巣作り
『残念ですよ……貴方が自分の意志でクロウとの契約を破棄すれば、すぐさま私の首輪でクロウを縛ることができたのですが……』
その白い声は、確かにクロウの夢の中で聞いた声だった。
気高く、美しく、純粋で……冷たい。
ラズセラフ・オールログ。
夢の中のクロウがそう呼んだ白い声が、目の前で狂ったように笑うクラインバッハから聞こえてきたんだ。
『たとえ不完全な契約だろうと、クロウは今も、闇の中で貴方との繋がりを必死に握り締めている……そして、そのあまりにも強い魂の繋がりを完全に断ち切るには、もはや貴方を消し去るだけでは足りません。そう……この地上ごと、人類という種が持つ魔力を根絶やしにする必要があるのです』
「な、なにを言っているのです……? 司祭クラインバッハ、貴方は……?」
「陛下と大公は下がってください! この男、さっきから様子がおかしいっ!」
陛下と大公をかばいながら、腰の長剣を抜いたヴィオがクラインバッハの前に出る。
『後悔なさい……神に背き、悪魔を愛した異端の魔女。貴方のその決断が、この地上に存在するあらゆる命を焼き尽くすことになるのです』
けれどクラインバッハはとても穏やかな笑みを浮かべると、まるで蝶の蛹が脱皮でもするかのように、その背から七色の光を放った。
そしてその光を割りながら、純白の巨大な八枚の翼、美しい白い法衣に白い肌。そして長い銀髪をなびかせた絶世の美男が、音もなくその場に現れる。
「師父! しっかりしてください!」
「ふふ……心配することはありません。脆弱な人の身とはいえ、彼には長年『私の依り代』として役に立ってもらいました。心はとうに壊れているでしょうが、その身には傷一つ付けていません」
「依り代……? 師父が、貴様の依り代だったと……ッ!?」
天使のような姿を持つ絶世の美青年の足元に、まるで抜け殻のようになったクラインバッハが倒れる。
すぐにキリアンが助けに向かったけれど……彼らを見下ろす青年の銀色の瞳は、寒気がするほど冷たかった。
「ラズセラフ……君が、ラズセラフ・オールログ……?」
「ほう……さすが、クロウの契約者だけのことはありますね。私のことをすでにご存知とは」
騒然とする広場の中央。
ヴィオやキリアンがじりじりと後退する様子を尻目に、私はクロウを抱きしめて目の前の青年――ラズセラフの前に立った。
「君のことは名前しか知らない。けれどクロウからは、君はいい友達だったって聞いていてね。その君がどうしてこんなところにいるのか……そして何をしようとしているのか、教えてもらってもいいかな?」
「友……? そうですか……クロウは、私をそのように……」
私の言葉を聞いたラズセラフは、ほんの少し嬉しそうに笑った。
そして私の腕の中で眠るクロウに視線を向けて、すぐに悲しそうに眉をひそめた。
「あれは、天使様……?」
「見ろ! 天使様がご降臨なされたぞ!!」
「なんと美しい……!」
けれどそんな様子を遠目に見ていた人々から、少しずつ歓声にも似た喜びの声が上がる。
無理もない。さっきまで魔女裁判をやっていたこの処刑場に、突然天使の翼を持つ美男子が現れたんだ。
もしなにも知らなければ、私だってどう反応したかわからなかっただろう。
「嘆かわしいことです。人はいつも、まず外見の美醜で敵味方を判断する。これでは、いくら神が人の成長を願おうと無駄なこと。ですから――」
けれどラズセラフは、その手をゆらりと天に掲げる。
「神が見切りをつけるより前に……この私が一匹残らず消し去って差し上げましょう」
瞬間、私たちの頭上から強烈な落雷がロンドンの至る所に降り注ぎ、その雷を基点として蒼白い火柱が天高く立ち上がる。
その火の手は一瞬でいくつもの建物を打ち砕き、この広場から見えるだけでも、数え切れないほどの悲鳴と絶望の声がロンドン中に響き渡った。
「っ!? なにをして――!?」
「見てわかりませんか? 『巣作り』ですよ」
「……は?」
思わず身を乗り出した私に、ラズセラフはどこまでも真剣な表情で応えた。
「新しい巣を作るには、広々とした清潔な土地が必要でしょう? だからこうして邪魔な物を壊し、寄生虫を焼き払って掃除をしているのです。私とクロウの、新たな巣のために」
ん……?
え、なに……?
巣作り?
クロウと自分のための巣?
待って、正直なにを言っているのかわからない。
この目の前の化け物は、一体なにを言っているの?
