異端の魔女
静かだった。
さっきまで、この世の終わりみたいな光景が目の前に広がっていたのに。
星の瞬く夜空は澄み渡っていて、荒れ果てた邸宅の敷地には、虫の鳴き声が響いていた。
「クロウ……?」
返事はなかった。
痛む体をなんとか支えて、何度もふらつきながら、私は二つの力がぶつかり合った爆心地に向かって歩いていった。
「っ……!」
探していた姿はすぐに見つかった。
すべての草木がなぎ倒されて、大きく陥没した地面の中央。
そこには初めて出会った時と同じ、ちびっ子狼の姿になったクロウが倒れていたんだ。
「しっかりしてクロウ……っ! すぐに治してあげるから――!」
その場にいたのは、クロウだけだった。
アドラメレクも、大公もいなかった。
とにかく私は必死に駆け寄って、ほとんど倒れ込みながら彼の小さな体を抱き上げた。
「クロウ……っ」
けれどその体から伝わるぬくもりは、あまりにも小さくて。
今にも消えてしまいそうなほど、か細かった。
「ごめん……ごめんね、クロウ……っ。私は、どうして……!」
今ならわかる。
あの初めて会った日の夜、私とクロウの間で結ばれた契約は不完全だった。
クロウの力は大きすぎて、とても私の力で縛れるような存在じゃなかった。でもクロウはその鎖を、『私との繋がり』だと思って自分から引き寄せた。
それは、『とうに千切れたロープ』を片側で握り締めているようなもの。
本来ならクロウに伝わるはずの私の魔力は、ほとんど彼の力になっていなかった。
「私が気づいてさえいれば……もっと私が、君のことを見ていれば気づけたはずなのに……!」
だとしても、今するべきは悔やむことじゃない。
泣いて謝るなら、彼を治したあとでいくらでも謝ればいい。
契約なんて関係ない。
強引にでも、地獄の魔力を傷ついたクロウに送り込む。
私ももう限界だったけれど、そんなこと、彼の命に比べれば些細なことだった。
「クロウ……お願い……!」
冷え切ったクロウの体を温めるように、覆いかぶさるようにして包み込む。
契約はもう完全に途切れている。
魔力補給の効率はずっと悪いけど、それでも――!
「――そこまでです。異端の魔女」
「っ……!?」
声が響いた。
必死にクロウのための魔力を地獄から汲み上げていた私の耳を、嫌悪と侮蔑、そして激しい憎悪の音が射抜いた。
「お前は、クラインバッハ……? どうして……ここに……」
「どうして? このイングランド全域に計り知れない被害と恐慌を巻き起こしておきながら、罪の自覚すらないとは。どうやら、ついにその醜悪なる本性を現したようですね」
私が見上げた先。
そこには、大柄な体に白い法衣をまとい、強烈な神力の光を私とクロウに向ける異端審問局局長――ジョゼフ・クラインバッハがいた。
そして彼の周囲には、他にも何十人ものエクソシストの姿。
しかも彼らは全員、その神力で今にも私たちを攻撃できる構えを取っていた。
「私設魔女、アリス・ベル。貴方には悪魔の力を用いてロンドンを破壊した罪、そして……王族である大公レオポルド・エドワード様殺害の容疑がかけられています。とはいえ……この現状を見れば、それらの罪が疑いようのない事実であることは明らかでしょう」
「なんだって……っ?」
エドワード公の殺害……!?
ロンドンの破壊はまだわかるけど、どうして異端審問局は……いや、この男は私とクロウがエドワード公を危険に晒して戦っていたことを知っているんだ?
まさかこいつら、さっきまでの戦いをずっと見ていた……!?
「待ってください! 私たちは、ここでエドワード公をお守りするために悪魔と戦っていたんです! 私たちがあの悪魔を倒さなかったら、今頃ロンドンどころか、なにもかもが消えるところだった! それに……それにクロウは――!」
俺を信じろ。
あの時、アドラメレクに盾にされたエドワード公を見たクロウは、確かに私にそう言った。
私も、私の大切なものも傷つけたりはしないって、そう約束してくれたんだ。
あのクロウが、私との約束を破るはずがない。
エドワード公を見捨てるわけがない――!
