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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第二部 八月、台北

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第十三話 夜市

 その晩、若晴の話をしないことにしたのは以安だった。


「今日はもう終わり」


 陳嘉寧と別れて地下鉄の駅へ向かう途中、彼女はそう言った。CIVICAが現在実証を行っているバンコクの地区と、十年前に若晴たちがK-17と呼んでいた区画がほぼ一致している。それが今日分かったことだった。


 浩としては、むしろここからだった。


「久世先生に連絡しなくていい?」


「あとでします」


「若晴さんにも?」


「しない」


「なんで」


「本人がバンコクにいるんだから、本人の方が知ってるでしょ」


 確かにそうだった。


「じゃあピム」


「しない」


「嘉寧さんが言ってた比較方法とか――」


「草野さん」


 以安が立ち止まった。


「お腹空いてない?」


 浩も立ち止まった。


「空いてる」


「じゃあ、ご飯」


 それで本当に話は終わった。


 以安について地下鉄に乗り、何駅か移動した。駅を出るころには日が落ちていたが、空気はまだ昼間の熱を残していた。大きな通りから一本入ると、両側に店が増え、人の流れが急に遅くなった。


「夜市?」


「一応」


「一応って何」


「夜市は夜市」


 入口らしい場所があるわけでもなかった。食べ物を売る屋台、服、雑貨、スマートフォンのケース、果物。店の前に店があり、その間をスクーターが通る。浩が想像していた「台湾の夜市」と似ている気もしたし、もっと雑然としている気もした。


「写真撮らないの?」


 以安に言われて、浩は周囲を見た。


「何を?」


「知らない。観光に来たんでしょ」


「そうだった」


「忘れてた?」


「ちょっと」


 スマートフォンを出したが、結局撮らなかった。


「なんでやめるの」


「どこ撮ればいいか分からない」


「全部撮れば」


「それ、一番観光客っぽくない?」


「観光客なんだからいいじゃん」


 以安は屋台の一つで立ち止まり、何か注文した。浩は読めないメニューを眺めた。


「何?」


「食べれば分かる」


「危ない言い方だな」


「普通の食べ物です」


 渡されたものは、揚げた何かを紙袋に入れたものだった。食べてみると、鶏肉だった。


「うまい」


「でしょう」


「これは有名なやつ?」


「そういうの、気にする?」


「せっかく台湾来たから」


「じゃあ有名」


「本当?」


「知らない」


 浩は笑った。


 以安と東京で会ってから、まだ一週間も経っていない。最初に見た彼女は、スーツケースを引いて久世の研究室へ入ってきた。姉との待ち合わせをすっぽかされ、腹を立て、そのうち本気で心配し始めた。


 台北へ戻った彼女はかなり違った。


 服装もそうだが、歩き方が違う。東京ではスマートフォンの地図を何度も見ていたのに、ここでは人の間をほとんど考えずに抜けていく。店員とは中国語で話し、浩が遅れると振り返らずに待つ。


 東京では外国人だった。


 ここでは浩の方が外国人だった。


「何」


 以安が聞いた。


「いや」


「今見てたでしょ」


「見てた」


「何を」


「林さん」


「やめて。姉と区別つかないから」


「以安」


 名前で呼ぶと、彼女が少しだけ変な顔をした。


「急だね」


「区別しろって言ったじゃん」


「そうだけど」


「じゃあ何て呼べば」


「別にそれでいい」


 そのまま歩き始めた。


 浩もついていった。


 屋台を二つ回ったところで、以安がビールを買った。浩も同じものを買う。歩きながら飲むには少しぬるかったが、それも悪くなかった。


「草野さんって、東京の人?」


「違う」


「どこ?」


 浩は答えた。


「帰らないの? 夏休み」


「今年はいいかなって」


「家族と仲悪い?」


「普通」


「じゃあ帰ればいいのに」


「以安もお姉さんに会うために東京まで来たじゃん」


「あれは姉が来いって言ったから」


「来いとは言ってないんでしょ」


「今週なら東京にいるって」


「ほぼ一緒じゃない?」


「違う」


 以安はビールを飲んだ。


「私は、行かなかったらあとで母から『若晴に会った?』って聞かれるから」


「それだけ?」


「それだけじゃないけど」


 少し間があった。


「会いたかったし」


 浩はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、自分の話をした。


 大学に入るまでは、次にすることが分かっていた。大学へ入ってしまうと、その先がなくなった。研究者になりたいわけでも、何か特定の仕事をしたいわけでもない。それほど困ってもいないが、夏休みになった途端、本当に予定がなくなった。


