溶解と断絶
「まずは、今回のことについて謝罪させてもらいたい。本当に……すまなかった」
オーレリアとの戦いを終えて。
むせかえるような石炭の匂いと、けたたましい蒸気笛の音が響き渡る飛行船の発着場。
急遽ロンドンに引き返したヴィクトリア号から降りた私とクロウは、そこで深々と頭を下げるキリアンの謝罪を受けていた。
「謝る必要なんてありませんよ。貴方は信仰に忠実だっただけで、なにも悪いことなんてしていないでしょう?」
「うむ! 俺もあの船に乗れて楽しかった。次は『ぱり』とかいう街にも行ってみたいぞ」
「だとしても、それでは私の気が済まない。今回の君たちの働きぶりは、私が責任を持って正教会本部に報告すると約束する」
「助かります。私たちの方こそ、司祭のおかげで船を傷つけずに悪魔を倒すことができました。感謝しています」
頭を上げたキリアンの表情は、まるで憑きものが落ちたように晴れやかだった。
彼は私の言葉に頷くと、今も飛行船から続々と降りていく乗客たちに目を向けた。
「増え続ける悪魔と地獄門の浄化に追われ、私は最も大切なことを忘れていた……我々は誰のために祈るのか、なんのために教義を守るのか。全ては、今を生きる力なき人々のため……そして形は違えど、そう考えているのは君たちも同じだということを」
首から提げた十字架を握り締め、キリアンは確かめるように呟いた。
「立場上、君たちを公に賞賛することはできない。だがこの先なにがあろうとも、私は君たちを共に悪魔と戦う同志と信じる。どうかそれを覚えておいてほしい」
「それで十分ですよ……」
彼の言葉に、私は思わずこみ上げてくるものを必死でこらえた。
私は母さんを見捨てた教会とエクソシストをずっと憎んでいた。
教会も、私が生まれる前から魔女を異端として認めていなかった。
だけど今……たとえ一人だけでも、本当の意味で教会を許すことができた自分に。
ずっと敵だと思っていた教会が、私を仲間だと言ってくれたことに。
私は、どうしようもない嬉しさを覚えていたんだ。
「嬉しそうだな」
「え……? ……うん、そうだね」
そう言うクロウだって、私を見て笑っていた。
まるで……いや、きっと私のこの嬉しさを理解して、一緒に笑ってくれるクロウに。
私は今の嬉しさとは違う、もっと別の想いが溢れてくるのを感じた。
「そ、それでだな。最後に、そちらの……君の使い魔にも礼を言いたいんだが……」
「クロウに?」
乗客の下船が終わりかけた頃。
キリアンはどこか思い詰めた様子で、突然そう切り出した。
「俺がお前になにかしたか?」
「あの時、悪魔に惑わされた私を、君は熱い言葉で立ち直らせてくれた。君に『いい奴』だと……そう言われて、私は……っ!」
「ほうほう?」
ん?
な、なにこの雰囲気?
これじゃあまるで、このままプロポーズでもするような……。
え?
もしかして、本気で――!?
「正教会のエクソシストでありながら、悪魔である君にこのような想いを抱くのは間違っているのだろう。だがそれでも、私は君を――!」
「ちょ、ちょっと待っ――!」
悪いけど、やっぱり止めよう。
だってそれは……なんだか、私が嫌だから。
突然正体不明の脅威を感じた私は、思わずクロウの腕を引き寄せて、二人の間に割って入ろうとしていた。だけど――
「……っ! いや、やはり……そうだよな……」
「司祭……?」
けど私が口を開くより前に、キリアンは言いかけた言葉を飲み込んだ。
そしてそんな彼の視線は、クロウの首にある『私の首輪』をじっと見つめていたんだ。
「私も……私も君をクロウと……『友として』、これからはそう呼んでもいいだろうか?」
「クックック……! いいぞ、好きにしろ!」
「ありがとう、クロウ……君がこの街で、これからも彼女と共にあれるように祈っている」
キリアンはそう言って、『私に』小さく頭を下げる。
そしてそのまま背を向けたキリアンを、私とクロウはただ黙って見送ることしかできなかった。
「やったぞアリス! また友が増えた!」
「うん……ちゃんと見てたよ」
無邪気に喜ぶクロウを見上げながら、私は引き寄せたままの彼の腕に力を込めた。
去って行く司祭の背中を見ていると、どうしてか、とても切ない気持ちになったから。
だけど――
「儂の財宝は悪魔と一緒に消し飛んだだと!? ふざけるな!! あれに一体どれだけの価値があると思っている!?」
「おっと……お忍び旅行中の枢機卿様がお出ましだね」
キリアンの見送りが終わるよりも早く。
最後に船から現れたのは、怒り心頭で顔を真っ赤にしたキャベンディッシュ枢機卿だった。
「お待ちください、猊下! 確かに財宝は失われましたが、侯爵級の強大な悪魔を、一人の人的被害もなく浄化できたのです。まずは早急に本部に戻り、今後の対策を立てるのが先決ではありませんか!」
怒り狂う枢機卿に、すぐさまキリアンが制止に入る。
けどいくら彼でも、あのご老体をなだめるのは難しいだろう。
「黙れこの裏切り者が! 儂の財宝を取り戻せなかったばかりか、異端の魔女の力を借りなければ悪魔一匹滅ぼせぬとは! 貴様のような不信心者は即刻破門の上、薄汚い魔女どもと同じ異端人として――!」
「そこまでです、アリスター・キャベンディッシュ」
その時だった。
なだめるキリアンに暴言を浴びせ続ける枢機卿に、船着き場の出口から低く重い、まるでパイプオルガンのように重厚な男の声が届く。
「お、お前は……!?」
「く、クラインバッハ師父……!」
「ご苦労でした、司祭クロイツ。後は私に任せ、まずは休息を取るように」
クラインバッハ……!?
