応報
静かだった。
ロンドンに住む大勢の人々が詰めかけた広場は、まるで水を打ったように静まりかえっていた。
「今、なんと……? 愛……? その悪魔を愛していると……そう言ったのですか? 薄汚い魔女め……私の前でよくも、よくもそのようなことを口にできたものです! 恥を知りなさいッ!」
「そ、そうだ! やっぱり魔女なんてもんは、骨の髄まで悪魔に魂を売り払った厄介者だ!」
「このロンドンに魔女は相応しくない! 見せしめに殺してしまえ!」
クラインバッハの一喝を境に、集まった人々は口々に私に向かって罵詈雑言を叩きつけた。
投げつけられた石が私の額に当たって、痛みと一緒に赤い血が流れ落ちた。
そうさ、私は異端の魔女。
その私がこれだけの観衆の前で堂々とあんなことを言えば、こうなることくらいわかっていた。
だとしても……。
私はもう、自分の気持ちから逃げたくなかった。
最後くらいひねくれず、正直に前を向いていたかった。
他のことならともかく……彼への気持ちだけは、もう二度と曲げないって決めていたから。
「――アリス姉ちゃんを離せっ!」
でもその時だった。
津波にも似た怨嗟の渦に飲まれた私を、一人の小さな男の子がかばうようにして飛び出した。
「姉ちゃんは悪くない! アリス姉ちゃんは、僕の父ちゃんを悪魔から守ってくれたんだ! 姉ちゃんをいじめるな!」
「君は……」
その子は以前、私とクロウが地獄門から助けた家族の一人……だったと思う。
正直、交わした言葉も一言か二言くらいで、私だってこの記憶で間違いないか定かじゃない。それなのに……。
「そ、そうですよ! ベルさんは、私たちの店に悪魔が住み着いた時にもすぐに追い払ってくれたんです! 話も聞かずに処刑なんて、可哀想じゃありませんか!」
「俺もその子に助けてもらったことがある! いくら魔女だからって、ろくに調べもせずに殺さなくたっていいんじゃねぇのか!?」
「だいたい、その少女は以前ロンドンタイムズの大悪魔を倒した魔女ではないのかね? 彼女のような有能な魔女なしに、教会だけの力で本当に我々を守れるのか……近頃の教会の働きぶりを見るに、はなはだ疑問ですな」
「みんな……」
目の前に広がり始めたその光景に、私はただクロウを抱いて、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
今も私の耳には、ロンドン中の恐怖と怨嗟の声が響いている。
でも同時に、私への感謝と共感を叫ぶ声も届いていた。
どうして?
魔女である私を庇ったりすれば、みんなだって後でどんな目に遭うかわからない。
教会からだって、なにをされるかもわからないのに。
どうして、私なんかを――
「ええい、静まりなさい! 邪悪な魔女の声に惑わされるとは、なんと嘆かわしい!」
拮抗する罵声と擁護の声。
二つの声の狭間で苛立ちを見せたクラインバッハは、ついに自ら火のついた松明を握り締めて私たちの前に近づいてきた。
「……どうしたんだい? 異端審問局の局長ともあろうお方が、ずいぶんと怖い顔をしているじゃないか。それじゃあまるで……『悪魔みたい』だよ」
「女狐め……!」
目の前に立ったクラインバッハは、誇張抜きにそれくらい恐ろしい顔をしていた。
普段この男が見せる、まるで天使のような微笑みとは遠く離れたその表情に、私はクロウを抱きしめながら精一杯の皮肉を贈ってやった。
「神に慈悲を求め、大人しくその悪魔を手放していればよかったものを……ならば望みどおり、地獄の業火に焼かれるがいい!」
「――お待ちなさい。司祭クラインバッハ」
「っ!?」
それは、二度目の声だった。
だけど次に聞こえてきた声は、さっきの坊やとは違う。
凍りつくほどの気品と、有無を言わせぬ力強さに満ちていた。
「あ、貴方は……っ!?」
「女王陛下……」
「ご機嫌よう、司祭。そしてアリス・ベル。此度、この場での異端裁判について、我々王室と正教会の間で情報の『行き違い』があったと聞いてやって来ました」
紛糾する群衆の壁を割り、豪奢な馬車に乗って広場の中央へと進み出たのは、この大英帝国の頂点――ヴィクトリア女王陛下だった。
しかも馬車から降りた陛下の横には、完璧な正装で決めたヴィオが私に向かってウィンクまでしているじゃないか。
「行き違い? しかし恐れながら陛下、この魔女は王族であるエドワード公を悪魔の力を用いて亡き者とした邪悪の徒……たとえどのような行き違いがあろうと、この場での処刑を止める理由にはなりません」
「司祭クラインバッハ……私は今日までの貴方の献身的な働きを高く評価しています。だからこそ、誤った判断でその手を汚させたくはないのです」
言いながら、陛下はクラインバッハの前に道を空ける。
すると同時に、馬車から『一人の男性』がその場に現れたんだ。