「クロウは……私たちは、エドワード様を殺したりなんてしていない! たとえ異端審問局になにを言われようと……私はクロウを信じる!」
「馬鹿げたことを……『悪魔を信じる』などと、よくぞこの私の前で口にできたものです。速やかにこの薄汚い魔女と悪魔を聖堂まで連行しなさい」
「はっ!」
クラインバッハの指示を受けたエクソシストたちが、警戒した様子で私とクロウを取り囲む。
逃げるつもりなんてない。
私は拾い上げたクロウの赤いリボンを手に巻いて、彼を抱きしめたまま立ち上がる。
そしてクロウに触れようとした奴らをはね除けながら足を進めて、そのままクラインバッハの前に立った。
「私は逃げも隠れもしない……異端裁判でも処刑台にでも、どこへでも連れて行くといい」
「忌々しい目だ……この期に及んで、その瞳に恐れ一つ浮かべていない。なにを期待しているのかは知りませんが、神の意に背く貴方に奇跡は起こりませんよ」
「よく知っているさ。奇跡なんて、最初から期待しちゃいない」
クラインバッハの神力が、私の両手に光の拘束具をはめる。
そして私の腕に抱かれたクロウを見て……なぜか懐かしいような、少なくとも、私を見る目よりは『ずっと穏やかな表情』を一瞬だけ浮かべた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! これは一体どういうこと!? どうしてアリスが捕まってるのよ!?」
その時、エクソシストに連行されていく私の横から傷だらけのヴィオが飛び込んでくる。
どうやら蒸気甲冑は壊れてしまったようだけど、ひとまず無事でよかった。
「私は王立騎士団第四師団長のヴァイオレット・イングラムよ! 彼女は私と一緒にここで悪魔と交戦していたの! それでアリスが罪に問われるなら、私だって同じでしょう!?」
「いいんだ、ヴィオ! 大丈夫、心配はいらないよ」
「アリス……っ」
必死に声を上げてくれたヴィオを、私はすぐに制して頷いた。
これでもヴィオとは長い付き合いだからね。
彼女がわざわざここに出てきた理由は、すぐにわかった。
「異端審問局だって鬼じゃないんだ。ちゃんと理由を話せば、きっとすぐに帰してもらえるさ。その間、『外のこと』は頼んだよ……ヴィオ」
「……わかった。任せて、アリス」
意思疎通は完璧。
そもそもこの場にヴィオしかいない時点で、すでにミルトとナイアは動いている。
ヴィオは私が自暴自棄にならないように、わざわざ声をかけてそれを伝えてくれたんだ。
「話は終わりですか? では行きますよ」
「わかってるよ」
ヴィオとのやり取りを終えた私に、クラインバッハはあからさまな嘲笑の笑みを浮かべた。
けれど一度そう言って背を向けたクラインバッハはすぐに立ち止まると、こちらを振り向きもせずに突然妙なことを言い出したんだ。
「ああ、それと……その魔女が抱いている悪魔には決して触れてはいけませんよ。信仰の浅い者が悪魔に触れれば、その身を滅ぼすことになります。異端は異端同士……悪魔の身柄は、主である魔女に任せるのが賢明でしょう」
クロウと私を一緒にだって?
ありがたいけど……どうして?
一見するともっともらしい。
だけどまるで敵に塩を送るようなその指示に、私は強烈な違和感を覚えた。
「いいのかい? そんなことをして。悪魔の力を得た魔女はなにをするかわからない。それが正教会の教えだろう?」
「強がるのはやめなさい。もはやその悪魔にはなんの力も残っていない。力を失った魔女と悪魔にできることなど、なに一つありません」
「とっとと歩け、汚らわしい魔女め!」
「っ……」
他のエクソシストにぐいと背中を押され、思わず倒れかける。
目線を下ろせば、そこには手錠で拘束された傷だらけの両腕がある。
ロンドンのみんなに、魔女として認められる。
母さんの死が無駄じゃなかったことを証明する。
そのために走り続けてきた私の道。
その先にある光景が、今のこの闇だった。
(クロウ……)
異端の魔女として連行されながら。
冷たい夜の闇の底で、私は胸の中に灯るクロウの微かなぬくもりを、必死に抱きしめていた――。




