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八月、アジア、世田谷  作者: 島流しパプリカ
第三部 八月、バンコク

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第十七話 暑い街

 バンコクに着いた瞬間、草野浩は、台北が涼しかったような気がした。


 もちろん気のせいだった。台北も十分に暑かったし、東京も暑かった。ただ、空港の外へ出たとたんにまとわりついてきた空気が、それまでの二都市とは少し違った。熱と湿気に、車の排気と何かを焼く匂いが混じっている。林以安が隣で「暑い」と言ったので、少なくとも浩だけの感想ではなかった。


「帰る?」


 浩が訊くと、以安はスーツケースを引きながら「今着いたばっかり」と答えた。


 二日前、二人は台北にいた。


 林若晴は無事だった。東京で突然連絡が取れなくなった台湾人研究者は、誘拐されたわけでも事故に遭ったわけでもなく、自分の意思でバンコクへ移動していた。そこにはCIVICAという都市テクノロジー企業でインターンをするピムという学生がいて、十年前から若晴たちの研究に現れていたK-17という地区について、二人で何かを調べている。


 もう若晴を探す必要はない。


 それが分かったあとで、浩と以安はバンコク行きの航空券を買った。


 そう考えると、以前より行動が悪化している気もした。


「私、最初は行かないって言ってたんだけどな」


 空港から市内へ向かう途中、以安が言った。


「かなり強く」


「草野さんのせい?」


「僕、誘ってないよ」


「顔が行く顔だった」


「何だよ、それ」


「台北来たときと同じ」


 以安は窓の外を見た。道路の向こうに高層建築が見え、その手前を低い建物が流れていく。車線は多く、車も多い。高架道路が重なり、その隙間に広告がある。浩にはどこが街の中心なのか、まだまったく分からなかった。


「でも今度は、姉を探しに来たんじゃないから」


「うん」


「そこ大事だから」


「何しに来たの?」


 訊くと、以安はしばらく考えた。


「文句言いに」


「お姉さんに?」


「まずは」


「それ台北からでもできるじゃん」


「じゃあ草野さんは?」


「見に来た」


「何を」


「K-17」


「台北からでも地図見られるよ」


 二人とも同じだった。


 合理的な理由はなかった。


 ただ、東京で紙の上に現れ、台北で十年前の研究区画だったと分かり、今はCIVICAの都市予測サービスLATTICEの実証地区になっている場所が、この街のどこかに実在している。


 しかも、そこには人が住んでいる。


 ピムは電話でそう言った。


 その当たり前のことが、浩には妙に残っていた。


 ホテルへ荷物を置いたのは午後三時を過ぎてからだった。


 若晴とはまだ連絡がついていない。以安には短いメッセージが来ていたが、「着いたら連絡する」と書いたきりだった。代わりにピムから、ホテル近くの商業施設にあるカフェを指定されていた。


「ピム、会ってくれるんだ」


「会うだけって」


「K-17の話も?」


「それは分からない」


「行けば分かる」


「最近そればっかりだね」


 冷房の効いたホテルを出ると、また暑かった。


 大通りまで歩くだけで汗をかいた。歩道には人が多く、車道はさらに多い。車の間をバイクが抜けていく。道路の向こうへ渡りたいだけなのに、どこから渡ればいいのか分からず、二人でしばらく立ち止まった。


「こっち?」


「私に聞かないで」


「台湾人でしょ」


「タイと何の関係があるの」


「東京より近い」


「距離で能力決めないで」


 結局、地元の人たちについて横断歩道を渡った。


 商業施設へ入ると、急に世界が冷えた。


 ガラスと照明と冷房。コーヒーショップ、化粧品店、服。スマートフォンを見ながら歩く人。制服姿の学生たち。東京でも台北でも見たような風景だった。


「どこでもこういうところあるね」


 浩が言うと、以安が「あるから便利なんでしょ」と答えた。


 ピムは、カフェの一番奥にいた。


 浩はCIVICAのウェブサイトで顔を見ていたので分かった。写真より小柄だった。白いシャツに黒いパンツ、膝の上にノートパソコンの入ったバッグを置いている。浩たちを見つけると立ち上がったが、笑顔はなかった。


「Yi-An?」


 以安が頷いた。


 ピムは浩を見る。


「Hiroshi?」


「Yes」


「You really came.」


 第一声がそれだった。


 台北で以安にも同じことを言われた。


「Everyone says that.」


 浩が答えると、ピムは初めて少し笑った。


 三人で座った。


 ピムは二十一歳だった。バンコクの大学で都市計画とデータ分析を学んでいる。CIVICAのインターンに応募したのは半年前で、採用されたときは家族にも友人にもかなり自慢したらしい。


