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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第二部 八月、台北

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第十五話 生きている

 ピムから届いた写真には、林若晴が写っていた。


 画質はよくなかった。夜の店内らしく、奥にはタイ語らしい文字の看板があり、手前を誰かの肩が横切っている。それでも以安は一目で姉だと分かった。


「昨日だよね、これ」


 写真の情報を確認すると、撮影は昨夜だった。東京で連絡が取れなくなってから何日も経っていない。林若晴は少なくとも昨夜、バンコクで、自分の足で椅子に座り、ピムという学生と同じテーブルにいた。


 台北のカフェで、浩と以安はしばらくその写真を見ていた。


「生きてる」


 浩が言った。


「見れば分かる」


「いや、そうなんだけど」


 以安は写真を閉じた。安心しているはずなのに、顔つきはむしろ険しくなっていた。


「何なの、ほんとに」


 東京では、姉が事故に遭ったのかもしれないと思った。事件に巻き込まれたのかもしれないと思い、ホテルへ行き、警察へも行った。台北へ戻ってからは姉の部屋を調べ、昔の研究仲間にまで会った。


 その本人はバンコクにいた。


「怒ってる?」


「当たり前でしょ」


「安心より?」


「両方できるよ」


 それもそうだった。


 以安はピムへ、通話できるかと送った。返事は少し遅れて届いた。


〈Ten minutes. Voice only.〉


「顔は出したくないのかな」


「仕事中なんじゃない?」


「CIVICA?」


「たぶん」


 十分後、本当に着信があった。


 以安がスピーカーにし、最初に自分の名前を伝えた。ピムの英語は速かったが聞き取りにくくはなかった。若い女の声だった。周囲には人の話し声やドアの開く音が混じっていて、静かな場所ではないらしい。


 以安は最初に、写真の人物が本当に姉なのか確認した。


〈Yes. Ruo-Qing. I met her last night.〉


「姉は今どこにいるの?」


 英語で訊くと、少し間があった。


〈I can’t tell you exactly. Sorry.〉


 以安の眉が動いた。


「なんで?」


〈It’s not my place to tell you. But she is safe.〉


 若晴本人から居場所を伏せるよう頼まれたのかと訊いたが、ピムはそこには答えず、ただ「安全だ」と繰り返した。


 浩は横で聞きながら、東京から続いていた想像が少しずつ崩れていくのを感じた。


 誰かに連れ去られたのではない。逃げられない場所にいるのでもない。少なくともピムの話では、若晴は自分からバンコクへ来た。


「東京から?」


 浩が訊いた。以安が代わりに英語で伝える。


〈Yes. She came by herself.〉


 はっきりした返事だった。


「いつ?」


〈Yesterday. We had been talking before that.〉


「ピムから姉に?」


 今度はピムが少し黙った。


〈Yes. I contacted her first.〉


 浩と以安は顔を見合わせた。


 そこは、二人が思っていた順番と逆だった。


 若晴がCIVICAの現在の実証に疑問を持ち、内部にいるピムを探したのだと思っていた。実際には、CIVICAで働いているピムの方から若晴へ連絡した。


「K-17のことで?」


〈Yes.〉


「何があったの?」


 ピムはすぐには答えなかった。背後で誰かが何かを言い、彼女がタイ語で短く返す。場所を移動したのか、急に周囲が静かになった。


〈I worked on the evaluation.〉


「評価?」


〈For K-17. I was part of the team.〉


 CIVICAのインターンとしてK-17の評価作業に参加していた。それは公開されているプロフィールとも一致する。


「それで、何かおかしいと思った?」


 以安が訊いた。


 また少し間があった。


〈I don’t know yet. That’s why I contacted her.〉


「分からない?」


〈I thought I understood it when I was doing the work. Now I’m not sure.〉


 そこだけ声が少し小さくなった。


 浩は思わず口を挟んだ。


「何を?」


 以安が訳す。


 ピムは答えなかった。代わりに訊いた。


〈Who is he?〉


「草野浩。東京で姉の資料整理をしてた学生」


〈Student?〉


「大学一年」


 電話の向こうで、ピムが何か笑ったようだった。


〈Why is he in Taiwan?〉


「私も知らない」


「観光です」


 浩が英語で言った。


 ピムが今度ははっきり笑った。


 それで少し空気が緩んだ。


 ピムは二十一歳で、バンコクの大学に通っていること、CIVICAでは数か月前からインターンをしていることを話した。もともと都市データや計画の仕事に興味があり、LATTICEにも憧れていたらしい。


〈I still think it’s a good system.〉


 彼女はそう言った。


 以安が聞き返す。


「今も?」


〈Yes. That’s why this is difficult.〉


 浩はその言葉が少し意外だった。


 内部の問題に気づいて若晴へ連絡した人間、と聞いて、勝手にCIVICAへ不信感を持つ告発者のような人物を想像していた。


 違った。


 ピムはその会社に入りたかった。LATTICEをいいものだと思っていたし、今もそう思っている。


「じゃあ何が問題なの?」


 以安が訊いた。


〈I don’t want to explain this online. And I’m not sure I can explain it correctly yet.〉


