ロンドンの魔女
初めは、ただの『小さな黒い影』だった。
目の前で震えるその影に、私はなんの感情も抱かなかった。
このようにか弱く、今にも消えてしまいそうな存在が、やがてどんな悪魔も喰らい尽くすほどになるのだという。
最下級悪魔の亡骸をその影に放り込みながら、このような存在を創造せしめる大いなる神の力にただひれ伏し、感嘆するばかりだった。
「あ、う……あ……」
「ほう……?」
地獄と呼ばれる赤い世界にやってきて、数十年が過ぎた頃。
それまでただの影だったそれが、少しずつ意味のある形を取るようになってきた。
そしてどこかで学んだのか、それとも神がそうなるように定めたのか。
黒い影はやがて『四つの足を持つ獣』となって、まるで赤子のようなか細い鳴き声を発するようになった。
予想外の成長に驚きながらも、私は影の変化と推移を天界へと報告し、引き続きこの影を見守り続けた。
それが、神から与えられた私の使命だからだ。
「がうー……うまそうだ! くってやる!」
「ふむ……ずいぶんと育ちましたね」
数百年が過ぎた頃。
黒い影は完全に自我を確立し、自らの意志で悪魔を狩るようになった。
私は以前のように傍にいるのをやめ、影がより強い悪魔に殺されることがないよう、遠くから観察を続けていた。
「うわー! やられたー!」
「おっと……」
時折現れる強大な悪魔にも影は躊躇なく戦いを挑み、あっさりと返り討ちに遭う。
そのたびに私は介入し、影を殺そうとする悪魔を消し去った。
「くぅーん……むにゃむにゃ……」
「まったく困ったものです……このように無茶ばかりするのも、神のご意志なのでしょうか?」
傷つき倒れた影を、まるで人の親がするかのように癒やし、見守る。
来る日も来る日も、何百年も何千年も――
「お前は俺の名を知っているか?」
「名前、ですか?」
やがて逞しく、美しく、誰よりも強く成長した黒い影に、私はそう尋ねられた。
だが名前など……そんなものあるわけがない。
なぜなら神はこの影を、ただ悪魔を減らすための天災として創造した。
そのような自然現象に、名前など与えるはずもない。
「そうですね……クロウゼル・エルドブレイズ。『さすらい、すべてを焼き尽くす者』という意味の言葉です」
「それが俺の名か?」
「たった今私が考えました。こんな名前でよければ、どうぞ好きに使ってください」
「ほむ……?」
クロウゼル・エルドブレイズ。
私が与えたその名前を、黒い影は何度か呟き、興味もないとばかりにどこかに行ってしまった。
しかしまた別の機会に、その影は高らかに自分のことをクロウと……私の考えたその名前をどこか誇らしげに名乗っていた――。
――――――
――――
――
記憶。
それは、空と大地の狭間に木霊する堕天使の記憶。
ただの監視者だった天使が、クロウという小さな命に出会い、その成長を見守り、自らの生を迷いなく進む姿に惹かれていく。
そして最後には……狂おしいほどの愛と独占欲に、すべてを投げ打って墜ちていく記憶だった。
『消してやる……! クロウが手に入らない世界など、すべて消えてしまえばいいのだ!』
「さてと……なにか作戦はあるの?」
「ない! とにかくあいつと話してみるつもりだぞ!」
「確かに、それしかなさそうだね……!」
黒く輝くクロウの毛並みに包まれた私は、緑の大地も青い海も越えて星々の世界へと駆け上がる。
そこには絶世の美をすべて失い、肥大化した愛に飲み込まれて崩壊していくラズセラフが待っていた。
その大きさは、目に見える前方の視界すべてを塞ぐほど。
そしてその巨体のさらに頭上には、まるで太陽のように輝く『莫大なエネルギーの収束』が始まっているのが見えた。
もしこれがすべてクロウへの愛による暴走なのだとしたら、確かに彼のクロウへの執着と愛の重さは私を超えているだろう。けどね――!
