第十四話 K-17
翌日の午後、浩と以安は台北駅で待ち合わせた。
午前中、浩は一人で街を歩いた。観光地を回ったわけではない。ホテルを出て、地下鉄に二駅乗り、知らない駅で降りた。市場のような通りを抜け、コンビニで水を買い、暑くなってきたのでまた地下鉄に乗った。
昨日、夜市で以安に言われた通り、三日もいれば普通になるのかもしれないと思った。まだ二日目なので、信号機も、路地に並ぶスクーターも、建物の一階だけ奥へ引っ込んだ歩道も面白かった。ただ、昨日ほどいちいち立ち止まらなくなっている。
台北駅に着くと、以安はすでに待っていた。
「今日は迷わなかった?」
「一人で地下鉄乗ってきた」
「成長したね」
「子供扱いするなよ」
「昨日、反対の出口から出た人だから」
以安はそう言いながら、浩の隣に並んだ。
「で、どこ行く?」
「僕に聞く?」
「観光客でしょ」
「以安が少し観光するって言ったんじゃん」
「案内するとは言ってない」
結局、二人とも特に行きたい場所がなく、昼飯を食べることになった。
店を探して駅の地下を歩いている途中で、浩のスマートフォンが震えた。
久世からだった。
〈少し分かった。時間あるか〉
その下に画像が一枚添付されている。
浩は歩きながら開き、足を止めた。
「何?」
「先生」
以安も画面を覗いた。
古い研究資料だった。十年前、若晴、梁、久世らが行った都市比較研究の一部らしい。久世が東京で探していた「評価条件の原本」そのものではなく、関連資料のコピーだと書いてある。
ページの上部に、
BANGKOK / K-17
とあった。
その下には表があり、さらに小さな地図がついている。
「嘉寧さんの話と同じだ」
「うん」
K-17は、当時の研究チームがバンコクの一地区に付けた内部番号だった。そこまでは昨日分かった。
問題は、久世が続けて送ってきた二枚目だった。
現在のCIVICAの公開資料。
LATTICE Bangkok Pilot。
地図の形は少し違う。道路も増えている。駅もある。しかし、二つを並べれば浩にも分かった。
ほとんど同じ場所だった。
〈十年前のK-17と、現在のLATTICE実証地区は一致すると見ていい〉
久世から来る。
浩はすぐ返した。
〈なんで同じ場所を?〉
〈それを俺に聞くな〉
〈梁が昔の実験をやり直してる?〉
〈可能性はある。決めつけるな〉
〈若晴さんは知ってた?〉
今度は少し返事が遅れた。
〈知っていたから、最近の地図にK-17と書いたんだろう〉
以安が横で読んでいた。
「じゃあ姉、最初からこれ見にバンコク行ったんだ」
「たぶん」
「CIVICAのイベントじゃなくて?」
「両方じゃない?」
二人は地下通路の端へ寄った。
人が絶えず前を通っていく。
浩は二枚の地図を交互に見た。
十年前、若晴たちはこの地区のデータから「きれいすぎる」結果を出した。違う都市を共通の形式へ変換し、その後の変化を推定する。K-17は、その方法が最初にうまく機能した場所だった。
その後、梁はCIVICAを作った。
若晴も加わった。
いまCIVICAはLATTICEという都市予測サービスを持ち、その代表的な実証を、またK-17で行っている。
「これって、そんなに変?」
以安が訊いた。
「変というか、普通にあり得るよね。昔研究した場所ならデータもあるし」
「じゃあ何が問題なの」
「分からない」
「ずっとそれだね」
「でも若晴さんは、何か気にしてた」
浩は以安の部屋から送られてきた写真を開いた。
before intervention?
介入前?