「姉とはそれを調べてる?」


〈Yes.〉


「CIVICAには知られてる?」


 その質問には、ピムはしばらく答えなかった。


〈Some people know Ruo-Qing is in Bangkok. She is not hiding.〉


 そこまで言ってから、続けた。


〈But please don’t make this bigger than it is.〉


 大きな事件にしないでほしい。


 浩は久世にも似たことを何度も言われてきた。


 若晴は誘拐されていない。CIVICAから命を狙われてもいない。ピムも秘密組織から逃げているわけではない。


 ただ、何か分からないものがある。


 その程度だった。


 それなのに、東京から台北まで来てしまった。


「若晴さんと話せますか」


 浩が訊いた。


 以安が訳すと、ピムの返事は早かった。


〈Not now.〉


 以安の顔がまた険しくなる。


「なんで?」


〈She will contact you herself. I already told her.〉


「いつ?」


〈I don’t know.〉


「またそれ」


 日本語だったのでピムには聞こえても意味は分からない。


 以安は英語に戻り、姉に必ず連絡するよう伝えてほしいと言った。


〈I will.〉


 そこで会話が終わりかけた。


 浩は一つだけ気になっていた。


「ピム」


 名前を呼ぶと、電話の向こうで反応があった。


「K-17って、行けば見られる?」


 以安が訳した。


〈See?〉


「普通に街として。入れない場所じゃなくて」


 質問の意味が分かったらしい。


〈Of course. People live there.〉


「人が住んでるんだ」


 浩は日本語で言った。


「そりゃそうでしょ」


 以安が返した。


 その通りだった。


 東京で最初に見たK-17は、若晴の紙に書かれた三文字と数字だった。台北では十年前の研究区画になり、CIVICAの実証地区になった。


 けれど、そこには普通に人が住んでいる。


 浩はそのことを、今までほとんど考えていなかった。


 電話の向こうでピムが言った。


〈But you don’t need to come here.〉


「え?」


〈Ruo-Qing is safe. That’s what you wanted to know, right?〉


 若晴は無事だ。それを知りたかったのではないか。


 浩は答えられなかった。


 その通りだったからだ。


 最初は若晴を探していた。


 東京で待ち合わせに来なかった研究者が、どこへ行ったのか。何か危険なことが起きたのではないか。


 答えは出た。


 林若晴は生きている。


 自分の意思でバンコクへ行った。


 そこには彼女を呼んだピムがいて、二人でK-17について何かを確かめている。


 もう、助けに行く人間はいなかった。


〈I have to go.〉


 ピムが言った。


 以安が最後に、姉へ必ず連絡するよう念を押した。


 通話が切れた。


 カフェの音が戻ってきた。隣のテーブルでは、二人組がずっと話をしている。外には午後の台北があり、ガラスの向こうをバスが通り過ぎた。


 以安はスマートフォンを伏せたまま、しばらく動かなかった。


「よかったね」


 浩が言った。


「何が」


「若晴さん」


「うん」


 以安はようやく頷いた。


「よかった」


 そのあとで、深く息を吐いた。


「でも会ってない」


「写真では見た」


「そういうことじゃない」


「うん」


「東京まで行ったのに、会ってない。台北に戻っても会ってない。今度はバンコクにいる」


 怒っているのか、呆れているのか、浩にはよく分からなかった。


 おそらく両方だった。


「追いかけるの?」


 浩が訊いた。


 以安はすぐには答えなかった。


 東京へ姉を探しに行き、家族へ説明し、若晴の代わりに久世へ連絡し、今も姉がちゃんと連絡を寄越すようピムへ頼んでいる。ずっと自分がその役をしている、と彼女は何度も言っていた。


「分からない」


「珍しいね」


「何が」


「以安がそれ言うの」


「草野さんのが移った」


 少し笑った。


 そのまま二人で遅い昼飯を食べた。


 若晴が生きていることが分かると、急に腹が減ったらしい。以安はさっきまで残していたものも全部食べた。


 店を出るころには、夕方が近かった。


「明日は?」


 浩が訊いた。


「午前は大学。午後は家」


「僕、どうしよう」


「観光すれば?」


「本来それで来たからね」


「忘れてたでしょ」


「かなり」


 駅へ向かって歩く。台北へ来た日に珍しかった道も、もう少しだけ普通に見えるようになっていた。


 浩は明後日の帰国便を取っていた。


 このままなら、あと一日台北を歩いて、東京へ帰る。


 それでいい。


 若晴の居場所は分かった。


 K-17については本人たちが調べている。


 ピムからも「来る必要はない」と言われた。


 どこにも、浩の出番はなかった。


「草野さん」


 以安が歩きながら言った。


「明後日帰るんだよね」


「うん」


「航空券、変更できる?」


 浩は彼女を見た。


「どこに?」


「知らない。今調べる」


 以安は歩いたままスマートフォンを出した。


「まさか」


「まだ決めてない」


「さっきピムに来なくていいって言われたよ」


「知ってる」


「若晴さんも無事」


「知ってる」


「じゃあ何しに?」


 以安は足を止めた。


 少し考えてから言った。


「助けには行かない」


 その言葉だけは、はっきりしていた。


「姉が何してるのか、見に行く」


「それ、結局追いかけてない?」


「そうかもしれない。でも今度は、姉に頼まれたからでも、お母さんに説明するためでもない」


 浩は何も言わなかった。


 以安は検索画面を開いた。


「草野さんは?」


「何が」


「来る?」


 今度は浩が考える番だった。


 台北へ来るときは、面白そうだから来た。


 それで十分だった。


 けれどK-17には人が住んでいる。ピムはそこで仕事をし、自分の仕事が正しかったのか分からなくなっている。若晴は十年前から関わってきたものを、自分で確かめに行っている。


 他人の話なのは変わらない。


 ただ、もう紙の上だけの話ではなかった。


「行く」


 浩が言うと、以安は特に驚かなかった。


「だと思った」


「聞いた意味ある?」


「一応」


「航空券、また金かかるな」


「そこは知らない」


「冷たい」


 二人は駅の入口まで歩いた。


 以安は航空券の検索画面を開き、出発地に台北を入れた。


 到着地の欄で指が止まる。


 それから三文字を打った。


 BKK


 東京で若晴の資料の隅に書かれていた、意味の分からない三文字だった。


 今度は、行き先だった。

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