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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第二部 八月、台北

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第十一話 姉の部屋

 写真の裏には、若晴の字で K-17 とだけ書かれていた。


「十年前から?」


 浩が訊くと、以安は写真を表へ戻した。若晴と梁志恒、それから若い久世征一が、バンコクらしい川沿いで笑っている。久世の研究室で見た三日後のCIVICAのイベント案内にも、若晴が最近書き込んだバンコクの地図にも、同じ記号があった。


「私に聞かれても知らないよ」


「そうだよね」


「その言い方、最近失礼じゃない?」


「学習したんだよ」


 以安は写真を黒いファイルへ戻した。


 時刻はもう九時を過ぎていた。リビングから母親が何か呼び、以安が中国語で返す。浩には内容は分からなかったが、果物を食べろという話らしい。


「まだ出るの?」


「台湾の家を何だと思ってるの」


「怒ると料理が永遠に出てくるシステム」


「それ母だけだから」


 二人は若晴の部屋を出ようとした。


 そのとき浩は、机の横に積まれた大学ノートの一番上に、日本語で「久世」と書いてあるのを見つけた。


「これも見ていいのかな」


 以安が覗き込んだ。


「研究のノートじゃない?」


「たぶん」


 以安は少し迷った末に、父親へ訊きに行った。戻ってくると、「仕事の資料なら見てもいいって。ただし持ち出さないで」と言った。


 浩はノートを開いた。


 期待していたような秘密はなかった。


 最初のページには授業らしいメモがあり、その次には本の題名、研究会の日程、誰かへのメールを忘れないという走り書きがある。途中に台北の店の住所が挟まり、さらに数ページ進むと突然、英語の表が始まった。


 都市名が並んでいた。


 東京、台北、バンコク、イスタンブール。その先には浩の知らない名前もある。行には水、移動、保管、市場、境界、記録といった単語が混ざり、横には数字ではなく丸や三角や疑問符がついている。


「駒場にあった表の前のやつかな」


「見た目は似てるね」


 以安はベッドに腰を下ろした。


 浩はページをめくった。


 若晴の字は、古いノートほど大きかった。整った研究メモの間に、感情がそのまま残っている箇所もある。


 比較できない。


 数ページ後には、


 でも比較しないと分からない。


 さらに先には、


 都市を都市として比較すると、都市しか見えない。


「何言ってるか分かる?」


 以安が訊いた。


「分かりそうで分からない」


「姉の文章、大体そう」


 その横に、久世の名前が何度も出てきた。


 久世先生:尺度を揃えるな。


 久世先生:似て見えるように処理してから「似ている」と言うな。


 久世先生:それでもやるなら、元データを残せ。


 最後だけ二重線で囲んであった。


「先生、昔から同じこと言ってる」


「姉、ちゃんと聞いてたんだ」


「聞くのと従うのは別だから」


 そのページから少し先で、梁の名前が初めて出てきた。


 Liang says: If we cannot compare, we cannot decide.

(比較できなければ、決めることもできない)


 決める必要があるのか?


 さらに下に、


 でも、誰かは決めている。


 浩はそこで手を止めた。


「これ、CIVICAより前だよね」


「日付だと、かなり前」


「三人とも最初から意見違ったのかな」


「写真では楽しそうだったけど」


「意見違ってても飲めるでしょ」


「草野さん、大学入って四か月で何を知ったの」


「先生見てると」


 以安は笑った。


 ノートの後半になるにつれて、文章より図が増えた。都市を点と線に崩したような絵。中心らしい場所と、その周囲に伸びる経路。人、物、情報という三つの単語が何度も出てくる。