「それで台湾?」


「途中がかなり飛んでる」


「でも最終的に台湾」


「うん」


「贅沢な暇つぶし」


「七万円したからね」


「まだ言ってる」


「大金だよ」


「じゃあ何か持って帰らないと」


「何を?」


「知らない。思い出とか」


「急に観光パンフレットみたいになった」


 以安が笑った。


 その笑い方を見て、浩は自分が少し酔っていることに気づいた。


 店の灯りが彼女の頬に当たっていた。東京の研究室では汗をかき、怒っていた顔を最初に見た。今は髪をまとめ、片手にビールを持っている。


 かわいいな、と浩は思った。


 思っただけだった。


「草野さん、彼女いる?」


 突然訊かれたので、少しむせた。


「いない」


「なんでむせるの」


「タイミング」


「普通の質問じゃん」


「以安は?」


「いない」


「そうなんだ」


「なんでちょっと嬉しそうなの」


「嬉しそうだった?」


「今」


「気のせい」


「ふうん」


 以安はそれ以上追及しなかった。


 しばらく二人で歩いた。


 若晴の話をしないと決めてみると、話すことはいくらでもあった。大学の授業。家賃。東京の電車。台北の電車。高校時代の友人。親から来るメッセージ。以安が日本語を覚えた理由。浩が繁体字をまるで読めないこと。


 以安が何を専攻しているのかも、この夜に初めて聞いた。


 浩はそこで、自分が彼女についてほとんど何も知らなかったことに気づいた。


 若晴の妹。


 それ以外を、ろくに訊いていなかった。


「僕、以安のこと何も知らないな」


「そりゃそうでしょ」


「東京でずっと一緒だった気がする」


「三日くらい」


「短い」


「そのうち一日は姉探して、一日は警察行って、一日は資料見てた」


「ほぼ若晴さんだ」


「そう」


 以安は言った。


「だから今日は姉の話しない」


「もう結構したけど」


「今から禁止」


「分かった」


 五分後、浩は「久世先生って結婚してるのかな」と訊いた。


「それ姉じゃないからセーフ」


「でも研究関係者」


「まあいい」


「判定が緩いな」


 二人はまた笑った。


 夜市の端まで来ると、人が少し減った。大通りの向こうには普通のマンションが並び、明かりのついた窓がいくつも見えた。


 浩はそれを眺めた。


「どうしたの?」


「いや、台湾だなと思って」


「今?」


「今」


「夜市じゃなくて?」


「マンション」


「なんで」


「人住んでるから」


「そりゃ住むよ」


「そうなんだけど」


 東京で台北の地図を見たとき、それは研究資料だった。若晴の表の中では、人口、道路、鉄道、商業、土地利用といった項目に分解されていた。


 実際に来ると、窓の一つ一つに生活がある。


 当たり前すぎて、表には書けない。


「姉みたいなこと考えてる?」


 以安が訊いた。


「たぶん逆」


「何それ」


「まだ分からない」


「便利だね、それ」


「久世先生に習った」


 帰りの地下鉄は混んでいた。


 二人はドアの近くに立った。揺れるたび肩が触れたが、どちらも動かなかった。


 以安がスマートフォンを見ている。


「何か来た?」


「母」


「若晴さん?」


「違う。明日の朝、ゴミ出してって」


「現実的」


「あと姉からも」


 浩は彼女を見た。


「何て?」


 以安は画面を読んだ。


「バンコク着いたって」


「それだけ?」


「うん」


「K-17は」


 以安が顔を上げた。


「禁止」


「あ」


「今日はもう終わり」


「はい」


 浩は素直に引き下がった。


 次の駅で人が降り、少し空いた。二人の間にも隙間ができた。


「草野さん」


「何」


「台湾来て、後悔してる?」


 突然だった。


「全然」


「まだ一日目だよ」


「だからじゃない?」


「七万円」


「それは痛い」


「やっぱり後悔してる」


「金だけ」


 以安は笑った。


「じゃあ明日、少し観光する?」


「以安、予定あるんじゃ」


「午前だけ」


「午後は?」


「空いてる」


「若晴さんの資料は?」


「逃げないでしょ」


「確かに」


「私も夏休みだから」


 その言葉を、浩は初めて聞いた気がした。


 以安にも夏休みがある。


 姉を探すための時間ではない。


 家族へ説明するためでもない。


 浩を案内する義務もない。


「じゃあ、どこ行く?」


「明日決める」


「何も決めないね」


「草野さんがそれ言う?」


 電車が駅へ入った。


 ホテルの最寄りだった。


 浩が降りると、以安も一緒にホームへ出た。


「以安はここじゃないでしょ」


「出口まで」


「迷うと思ってる?」


「昨日反対側出たから」


「一回だけじゃん」


「一回目でやってるから」


 改札まで来たところで、二人は立ち止まった。


「じゃあ明日」


「うん」


「午後」


「起きたら連絡する」


「午前予定あるんじゃないの」


「あった」


「忘れないでよ」


「姉と一緒にしないで」


 以安は手を振って、反対側のホームへ戻っていった。


 浩は地上へ出た。


 夜になっても暑かった。


 ホテルへ向かいながら、今日一日のことを考えた。


 午前には、若晴が十年前、梁や久世とK-17を作っていたことを知った。午後には、その場所をCIVICAが現在も使っていることが分かった。


 かなり重要なことだったはずだ。


 けれど浩がその晩いちばんよく覚えていたのは、夜市で食べたものの名前でも、K-17でもなかった。


 地下鉄で、以安の肩が何度か自分の肩に触れたことだった。


 十九歳なので、その程度のことは普通に気になった。

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