二つの鎖
「貴方を救いたいのです」
声――。
声が聞こえた。
それは静かで、冷たく、白磁のような白を帯びた声。
だけどその白い声は、前に聞いたときよりもずっと必死で、切実な思いに満ちていた。
「いい加減にしろ。これ以上くだらん話を続けるなら、今度こそお前を噛み殺すぞ」
「なぜわかってくれないのですか? 今の貴方に自由はない。理由もなく延々と命を奪い、恨まれ、憎まれ、己の生きる意味すら知らずに傷ついていく。私はこれ以上、そんな貴方を見たくない……そしてそんな貴方をこの地獄から救えるのは、私の他にはいないのです」
その声はまるで、思い人の幸せを願う乙女みたいだった。
もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
けどその声に応じる黒い声……私にとって、誰よりも大切なクロウの声は、『強い拒絶』を示していた。
「黙れ。お前がどう思おうと、俺は自分の意志で、力で今日まで生きてきた。そして俺はこれまで、お前に救ってほしいと頼んだことも、願ったこともない」
それでも白い声……ラズセラフと呼ばれた、澄んだ声の持ち主は食い下がった。
二人の対立は完全に平行線で、いくら言葉を重ねても妥協点は見当たらなかった。
「待ってください! お願いですクロウ……お願いですから、私の話を聞いてください! 私は、貴方を失いたくないのです!」
「いいや、違うな。お前は俺を救うと言いながら、実際は俺を自分の鎖で縛り付けたいだけだ」
やがて、ついにクロウは白い声に背を向けた。
それは、もう話すことはないという彼なりの意思表示だった。
そしてあれだけ噛み殺すと言っていたのに、結局そうしなかったクロウに。
私には、このラズセラフという声の主も、クロウにとって大切な存在だったんだと理解できた。
「俺はお前ごときの鎖に縛られはしない。俺の居場所は俺自身で決める。最も長く俺の傍にいたお前なら、いつかはわかると思っていたのだがな……」
「クロウ……!」
ラズセラフに背を向けたクロウの姿は、とても寂しそうだった。
そしてそれは、そんなクロウを見送るラズセラフも同じだった。
そして――
「殺せ」
「殺せ」
「王を殺せ」
「王を殺し、この赤き大地に秩序を」
戦い。
それは赤い大地の上。
それは赤い空の下。
燃え盛る地獄を八つ裂きにしながら、巨大な黒狼が無数の悪魔を次々と喰らう。
その爪の一振りで数千の悪魔が消え、その牙は地獄に二度と消えない深い傷痕を刻む。
もう誰も止められない。
地平線の彼方まで埋め尽くす悪魔の群れ。
けどそんなにたくさんの悪魔がいるのに、クロウの背を守る者は誰もいない。
クロウの隣で、彼の味方になって戦う者は誰もいなかった。
誰もがクロウを恐れて。
誰もがクロウを憎んでいた。
それはクロウという強大すぎる王を恐れた、悪魔たちの津波だった。
「許してください、クロウ……たとえ貴方に拒絶されようと、やはり貴方を救えるのは、私だけなのです」
白い声は、その光景を見ていた。
傷ついていくクロウの姿を哀れむように、けどどこか陶然としながら。
それはまるで、その先に彼の望む結末が待っていることを知っているかのようだった――。
――――――
――――
――
『なぜだ?』
う……?
『なぜお前なのだ?』
誰……?
夢の終わり。
夢と現実の狭間。
覚醒に引き上げられる私の意識に、暗い夢の闇から伸びた手が追いすがる。
『彼を救えるのは私だけ。私だけのはずなのに。なぜお前はそこにいる?』
その声はどこまでも冷たく、鋭かった。
こんなに恐ろしい声は聞いたことがない。
それほどまでに、深い闇を孕んだ声だった。
『私とお前のなにが違う? なぜ彼は私の鎖を拒絶した? なぜ彼はお前の鎖を受け入れた? 彼を救うのは、私の鎖であるはずなのに……なぜ?』
しかもその声は他の誰でもない、私にその闇のすべてを向けていた。
もしそのままこの声を聞いていれば、私の心はきっとバラバラに引き裂かれていただろう。
だけど――
「なんで、私なのかって……?」
そんなこと、私のほうが聞きたかったよ。
どうして私なのって。
私のどこがそんなによかったのって。
もう一度、聞きたかった。
「だけど私は、やっぱり君に会えてよかった……それだけは、ちゃんとわかってるよ。クロウ……」
闇の中で、私の胸に光が灯る。
それは私の光じゃない。
私が今も必死に抱きしめている、『大切な同居人』のぬくもりだった。
『違う――彼は――救う――私、だけ――』
そのぬくもりを自覚したのと同時に、冷たい声は深い闇に消えていく。
私はそのまま彼を抱きしめて、赤ん坊のように体を丸めた――。
――――――
――――
――
「あ……」
冷たい水滴が頬を打ち、私の意識を完全に現実へと引き戻す。
そこは、ロンドン大聖堂の地下にある異端者の牢獄。
暗くじめじめとした床の寝心地は最悪だったけど、疲れ切った私はそんな場所でも熟睡してしまっていたらしい。
「クロウ……」
「……」
クロウは、ちゃんとそこにいた。
今もボロボロで、ちびっ子狼の姿のまま。
目も覚まさず、声をかけても応えてくれないけど。
それでも、私の傍にいてくれた。
「っ……」
少し動くだけで、全身に激痛が走る。
結界の反動でボロボロになった手は、まともに動かすこともできない。
それでも……彼が隣にいてくれるだけで。
胸の奥から、いくらでも力が湧いてくるような気がした。
彼を守るためなら、どんなことでもできる気がした。
「大丈夫……もう絶対に離れたりしない。君のことは、必ず私が守るから……」
ただ水滴の落ちる音だけが響く暗い牢の奥。
クロウを抱いた私は、じっと目の前の闇を見つめながら呟いた。
『私が救う』
「私が守る」
たった今見た夢の声と、私の思いがどこかで重なる。
けどそれがどう違うのかなんて、どうでもよかった。
クロウを守る。
今も私の傍にいてくれる彼を。
初めて会った日の約束を、ずっと守り続けてくれた彼を。
今度こそ、私が――。




