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第005話:凍結される密約と、冷徹なる官吏の逆襲

【工程ログ:ミズラハ伝統暦 4月4日 / 帝国統一暦 4月6日】

【月齢:三日月過ぎ / 次の新月まであと26日】

【現在地:聖地ミズラハ王宮】


吸音材の概念が全くない、分厚い石造りのミズラハ王宮の回廊。


冷たい隙間風が吹き抜ける中、ヨシヤはもらったばかりの「特命全権大使」の任命証を片手に、盛大なため息をついていた。


「……で? アブネル将軍の圧から逃げるように出立したかと思えば、今度は国内の掃除から始めるって?

さっきお前らが言ってた『外の嵐を止める前に、内の火事を消す』って、具体策はあるのかよ?」


俺のツッコミに、前を歩くリツィエルが足を止め、冷徹に眼鏡を押し上げた。


「まずは、恭順派の筆頭であるペラトヤ卿を失脚させる」


「いきなり国内のトップ貴族かよ! なんでまた!」


「彼が今、帝国へ極秘裏に『国売り』の使者を送ろうとしているからだ。特権階級の地位と財産を保証してもらう代わりに、ゼデキヤ王の首とこの街の明け渡しを約束する密約だ」


「はぁ!? 自分の保身のために現場の人間を全部売り飛ばす気か!? 冗談じゃない!」


俺が怒りで声を荒げると、サギが呆れたようにコインを弄りながら肩をすくめた。


「まったくだ。だが、どうやって止める? 相手は国内最大の権力者だぞ。俺のハッタリで丸め込むにも、まだ材料が足りねえ」


「法と理屈で刺す」


リツィエルは持っていた羊皮紙をトントンと揃え、感情の読めない目で言った。


「彼の密約の法的瑕疵を突き、過去の判例を適用して全権限と資産を凍結する。


そのための証拠となる『王宮の裏帳簿』が、地下書庫に眠っているはずだ」


「なるほど。で、その地下書庫の鍵は誰が持ってるんだ?」


「ヘフツィバ王妃だ」



***



没薬もつやくの甘い香りが漂う、王宮奥深くの王妃の私室。


西日に照らされた砂の金色のタペストリーの前で、ヘフツィバ王妃は深く静かな哀しみを帯びた瞳で俺たちを見つめていた。


「地下書庫の鍵を……? 特命大使に任命されたとはいえ、あなた方のような者に王室の機密を渡すわけにはいきません」


「王妃様、これは合理的な計算です」


リツィエルが一歩前に出て、淡々と理屈を並べ立てる。


「ペラトヤ卿の密約が成立すれば、帝国はミズラハの自治権を剥奪し、王室の人間も処刑されます。

国家の多大な損失を防ぐためにも、僕に鍵を託すのが最も生存率の高い『事務的解決』です」


だが、ヘフツィバ王妃の表情はピクリとも動かなかった。


「……国家の損失、生存率。あなた方のような冷たい官吏の計算など、今の私にはどうでもよいのです」


王妃は祈るように両手を胸の前で組み、傍らに控える幼いヨタム王子をぎゅっと抱き寄せた。


「お母様、泣かないで? 大丈夫だよ、きっと昔話の英雄様みたいに、すごい人が僕たちを助けてくれるから!」


ヨタム王子が、国の危機も大人たちの絶望も知らず、無邪気な琥珀色の瞳を輝かせて王妃を慰める。


その純粋すぎる言葉が、何もできない俺の胃をチクッと刺した。


「私が守りたいのは、この子の命だけ。……長女のマイアンを帝国に奪われ、私はもう、これ以上家族を失いたくない。

ペラトヤ卿の密約に王室の処刑が含まれていようと、私はこの子の命を乞うためなら、喜んで帝国の奴隷にでもなる覚悟です」


理屈だけでは、母の愛(情)は動かない。


リツィエルの言葉が完全に宙に浮き、彼が微かに眉をひそめたその時だった。


「……王妃様」


俺は、たまらず一歩前に出ていた。


「帝国の奴隷になって命乞いをしたって、この子の『未来』は守れないだろ」


「ヨシヤ……君は黙っていろ。計算が狂う」 リツィエルが小声で俺を嗜めるが、俺は構わず王妃を真っ直ぐに見据えた。


