第十一話 姉の部屋
写真の裏には、若晴の字で K-17 とだけ書かれていた。
「十年前から?」
浩が訊くと、以安は写真を表へ戻した。若晴と梁志恒、それから若い久世征一が、バンコクらしい川沿いで笑っている。久世の研究室で見た三日後のCIVICAのイベント案内にも、若晴が最近書き込んだバンコクの地図にも、同じ記号があった。
「私に聞かれても知らないよ」
「そうだよね」
「その言い方、最近失礼じゃない?」
「学習したんだよ」
以安は写真を黒いファイルへ戻した。
時刻はもう九時を過ぎていた。リビングから母親が何か呼び、以安が中国語で返す。浩には内容は分からなかったが、果物を食べろという話らしい。
「まだ出るの?」
「台湾の家を何だと思ってるの」
「怒ると料理が永遠に出てくるシステム」
「それ母だけだから」
二人は若晴の部屋を出ようとした。
そのとき浩は、机の横に積まれた大学ノートの一番上に、日本語で「久世」と書いてあるのを見つけた。
「これも見ていいのかな」
以安が覗き込んだ。
「研究のノートじゃない?」
「たぶん」
以安は少し迷った末に、父親へ訊きに行った。戻ってくると、「仕事の資料なら見てもいいって。ただし持ち出さないで」と言った。
浩はノートを開いた。
期待していたような秘密はなかった。
最初のページには授業らしいメモがあり、その次には本の題名、研究会の日程、誰かへのメールを忘れないという走り書きがある。途中に台北の店の住所が挟まり、さらに数ページ進むと突然、英語の表が始まった。
都市名が並んでいた。
東京、台北、バンコク、イスタンブール。その先には浩の知らない名前もある。行には水、移動、保管、市場、境界、記録といった単語が混ざり、横には数字ではなく丸や三角や疑問符がついている。
「駒場にあった表の前のやつかな」
「見た目は似てるね」
以安はベッドに腰を下ろした。
浩はページをめくった。
若晴の字は、古いノートほど大きかった。整った研究メモの間に、感情がそのまま残っている箇所もある。
比較できない。
数ページ後には、
でも比較しないと分からない。
さらに先には、
都市を都市として比較すると、都市しか見えない。
「何言ってるか分かる?」
以安が訊いた。
「分かりそうで分からない」
「姉の文章、大体そう」
その横に、久世の名前が何度も出てきた。
久世先生:尺度を揃えるな。
久世先生:似て見えるように処理してから「似ている」と言うな。
久世先生:それでもやるなら、元データを残せ。
最後だけ二重線で囲んであった。
「先生、昔から同じこと言ってる」
「姉、ちゃんと聞いてたんだ」
「聞くのと従うのは別だから」
そのページから少し先で、梁の名前が初めて出てきた。
Liang says: If we cannot compare, we cannot decide.
(比較できなければ、決めることもできない)
決める必要があるのか?
さらに下に、
でも、誰かは決めている。
浩はそこで手を止めた。
「これ、CIVICAより前だよね」
「日付だと、かなり前」
「三人とも最初から意見違ったのかな」
「写真では楽しそうだったけど」
「意見違ってても飲めるでしょ」
「草野さん、大学入って四か月で何を知ったの」
「先生見てると」
以安は笑った。
ノートの後半になるにつれて、文章より図が増えた。都市を点と線に崩したような絵。中心らしい場所と、その周囲に伸びる経路。人、物、情報という三つの単語が何度も出てくる。
しかし、それは完成した理論というより、試行錯誤の跡だった。
若晴は同じ図を何度も描いては消している。
あるページでは都市をネットワークと書き、次ではその単語を丸ごと消している。その横に、
人はpacketではない。
とあった。
「当たり前じゃない?」
以安が言った。
「たぶん本人も途中でそう思ったんじゃない」
「最初は思ってなかった?」
「研究ってそういうものなんじゃないの」
「知らない。私、研究者じゃないから」
「僕もだよ」
以安はベッドの上で足を伸ばした。
「でも姉、こういうの昔からやってたんだね」
「知らなかった?」
「家で見てたのは、パソコンに向かってる姉だから。何考えてるかなんて知らない」
以安はノートを覗いた。
