第十二話 昔の人
陳嘉寧は、林若晴のことを「昔の人」と呼んだ。
「連絡、もう五年くらいないです」
台北市内の大学にある小さなカフェで、彼女はそう言って笑った。三十代半ばくらい。黒いシャツにジーンズ、髪は肩のあたりで切っている。研究者というより、午後の授業を終えてそのまま来た人に見えた。
以安が昨日見つけた名刺の人物だった。
「でも、私のこと覚えてたんですね」
以安が言う。
「若晴の妹でしょう。昔、写真見たことある」
「いつ?」
「あなたが中学生くらいのとき」
「怖いな」
「姉ってそういうものです」
「私は姉の友達の写真なんか見ないけど」
「それは若晴に言って」
嘉寧は浩にも英語で挨拶したが、以安が「日本語で大丈夫」と言うと、そのまま日本語になった。日本へ留学していた時期があるらしい。
「それで」
嘉寧はコーヒーを飲んだ。
「どうして今、K-17?」
浩と以安は簡単に説明した。東京。久世の研究室。若晴が来なかったこと。ホテルに残されたスマートフォン。CIVICA。バンコク。若晴の部屋にあった古いノートと写真。
嘉寧は途中まで黙って聞いていたが、「スマホをホテルに忘れた」と聞いたところで笑った。
「それは若晴っぽくない」
「ですよね」
以安がすぐに食いついた。
「財布なら?」
「ある」
「パスポートは?」
「一回ある」
「ほら」
浩が言うと、以安が睨んだ。
「姉の友達まで同じこと言う」
「でもスマホはないな」
嘉寧は少し考えた。
「昔から、連絡だけは道具を分けてたから」
「道具を分ける?」
「仕事用、研究用、個人用。時期によって違うけど。スマホがなくても連絡できない人ではないと思う」
久世に届いたメールや、ピムへの連絡とも辻褄は合った。
ただ、それ以上のことは嘉寧にも分からなかった。
「今の若晴が何をしてるかは知らない。CIVICAも、最近はニュースで見るくらい」
「じゃあK-17は昔の話?」
浩が訊く。
「昔の話なら知ってる」
嘉寧はカップを置いた。
「でも、たぶんあなたたちが思っているK-17とは少し違う」
以安がスマートフォンを取り出そうとしたので、嘉寧が手で止めた。
「録音はやめて。大した秘密じゃないけど、昔の研究だから」
「分かりました」
浩も出しかけたスマートフォンを戻した。
「K-17は場所の名前じゃなかったんですか」
「最初は違う。サンプル番号」
「何の?」
「都市の区画」
嘉寧は紙ナプキンを一枚取った。
ペンで四角を描き、その中をいくつかに分ける。
「若晴たちは、違う都市を同じ条件で比較しようとしてた。人口密度、道路、公共交通、商業、物流、水、土地利用。そういうデータを小さな区画に分けて、共通の形式に変える」
「正規化?」
浩が言うと、嘉寧が少し意外そうに見た。
「知ってる?」
「言葉だけ」
「それで十分。実際はもっと面倒だけど」
台北とバンコクでは、行政区分も統計の取り方も違う。まして何千年も前の都市まで同じ形式で比較しようとすれば、何を一単位とするかだけでも揉める。
「若晴は、そこをかなり強引にやった」
「姉が?」
以安が訊く。
「すごく」
嘉寧は笑った。
「若晴は昔から、違うものを同じテーブルに載せるのが好きだった。でも、載せるには形を揃えないといけないでしょう」
「久世先生が嫌がりそう」
「嫌がったよ」
「やっぱり」
「ずっと喧嘩してた」
久世は比較できる形に加工することで、元の都市の違いが消えることを警戒した。若晴は、それでも比較しなければ見えないものがあると言った。
梁はさらにその先を見ていた。
「梁さんは、比較できるなら予測もできるって考えた」
嘉寧が言った。
「早いですね」
「彼はいつも早かった」
「若晴さんは?」
「最初は、乗った」
浩はそこで手を止めた。
「乗った?」
「そりゃそうでしょう。CIVICAに入ったんだから」
「でも、久世先生から聞いた感じだと、若晴さんは途中から予測に慎重になったみたいで」
「途中からね」
嘉寧は浩を見た。
「若晴は最初から反対だった、って思ってた?」
「ちょっと」
「それは違う」
きっぱりしていた。
「むしろ、一番楽しんでた時期もあった」
嘉寧によれば、若晴は自分の比較方法が、単なる学術上の分類ではなく、現実の都市の先を読むために使える可能性にかなり興奮していたらしい。
都市のある状態を入れる。
似た状態を持つ別の都市を探す。
その都市がその後どう変化したかを見る。
そこから、次に起こりうる変化を推定する。
「今聞くと、そんなに変な話じゃないでしょう」
「普通にありそうです」
「今はね。でも当時は、データも計算も今よりずっと大変だった」
若晴と梁は方法を作り、久世は検証方法を詰めた。嘉寧たち若い研究者や学生も、データの整理や分類に参加した。
「K-17は、そのテストデータの一つだった」
「バンコク?」
「そう。Kは当時の内部分類。意味は忘れた」
「忘れたんだ」
「十年前だよ」
嘉寧は笑った。
「十七番目の区画が、なぜか一番きれいに結果が出た」
「first stable result」
浩が言うと、嘉寧の表情が少し変わった。
「それ、どこで見た?」
「若晴さんのノート」
「ああ」
嘉寧は納得した。
「そう。K-17だけ、妙にきれいだった」
似た特徴を持つ別都市の区画を参照すると、その後の商業集積や人流の変化がかなり近い形で出た。
若晴は喜んだ。
梁も喜んだ。
久世は喜ばなかった。
「先生らしい」
「久世先生、最初に言ったの。『きれいすぎる』って」