「愛は重さでも、大きさでもないんだよ! 行くよ、クロウ!」
「任せろ!」
『魔女め……! 薄汚れた魔女め! よくもクロウを、私のクロウをどこにやった……? 私のクロウを返せ……私の大切なクロウを、本物のクロウを今すぐここに連れてこい!』
瞬間、私を乗せたクロウが一気に加速。
同時に、昇ってきた私たちを視認したラズセラフがその骨だけになった翼を広げ、無数のヘドロ状の弾丸を雨あられと撃ち放つ。
「俺ならここにいる、アリスは俺を隠してなどいない!」
「クロウには、傷一つ付けさせるもんか!」
私はとっさにクロウの背で両手を広げ、無数の星がまたたく夜空に印を描く。
クロウの体から流れ込む膨大な魔力が私の体を通してあふれ出て、それは二人を包む金色の結界を構築。
ラズセラフの放つ腐敗した弾丸を、輝く光の結界が一つ残らず弾き落とす。
『なぜだ……? 私はただ、クロウを神の手から守りたかった。初めは確かにそうだったのに……!』
「なら、君はもうクロウを救っているじゃないか! クロウはもう地上にいる、神様の手が届かない場所に君が逃がしたんだ! 君はもう、立派にクロウを救ったんだよ!!」
『救っている……? 私が、クロウを……』
「目を覚ませラズセラフ! 俺と話したいのならいつでも話そう、俺と茶を飲みたいのならいくらでも付き合おう。だが何もかも壊してしまえば、もう二度とお前と語り合うこともできなくなるのだぞ!?」
『クロウ……』
その声を聞いたラズセラフの瞳が、一瞬だけ正気を取り戻したように見えた。
天上に収束する膨大なエネルギーが揺らめき、不安定な水塊のように拡散と収縮を繰り返す。
『ああ……確かに、もう二度と貴方とお茶を楽しめなくなるのは……とても寂しいですね……』
「俺もそうだ……! 俺もまた、お前と茶が飲みたいぞ! だから――!」
肌に触れるクロウの体から、彼の悲しみと後悔が痛いほど伝わってくる。
もっと早く気づいていれば。
もう少しだけ、話を聞いていれば。
私は必死に降りかかるラズセラフの攻撃を弾き飛ばしながら、大切な友達のことを思うクロウにできる限り寄り添い、励ました。
『ですが、もう遅いのです……私はもう、貴方とその魔女の愛を祝福することはできない。どれだけ理解しようとしても、どれだけ抑えようとしても、やはり私は――貴方が欲しいのです……! クロウ!!』
一転、一度は緩んだエネルギーの収束が一気に加速する。
それはあっという間に私たちの星よりも大きくなって、もしそれが放たれれば、確実にすべてが消し飛ばされてしまうほどの力だった。
『どうです!? 見えますか、この私の醜さが! 私は神に背を向け、貴方を私の鎖で縛り付けることに至上の喜びを覚える堕天使です! このような醜い姿をさらけ出してでも、私は貴方が欲しかった! そして私の物にならないのなら、共に消え去ればいいのです!!』
「お前は醜くなどない! お前は今も変わらず、俺の周りをパタパタと飛ぶ白くておせっかいな、うまい茶を飲ませてくれるただ一人の友だ!」
次々と迫るラズセラフの弾丸を、私の結界とクロウの爪は跡形もなく消し去っていく。
「俺が馬鹿だった……! 俺には友などいないと、自分一人の力で生きてきたと、ずっとそう思い込んでいた……! だがそれは間違いだった! お前は俺にとって、アリスと同じように大切な存在なのだ! それに気づかなかった俺を……許してくれラズセラフ!」
クロウは明らかに迷っていた。
今のクロウの力なら、本当はラズセラフもこのエネルギーも、まとめて消し去ることもできただろう。
だけどクロウはそうしないまま、なんとか話をしようと頑張っていたんだ。だから――
『黙りなさい……! 魔女の手に落ちた貴方の言葉など、今の私には……!』
「違うよ……」
『なに……?』
思わず、呟いていた。
あまりにも辛くて、それ以上見ていられなかったから。
「全部消えればいいなんて、思ってない……だって君には、本当にクロウを消すことなんてできないだろう……?」
『……!』
こいつは心底身勝手で、独りよがりで、最悪の堕天使だ。
だけどそれでも、これだけは私にもわかる。
ここまでクロウを想っている彼が、本物のクロウを見失うわけがない。
見失っているのは自分。
ラズセラフは、必死に自分の心から目を逸らしているんだ。
「だからお願いだよ! 君なら、クロウがどれだけ君のことを大事に思っているかわかるはずだ! だからせめて、もう少しだけクロウの話を聞いてあげてよ――っ!」
『アリス・ベル……貴方は…………』
その声にラズセラフは息を呑み、その濁った瞳で私を見た。
私はその濁った瞳を見返して彼の考えを読み取ろうとしたけど……それは無理だった。
『ふ、フフ……フフフフ……! 本当に、心底忌々しい女だ……!』
エネルギーの収束は止まらなかった。
私の願いを一蹴したラズセラフは薄く笑って、その巨大な腕にゆっくりと力を込めた。
『私からクロウを奪った女狐の言葉など聞くものか……! 貴方さえいなければ、私は労せずクロウを手に入れることができたのです! そしてクロウは今も愛を知らず……幸せを知らず……ぬくもりを知らぬ、かつての孤独なクロウのままだったはず! だから――っ』
ラズセラフの腕が振り下ろされる。
それは私とクロウと、その背に輝く青い星に向けて集めた魔力を叩きつける合図――そのはずだった。
『だからきっと……私は貴方に、感謝しなければならないのでしょうね……』
「っ!? ラズセラフ――!?」
ラズセラフが放った光は、『彼自身に』墜ちた。
爆発的な炎と光が目の前で炸裂して、それはあっという間に、星よりも大きなラズセラフの体を輝きの中に飲み込んでいく。
『どうか、クロウのことを頼みます……忌々しく、薄汚い……ロンドンの魔女よ――……』
それが、天使が残した最後の言葉だった。
あれだけどす黒く染まっていた彼の体は、散りゆく白い光そのものになって。
やがて音もなく、星々の世界に消えた――。