若晴の書き込み。
「これ」
「昨日見た」
「LATTICEがK-17を予測したとして、そのあと何かしたんじゃない?」
「何かって?」
「投資とか、店を出すとか」
「CIVICAが?」
「分からない。先生が言ってたじゃん。地価が上がるって予測されたら、予測を見た人が土地を買うって」
以安はしばらく考えた。
「それで本当に上がったら、予測が当たったことになる」
「そう」
「でも買った人が上げたとも言える」
「そういう話なのかなって」
「かなって」
「素人だから」
以安は笑った。
「便利だな、素人」
久世へその考えを送ると、返事は一行だった。
〈そこまで行ったなら、次は事実を探せ〉
「先生、絶対ちょっと楽しんでるよね」
「草野さんと似てる」
「本人は否定すると思う」
二人は昼飯の店を探すのをやめ、近くのカフェへ入った。
冷房が強かった。
浩はアイスコーヒー、以安は甘い飲み物を頼み、テーブルの上にスマートフォンを二台並べた。
「事実って、どうやって探すの」
「公開資料?」
「観光は?」
「あとで」
「昨日、姉の話禁止とか言ってたのに」
「昨日は昨日」
以安の方が先に検索を始めた。
CIVICAのウェブサイトには、K-17という名前は出ていない。代わりに別の正式地区名で紹介されている。LATTICEの導入事例として、人流予測、商業需要、物流最適化、開発計画支援などが並び、いくつかの企業ロゴもある。
「普通の会社だな」
浩が言った。
「悪の会社じゃなくて残念?」
「だからそういうのやめろって先生にも言われた」
「自覚あるんだ」
公開されている記事をいくつか追うと、実証は数年前から段階的に拡大していた。店舗出店や物流拠点の配置にLATTICEの予測を利用した事例もある。
つまり、浩がさっき想像したことは、少なくとも一部は公然と行われていた。
「隠してない」
「じゃあ問題ないんじゃない?」
「そうなんだよね」
若晴が何を問題にしているのか、かえって分からなくなった。
企業が予測を出し、その予測を企業が使う。
そのための製品なのだから当然だ。
「先生に聞けば」
「事実を探せって怒られる」
「もう教育されてるね」
浩はLATTICEの資料を読み進めた。
実証地区。
モデル。
パートナー企業。
評価。
知らない言葉が多い。そのたび検索して戻るので、なかなか先へ進まない。
以安の方が突然、画面を指で止めた。
CIVICAの採用・研究紹介ページだった。
バンコクの大学とのインターンプログラム。若い学生が数人並んだ写真が載っている。
その一人に見覚えはなかった。
しかし名前にはあった。
Pim — Urban Analytics Intern
浩は身を乗り出した。
「ピム」
「たぶん」
プロフィールを開く。
大学で都市計画とデータ分析を学んでいる。CIVICAのインターンとして、バンコク実証の評価支援に参加。
そこまでは公開情報だった。
さらに別のイベント記事を開くと、写真の背景にK-17と同じ地区の地図が映っている。
「この人、K-17やってるじゃん」
「今のK-17ね」
「若晴さんが連絡してたのって、やっぱりピムだ」
「まだ確定じゃない」
「久世先生みたいなこと言うようになったな」
「草野さん見てると必要だと思う」
浩は笑いながら、東京でピムから届いたメッセージを開いた。
My name is Pim. She told me to contact you if I couldn’t reach her.
その人物が、単なる若晴の知人ではないことが分かった。
CIVICAの中にいる。
しかもK-17の評価に関わっている。
以安がピムとの古いチャットを開いた。
「もう一回訊く?」
「K-17?」
「うん」
「この前は答えなかった」
「だから訊く」
短い英文を打つ。
〈We learned that K-17 is the current LATTICE pilot area. Are you working on its evaluation?〉
送信した。
二人で画面を見ているのも変なので、浩はコーヒーを飲んだ。
「観光客が台湾まで来て、タイの会社のインターンにメッセージしてる」
「自分で言うとかなり変だね」
「以安も一緒だから」
「私は地元にいるだけです」
「ずるい」
「草野さんが勝手に来たんでしょ」
五分。
返事はない。
十分経った。
「やっぱり駄目か」
「忙しいんじゃない?」
「タイ、今何時?」
「一時間しか違わない」
「じゃあ普通に昼か」
「働いてるんでしょ」
二人はようやく昼飯へ行くことにした。
店を出ようとしたところで、以安のスマートフォンが震えた。
ピムだった。
以安は立ったまま読んだ。
「何て?」
「Yes」
「それだけ?」
「待って」
次のメッセージが来る。
〈I worked on the K-17 evaluation.〉
K-17の評価に参加していた。
さらに一通。
〈That is why I contacted Ruo-Qing.〉
だから若晴に連絡した。
浩は画面を見た。
「ピムから若晴さんに?」
「そう書いてある」
これまで浩は、若晴がCIVICAの現在のK-17に疑問を持ち、ピムへ接触したのだと思っていた。
順番が逆だった。
CIVICAの中にいたピムが、若晴を探した。
以安が質問を打った。
〈Why?〉
送る。
今度は返事が早かった。
〈Because the evaluation was wrong.〉
「評価が間違ってた?」
浩が言った。
「そう」
もう一通。
〈Not the prediction. The evaluation.〉
予測ではない。
評価が。
浩は久世の研究室で聞いた話を思い出した。
予測が当たったかどうかではないかもしれない。
そして若晴のメモ。
before intervention?
「以安」
「分かってる」
彼女はすでに次の質問を打っていた。
〈Can we call?〉
少し待って、返事が来た。
〈No.〉
その次が続いた。
〈I can talk in Bangkok. Not online.〉
二人とも黙った。
以安が最初に言った。
「行かないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
以安はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「私はバンコクには行かない。昨日も言ったよね」
「うん」
「姉も生きてる。ピムも助けてって言ってない。草野さんにも関係ない」
「うん」
「その『うん』信用できない」
浩は何も答えなかった。
ピムから、もう一通届いた。
今度は文字ではなかった。
写真だった。
夜の店内らしい。
画質は悪い。
奥のテーブルに二人いる。
一人はピムだろう。
もう一人を、浩は写真でしか見たことがなかった。
以安は一目で分かった。
「姉だ」
林若晴だった。
撮影時刻は昨夜。
場所情報はない。
ピムから最後に一文だけ届いた。
〈She is here. We are trying to understand what happened in K-17.〉
姉はここにいる。
私たちは、K-17で何が起きたのか確かめようとしている。
浩は写真を見た。
東京で始まった「林若晴を探す」という話は、その瞬間、完全に終わった。
若晴は失踪していなかった。
誰かに捕まってもいなかった。
そして、自分から別の事件の中へ入っていた。