「LATTICEが好きだったんですか」


 浩が英語で訊いた。


「今も好きです」


 ピムは即答した。


「Past tenseじゃない?」


「No. I still think it’s good.」


 そこは電話で聞いたときと変わらなかった。


 彼女はCIVICAを告発するために若晴へ連絡したのではない。K-17の評価作業に参加し、自分が正しいと思って処理したものについて、あとから分からなくなったことが出てきた。それで、LATTICEの考え方を作った人間の一人である若晴を探した。


「どうして若晴さんだったんですか」


 浩が訊く。


「梁さんじゃなくて」


 ピムはストローの袋を指で折った。


「梁さんはCEOです」


「それだけ?」


「それだけで十分です」


 以安が笑った。


 ピムも少し笑ったが、すぐ真顔に戻った。


「それに、Ruo-QingはCIVICAを辞めている。外から見られる人が必要だった」


「久世先生は?」


「I didn’t know him.」


「若晴さんとはどうやって?」


「古い論文。そこから連絡先を探しました」


 浩は、東京で段ボール箱を開けてから何度も思ってきたことをまた思った。


 世界は、自分が参加する前から動いている。


 ピムは浩を知らなかった。


 以安も知らなかった。


 久世の研究室にあった箱も知らない。


 それでもK-17について疑問を持ち、自分で若晴へ連絡し、若晴は東京からこの街へ来た。


 浩がいなくても、全部起きていた。


「姉はどこですか」


 以安が訊いた。


 ピムはスマートフォンを確認した。


「今はCIVICAのイベント会場です。明日の準備」


「会社に普通に行ってるの?」


「はい」


「隠れてない?」


「隠れてません」


 以安は額を押さえた。


「じゃあなんで私に場所言わないの」


 ピムは少し困った顔をした。


「That is between you and your sister.」


「正しい」


 浩が言うと、以安に睨まれた。


 若晴が危険な目に遭っているという感じは、今のところなかった。


 ピム自身も普通にカフェへ来た。若晴もCIVICAのイベント会場にいる。梁志恒とも会う予定らしい。


「じゃあ」


 浩は訊いた。


「僕たちが来ても別に問題なかった?」


 ピムは答えなかった。


 ほんの少しだったが、明らかに間があった。


「ピム?」


 以安が呼ぶ。


 ピムはテーブルの上の自分のスマートフォンを裏返した。


「You should go back.」


 英語だった。


 浩は聞き間違えたかと思った。


「To Taiwan?」


「Taiwan. Japan. Either.」


「なんで?」


 以安が訊いた。


 ピムは周囲を一度見た。


 誰かを警戒しているというより、人に聞かれたくない話をするときの動きだった。


「Ruo-Qing didn’t ask you to come.」


「それは知ってる」


「I didn’t ask you either.」


「それも知ってる」


「Then go home.」


 以安の顔が険しくなった。


「姉は危ないの?」


「No.」


「あなたは?」


 ピムはすぐには答えなかった。


「今のところは」


 以安が身を乗り出した。


「今のところ?」


 ピムは、自分の英語を選び直すように少し考えた。


「Dangerousという意味じゃないです。たぶん」


「たぶんって」


「昨日まで、これは研究の話だと思っていました」


 ピムはそこからゆっくり話した。


 K-17の評価について疑問を持った。


 若晴へ連絡した。


 二人で古い研究と現在の評価を見比べた。


 それだけなら、まだ仕事や研究の範囲だった。


「でも今朝、会社で聞かれました」


「何を?」


「林若晴と連絡しているか」


 三人の間で、初めて会話が止まった。


 浩は思わずカフェの周囲を見た。買い物袋を足元に置いて話している女性たち。ノートパソコンで仕事をしている男。制服姿の学生。


 何も怪しくなかった。


「なんて答えたの?」


 以安が訊いた。


「Yes」


「言ったんだ」


「嘘をつく理由がないから」


「それで?」


「なぜ連絡したか聞かれた。私はK-17の評価について確認したかったと言いました」


「誰に?」


「インターンのマネージャー」


 浩は少し拍子抜けした。


「普通の確認じゃないですか」


「かもしれません」


「若晴さん、元CIVICAなんですよね。イベントにも来てるなら」


「そうです」


 ピムは頷いた。


「だから、私もそう思いました」


「思いました?」


「そのあと、大学にも連絡が来ました」


 以安の表情が変わった。


