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イーストエンド


「ひどい臭いだ。地獄のほうがマシだぞ」


「それは結構」


 通りから離れた物陰にスクーターを隠し、ヘルメットとゴーグルを外しながら視線を巡らせる。


 イーストエンド99番地。


 自称悪魔王に地獄よりひどいと言われたこの通りこそ、悪名高いロンドンの最果て。


 あたりを包むのは、超高精製石炭(ハイコークス)が普及した今となっては珍しい、ドス黒い排煙と粘性のある蒸気。


 無秩序に増設された蒸気パイプはところどころに穴が開き、至る所で美容に悪そうな色付きの煙を吐き出している。


「なぜここはこんなに汚いのだ?」


「詳しくは知らない。けど少なくとも、私が物心ついた頃にはこうだったよ」


 元々イーストエンドは貧しい地区だけど、中でもこの99番地は別格だ。


 聞いた話では、以前のここは汚水や廃材、使用済み燃料なんかの廃棄場所だったらしい。


 けどそんなゴミ溜めに一人、また一人と人が住み始め、いつのまにか一つの地区すら越える大所帯になった。


 だからここの建物はどれも素人の手作りで、壁も屋根も『アーティスティックな前衛芸術』のようにねじ曲がっている。

 しかも穴だらけの家の隙間からは、今もドブネズミの大家族がひっきりなしに飛び出して、野良猫と命がけの追いかけっこを楽しんでいた。


「さ、行こう。あまり長居したい場所じゃないからね」


 私は一度ハワード氏から渡された資料を確認すると、口元にハンカチーフを当てて汚染された暗い蒸気の森に足を踏み入れた。


「どうやって犯人を見つけるつもりだ?」


「この資料を見てわかったんだけど、被害者の失踪地点はある程度密集していたんだ。少なくとも、犯人はあまり遠出が好きなタイプじゃなさそうだね」


「ほう。つまり………………どういうことだ?」


「犯人は案外すぐに見つかるかもってこと。こんな不用意に人を消していくなんて、よほどの『馬鹿』か『自信家』か……もしくは『悪魔』かってことさ」


 地獄よりひどいなんて言っていたけど、隣を歩くクロウはなんだか楽しそうだ。


 キョロキョロあたりを見回して、ネズミが飛び出してくれば子供みたいに喜ぶし、目つきの悪い酔っ払いが歩いてくれば睨み付けて威嚇する。

 

 以前仕事でここに来た時は、私が女だってこともあって面倒な手合いに何度も絡まれたんだけど、今回はそんなこと一度もなかった。

 

