黒狼
「俺のつがいを泣かせた罪……その命で償ってもらうぞ、アドラメレク」
闇がその大口を開けた。
クロウの首に付けられた首輪がちぎれ飛び、私が結んであげた赤いリボンが、音もなくほどけて落ちた。
そのリボンを必死に拾い上げて、私がクロウに手を伸ばすより早く。
見慣れた彼の大きな背中は、溢れ出した漆黒の闇の向こうに消えた。
「この死に損ないが……! だがそうじゃなくちゃ面白くねぇ!」
黒狼。
一度は拡大した膨大な闇が収束に転じ、それはクロウの体を闇と影と黒とで覆う。
そしてその不定形は、やがてゆらめく毛並みをなびかせ、『巨大な黒狼』の姿を形成した。
『教えてやる。お前の相手に、全力など必要ないことをな』
「ちぃ――!」
衝撃と突風が弾ける。
けれどクロウはまだ動いていない。
動いたのはアドラメレクだ。
全身の炎を激しく燃え上がらせて、アドラメレクは空に飛ぶ。
クロウの放つ絶大な威圧が、地獄の公爵に後退を選択させたんだ。
「大した威圧だ! だがいくら強がろうと、絞りカスになった今のてめぇに俺様が負けるわけがねぇ! 見せてやる……この俺様の、ルーラーの力をなあ!」
アドラメレクの燃え盛るたてがみが四方へと伸びる。
そしてそれまで人型だったその姿が、クロウと同じように完全な『炎の獅子』の姿に変わる。
アドラメレクの炎は空の彼方からこの星すべてを一瞬で駆け巡ると、ありとあらゆるエネルギーをかき集める。
「どうだクソ犬! これで俺様は、この地上に存在するあらゆる魔力を支配下に置いた! そして受けやがれ、俺様の力――!」
『――消えろ――』
「を……がぁ……!?」
夜が砕ける。
私たちの頭上で、まるで太陽みたいに輝いていたアドラメレクの圧倒的な力。
でもそれはクロウに睨まれただけで、初めからそこに存在していなかったように跡形もなく消え去ってしまった。
「あ、がが……ち、ちく……しょ……」
『どうした? お前の力とやらを見せてくれるのではなかったのか?』
けれどクロウが消し去ったのは、アドラメレクのエネルギーだけじゃなかった。
眼光の先、そこにあるあらゆる物を消し去ったクロウは、勝ち誇るアドラメレクすら捉え、その肩口から腰までの半身を同じように消し飛ばしていた。
「く、そが……ッ! 時も事象も、概念すらも……万物一切をてめぇの意志一つで消し去る絶無の力……! そこまで弱っていながら、まだここまで……!」
『死ね。俺はもう、お前を許さん』
影が疾る。
ただ見ていることしかできない私を置いて、黒狼が夜空に輝く太陽めがけて飛ぶ。
「なんでだ!? てめぇの魔力はとっくに空のはず……! 死にかけのてめぇが、なぜこの俺様とここまで張り合える!?」
『俺は死にかけてなどいない。アリスは俺に、毎日うまい料理を食わせてくれた。いつも俺の隣にいてくれた……アリスを知った今の俺は、地獄にいた頃よりはるかに強い――!』
「ほざけぇえええええ――ッ!」
影の黒狼と炎の獅子。
二つの巨大なエネルギーの激突は、その余波だけで吹き飛ばされそうになるほどの衝撃と閃光を辺りに炸裂させる。
私の目には、もうクロウの姿は黒い閃光のようにしか見えない。
そしてその影が私の視界に映るたび、アドラメレクの炎が抉れ、膨大な魔力の粒子になって消し飛んでいく。
もちろん、アドラメレクだって反撃はしている。
地獄の公爵がその腕を振るうたび、空からは何百、何千もの雷が落ちて、グレートブリテンの大地を激しく揺らす。
すべてを焼き尽くす炎はうなりを上げて天を裂き、アドラメレクが操る途方もない力の渦は、辺りに巨大な竜巻をいくつも生成した。だけど――
『無駄だ』
「グ、ギャアアアアアアアア――ッ!?」
そのすべてを、クロウは完全に封殺する。
どんな力も、現象も、すべてはクロウの影に喰われて消える。
あまりにも圧倒的なクロウの力の前に、アドラメレクは完全に防戦一方になっているように見えた。
「まだだ……っ! 俺にはまだ、『こいつ』がある!!」
「あれは……エドワード公!?」
けどその時、まるで初めからそこにいたかのように、アドラメレクの腕の中に気を失ったままのエドワード公が現れる。
そんな……大公のことは、ナイアが守ってくれていたはずなのに!
