でも言ってたじゃん」
「聞いたけど、ほんとに行くんだ」
母親にも話が伝わり、また若晴に対する怒りが一段増えた。海外へ行く予定をなぜ家族が他人から聞くのか、という話らしい。
浩は申し訳なくなった。
「言わない方がよかった?」
「どうせそのうち分かるからいい」
以安はそう言ったが、疲れた顔をしていた。
食事が終わるころには、最初に並んでいた料理の半分もなくなっていなかった。
本当に多かった。
「これ全部どうするの?」
「明日も食べる」
「怒りが翌日まで残るんだ」
「そういうこと言わないで」
母親が果物を出してきたので、食事はまだ終わらなかった。
浩はもうかなり満腹だったが、断り方が分からず食べた。
そのとき、父親が何か思い出したように以安へ話しかけた。
短いやり取りのあと、以安が浩を見た。
「何?」
「お父さんが、草野さんが姉の資料に興味あるなら、部屋見てもいいって」
「いいの?」
「私が一緒なら」
「本人いないのに?」
「本人は家のもの勝手に持っていくから、お互いさま」
「家族ってすごいな」
「さっき共同体とか言ってた人が何言ってるの」
浩は少し迷った。
若晴の私物だ。東京では久世が保管している研究資料を仕事として見ていた。ここでは違う。
「嫌ならいいよ」
以安が言った。
「いや、見たい」
「正直」
「そこはもう諦めた」
以安の部屋は廊下の手前にあり、若晴の部屋はその奥だった。
扉を開ける。
浩は、少し拍子抜けした。
普通の部屋だった。
本棚。
机。
ベッド。
衣装ケース。
古いノートパソコン。
大学の卒業写真。
壁には何年も前のカレンダーが残っている。
「今はここに住んでないから、ほとんど昔のまま」
以安が電気をつけた。
東京の久世の研究室ほどではないが、本は多かった。中国語、英語、日本語。専門書らしい厚い本に混じって、小説や漫画もある。
「勝手に触らないでね」
「分かってる」
「写真もなし」
「はい」
机の上には、以安が浩へ送った資料がまだ残っていた。
K-17。
BKK。
LATTICE。
写真で見るより、それらはずっと普通の紙だった。
浩は手を触れずに眺めた。
「これが送ってくれたやつか」
「うん。たまたま机に出てた」
「いつから?」
「知らない。姉、ここに来ても片づけないから」
その下に別の資料がある。台北の古い地図だった。さらにその下には、浩が駒場で見たものとよく似た表がある。都市名が縦に並び、項目ごとに数字や記号が入っている。
林若晴は、東京でも台北でも同じことをしていた。
「昔からこれ?」
「何が」
「都市を並べるやつ」
「さあ」
浩は本棚を見た。
背表紙の間に、一冊だけ、文字のほとんどない黒いファイルが挟まっている。
以安がそれに気づいた。
「あ」
「何?」
「これ、懐かしい」
彼女がファイルを抜いた。
「触っていいの?」
「これは私も知ってる。昔、姉がずっと持ち歩いてたやつ」
開く。
研究資料ではなかった。
写真だった。
若い若晴。
大学らしい建物。
知らない学生たち。
海外の街。
学会。
食事。
旅行。
研究者になる前から続いている、ただの写真の束だった。
「普通に写真撮るんだ」
「何だと思ってたの」
「もっと地図だけ見てる人かと」
「姉を何だと思ってるの」
ページをめくる。
途中から、同じ男が何度も出てきた。
背が高く、痩せている。眼鏡をかけている写真もある。若晴と二人でホワイトボードの前に立っている。別の写真では、数人でビールを飲んでいる。
浩には見覚えがあった。
「梁志恒」
以安がページを止めた。
「知ってるの?」
「CIVICAの社長。ホームページで見た」
「ああ」
以安はしばらく写真を見た。
「この人か」
「会ったことない?」
「ない。名前は聞いたことあるけど」
さらに一枚めくる。
今度は三人だった。
若晴。
梁。
そして、若い久世征一。
今より髪が黒い。
「先生もいる」
「久世先生?」
「うん」
三人は、どこかの屋外で笑っていた。
後ろには大きな河川と、高層建築が見える。
写真の余白に、若晴の字で日付と都市名が書かれていた。
Bangkok.
十年近く前の日付だった。
その下に、もう一行ある。
浩は読んだ。
First run.
「最初の実験?」
以安が訊いた。
「たぶん」
「何の?」
浩は答えられなかった。
写真の裏側に、何か書いてあるのが透けて見えた。
以安が裏返す。
二人とも黙った。
そこには若晴の字で、たった一つだけ書かれていた。
K-17