「あんたは母として、ヨタム王子を守りたいんだろ。だったら、誰かのご機嫌取りに命を預けるような、そんなグラグラな足場(密約)に頼っちゃダメだ」


俺は泥だらけの作業着のまま、深く頭を下げた。


「俺たちが、絶対にこの街(現場)を崩壊させない。誰も血を流させない『現場の落とし所』を、俺たちが死ぬ気で作り上げる。

だから、俺たちを信じて、あんたが持ってるその鍵を預けてくれ」


王妃の琥珀色の瞳が、微かに揺らいだ。 そこにすかさず、サギが流麗なステップで進み出た。


「そういうことだ、王妃様。冷たい書類の束と違って、俺たちの約束は温かいぜ?」


サギは悪びれることなくウインクを飛ばし、得意の手品で空中から一本の白い花を出現させ、ヨタム王子に差し出した。


「俺たちの極上のペテンで、王妃様も王子も、誰一人血を流させずに守り抜いてみせますよ。……悪いようにはしねえからさ」


リツィエルの冷徹な理屈が行き詰まった壁を、俺の直球の感情(情)が揺さぶり、サギの甘いハッタリ(嘘)がこじ開ける。


3人の不器用な連係プレーが、初めて綺麗に噛み合った瞬間だった。


ヘフツィバ王妃は俺たち3人を交互に見つめ、やがて小さく息を吐くと、懐から重厚な真鍮の鍵を取り出した。


「……あなた方のような人たちに国の命運を託すなど、私も正気ではありませんね。……ヨタムの未来を、頼みます」


「感謝します、王妃様」 リツィエルが鍵を受け取りながら、俺とサギを横目で一瞥した。


「……非合理な口出しだが、結果的に目的は達した。行くぞ」



***



松明の火が重苦しく揺れる、ミズラハ王宮の円卓の間。


汗と湿った石の匂いが充満する中、恭順派の筆頭であるペラトヤ卿が、数名の貴族を引き連れてゼデキヤ王に詰め寄っていた。


「ゼデキヤ王! 帝国軍は目と鼻の先です! 今すぐこの密約書にサインし、私を特使として帝国へ向かわせてください! 我々特権階級だけでも助かる道を……」


「う、ううむ……。しかしペラトヤ卿、これにサインすればアブネル将軍ら主戦派が黙っておらん。内乱になってしまうではないか……」


玉座に座るゼデキヤ王は、ペラトヤの冷酷な圧力と国内の泥沼の対立に完全に板挟みとなり、脂汗を流しながら激しく胃を痛めていた。


「その密約書は、紙くず以下の価値しかありませんよ、ペラトヤ卿」


バンッ! と円卓の間の扉が開かれ、俺たち3人が堂々と足を踏み入れた。


「き、貴様ら! 脱獄囚どもが、神聖な会議の場に何用だ!」 ペラトヤが鋭い眼差しで俺たちを睨みつける。


「特命全権大使として、王宮内の『不正な手続き』を監査しに来たのさ」


サギがニヤニヤと笑いながら、円卓の上に分厚い羊皮紙の束をドサリと放り投げた。


「あんたが帝国と裏で交わそうとしていた国売り密約の草案と、過去数年間にわたる防衛費の横領記録だ」


「なっ……! どこでそれを!」 ペラトヤの顔色が一気に蒼白になる。


その前に、かつてのペラトヤの部下であったリツィエルが、無表情のまま歩み出た。


「ミズラハ王国法・第7章第3項。国家の資産を不当に横領し、かつ敵国へ内通する意志を明文化した者は、国家反逆の疑いにより『全権限および全資産を即時凍結』される」


リツィエルの言葉は、冷たく研ぎ澄まされた刃そのものだった。


「ペラトヤ卿。あなたのその密約書には、我が国の主権放棄の代償として『貴殿個人の資産保証』が明確に記載されている。

これは明白な国家反逆行為だ。……双方が実利を確保する『合理的な妥協案』も構築できない、計算もできない愚か者のすることですね」


「き、貴様ッ! かつての私の部下風情が、法を盾に私を裁く気か!」 ペラトヤが怒りで声を震わせ、腰の短剣に手をかけようとした。


「動くなよ、国売り野郎」


俺は一歩前に踏み出し、元現場監督としてのドス黒い怒りを込めてペラトヤを睨み据えた。


「自分の保身のために、下で汗水流してる現場の人間を全部売り飛ばそうとするなんて……一番上に立っちゃいけない最悪の責任者だ。あんたに、この国(現場)を語る資格はねえ!」


