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最後の事件


「起きてよ、母さん……お願いだから、目を開けて……っ!」


 大粒の雨が降りしきる夜のロンドン。


 あの日、大聖堂前に現れた巨大な悪魔門を封じた母さんは、全身傷だらけのまま倒れ、雨に打たれていた。


 とても酷い雨だったのに、抱き上げた母さんの体から流れ落ちる血の赤は、いつまでも消えなかった。


 あの日。


 私が母さんと同じ、魔女として生きると決めた日。


 静まりかえった大聖堂には、確かに人の気配があった。

 血まみれで動かなくなった母さんと、それを抱いて泣く私を静かに見つめる冷たい視線があった。


 いつか必ず。


 あの日の夜、闇から私たちを見ていた奴らに復讐してみせる。

 母さんが選んだ道は間違いじゃなかったって、証明してみせる。


 どんなに辛くても、寂しくても。

 たった一人で、私たちのために戦い抜いた母さんのことを思えば耐えられる。


 あの日からずっと。

 私はそれだけを考えて、必死に生きてきたんだ――


 ――――――

 ――――

 ――

 

「さあアリス、俺の作った目玉焼きを食べてくれ! パンもあるぞ!」


「ありがとう。なら早速、悪魔王様のお手並み拝見といこうかな」


 今日もいつもと変わらないブラスゲートの朝。

 炊事の蒸気が街角を埋めて、道を急ぐ馬車や車のベルの音が響く。


 目の前で私の反応を待つクロウに思わず吹き出しながら、彼が作ってくれた朝食を丁寧に口に運ぶ。


「うん……おいしいよ。本当に上手になったね」


「そうだろう。前に作った麦粥より簡単だったぞ!」


 昨夜は、久々に『あの夢』を見た。

 

 母さんが死んだ時の夢。


 あの時、大聖堂には確かに人がいたはずなのに。

 誰からも助けてもらえず、私の心が絶望と憤りで塗り潰された夜の夢を。


 当時の私はまだ十四歳で、あの光景を思い出すだけで吐いてしまうくらいに辛かった。


 あれから五年……少しずつロンドンで魔女として認められて、姉さんやヴィオにも数え切れないくらい支えてもらって、それでも私の心はずっと傷ついたままだった。


「ご馳走様……これなら、他の料理も任せてよさそうだね。君さえよければ、今日の夕食は一緒に作る?」


「アリスと一緒にだと? もちろんいいに決まっている! 夜になるのが楽しみすぎるぞ!」


「ふふ、じゃあそうしようか」


 けど、今はそうじゃない。


 今の私は、この目の前で無邪気に笑う『モフモフワンコの王様』に、信じられないくらい助けられて、支えてもらっている。


 本当に……この先もずっと、一緒にいてほしいって思うくらいに。


「さて、今日は日のあるうちにブラウンさんの依頼を片付けてしまおう。たしか……倉庫を荒らすネズミの退治だったかな」


「ネズミなら俺に任せておけ。あいつらは俺の言うことをよく聞くからな。倉庫を荒らさぬよう、俺が言い聞かせてやろう!」


「あははっ、さすがは野良の王様だね。なら、まずはその作戦でお願いするよ」


 クロウは悪魔で、使い魔で、隙あらばすぐ脱ぎたがる変態だけど。


 どんなにひねくれた心で否定しようとしても。彼のことを考えるだけで落ち着いて、でもなぜか熱くなるこの想いは、もう否定しきれるものじゃない。


「――クロウ、そっちに行ったよ!」


「いいぞ!」


 私の張った結界を避けて逃げた先、小さな悪魔が『クロウの領域』に飛び込んで焼き尽くされる。

 この程度の悪魔なら私一人でも楽勝だったけど、クロウがいると一瞬で片付いてしまう。


「ありがとうございます……! お二人がいなかったら、私たち家族はどうなっていたか……」


「みなさんがご無事でなによりです。もしまた何かあれば、いつでも事務所に来てくださいね」


「クックック……! 待っているぞ!」


 気がつけば私は、もう一人じゃなくなっていた。


 けどそれは、母さんがいた頃とも違う。

 他の誰とでもない、私とクロウの日々だった。


 いくつかの事件を解決して、買い物をして、食事をして、一緒に眠る。


 少し前まで寂しくて泣いていたはずなのに、今では彼と二人でいることが当たり前になって、寂しさなんて全然感じなくなってしまった。


「……じゃあ、今日も一緒に寝ようか」


「う、うむ……」


 今夜も二人でベッドに並んで、小さなランプの明かりだけになった寝室でそっと肩を寄せる。


「まだ緊張してるの……? もう何度もしたけど……」


「ち、違うのだ! アリスと寝るのは嬉しいし、好きだ。だが……ここ最近は毎日一緒だろう? もしアリスが、俺のために無理をしているのならと……」


「無理?」


 ベッドで横になりながら、私とクロウは体を横倒しにして見つめ合う。


 いつもは自信たっぷりなクロウが、頬を染めて申し訳なさそうに目を逸らすのを見て……なぜだか私は、今すぐ彼を抱きしめてあげたい衝動に駆られた。


「嫌じゃないよ……」


「うむ?」


「君と一緒だと、私も嬉しいんだ。だから心配しないで。ね、クロウ……」


「アリス……」


 けど溢れそうになる衝動をぐっと堪えて。

 私は目の前にある彼の大きな肩に手を添えて、精一杯優しく笑った。


「おやすみクロウ……よい夢を」


「ああ……おやすみ、アリス」


 幸せだった。

 

 クロウとのこの時間が。

 彼と過ごすこの日々の温かさが。


 どれも初めてで、戸惑うことばかりだったけど。


 それでも、私は間違いなく彼のおかげで満たされていた。


 今にして思えば……どうして私はこの時、彼にちゃんと想いを伝えなかったのだろう。


 幸せな時間はあっという間に過ぎて……突然消えてしまうものだって、母さんのことでよくわかっていたはずなのに。


 その時の私はまだひねくれていて。

 初めて手に入れた幸せな日々に、『このままでもいいんじゃないか』って……そう思ってしまっていた。


 せっかく自覚した想いだったのに。

 臆病な私は、その想いを形にすることから逃げていたんだ。


 それが、取り返しのつかない後悔を生むことになるって。


 本当はもう、わかっていたはずなのに――


「――アリスはいる!? 大変大変! とにかく大変なのよ!」


「ヴィオ? 君がこんな朝早くから来るなんて、今日の天気は雹か雷雨かな?」


 いつもと変わらないある日の朝。

 

 朝食を終えて優雅なティータイムを楽しんでいた私たちの元に、比喩でもなんでもなく、本気で血相を変えたヴィオが駆け込んできた。


 しかもよく見れば、事務所に現れたヴィオの格好は騎士団の正装……彼女がこんな格好でここに来るなんて、どう考えてもただ事じゃない。


「説明は後! とにかく今すぐ一緒に来て! アリスと、もちろんクロウさんも! 詳しいことは向こうで話すから!」


「それはいいが、一体どこに行くというのだ?」


 するとヴィオはぐいと私とクロウの肩を掴み、私たちにしか聞こえない声で小さく、けれどはっきりと呟いた。


「いい? よく聞いて……今から行くのはこの国の中心、バッキンガム宮殿。そこで『この上なき高貴なお方』が、あなたたちが来るのを待ってるわ」





 終章

 ――

 最後の事件


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