「――クロウは、悪魔ではありません」
「……? いきなりなにを……」
「クロウは元々、『増えすぎた悪魔を間引きする』ために神が創造した存在です。そして私は、『クロウという殺戮兵器』が地獄で支障なく稼働しているかを確認する監視者でした」
青い炎と阿鼻叫喚に包まれたロンドンを背に、ラズセラフは突然そう口にした。
「役目を終えれば、クロウは神によって廃棄される。しかし私は長年彼の傍にいるうちに、彼を神の手から救ってやりたいと……そう願うようになりました」
淡々と明かされる理解しがたい真実。
けれど私は確かに、その断片をクロウの夢の中で聞いていた。
ラズセラフの救いたいという想いも。
クロウを憎み、殺そうとする悪魔の群れも。
私はどれも、確かに知っていたことだったんだ。
「そこで私は、『神の力が人間界には及ばない』ことに目を付けました。神自身がそう決めていたのです。人は神に頼らず、自らの手と足で歩みを進めてほしいと……ここまで説明すれば、貴方なら私の考えがわかるのではありませんか?」
「つまり、君はクロウを地獄から地上に連れ出したかった……? 神が手出しできない地上なら、クロウが殺されることもないから……」
「そうです。だから私はそのために、何千年も前から『地獄と地上を繋ぐ方法』を模索し、何度も実験を繰り返してきました。それこそが――」
地獄門。
平然とそう口にするラズセラフの口ぶりに、私はとてつもない戦慄とこみ上げる怒りを自覚する。
「なら、この世界に悪魔が現れるようになったのも、最近になって現れる悪魔の力が増していたのも、全部――!」
「私の研究の成果です。そしてついに私は、悲願だった地上へのクロウの移動を果たしました。地獄の四大貴族を焚きつけ、クロウを徹底的に痛めつけて弱らせた上で、現時点で構築可能な最も巨大な地獄門にクロウを追い込んだのです」
こいつだ。
全部、こいつのせいだった。
母さんが死んだのも、世界中の人が悪魔に殺されたのも。
全部、こいつが仕組んだことだったんだ。
「なぜそんなことを!? 君のクロウを救いたいっていう気持ちはわかるよ……けどそれで犠牲になった数え切れない人たちの命は、どうでもいいっていうの!?」
「当然でしょう? クロウ以上に重要な存在などありません。今の私にとっては、クロウの救済は『神の意志にすら勝る』のですから」
ここに来て、ようやく私は確信する。
こいつは『壊れて』いる。
口ではクロウを救うなんて言っておきながら、そのためなら私たち人間の苦しみも、当のクロウすら傷つけることを厭わない。
こんな精神性の存在が、天使なわけがない。
むしろこいつこそ……『本当の悪魔』だ。
「ふざけるなよ……! すべてが自分の思いどおりになると思ったら大間違いだ……! お前は今ここで……私の命に代えても止めてみせる!!」
「……? すべてが? 私の思いどおりに? ふふ、ふふふ……アハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハ!」
私の言葉に、ラズセラフは突然目の前で大声で笑った。
けれどその銀色の瞳は、じっと私とクロウを見据えたまま。
まるで正気を感じられないその笑いに、私は恐怖を覚えて後ずさる。
「まったく、勘違いも甚だしい……そもそも貴方は私に『感謝』こそすれ、罵倒などできる立場ではないでしょう? 違いますか……? この薄汚い女狐が……」
「っ!?」
「答えなさいアリス・ベル。貴方のその耳は、何度クロウの愛の囁きを聞いた? その汚らわしい体は、何度クロウの逞しい腕に抱かれたのです? その口は? 髪は? 瞳は? きっとさぞや心地よく、天にも昇るような喜びだったのではありませんか? ですがそれらはすべて、私がクロウを地上に送り込んだからこそ得られたものなのですよ? 理解していますか? 理解していますか? 理 解 し て い ま す か ?」
その目に暴力的な執着を宿したラズセラフが、後ずさる私に迫る。
それまで一切の感情を宿さなかった瞳に、たった一つの『明確な感情』がはっきりと映し出される。
「貴方さえいなければ……弱り果てたクロウを救い、永遠に『私の鎖で縛る』ことができたのです。地獄の魔力がなければ生きていけないクロウは私にすがり、頼り、『私という救済の中でのみ生きられる』……貴方さえいなければ、そうなっていたはずだったのです」
嫉妬。
ラズセラフは、私に嫉妬している。
私がクロウの隣にいるから。
私がクロウに想われて。
私が彼を愛しているから。
「それなのに横から突然現れ、私の手からクロウをかすめ取っていった……その危険性があったからこそ入念に魔女を狩り、羽虫のように潰してきたというのに……」
ラズセラフの腕が私に……私の首にゆっくりと伸びる。
恐怖も絶望も上回る圧倒的な執着に、私の体は蛇に睨まれた蛙のように動くことができなかった。
「死ね、人間。クロウとの日々は貴方を殺し、この地上から何もかもを消し去った後でまた始めればいい……私とクロウには、時間などいくらでもあるのですから」
クロウ……!
私はついに、胸に抱きしめた小さなクロウにすがった。
それくらい、ラズセラフの私への憎悪は常軌を逸していた。
せめて、もう一度。
最後にもう一度、君に――!
「――俺のつがいに、手を出すな」
熱。
その時……冷え切っていた腕の中の重みが、ドクンという巨大な心音と共に爆発的な熱を帯びた。
そして思わず目を閉じていた私の耳に。
ずっと聞きたかった、大好きな人の声が届いたんだ――。