 しかし、それは完成した理論というより、試行錯誤の跡だった。


 若晴は同じ図を何度も描いては消している。


 あるページでは都市をネットワークと書き、次ではその単語を丸ごと消している。その横に、


 人はpacketではない。


 とあった。


「当たり前じゃない?」


 以安が言った。


「たぶん本人も途中でそう思ったんじゃない」


「最初は思ってなかった?」


「研究ってそういうものなんじゃないの」


「知らない。私、研究者じゃないから」


「僕もだよ」


 以安はベッドの上で足を伸ばした。


「でも姉、こういうの昔からやってたんだね」


「知らなかった?」


「家で見てたのは、パソコンに向かってる姉だから。何考えてるかなんて知らない」


 以安はノートを覗いた。


「姉って、私に研究の話しないんだよね。説明しても分からないって」


「さっき聞いた」


「本当は、自分でも説明できなかったのかも」


 浩は答えなかった。


 ノートの最後から十ページほど前で、筆跡が急に荒くなった。


 日付はバンコクの写真と同じ年だった。


 見開きいっぱいに手書きの地図がある。中央を川が走り、その周囲にいくつもの数字が振られている。


 K-04。


 K-09。


 K-12。


 そして、赤い四角で囲まれた K-17。


「いっぱいある」


 以安も起き上がった。


「K-17だけじゃなかったんだ」


 浩はページを見た。


 Kが何を意味するのかは書いていない。地区名なのか、分析上の番号なのか、それすら分からない。ただK-17の横だけ、英語で短いメモがあった。


 first stable result


「最初に安定した結果?」


「たぶん」


 その下には三人のイニシャルらしい文字が並んでいる。


 RL。


 ZL。


 SK。


 林若晴。梁志恒。久世征一。


 十年前のK-17は、今のCIVICAだけのものではなかった。


「久世先生、これ知ってるよね」


「絶対知ってる」


「東京で言わなかった」


「聞かなかったからじゃない?」


「先生そういうの多いな」


 浩はスマートフォンを出そうとして、やめた。


 今すぐ久世へ写真を送れば済む。しかし、この家へ来てから、少し考え方が変わっていた。


 若晴のものは、若晴のものだ。


 調べればいいという話でもない。


「写真、撮らないの?」


「やめとく」


「珍しい」


「以安が撮るなって言ったじゃん」


「守るんだ」


「僕を何だと思ってるの」


「急に台湾へ来る人」


 ノートを閉じようとしたとき、最後のページから小さな紙が落ちた。


 名刺だった。


 表には中国語の名前と大学のロゴ。裏には若晴の字で、日本語が一行だけ書いてある。


 この人だけは、最後までK-17を嫌った。


 以安が名刺を取った。


「知ってる?」


「名前は」


「誰?」


「姉の大学のころの友達だと思う」


「今も台北?」


 以安は名刺の名前をスマートフォンで検索した。


 すぐに大学のページが出た。


「いる」


「研究者?」


「うん。こっちの大学」


「会えるかな」


「なんで会う前提なの」


「K-17知ってるんでしょ」


「草野さん」


 以安が名刺を持ったまま浩を見た。


「姉を探しに来たんじゃないって言ったよね」


「言った」


「観光って」


「言った」


「これ観光?」


 浩は考えた。


「かなり」


「どういう観光なの」


「その土地の人に会う」


「観光客が言うと一番嫌なやつ」


 以安は呆れながら、もう一度大学のページを見た。


 その人物の名前の下に、専門分野が書かれている。


 都市地理。


 空間分析。


 そして、現在も台北にいる。


「連絡先あるね」


「あるね」


「私が送るの?」


「僕が送ったら誰だよってなるでしょ」


「私が送っても、誰だよってなるよ」


「林若晴の妹」


「それを使うの、ずるくない?」


「かなり」


 以安はしばらく名刺を見ていた。


 それからため息をついた。


「明日、返事来ても知らないからね」


「何が」


「私、午前は予定あるから」


「じゃあ午後?」


「まだ送ってない」


 そう言いながら、以安はメールアドレスを入力し始めた。


 浩は笑った。


「何」


「いや」


「姉のためじゃないからね」


「分かってる」


「私が気になっただけ」


「分かってるって」


 以安はメールを書き終え、内容を二度読んだ。


「送るよ」


「どうぞ」


 送信した。


 若晴の部屋には、それ以上何も起きなかった。


 秘密のデータも、行き先を示す暗号もなかった。


 十年前のノートと、古い写真と、大学の友人の名刺があっただけだった。


 それでも浩には、東京で見たCIVICAの資料より、今夜見たものの方が若晴に近い気がした。


 都市を予測する会社を作るより前。


 LATTICEという名前がつくより前。


 林若晴は、同じ形を探していた。


 そしてその隣には、久世と梁がいた。


 三人が何を見つけたと思ったのか。


 なぜ一人は会社を作り、一人はそこを去り、一人は東京の大学に残ったのか。


 その答えを知っているかもしれない人物は、台北にいた。


 翌朝、以安のスマートフォンに返信が来た。


〈若晴の妹さんですね。覚えています。〉


 そして、こう書かれていた。


〈K-17についてなら、直接会って話した方がいいと思います。〉

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