「ま、まさか貴方は……!? 貴方は、エドワード公……!? まさか、生きていらっしゃったのですか!?」
「左様……私はこうして生きている。今回の件、私の不徳により多くの民に迷惑をかけてしまった……この場を借りて、深く謝罪する」
「エドワード様が、生きていた……」
女王陛下に続いて現れたのは、アドラメレクの盾にされて死んだはずのエドワード公だったんだ。
「この場に集まった民に告げる! 私はあの夜、卑劣な悪魔の手によって命を奪われる瀬戸際であった。しかし私は、この傷ついた魔女とその使い魔によって救われた! この者たちが、その身を挺して私の命を救ってくれたのだ!」
「クロウ……」
『俺を信じろ。俺はアリスも、アリスの大切なものも傷つけさせはしない』
あの時、クロウが私に言ったあの言葉。
クロウは、やっぱり私との約束を守ってくれていた。
自分はこんなに傷だらけになったのに、それでも、私の大切なものを守り切ってくれていたんだ。
「ありがとう、クロウ……」
本当に、どこまでもまっすぐな彼の想いに。
今も腕の中で眠り続けるクロウを抱きしめながら、私は静かに涙をこぼした。
「馬鹿な……! 悪魔が身を挺して人間を庇うなど……!」
「どうか、この場は怒りをお収めください! 別邸での状況見聞の際、倒れておられた大公閣下を発見し、陛下の下へとお連れしたのはこの私です……! なぜ私が、大公閣下のご無事を師父へとお伝えしなかったか……それは、ご自身の性急な行いを省みればご理解できるはず!」
「司祭クロイツ……! まさか、貴方までもがそのような真似を……ッ!」
そして最後。
怒りに震えるクラインバッハの前に、大勢の信徒を連れたキリアンが現れる。
なるほど……彼は最初から、このタイミングで大公陛下生存という最強の手札を切るつもりだったんだね。
「たとえ悪魔の力を用いようと、彼女はその力で我々の国と民の命を守り続けてくれました。そしてその罪が冤罪だと明らかになった今、これ以上彼女を罪人として扱うことはこの女王ヴィクトリアが許しません」
拮抗は崩れた。
クラインバッハが私を処刑する最も大きな理由だった大公殺害は、他でもない大公自身によって否定された。
「さあさあ! こういうこともあるかもと思って、前に僕が書いたアリスさんとクロウさんの活躍をまとめた記事を再発行して持ってきました! まだお二人の活躍をご存じない方は、この機会にぜひ読んでくださーい!」
「わーい……わたしにもひとつくださいな。新聞屋さん……うふふ……」
「そうだそうだ! 大公は生きていたんだから、その子はもう放してやれ!」
「時代遅れの魔女裁判なんてクソくらえだ!」
「女王陛下ばんざーい!」
そこからは、もう止まらなかった。
キリアン司祭が。
ティムが。
ミルトが。
名前も知らない大勢のみんなが、私のために声を上げてくれた。
それによく見れば……この群衆の中で私に味方してくれている何人かは、ナイアの分身体が変装した姿じゃないか。
まったく……こんなひねくれ魔女のためにここまでしてくれるなんて。
本当にみんな、どこまでお人好しなんだろう。
「司祭クラインバッハ。これ以上の強行は正教会の威信にも関わるはず。まずは冤罪を認めて魔女を解放し、これまでどおり共に悪魔から我が国を……」
民意の趨勢は決まった。
呆然と立ち尽くすクラインバッハに、女王陛下は毅然とそう言い放つ。
すべてが丸く収まったわけじゃないけれど、ひとまず死なずに済みそうかな?
「ふ、ふふ……ふふふ、あははは……アハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
「司祭……?」
けれど私のその思いは、まったく予想外の形で裏切られた。
ゆっくりと歩み寄った陛下の前。
クラインバッハは腹を抱え、額に手を当てて、突然狂ったように笑い声を上げたんだ。
『フフ、フフフフフフ……ま、いいでしょう』
瞬間、世界が止まった。
その声が響いた刹那。
処刑台の横で燃える松明の炎、そのゆらめきが止まる。
炎の赤が白に、空の青が灰色に、広場を渡る風が黒になって、私たちの知る世界が一時的に、だけど完全にその活動を停止して色を失う。
『やはり、人間などという地虫を当てにしたのが間違いでした……その魔女が自らクロウとの絆を破棄していれば、もう少し穏便にことを進めることができたのですが』
声が、変わった。
クラインバッハの口から聞こえる、クラインバッハとは違う別人の声。
どこまでも美しく、清廉で、まばゆく……そして、氷よりも冷たい。
それは私が夢の中で聞いた、あの『白い声』だった。
『クロウを救えるのは私だけ。クロウと繋がることが許されるのは私だけ……決して貴方のような、薄汚い人間の魔女ではないのです。今この時より、それを身をもって知りなさい……アリス・ベル』