 どうやら、私の使い魔は少なくとも用心棒としては有能らしい。


「あれ? 誰かと思えばアリスじゃない」


「その声、ヴィオ?」


 そうして歩くこと十分ほど。


 目指すアパートメントの前に着いた私を、見知った友人の声が迎えた。


「あんたが動いてるってことは、やっぱりこの事件って悪魔がらみなの?」


「やれやれ。依頼人からは、騎士団に後回しにされたって聞いて来たんだけどね」


「失礼ね! たしかに後回しにはしたけど、別に見捨てたわけじゃないわ。こっちだって、人手さえあればすぐにでも調べてあげたかったんだから」


 現場に着いた私に笑顔で近付いてきたのは、全身に重厚な蒸気甲冑を着込んだ長身の女性――ヴァイオレット・イングラム。


 私の幼なじみ兼腐れ縁にして、今では王国直属対悪魔騎士団の師団長様だ。


 見れば周囲にはヴィオの他にも数人の騎士がいて、一足先に現場の調査を開始しているようだった。


 基本的に、騎士団は私みたいな魔女にいい顔はしない。


 けどヴィオだけは例外で、お互い立場が変わった今でも昔と変わらず接してくれる。

 私にとって、数少ない心を許せる友人の一人だった。


「今日は下調べってところさ。まだ悪魔の仕業と断定したわけじゃないよ」


「そうなんだ。私たちだってこんなところに何度も来たくないし、いつもみたいにアリスがぱぱーっと解決して……って、あれ? えっ……!?」


 突然、ヴィオの蒸気甲冑がやかましい排気音と同時に白い蒸気を噴き出す。

 すると兜の部分がひとりでに開いて、燃えるような赤い髪に愛嬌のある表情で微笑むヴィオが出てきた。


 でもどうしてか、後ろにいるクロウに情熱的な視線を向けている気がするんだけど……。


「あ、あのあの……っ! あんたの後ろにいる、そちらの『超絶イケてるメンな殿方』は……?」


「なんだお前は?」


「びええええええええええええっ!? しかもお声は超絶激渋重低音ボイスぅうううう!? ちょ、ちょっとアリス! あんたにこんなイケメンの知り合いがいるなんて聞いてないんだけど!?」


「そりゃあ、私もつい数日前に知り合ったばかりだからね……」


「なによそれ……っ!? 『道ばたにイケメンが落ちてたらすぐに私に教えて』って、いっっっっつも言ってたじゃない!!」


 そうだった……ヴィオは『顔の良い男にもの凄く弱い』んだった。

 特にワイルドでバキバキなのが好み……ああ、これは面倒なことになったね。

 

「ええっと、そのっ! 初めまして、私……ヴァイオレット・イングラムって言います!」


「クロウゼル・エルドブレイズだ。お前がアリスの友だというのなら、クロウでいい」


「も、もし良かったら……ここの悪魔を八つ裂きにしてテムズ川にポーイした後で、一緒にお食事でもどうですか? 四番街の大通り沿いに、とってもお洒落で雰囲気のいいお店があって……」


「断る。俺はアリスのつがいだ。アリス以外の女と行動を共にするつもりはない」


「へ……? つ、つがいって……アリスと? え?」


「なっ!? またそんな誤解されるようなことを!」


 こ、こいつ……! 

 よりによってこのタイミングで、しかも堂々と言い切るなんて!


「アァァァァアアアアリィィィィスゥゥゥゥウウウウ!? なんなのこれ!? どうなってるのよ!? 普段は『男なんて興味ありませーん』って顔してるくせに、私に黙ってこんな『神話級イケメンとゴールイン!』なんていい度胸してるじゃないこのむっつり魔女ッ!!」


「ち、違っ……! 誤解だから! 私とこいつは全然、さっぱり、一ミリもそういうのじゃないからっ!!」


 はぁ……ヴィオはこうなると長いんだよ。

 また徹夜でパブに付き合わされるのが確定じゃないか。


「びえぇぇえええん! ひーどーいーーーー! 親友だと思ってたのに裏切られたぁぁ! 私もこんなイケメンとゴールインしたぁーーい!」


「やれやれ……まったく、君が変なことを言ったせいであらぬ誤解を受けてしまったよ。次からはもう少し発言には気をつけて――」


「…………」


 悪魔も握り潰す蒸気甲冑の両腕をぶんぶんと振り回してわめくヴィオを尻目に、私は全ての元凶になった変態悪魔をじろりと睨み付けた。だけど――。


「……どうしたの?」


「喜べアリス、犯人は悪魔だ」

 

 瞬間、あたりに立ちこめる濃密な蒸気が強烈な渦を巻いた。

 錆びたブリキの屋根や壁がガタガタと震えて、下水を走るネズミたちが一斉に逃げ出す。


 そして思わず腕を上げ、目を細めた私のすぐ隣。

 ロングコートをはためかせたクロウが、凶暴な笑みを浮かべて闇夜の一点をじっと睨み付けていた。


「い、いきなりなんなの!?」


「なるほどね。つまり犯人は、『馬鹿で自信家の悪魔』だったってわけだ――!」


 クロウが睨む視線の先。


 渦巻く排煙と汚水が空中で混ざり合い、それはやがて黒いスーツにシルクハットを身につけた紳士の形を取った。


『これはこれは……王国騎士団の皆様だけでなく、見目麗しい魔女様までいらっしゃるとは。歓迎しますよ、今宵は実に楽しい夜になりそうだ!』


 

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