「く、クク……! 残念だったなぁクソ犬! 確かに俺はこいつの体から引き剥がされたが、最後の保険として、こいつの魂に直接転移魔術を埋め込んでおいたんだよッ!」
転移魔術だって……!?
なら最初から、アドラメレクはいつでも大公をもう一度盾にすることができたんだ。
『……』
「ギャハハハハ! 馬鹿が、躊躇しやがったな! やっぱりてめぇはこの地上で弱くなった! あの女に飼われて、孤高の王からゲロ甘の駄犬に成り下がったんだよ! このままここで、俺に消されて死にやがれ――!!」
クロウの手が緩むのを見て、アドラメレクが高笑いと共に力を溜める。
それはこれまでとは比較にならない、本気でこの地上そのものを消し飛ばせるほどの力の塊だった。
「そんなこと、させるわけないだろ――っ!」
私はすぐに拳銃を引き抜き、アドラメレクを照準に捉える。
この状況で私の魔術なんて、もうなんの役にも立たないかもしれない。
それでも……私はこのまま、クロウに守られっぱなしで終わるのは嫌だった。
最後まで、彼のパートナーとして隣に立っていたかった。
それが私が彼にしてしまったことへの、せめてもの意思表示だと思ったから。
だけど――
『ピカピカだ。頼んだぞ、アリス』
「え……?」
その時、クロウは少しだけ私の方を振り向いてそう言った。
「ピカピカって……でもそれじゃあ、君と大公は!?」
『俺を信じろ。俺はアリスも、アリスの大切なものも傷つけさせはしない』
俺を信じろ。
クロウはそれだけを言い残して、もう二度と振り返らなかった。
迷っている時間はない。
私はすぐさま拳銃をその場に投げ捨てると、ウィッチステッキに持ち替えて頭上に掲げ、全身全霊の魔力を込めて大地へと打ち付ける。
少し距離は離れていたけど、地下の真鍮網を捉えた私の魔力は、そのまま一気にロンドン全域に拡大。
ロンドンの夜闇を金色に染める『ピカピカ』の光の柱になって、直径数マイルにも及ぶ究極の防御結界を展開する。
「て、てめぇ……イカれてんのか!? この距離でこいつを叩き込めば俺もてめぇも、このジジイだって消し飛ぶんだぞ!?」
『やってみろ。死ぬのはお前だ』
「そうかよ……! なら死にな、このクソ犬がぁああああああああ――ッ!!」
光が溢れた。
私の見上げる目の前で、膨れあがる炎を鋭角な影が必死に抑え込む。
「う、ぐぅ……っ! あぁああああああああああああああああ――っ!!」
とてつもない衝撃が私の守護結界に何度も叩きつけられ、握り締めたウィッチステッキ越しに私の全身を激痛が襲い、手のひらが焼けて血が噴き出す。
それでも、私は倒れない。
絶対に倒れるわけにはいかない。
この悪魔を倒して。
戻ってくるクロウに、おかえりを言うんだ。
今度こそ、もう逃げたりしない。
今度こそ、私は彼に想いを伝えないといけない。
だから、クロウ。
お願いだから、無事に――
いつ終わるとも知れない赤と黒の激突。
あまりにも激しいその余波は二度、三度とロンドンの空を円状に駆け抜けて、夜が昼に変わるほどの光を何度も何度も繰り返し放つ。
「クロ、ウ……?」
でも……。
気がつくと、あれだけ激しかった光も音も消えて。
なにもかもが、静かになっていた――。