遠目にもわかるその筋骨隆々の法衣姿に、私は声も出せずに拳を握り締めた。
「お、おお……クラインバッハ君か。だが、なぜ異端審問局局長の君がここに……」
「アリスター・キャベンディッシュ。貴方は今日付で枢機卿の役職を解任されました。また、貴方には正教会の教義を著しく汚したとして、異端裁判への出廷要請も発行されています。大人しく、我々にご同行いただきたい」
「は……?」
突如として大勢のエクソシストを引き連れて現れたクラインバッハは、まるで『天使のような』穏やかな笑みを浮かべてキリアンを下がらせると、今度はゴミクズを見るような無感情な眼差しを枢機卿……いや、元枢機卿の老人に向けた。
「な、なぜだ!? なぜ儂が解任など!?」
「疑問に思うなら、まずはご自身の胸に聞いてみたらいかがでしょう? とはいえ、民から奉じられた貴重な財で私腹を肥やす大罪人に、そのような良心が残っているとも思えませんが」
「そ、そんな……そんな、馬鹿な……! 私の地位が、財力が……嘘だ、嘘だぁああああああああ――ッッ! がぁ……っ!」
それまで赤く染まっていた顔面を真っ青にして、元枢機卿は泡を吹いてばったりと倒れる。
倒れた老人をクラインバッハは特級の侮蔑を浮かべて冷徹に見下ろすと、法衣の裾から覗く手を小さく振って部下に元枢機卿を拘束、連行させた。
「し、師父! まさか、師父がこちらに来られているとは……!」
「侯爵級の悪魔と対峙し、誰一人死なせずにこの船を守り切ったと……たった今、そう報告を受けていたところです。素晴らしい働きでしたね、司祭クロイツ」
「そんな……! 私一人の力では、決して……!」
片膝を突いて頭を下げるキリアンに、クラインバッハは慈愛の笑みを浮かべる。
それだけ見れば、愛弟子の成長を喜ぶ師匠そのものだったけれど……つい一瞬前に、この男は『本物の悪魔のような冷徹な顔』であの元枢機卿を見下ろしていたんだ。
そのあまりにも極端な変化に、私はそれだけで背筋に冷たい物が流れるのを感じた。
「貴方の言いたいことはわかっています。そしてそう思うのであれば、より一層の信仰を重ねることです。嘆かわしいことに、我ら正教会が滅ぼすべきは『悪魔のみにあらず』……同じ人の中にこそ、真の邪悪は紛れているのですから」
「……っ!」
人の中に紛れる邪悪。
それが何を指すのかは、その瞬間に『私に向けられた』クラインバッハの射抜くような視線が雄弁に物語っていた。
「……」
「……クロウ?」
でもそのクラインバッハの視線を遮るように、クロウが私の前に立つ。
そして同時に、クロウの全身から放たれた強烈な威圧が、クラインバッハの視線を正面から打ち砕いた。
「フフ……」
けどそれを見たクラインバッハは、面白いとばかりに笑った。
並の人間なら睨まれただけ命を失いかねない、クロウの眼光を正面から受けて笑ったんだ。
「さあ、行きますよ司祭クロイツ。この地上から全ての邪悪を滅ぼすまで、我々が真の休息を得ることはないのですから」
「は、はい! 心得ております……!」
最後。キリアンは一度だけ私たちの方を振り返って、申し訳なさそうに目を伏せた。
気付けば……とうに陽は落ちて、冷たいテムズ川の夜風と、遠ざかる飛行船の重い駆動音だけが立ち尽くす私たちを包み込んでいる。
私とクロウはその中で、夜の闇に浮かぶ白い背を見つめ続けていた。
いつその背が私たちを振り向いて、襲いかかってきても動けるように。
ぴったりと身を寄せ合って、お互いを支え合いながら――。