俺の容赦ない威圧感と、サギが突きつけた動かぬ証拠、そしてリツィエルの完璧な法的拘束。


逃げ場を完全に塞がれたペラトヤは、ついにその場に崩れ落ちた。


「……ふふっ、ははははっ!」 だが、追い詰められたペラトヤは、突如として狂ったように嗤い始めた。


「法だと? 正義だと? 笑わせるな、リツィエル! 私が己の命惜しさに国を売ったとでも思っているのか!?

私は、神の果樹園たる名門カルメル家の当主だぞ! 息子エズラの未来を守るためならば、国の一つや二つ売り飛ばして何が悪い!!」


ペラトヤの執念に満ちた嘲笑が、円卓の間に響き渡る。


「お前の父親、あの清廉潔白だったヒルキヤもそうだ! 綺麗事だけでは国家という巨大な歯車は回らんのだ!

この国を存続させるにはあまりにも邪魔だったからこそ、私がでっち上げた『書類一枚』で排除してやったのだ!」


「そして今、その息子であるお前も、王妃をたぶらかし、法を悪用して私を陥れようとしている!

結局、お前も私と同じ、己の目的のために法を私物化し、国を乗っ取る泥棒に成り下がったということだ!」


その言葉に、俺とサギは息を呑んでリツィエルを見た。


だが、リツィエルの表情はピクリとも動かなかった。


彼はただ、手元の凍結命令書を静かに握りしめていた。


(……あなたとは違う) リツィエルは無表情のまま、内心で静かに、そして熱く独白した。


(父は、あなたのような悪党の書類一枚で殺された。……だが、僕は違う。僕は……書類一枚で、父が愛したこの国の民を全員『生かして』みせる)


父の無念を晴らし、同じ轍を踏まないための壮絶な覚悟。


冷徹な官吏の仮面の下にあるその真の動機を、ペラトヤが知る由もない。


「衛兵。この元・筆頭貴族を地下牢へ連行しろ。……僕の事務処理をこれ以上増やさないでいただきたい」


リツィエルが冷たく言い放ち、ペラトヤは絶望の叫びを上げながら衛兵たちに引きずられていった。


「あ、ああ……。ペラトヤの権限凍結と、特命大使の判断を追認する……」


完全に事後承諾の形ではあるが、面倒な決断を他人に丸投げできたゼデキヤ王は、ホッと安堵の息を吐き出して王の印璽を押したのだった。



***



夜の静寂が包む、王宮の中庭。


「いやぁ、見事な論破だったぜ、リツィエル。あいつの顔、傑作だったな」 サギが鼻歌交じりにコインを弾く。


「ああ。だがお前ら、次からはもっと事前に計画を共有しろよ。俺、心臓に悪いわ」


俺がため息をつきながら肩を回すと、前を歩いていたリツィエルがふと足を止めた。


「……君たちの非合理な感情論と出任せのハッタリなど、僕の完璧な計算には本来不要だった」


リツィエルは振り返らずに、冷たく言い放つ。


「だが……王妃の鍵を引き出す際のアシストは、悪くなかった。……計算外の動きだが、今回は大目に見てやる」


そう言って再び歩き出した彼の耳元が、ほんのわずかに赤くなっているのを、俺とサギは見逃さなかった。


(……なんだあいつ、めちゃくちゃ不器用な照れ隠しじゃないか) 俺とサギは顔を見合わせ、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


互いに文句を言いながらも、確実に背中を預けられる奇妙な信頼関係。


俺たち3人の未完成な連係プレーは、ミズラハ国内の暗闘を経て、確かな形へと育ち始めていた。



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