「CIVICAから?」


「インターンプログラムの担当教員に」


「何て?」


「私が機密情報を外部の人間へ共有していないか、確認したいと」


 それは、企業として異常なことなのか。


 浩には判断できなかった。


 インターンが社内資料を元社員へ見せている可能性があるなら、会社が確認するのは当然にも思える。


「実際、見せたんですか」


「少し」


「機密?」


「たぶん」


「それはピムが悪いんじゃ」


「そうかもしれません」


 ピムは否定しなかった。


「だから帰ってほしいんです」


「どうつながるの?」


「あなたたちは関係ないから」


 その言葉は、浩に向けられていた。


 東京でも何度も考えた。


 自分には関係がない。


 若晴の家族でもない。


 CIVICAの社員でもない。


 K-17に住んでいるわけでもない。


 ピムの友人ですら、今日初めて会った。


「関係ない人が増えると、話が難しくなる」


 ピムは言った。


「若晴は?」


「Ruo-Qingはもう関係しています。昔から」


「以安は妹」


「だから、帰ってほしい」


「私も?」


「特にあなた」


 以安は黙った。


 それは少し意外だったらしい。


「姉がまた勝手にやってるから?」


「No.」


 ピムは首を振った。


「あなたは、Ruo-Qingのために来たでしょう」


「違う」


 以安がすぐに答えた。


 ピムが彼女を見る。


「前はそうだったかもしれない。でも今回は違う。姉に頼まれてないし、母にも言われてない。私が来たかったから来た」


 浩は横で聞いていた。


 台北で以安が言った言葉と同じだった。


 ピムは少し考えたあと、頷いた。


「Then I can’t stop you.」


「止めなくていい」


「But I still think you should go home.」


「それは聞いた」


 そのやり取りで、少しだけ空気が戻った。


 浩は訊いた。


「K-17、明日行けますか」


 ピムの顔から、また表情が消えた。


「Why?」


「見たいから」


「What?」


「街を」


 ピムはしばらく浩を見た。


 怪しい外国人を見るような目だった。


「Tourist?」


「Yes.」


 以安が横で笑った。


「草野さん、それで台湾にも来た」


「Not only tourist.」


 浩が訂正する。


「ほぼ観光」


「どっち」


 ピムは二人を見て、初めて少し長く笑った。


「K-17は観光地じゃないです」


「知ってる」


「普通の地区です」


「それを見たい」


 ピムは理解できないという顔をした。


 浩自身、説明できる気はしなかった。


 LATTICEが予測した街。


 十年前、若晴たちが研究した街。


 ピムが自分の仕事を疑い始めた街。


 そういう名前を全部外したとき、そこに何があるのか見たかった。


「明日は無理です」


 ピムは言った。


「イベント?」


「それもあります。でも」


 また言葉を選んだ。


「あなたたちだけで行かないでください」


「なんで?」


「場所を知らないでしょう」


「地図はある」


「そういう意味じゃない」


 ピムの声が少し強くなった。


 そこへ彼女のスマートフォンが震えた。


 画面を確認する。


 顔つきが変わった。


「何?」


 以安が訊いた。


 ピムは答えず、メッセージを読んだ。数秒してスマートフォンをバッグへ入れ、急に立ち上がった。


「I have to go.」


「CIVICA?」


「Yes.」


「若晴さんに会える?」


「たぶん」


「じゃあ私たちも――」


「No.」


 今までで一番強い言い方だった。


 以安が止まった。


 ピムはバッグを肩へかけた。


「Tonight, stay at your hotel. Tomorrow, I’ll contact you.」


「何があったの?」


 浩が訊いた。


 ピムは迷った。


 それから、スマートフォンを一度だけ見た。


「The file I showed Ruo-Qing。」


 浩には意味が分からなかった。


「What file?」


「K-17の評価データ」


「それが?」


 ピムは小さく息を吐いた。


「今、私のアクセス権が止まりました」


 それだけ言って、彼女は席を離れた。


 三人分の飲み物がテーブルに残った。


 浩はその背中が人混みに消えるまで見ていた。


 バンコクに着いて、まだ三時間も経っていなかった。


 台北では、紙の上にしかなかったK-17が、この街へ来た途端に人間を動かし始めた。

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