浩は笑いそうになった。
「本当に先生だ」
「でも若晴は怒った。せっかく結果が出たのに、結果がきれいだから疑うのはおかしいって」
「姉、そんなこと言うんだ」
「若かったから」
「今もそんなに変わってないと思う」
嘉寧は以安を見て笑った。
「それで、何が問題だったんですか」
浩が訊いた。
嘉寧は紙ナプキンの四角を指でなぞった。
「私には、K-17が都市に見えなかった」
「どういう意味?」
「データにするために、いろんなものを捨てたから」
行政区の境界が違えば切り直す。人口統計の粒度が違えば揃える。道路の分類が違えば同じカテゴリへまとめる。市場、住宅、公共施設、工場。都市ごとに違う制度や歴史を、一度同じ名前に置き換える。
「そうしないと比較できない」
「はい」
「でも、比較できるようにしたから似たのか、本当に似ていたから似たのか、途中から分からなくなった」
浩は久世の言葉を思い出した。
似ていることと、つながっていることは違う。
「それで嫌った?」
「K-17だけじゃない。方法そのものが怖くなった」
「若晴さんには言ったんですか」
「何回も」
「どうなった?」
「喧嘩した」
「やっぱり」
「でも、私の方が正しかったとも思ってないよ」
嘉寧はそう言って、少し笑った。
「都市を全部そのまま残したら、比較なんて一生できない。若晴がやったことには意味があった。私が怖かっただけ」
その言葉は、浩には少し意外だった。
昔の研究仲間が現れて、若晴たちの間違いを暴く。そういう話になるのだと思っていた。
ならなかった。
「じゃあ、なんでCIVICAを辞めたんですか」
以安が訊いた。
「私は入ってない」
「姉が」
「ああ。そこは本人に聞いて」
以安が嫌な顔をした。
「みんなそれ言う」
「だって本人の人生だから」
嘉寧は笑った。
「ただ、会社に行くこと自体は驚かなかった。梁がCIVICAを始めるって話をしたとき、若晴はかなり乗り気だった。大学で百の都市を比較するより、会社で毎日データが入ってくる方がいいって」
「つまり、LATTICEって」
浩が訊いた。
「名前は後からだけど、考え方の根はこの頃にあると思う」
「若晴さんも作った側?」
「もちろん」
嘉寧は簡単に言った。
「梁だけじゃない。若晴も、久世先生も、ほかにも何人もいた。でも、都市の違いを無理やり同じ空間へ写して、その中から繰り返すパターンを探す、という発想なら、若晴の影響は大きい」
東京で最初に浩が持っていた像が、また変わった。
危険な企業の秘密を知った研究者ではない。
その企業が何を信じるか、その一部を自分で作った人間だった。
「姉、何も言わないな」
以安が小さく言った。
嘉寧が彼女を見る。
「家族には言わないんじゃない?」
「何も」
「私も家族に研究の話なんかしないよ」
「でも、こんなの」
「こんなの?」
以安は少し考えた。
「自分が作ったものが会社になったとか」
「本人には、そのくらいの感覚じゃないのかも」
嘉寧はコーヒーの残りを飲んだ。
「研究って、あとから誰のものだったか分からなくなるから」
それから話は、研究ではなく昔の若晴の話になった。
研究会に遅刻してくる。
帰国便を一日間違える。
他人の発表に質問しすぎて司会に止められる。
酒に弱いのに飲み会では最後までいる。
梁とはよく二人でホワイトボードを使い切り、久世が横から全部消して書き直す。
「先生、昔から消す側なんだ」
「久世先生が消すと、若晴が怒って、梁がまた書く」
「楽しそう」
「楽しかったよ」
嘉寧はあっさり言った。
その一言が、浩には妙に残った。
十年前、まだCIVICAもLATTICEも現在の形では存在しなかったころ、何人かの若い研究者が、違う都市を同じ机に載せられるのではないかと本気で考えていた。
世界を支配しようとしていたわけではない。
ただ、面白かったのだ。
浩には、その気持ちが少し分かった。
だから余計に気になった。
「嘉寧さん」
「はい」
「今のK-17って知ってます?」
「今の?」
「CIVICAがバンコクで使ってるみたいなんです」
嘉寧の表情が止まった。
「K-17を?」
「若晴さんの最近の地図に書いてあった。CIVICAのイベントも三日後にバンコクである」
浩はスマートフォンを出し、久世から共有された公開イベントの案内だけを見せた。
嘉寧は画面を拡大した。
「このLATTICEの実証地区って」
「知ってるんですか」
「名前は知ってる。でも地区名は別だと思ってた」
「K-17じゃない?」
「外向けには違う」
嘉寧はしばらく画面を見た。
「K-17なんて名前、外では使わないよ。昔の研究チームの内部番号だから」
以安と浩は顔を見合わせた。
「じゃあ若晴さんが勝手に書いてる?」
「その可能性もある」
「でも、現在の場所と昔のK-17は同じなんですか」
嘉寧は答えなかった。
スマートフォンを自分の方へ戻し、何か検索を始めた。地図を開き、住所を確認する。しばらくして、彼女の指が止まった。
「同じだ」
「何が?」
「場所」
嘉寧は画面を二人へ向けた。
「今CIVICAが実証してる地区、十年前に私たちがK-17って呼んでた区画と、ほとんど同じ場所」
浩は地図を見た。
東京の段ボール箱から始まった記号が、そこで初めて現実の場所になった。
「偶然?」
以安が訊いた。
「分からない」
嘉寧は言った。
それから、少し考えた。
「でも梁なら、偶然にしないと思う」