「姉って、私に研究の話しないんだよね。説明しても分からないって」
「さっき聞いた」
「本当は、自分でも説明できなかったのかも」
浩は答えなかった。
ノートの最後から十ページほど前で、筆跡が急に荒くなった。
日付はバンコクの写真と同じ年だった。
見開きいっぱいに手書きの地図がある。中央を川が走り、その周囲にいくつもの数字が振られている。
K-04。
K-09。
K-12。
そして、赤い四角で囲まれた K-17。
「いっぱいある」
以安も起き上がった。
「K-17だけじゃなかったんだ」
浩はページを見た。
Kが何を意味するのかは書いていない。地区名なのか、分析上の番号なのか、それすら分からない。ただK-17の横だけ、英語で短いメモがあった。
first stable result
「最初に安定した結果?」
「たぶん」
その下には三人のイニシャルらしい文字が並んでいる。
RL。
ZL。
SK。
林若晴。梁志恒。久世征一。
十年前のK-17は、今のCIVICAだけのものではなかった。
「久世先生、これ知ってるよね」
「絶対知ってる」
「東京で言わなかった」
「聞かなかったからじゃない?」
「先生そういうの多いな」
浩はスマートフォンを出そうとして、やめた。
今すぐ久世へ写真を送れば済む。しかし、この家へ来てから、少し考え方が変わっていた。
若晴のものは、若晴のものだ。
調べればいいという話でもない。
「写真、撮らないの?」
「やめとく」
「珍しい」
「以安が撮るなって言ったじゃん」
「守るんだ」
「僕を何だと思ってるの」
「急に台湾へ来る人」
ノートを閉じようとしたとき、最後のページから小さな紙が落ちた。
名刺だった。
表には中国語の名前と大学のロゴ。裏には若晴の字で、日本語が一行だけ書いてある。
この人だけは、最後までK-17を嫌った。
以安が名刺を取った。
「知ってる?」
「名前は」
「誰?」
「姉の大学のころの友達だと思う」
「今も台北?」
以安は名刺の名前をスマートフォンで検索した。
すぐに大学のページが出た。
「いる」
「研究者?」
「うん。こっちの大学」
「会えるかな」
「なんで会う前提なの」
「K-17知ってるんでしょ」
「草野さん」
以安が名刺を持ったまま浩を見た。
「姉を探しに来たんじゃないって言ったよね」
「言った」
「観光って」
「言った」
「これ観光?」
浩は考えた。
「かなり」
「どういう観光なの」
「その土地の人に会う」
「観光客が言うと一番嫌なやつ」
以安は呆れながら、もう一度大学のページを見た。
その人物の名前の下に、専門分野が書かれている。
都市地理。
空間分析。
そして、現在も台北にいる。
「連絡先あるね」
「あるね」
「私が送るの?」
「僕が送ったら誰だよってなるでしょ」
「私が送っても、誰だよってなるよ」
「林若晴の妹」
「それを使うの、ずるくない?」
「かなり」
以安はしばらく名刺を見ていた。
それからため息をついた。
「明日、返事来ても知らないからね」
「何が」
「私、午前は予定あるから」
「じゃあ午後?」
「まだ送ってない」
そう言いながら、以安はメールアドレスを入力し始めた。
浩は笑った。
「何」
「いや」
「姉のためじゃないからね」
「分かってる」
「私が気になっただけ」
「分かってるって」
以安はメールを書き終え、内容を二度読んだ。
「送るよ」
「どうぞ」
送信した。
若晴の部屋には、それ以上何も起きなかった。
秘密のデータも、行き先を示す暗号もなかった。
十年前のノートと、古い写真と、大学の友人の名刺があっただけだった。
それでも浩には、東京で見たCIVICAの資料より、今夜見たものの方が若晴に近い気がした。
都市を予測する会社を作るより前。
LATTICEという名前がつくより前。
林若晴は、同じ形を探していた。
そしてその隣には、久世と梁がいた。
三人が何を見つけたと思ったのか。
なぜ一人は会社を作り、一人はそこを去り、一人は東京の大学に残ったのか。
その答えを知っているかもしれない人物は、台北にいた。
翌朝、以安のスマートフォンに返信が来た。
〈若晴の妹さんですね。覚えています。〉
そして、こう書かれていた。
〈K-17についてなら、直接会って話した方がいいと思います。〉




